第四話「坂東の武家」
「坂東」は、文字通り、坂の東を意味する。坂とは、足柄峠・碓氷峠の「坂」を示し、坂東とは、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の八カ国の総称である。類義語に「東国」「関東」がある。
「東国」は、古代の三関、東海道鈴鹿関(伊勢国)・東山道不破関(美濃国)・北陸道愛発関(越前国)の内、北陸道を除く、鈴鹿関・不破関以東を示す言葉である。「関東」は、平安時代には「東国」と同義語として使用され、正に「関」の東を意味した。
坂東の民が、大和朝廷に服属した時期は明確ではないが、四道将軍の建沼河別命、豊城入彦命、倭健の伝説など、朝廷の坂東征服の伝承は数多い。豊城入彦命の子孫、毛野氏は、坂東の有力な豪族で、五世紀前半には、大和朝廷に服属したと言われる。
「坂東」は、律令制下において、東海道の相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国を意味し、東山道の上野国・下野国は、「山東」と呼ばれていた。しかし、平安時代初頭の蝦夷討伐において、坂東と山東は、補給・徴兵のための後方拠点の役割を担うため、同一の命令が出されたために、総称として「坂東」に定められたのである。
古代の坂東は、朝廷の蝦夷討伐における、戦略的要地であった。奥州へ送られる兵・補給は、その多くが坂東で徴集されたのである。
大和朝廷に服属する以前、坂東に住んでいたのは、縄文時代より日本列島に住んでいた、先住民であったと推測される。奥州の蝦夷と同族で、大和朝廷の征服過程において、朝廷に服属する者と、奥州へ逃れる者に分派した。朝廷の「夷を以って夷を制する」の政策によって、坂東の蝦夷は、奥州の蝦夷の征服戦争の尖兵として利用されると同時に、朝廷の王化政策によって、西国の征服民に同化していった。
しかし、朝廷は、蝦夷討伐に伴う苦痛を、坂東の民に押し付けながらも、坂東の民を「東夷」として蔑み続けた。のみならず、広大で肥沃な坂東の大地は、実り豊な富を生み出し、朝廷から派遣される受領層の格好の収奪地となった。侮蔑され、収奪され続けた坂東の民の屈辱は、やがて、朝廷の頸木への怨嗟に代わり、強大な指導者を求め始めた。そして、天慶二年(939年)、平将門による新皇宣言、天慶の大乱が勃発するのである。
藤原秀郷・平貞盛等によって、平将門が討たれた後も、坂東の民の朝廷への怨嗟の声は消えなかった。その声は、天慶の大乱から百年の後に勃発した、平忠常の叛乱の導火線として、再び坂東を戦火の渦に巻き込んだ。
平忠常が、源頼信に降伏した後、良文流平氏・貞盛流平氏・秀郷流藤原氏等、坂東の主だった武家達は、清和源氏の源頼信・頼義に名簿を捧げて臣従した。頼信・頼義の父子は、坂東武家の所領争いに介入して両者を調停し、武家達は、源氏の私的な裁定に望んで服したのである。それは、律令制に代わる、坂東の新たな秩序の萌芽であった。
十一世紀半ばには、最早、坂東の土地の半分以上が、律令制下の公地、つまり国有地ではなく、新たに開墾された、武家の私有地、荘園と化していた。
平忠常の乱以後の坂東の勢力図は、以下の通りである。
常陸国は、平繁盛の息子で、伯父の貞盛の養子となった、平維幹の一族、常陸平氏が、常陸全土に荘園を有し、他の勢力が入り込む隙を与えなかった。維幹の息子の平為幹は、頼信が常陸介として赴任してきた際、貞盛流平氏の中で最初に源氏の郎党化した。為幹は、筑波郡多気を本拠地とし、為幹の息子、繁幹の代に至って、多気氏を称している。
上総国・下総国・安房国の房総三国は、長元の大乱以前、平忠常の荘園が乱立し、乱の後も、連座を免れた忠常の長男、常将が継承した。常将には、常近・常遠・胤宗・忠高の四人の弟がいたが、乱の四年後、次弟の常近が病没している。
以降、常遠が、上総国武射郡の所領を、胤宗が安房国安房郡の所領を、忠高が上総国天羽郡の所領を継承し、各々、各郡の郡司職に就いて、公地の税を国司に納め、荘園を管理した。常将自身は、下総国千葉郡に本拠地を構え、房総平氏の棟梁として、房総三国全土に威を振るった。
武蔵国は、平忠常の弟、将常が、秩父郡中村郷に本拠地を構え、武蔵全土に威を振るった。将常の有する荘園の内、秩父郡の荘園を長男の武基が継承し、秩父武基を称した。また、次男の武常は豊島郡、三男の武任は多摩郡小山田郷の荘園を継承して、各々、豊島武常・小山田武任を称した。後に平直方の長男、維方は、頼信の仲介で将常の娘婿になり、武蔵国大里郡熊谷郷の荘園を譲り受け、熊谷維方を名乗った。
上野・下野両国は、平将門を討伐した藤原秀郷の本拠地であり、代々、秀郷流藤原氏の勢力下にあった。上野国佐位郡淵名郷の荘園領主淵名兼行は、長元の大乱の後、源頼信の郎党となった。上野国の武家の中では、秀郷の長男、千晴の後裔の藤原季俊は、永承五年の段階では、源氏に臣従せずに、独立を保ち続けている。
秀郷流藤原氏は、秀郷が本拠地とした下野国において、広大な荘園を開拓した。下野国足利郡には、二つの荘園があり、一つは藤原頼遠が所有していたが、陸奥国亘理郡司への就任に辺り、主君の源頼義に譲渡した。上野国の淵名兼行は、下野国にも進出し、足利郷に自身の荘園を開拓した。
坂東八カ国の内、相模国は、坂東の三大武家、良文流平氏・貞盛流平氏・秀郷流藤原氏の入り乱れた地域である。平良文の末子、忠光は、源頼光に仕え、頼光四天王の一人に数えられた武勇の士である。忠光の息子、忠通は、相模国三浦郡を開拓。三浦郡郡司に就任している。忠通の死後は、長男の為通が、三浦郡郡司職と荘園を継承した。また、忠通の次男の章名は、丸子氏の娘婿となって、高座郡の荘園領主となった。
貞盛流平氏は、貞盛の次男の維将が、相模国鎌倉郡を開拓。維時・直方と鎌倉の荘園を伝領したが、平直方は、源頼義を娘婿に迎えると、鎌倉郡の荘園を全て頼義に譲渡した。また、秀郷流藤原氏の藤原公光は、相模国大住郡・愛甲郡を開拓。後に公光の息子の公清は、頼義の股肱の臣、佐伯経範の息子、経秀を娘婿に迎え、波多野荘を譲渡している。
坂東の武家達は、源頼義に臣従し、自分達の上位の存在に位置づけることで、互いに紛争の調停役を期待し、かつ、京の朝廷の門閥に連なることを望んだのである。
永承五年(1050年)夏、源義家は、相模国鎌倉郡鎌倉郷の鎌倉楯に下向した。豊前国宇佐郡の宇佐八幡宮に旅立ってから、既に、二年の歳月が過ぎていた。義家に付き従うのは、共に宇佐に赴いた、大宅光任・光房父子、そして、藤原景季である。
母の直子は、鎌倉楯の門前で、義家の下馬を待ちかねたように駆け寄ると、見違えるように成長した息子の姿を、感慨深げに眺め、優しく微笑んだ。この年、義家は、十二歳。その精悍な顔立ちと、隆々とした筋肉の張りは、少年と呼ぶには、余りにも雄雄しく、既に、棟梁としての威厳と風格が備わっている。
二年に及ぶ、宇佐派の修行を終えた義家主従は、瀬戸内海を船で渡り、河内国石川郡壷井に帰還した。しかし、香炉峰の邸宅で出迎えた、留守居役の藤原頼清・和気致輔は、頼義が、相模国の鎌倉楯に下向していることを告げた。故に、坂東に急行したのである。
鎌倉楯では、祖父の直方、母の直子の他、相模に所領を有する、佐伯経範・三浦為継・鎌倉章名・藤原公清が、御曹司の一行を出迎えた。
嬉しさの余りか、頼義までもが、庭先で義家を出迎える。父と共に、弟の、仁王丸・金王丸が、逞しく成長した兄の許へ駆け寄った。義家の次弟、仁王丸は、この年、数えで九歳。二年前、京の加茂神社で元服し、烏帽子親は、摂津源氏の源頼国の五男の頼綱が努めた。当時の慣例に倣い、頼綱の名から一字を得て、義綱と命名された。兄の八幡太郎の先例に倣い、加茂次郎を号する。義家の三弟、金王丸は、数えで六歳。この翌年の永承六年(1051年)、金王丸は、京の新羅明神で元服し、新羅三郎義光を称することになる。
「二年とは、随分と早かったのう。宇佐派の奥義は会得できたのか?」
頼義は、息子との再会に笑顔を見せながら、義家に付き従った三人の郎党、光任、光房、景季の労をねぎらった。
「いや、奥義書とホムダ弓を持ち帰りましたが、奥義はまだ・・・。」
義家は、悔しそうに呟いた。宇佐八幡宮に赴いた義家は、常人であれば十年はかかる宇佐派の修行を、わずか二年で終えた。しかし、惜しいかな、十二歳の義家には、七人張の強弓、ホムダ弓を引き絞るだけの膂力が備わっていない。
「しかし、御曹司は、四人張の弓を引き絞るようになりましたぞ。」
光任の言葉に、頼義は、感無量の思いで、義家に満面の笑みを向けた。
「坂東の武将でも、四人張りの弓を使える者は滅多におらぬ。そなたは、まだ十二歳。このまま鍛錬を続ければ、間違いなく、七人張の弓でも引けるようになるじゃろう。」
経範・為継・章名・公清も、感服し切った様子で、義家を眺めていた。
義家の武将としての成長速度は、源氏の主従の予想を遥かに超えていた。日本一の弓取りと謳われた父、頼義に限りなく近づいている。この先、どれほどの武将に成長するのか。父の頼義のみならず、郎党達も、この源氏の嫡男を頼もしげに見つめた。
「そなたの腕前を存分に披露してもらいたいところなのじゃが。実はな、わしは、近い内に、上総に出立せねばならぬ。群盗の横行に、常将が支援を求めて来たのじゃ。そなたの弓の腕は、上総から戻った後に、ゆっくりと見せてもらおう。」
「父上、私も、上総に同行させて下さい。そろそろ、実戦に参加したいのです。」
「そうじゃな・・・現場の雰囲気を味わっておくのも良いかもしれぬな。」
頼義は、多少のためらいを感じながらも、上総に義家を同行することに決めた。④
上総国は、上古の時代、総国と呼ばれた広大な平野で、大化の改新以前には、数多の国造家が林立していた。律令国家の建設後、総国は、上総国・下総国の二カ国に分国され、更に、上総国から四郡が分割されて、安房国が設置され、房総三国が成立した。その後、郡の統廃合が進み、十一世紀初頭には、上総国には、市原郡・海上郡・畔蒜郡・望陀郡・周淮郡・埴生郡・長柄郡・山辺郡・武射郡・天羽郡・夷灊郡の十一郡が置かれた。
上総国は、常陸国、上野国と共に、親王任国であり、長官の守には、親王しかなれない。親王が現地に下向することはあり得ないため(親王は、特別な許しがなければ、京から出ることはできない)、国司は、次官の介である。
十世紀初頭、坂東に下向した平高望の次男、良兼は、上総国武射郡を本拠地として、上総・下総に勢力を拡大した(なお、高望・良兼の父子は、上総介に任官している)。
良兼は、兄の国香が甥の将門に討たれた後、坂東平氏一門の中心的存在となって、将門と死闘を繰り広げた。良兼を中心とした平氏一門との死闘は、後に、将門が公然と朝廷に叛旗を翻した、天慶の大乱の遠因となった。
既に述べたように、天慶の大乱の後、良兼の遺領は、息子の公雅ではなく、弟の良文が継承した。あるいは、公雅が、良文に譲ったのかもしれない。そして、長元元年、良文の孫の忠常は、安房国衙を襲撃、安房守平維忠を殺害した。忠常は、上総国を中心に房総三国に威を振るったが、源頼信が追討使に任じられると、出家剃髪して降伏した。
忠常の死後、その遺領は、忠常と共に頼信に降伏した、常将と常近が継承した。しかし、忠常の降伏から、わずか四年後の長元八年、常近が病没し、常将は、上総・下総・安房の房総三国に跨る、広大な所領を継承した。
この年、永承五年(1050年)は、既に、平忠常の降伏から十九年が経過している。その間、常将は、父の轍を踏まぬよう、京から派遣される受領層に対して、極めて丁重に接し続けた。また、父の忠常以上に、源氏の郎党として真摯に奉仕し、国司との間に問題が発生した場合には、必ず、頼信・頼義父子に調停を依頼していた。
房総三国における、平常将の声望は、父の忠常を超え、国司でさえ、常将を無視して、国事を行うことができない。その上総国において、昨年の末頃から、大規模な群盗蜂起が発生していた。群盗の首領は、彦挟嶋を名乗り、百名以上の盗賊を率いて、安房から上総に北上、各地の穀倉を襲い、食糧を略奪し続けた。常将は、上総介から群盗の鎮圧を命じられたが、単独では出兵せず、私君の頼義に相談の上、支援を得ることに決めた。
相模国鎌倉郡の鎌倉楯を出立し、上総国に入った頼義は、天羽郡郡司の郡家に向かった。鎌倉楯から頼義に付き従ったのは、長男の義家の他、佐伯経範、大宅光任・光房、藤原景通・景季、平章名。他に、武蔵国からは、常将の従兄弟で、将常の息子の秩父武基・豊島武常の兄弟が、百名の兵を率いて、天羽郡に入った。
数日前、安房国から北上した群盗百名が、上総国天羽郡の嵯峨山に入ったとの情報を得た常将は、直ちに、頼義に知らせ、郡家で合流したのであった。
天羽郡郡司は、忠常の末子で、常将の弟の忠高である。郡家の主である忠高は、相模・武蔵・上総の各地から集結した兵の饗応に追われた。その夜、天羽郡の空は、無数の篝火の明かりに照らされた。郡家に集まった兵の数は、武蔵国からの百名と、常将配下の百名、そして、常将が上総介から借り受けた百名の、総勢三百名であった。
相模から赴いた頼義自身は、義家の他、郎党六名を率いてきただけで、兵は皆無である。しかし、兵の指揮官である常将・武基・武常の三人が、頼義を主と仰いでいる以上、郡家に集まった三百の兵は、全て、頼義の傘下の兵と同義であった。⑤
篝火が灯る陣幕の中、頼義は、床机に腰を下ろし、郎党達と酒を煽っていた。
「彦挟嶋は、嵯峨山に立て篭もっておるようです。」
「それにしても、彦挟嶋とは、ふざけた名前じゃ。」
常将の報告を受けた頼義は、豪快に酒盃を飲み干すと、居並ぶ郎党達を見回した。彦挟嶋とは、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の孫で、上古の時代に坂東を支配した、毛野氏の祖である。坂東の支配者を自任する頼義にとって、当然、面白くない名前であった。
その時、邸宅の門前の方で、新たな訪問者を告げる声が上がった。そして、忠高の案内で、陣幕の中に新たに三人の武将が入って来た。三人の武将は、常将に会釈すると、頼義の正面に並んで、跪いた。
「頼義様、遅くなりまして、申し訳ございませぬ。藤原経清でございます。」
正面中央に跪いた武将が、頼義に叩頭する。
「随分とご無沙汰してしまい、申し訳ございませぬ。藤原則明にございます。」
続いて、まるで、獲物を狙う鷹の様な、鋭い眼光の武将が、頼義に叩頭した。
「頼義様、お初にお目にかかります。平常将の嫡男、常長にございます。」
最後に、匂い経つような、爽やかな顔立ちの若者が、頼義の面前で平伏する。
「三人共、よくぞ来てくれた。経清は、京の屋敷で、父の頼遠と共に会って以来じゃな。則明は、随分と久しぶりになるのう。まだ、そちが、鹿島派の門弟になる前であったから、二十年以上になるか。」
「はい。私が、まだ、十歳にも満たない頃であったと思います。」
頼義は、懐かしそうに、則明を眺めた。その細い目が、少年の日の面影を宿している。
「そちの噂は、随分と聞いておる。経清と並んで、坂東でも一、二を争う腕前だとな。景通も、そちのことを、よく自慢しておるぞ。」
頼義は、則明に笑顔を見せると、今度は、経清の右隣に跪く若者に目を向けた。
「そちが、常長か。そちの母親は、天女だそうじゃな。武骨顔の常将から、これほど、秀麗な顔立ちの息子が生まれるとは。そちは、余程の母親似であろうな。」
「いえ、決してそのようなことは・・・。」
頼義の豪快な笑いに、常長は、返答に窮し、頬を赤く染めた。
「頼義様。常長は、実直な性格の故、あまり冗談が通じませぬ。おたわむれも、ほどほどにしてくだされ。」
常長の困り果てた様子に、息子同様、顔を赤らめた常将が、助け舟を出した。実際、坂東の民の間では、常長の母は、天女であるとの噂が広まっていた。常将は、この年、四十一歳。長男の常長は、二十七歳であるから、その差は十四歳しかない。つまり、常長は、常将が十四歳の年に生まれた息子であった。
坂東の民の口に上る噂では、常将は、十三歳の時、この天羽郡の海岸において、美しい女人が倒れているのを見つけると、屋敷に連れ帰って介抱した。その女人に一目惚れした常将は、女人が体調を回復した後も、屋敷に留まってくれるように懇願し、翌年、二人の間には、男子が生まれた。それが、常長であった。しかし、その女人は、常長の出産時に命を落したと言われる。
常将にとって、その女人は、少年の日の淡い思い出であった。仮に、常長が生まれていなければ、常将は、その女人との出会いを、夢か幻だと思いったに違いない。女人は、天女と見紛うほど、それほどに美しかったのである。
常将は、その夢の落し胤である常長を後継者とすべく、幼少期に鹿島に送り、鹿島派に入門させた。二十七歳に成長した常長は、現在、鹿島派の師範代として、坂東でも十指に入る、剣術の腕を持つと言われている。
「義家、彼等が、鹿島派の師範の藤原則明と経清、師範代の平常長じゃ。」
一通りの挨拶を交わした後、頼義は、自身の右隣に座した義家に、三人を紹介した。
「おお。では、こちらが源氏の御曹司。しかし、まだ十二歳と伺っておりますが・・・」
則明の言葉に同意するように、経清・常長も、驚いた表情で義家を見つめた。
「確かに、こう見えても、義家は、今年、十二歳になったばかりじゃ。」
「これは、御曹司。ご挨拶もせずに、失礼いたしました。亘理郡郡司藤原頼遠の長男、藤原経清でございます。」
「藤原則経の長男、藤原則明にございます。」
「則明殿は、この景通の従兄弟でございます。」
則明の言葉に、景通が、補足して説明した。
「平常将の長男、平常長にございます。この度は、父の懇請に応じてご出馬いただき、誠にありがとうございます。今後、源氏の郎党として、賢明に努めます。」
「源頼義の長男、源義家です。父同様、よろしくお願いいたします。」
三人の武将の挨拶を受けると、義家は、丁重に返礼の言葉を述べた。その言葉遣いから、まだ、どことなく少年のあどけなさが感じられる。経清・則明・常長は、奢る様子の無い、謙虚な義家の言葉に、清らかな感動を覚えた。
「それにしても、たかが百人ばかりの群盗如きに、何故、鹿島派の師範まで動員せねばならぬのですか?三百人の兵があれば、簡単に蹴散らすことができると思いますが?いや、そもそも、百名の群盗を相手に、本当に三百人もの兵が必要なのでしょうか?」
義家は、頼義の方を向くと、率直な疑問を父にぶつけた。義家には、そもそも、房総三国に威を振るう常将が、何故、頼義に支援を依頼する必要があるのか、疑問であった。
「良いか、義家。群盗は、元は公地の田畑を耕していた、流民なのじゃ。安房国は、長元の大乱で、朝廷側の焦土戦術によって、田畑の悉くが焼け野原に変わってしまった。
その爪痕は、二十年近くを経た現在も残り続け、安房では飢え死にする者が耐えぬと言う。我等、武家の本来の役目は、群盗どもを殺戮することではない。群盗にならざるを得えなかった飢えた者どもを、元の良民に戻してやることなのじゃ。
常将は、この二十年近くの間、父の忠常の犯した罪によって荒廃した房総三国を、昔のように豊かな国に戻そうと、田畑を開墾し、流民を受け入れ、寝る間も惜しんで努力してきた。しかし、それでも、未だに群盗に身を落す者は後を絶たぬ。
常将は、群盗が発生する原因が、父の起こした乱であることを理解しているが故に、わしに支援を求めたのじゃ。房総を亡国化した張本人の息子に鎮圧されるのでは、群盗に身を落した流民達が、あまりにも救われぬ。また、常将の罪を問わなかったとはいえ、朝廷としても、聞こえが悪い。そこで、長元の大乱を鎮圧した、追討使源頼信の息子である、わしが出張る必要があるのじゃ。
故に、この度の群盗追縛では、彦狭嶋を僭称する首領以外は、なるべく殺してはならぬ。百の群盗を、三百の兵で囲み、殺さずに捕らえるのじゃ。同程度の武芸の者が戦えば、、命懸けの殺し合いに陥るのは必然。相手を殺すか、自分が殺される可能性が高い。しかし、経清、則明のように、神技の如き武芸を持つ武術者とっては、群盗どもを、殺さずに捕縛することなど、容易なことじゃ。」
「群盗にならざるを得えなかった飢えた者どもを、元の良民に戻してやる・・・」
義家は、雷に打たれたような表情で、目の前の父を見つめた。義家は、これまで、武芸とは、自己を鍛錬するため、そして、己より強い敵を倒すため、相手を殺すために身に付けるものだと思い込んできた。しかし、父の言葉通り、己が強くなれば、弱き敵を殺さずに済む。否、己が強くなればなる程、弱き者は、最早、敵ですらなくなるのだ。
「父上、ご指導いただき、誠にありがとうございます。武家とは何か、改めて、一つ、学んだような気がいたします。」
義家は、父に深々と叩頭した。頼義をはじめ、居並ぶ郎党達は、そんな義家の素直さに、清新な感動を覚えた。
「やはり、御曹司こそは、頼義様をも超える、武家の棟梁になるお方かもしれぬ。」
その場にいた源氏の郎党、全ての胸に、同じ希望の灯が輝いていた。
翌朝、天羽郡の郡家を出発した三百の兵は、頼義の指揮下、昼前には嵯峨山を包囲した。嵯峨山は、標高300mほどの丘陵で、古来、日本水仙の咲き乱れる、美しい山として知られていた。頼義は、山中に通じる道を全て塞ぐと、十数人の声の大きな兵を選んで、山の四方から、一斉に群盗達に投降を呼びかけさせた。
「源氏の殿は、おとなしく山を降りた者は、罪を問わぬと仰せである!」
兵達の放つ大音量の声が、嵯峨山全体に響き渡ると、山中に潜む群盗達の間に、明らかな動揺が見られた。まるで、山の草木までが動揺しているかのように、周辺の空気が、一斉にざわめき始める。
「上総介様も、投降した者は、罪を免除すると仰っておる。また、源氏の殿の計らいで、平氏の荘園で働けるよう、そなたたちの暮らしが立つように約束して下さっておる。」
その言葉を、各々に十回繰り返させた後、頼義は、狼煙を上げて、兵達を黙らせた。山中のざわめきは波紋のように広がり、しばらくの後、数人の群盗達が山を降り始めた。時間の経過と共に投降者は増え、一刻の後には、群盗の離脱者は、数十人を越えた。
頼義は、四名の投降者を面前に連れて来させると、群盗の首領、彦挟嶋の居場所を問うた。真っ黒に汚れたボロを身に付けた盗賊達は、頼義の面前で平伏するが、あまりの恐怖に震えがとまらず、声を発することができない。
「これが、群盗の正体か・・・。」
義家は、初めて目の当たりにした盗賊の姿に、驚きを隠せなかった。京では、盗賊とは、まさに悪人の代名詞であり、鬼の如き形相で、羅刹の如く悪事をはたらく者どもと言われていた。しかし、今、義家の眼前にいるのは、捨てられた犬のように震えている、哀れな流民に過ぎない。
「餓鬼、ということか・・・。」
義家は、餓鬼という言葉の意味、餓えが人を鬼にすることを実感した。
「常長、そちが尋ねてみよ。」
頼義は、傍らの常長に命じて、改めて、彦挟嶋の居場所を問わせた。
坂東武士団の頂点に立つ、源氏の棟梁、源頼義の名を知らぬ者は、坂東には一人もいない。盗賊は、頼義の名に恐怖して、言葉を失っているのであろう。その点、女人の様な顔立ちの常長であれば、盗賊も怯えずに、口を開くかもしれない。
「彦挟嶋は、山頂の洞窟にいるそうです。」
頼義の目論見通り、常長は、投降した盗賊から、上手に首領の居場所を聞き出した。
「よし。兵達には、このまま、山を取り囲ませよ。常将・章名・武基・武常は、投降者達を一箇所にまとめて、武装解除せよ。経清・則明・常長・経範・光任・光房・景通・景季は、わしについて来い。山中に入って、彦挟嶋を捕らえてくれる。」
「父上、私も一緒に行きます。」
頼義が山中へ踏み出そうとした時、義家は、強引に父の横に並び、同行を願い出た。
「そちには、まだ早い。山中では、何が起こるかわからん。」
頼義は、溺愛する息子を説得しようと、いつになく厳しい口調で制止した。
「父上、私も源氏の長男。盗賊如きを恐れるようでは、この先、東国の武家衆を束ねてゆくことなど、とてもかないませぬ。」
義家の言葉に、強固な意志を感じた頼義は、咄嗟に何も言い返すことが出来ない。
「頼義様、御曹司は、私が、一命に替えてお守りいたします。」
頼義の前に光任が進み出た。この二年の間、義家の傍を離れなかった光任は、義家の性格を熟知していた。義家は、一度口にしたことは、絶対に引かない。また、危険という理由で何かを諦めることを、最も嫌うのである。
「くれぐれも気をつけるのじゃぞ。」
「ありがとうございます、父上。」
十名になった一行は、山頂へを目指し、獣道を進んだ。山の中腹に差し掛かった時、周囲の木々の間から、十数本の矢が、一斉に武将達に襲い掛かった。
「盗賊じゃ!」
頼義が叫ぶと同時に、全員が、刀を抜いて矢を払い落とした。
「やはり、相当弱い矢ですね。盗賊達は、間違いなく、ただの流民でしょう。」
景通の言葉に、一同は大きく頷いた。矢の悉くが地に伏し、怪我人は一人もいない。
「直子の矢の方が、よほど、鋭かったであろう。」
かって、頼義の妻、直子の矢を払い損ね、左肩を負傷した景通に、頼義は、余裕の笑みを浮かべ、からかった。
「奥方様は、日本一の弓取りですからな。」
「二人共、冗談を言っている場合ではありませぬぞ。」
経範の言葉と同時に、木々の間から、一斉に盗賊達が姿を現した。
「三十人というところか・・・」
「ここは、我等二人にお任せくだされ。」
盗賊と剣を交えんと、前に踏み出そうとした頼義を、鹿島派師範、藤原則明が制した。則明と並んで、同僚の経清が進み出る。則明と経清は、顔を見合わせ、頷くと同時に、二手に別れて、各々、迫り来る盗賊に切りかかった。
金属が振動する音が、周囲の木々の間に木霊し、二本の錆びた刀が虚空を舞った。則明と経清が、各々、対峙する盗賊の刀を弾き飛ばしたのである。と同時に、更に踏み込んで、相手のみぞおちに蹴りを入れた。二人の盗賊が、低い呻き声を上げて、前のめりに倒れる。次の瞬間、宙に舞った経清は、背後から襲いかかる別の盗賊に、強烈な回し蹴りを浴びせた。一瞬の内に、三人の盗賊が戦闘不能になった。しかも、誰一人、死者はいない。
「これが、鹿島派の武術・・・。」
義家は、初めて見る、鹿島派師範の武芸に、思わず見惚れた。二人の剣術の技量は、自分より遥かに上、否、父の頼義を超えているかもしれない。義家は、十歳の年まで、頼義・直子・頼信・直方、その他、源氏の郎党達から、頼光流の武芸を個々に教わってきた。頼光流は、源頼光が、諏訪派と鹿島派の長所を合わせ、新たに創始した武芸であるが、師範体制が確立されていないために、基本を学んだ後は、門弟達が個別に発展させてきた。
故に、体系的な伝授方法がなく、その技量は、伝授した個々人の能力に大きく依存する。鹿島派の武芸を目の当たりにした義家は、今以上に飛躍するためには、体系的に武芸を教わる必要性を強く感じた。
則明と経清は、たった二人で、次々と群盗を倒してゆく。二人の師範の活躍に、師範代の常長も大人しく控えてはいられなくなり、頼義に迫る盗賊の刀を弾き飛ばした。と、義家の目に、三人の盗賊に囲まれた経清の姿が見えた。盗賊達は、左右背後の三方向から、一斉に経清に切りかかる。流民とは言え、ある程度は訓練された動きのようだ。
「経清殿!」
叫ぶと同時に、義家は、即座に弓を引き絞ると、矢を放った。矢は鋭い唸り声を上げて風を切り、盗賊の刀を弾き飛ばす。盗賊は、余りの衝撃に右腕を抑え、蹲った。
「父上、要は、盗賊を傷つけなければ良いのですね。」
その言葉と同時に、義家の次の矢が放たれた。その矢も、寸分違わず、則明に切りかかる盗賊の刀を弾き飛ばす。
「義家!この狭い山中で、弓を使うのは危険じゃ!」
頼義の怒鳴り声を、光任が目で制し、何かを言いかけた。続いて放たれた矢も、まるで、磁石が引き付けあうように、盗賊の刃を直撃した。
「まさか・・・。」
一同は、一斉に義家の方を振り向いた。それは、盗賊と刀を交えていた経清・則明・常長も例外ではない。義家の四本目の矢が、またしても、寸分の狂いもなく、盗賊の刃の根元に当たり、錆びた刀が砕け散った。
「わざと、刃を狙っているのか・・・?」
頼義は、驚愕の表情で息子を見つめた。刀を弾き飛ばされた盗賊の一人が、を拾おうと膝を曲げ、手を伸ばした。義家の五本目の矢が、地面に横たわる刀の柄の部分に突き刺さる。驚いた盗賊は、恐怖の表情を浮かべながら、慌てて手を引っ込めた。
「これは・・・?」
さすがの鹿島派師範の二人も、義家が繰り出す神技に、驚きを禁じ得なかった。義家の放つ矢が、次々と、盗賊の刀を弾き飛ばしてゆく。狙いが精確なだけではない。強弓から放たれる矢の衝撃が、盗賊の肘まで伝わって、手の感覚を麻痺させる。十本目の矢が放たれた時点で、最早、勝敗は着いていた。義家の神技に戦慄し、恐慌状態に陥った盗賊達は、刀を投げ捨て、一目散に逃げ出したのである。
「すごい!すごいぞ、義家!」
頼義は、敵地のど真ん中にいることも忘れ、子供のようにはしゃいだ。いくら、剣の素人の流民が相手とはいえ、振り回される刃を、精確に狙って当てることなど、できるものではない。全盛期の頼義でさえ、そんなことは不可能であった。
「最早、日本一の弓取りは、わしではない。そなたじゃ。義家、そなたは、わずか、十二にして、わしを超えたのじゃ!」
これが、息子の義家ではなく、他の武将であったら、頼義も、素直に認めることができたかどうかはわからない。悔しい思いも感じたであろう。しかし、自分を超えたのが、十二歳の我が息子であることに、頼義は喚起の声を上げた。
「これが、宇佐派の奥義。これが、源氏の御曹司か・・・」
鹿島派師範として、坂東で一、二を争うと謳われる経清も、義家の繰り出す神弓に、感嘆せざるを得なかった。同時に、経清は戦慄した。
「もし、将来、御曹司と敵対することがあれば・・・」
経清は、背中に冷たいものが流れるのを感じた。
盗賊を追い払った十人の武将は、再び、山頂を目指して獣道を進んだ。山頂に近づくに連れて、水仙の花畑が広がってゆく。
「美しい・・・。」
義家は、白く、気高く咲き誇る水仙の花々に、思わず目を奪われていた。その刹那、
「御曹司!」
則明の叫び声に、反射的に身を反らした義家の眼前を、鋭い矢が通過した。
「今度の矢は、先程までとは違う。間違いなく、坂東武士の放った矢だ。」
経清の言葉に、一同は、臨戦態勢に入った。獣道の先、坂の上の雲を背にして、一人の男が立っている。長い髪を振り乱したその男からは、先程までの盗賊とは違う、周囲を威圧する、闘気のようなものが感じられた。
「貴様が、群盗の首領、彦挟嶋か?」
経範の問いに、坂の上の男は、大きく頷いた。
「その通りじゃ。受領のイヌどもめ!安房を亡国とし、なおかつ、流民達から、何もかも奪い取りおって!盗賊は貴様等の方じゃ!」
「何を!」
彦挟嶋の言葉に、激昂した景通が、坂道を駆け上がろうとすると、頼義が制止した。
「わしは、源頼信の長男、源頼義じゃ。わしも、流民達の苦しみはわかっておるつもり。しかし、流民どもを誑かし、群盗に引きずり込むなど、言語道断!大人しく降伏せい!」
「源頼義・・・。そなた、坂東の支配者を気取っているそうじゃな。しかし、坂東は、元はと言えば、我が毛野氏の支配地。欲しくば、腕づくで取ってみよ!」
「毛野氏の末裔・・・それで、彦挟嶋を称しているのか。」
経範は、納得した様にに頷いた。上古の時代、坂東北部には、上野・下野両国に跨る、毛野国と呼ばれる国があったと言われる。毛野氏は、豊城入彦命の孫、彦挟嶋王の後裔氏族で、彦挟嶋の言う通り、坂東に広大な所領を有していた。律令国家の建設時、毛野氏は、中央政界にも進出し、天武朝においては朝臣の姓を賜り、藤原不比等と共に大宝律令の編纂に参加した、下毛野古麻呂を輩出している。
しかし、律令国家の成立と共に、毛野氏は地方豪族に転落し、源氏・平氏などの皇別氏族、藤原氏の傍流が坂東に進出、土着化するに連れて、歴史の闇の中に消えていった。
「そなたたちは、手を出すな。」
頼義は、今にも坂道を駆け上がろうとする郎党達を制すると、一人、ゆっくりと山頂に向かい始めた。
「多勢に無勢では源氏の名折れ。一騎打ちで勝負してやろう。」
「さすがは、源氏の棟梁じゃ。敵ながら、その勇気には感服するぞ。しかし、源氏の頼義と言えば、既に、六十代半ばの老人と聞く。そんな老体で、本当にこの彦挟嶋に勝てると思うてか?」
彦挟嶋は、鞘を抜き払うと、両手で刀を握り、頼義に向かって、坂道を駆け下った。激しくぶつかり合う鋼の音が、水仙の花畑に響き渡る。二合、三合、四合・・・。そこまでであった。わずか四合の剣戟で、興重の刀は、粉々に砕け散った。同時に、頼義の刃が、彦挟嶋の喉元に突きつけられる。
「さすがは髭切・・・」
興重の刀が砕け散った様を見て、経範は、頼義の刀を惚れ惚れするように眺めた。髭切とは、頼義の祖父、源満仲が、受領を歴任して蓄えた莫大な財に飽かせて作らせた、源家相伝の二振りの名刀、髭切と膝丸のことである。
製作者は、平安時代最高の刀工と呼ばれた大原安綱。膝丸は、かって、源頼光が、己を熱病に苦しめた土蜘蛛を切った刀で、蜘蛛切とも呼ばれる。一方、髭切は、頼光四天王の筆頭、渡辺綱が、一条戻橋において茨木童子の右腕を切った刀で、鬼切と呼ばれた。
頼光の死後、二振りの兄弟刀は、頼国が継承したが、頼国は、頼義の婚礼の祝いに髭切を頼義に与えた。以後、二振りの源氏の名刀は、代々、摂津源氏と河内源氏に相伝されることになる。
「勝負あったな。」
頼義の言葉に、彦挟嶋は観念したように目を閉じた。凍りついたように見守っていた郎党達は、一斉に頼義の許に駆け寄った。
「そなた、本当の名は何と申す。彦挟嶋ではあるまい。」
「下毛野興重にございます。」
彦挟嶋は、本名を名乗ると、頼義の前に平伏した。
「ほう。やはり、毛野氏の末裔であったか。」
「はい。我が父、下毛野興元は、安房国平群郡の郡司を務めておりましたが、長元の大乱の時に、平直方の焦土戦術によって、郡内の田畑の全てが、焼き払われ、公地の良民は全て、流民と化しました。父は絶望の余りに自殺し、私は盗賊に身を落して、今日まで生き永らえてきたのでございます。」
「そうか・・・。」
頼義は、目の前で平伏する興重に、哀れみを覚えた。同時に、義父の直方の招いた結果に、責任を感じざるを得なかった。そして、興重を縛り上げようと、縄を手にした景通・光房を、無言で制した。
「興重、そなた、源氏に仕えよ。」
興重は、信じられぬものを見るような目で、頼義の顔を眺めた。
「頼義様、それはなりませぬ。群盗の首領は、国衙の裁きを受けねばなりませぬ。」
先に言葉を発したのは、傍らの光任であった。経範・景通も、口々に、光任の意見に賛同し、頼義に異を唱えた。
「上総介殿には、群盗の首領は、死んだと報告しておけば良い。受領層にとって、国衙の裁きの場で、盗賊に悪政を批判されては、自身の査定に響く故、死んでくれた方が安心なのじゃ。それよりも、鶏鳴狗盗という言葉を知っておるか?」
「孟嘗君ですな。」
頼義の問いかけに、光任が即答した。中国の春秋戦国時代、斉の王族、孟嘗君は、一芸があれば拒まずと、積極的に食客を迎え、その数は千人を越えた。中には、元盗賊や、鶏の鳴き声が得意な者など、王族の食客には相応しくない者もいた。
ある時、秦の国に招かれた孟嘗君は、大至急、逃げ出す必要に迫られた。孟嘗君の一行は、夜半に関所に至ったが、関所の番人は、朝、鶏が鳴くまで、関所を開かない規則であった。そこで、食客の一人が、鶏の鳴き真似をすると、番人は勘違いをして、関所を開いてしまった。そのため、孟嘗君は、無事に逃げ果せたと言う。
「源氏の郎党は、武家の名門ばかりじゃ。盗賊あがりの郎党が、一人ぐらいいた方が、何かの時に役に立つかもしれぬぞ。」
頼義は、快活な表情を見せると、大声で笑った。経範・光任・景通など、頼義の旧くからの郎党達は「またか」と、諦めたように顔を見合わせ、肩をすくめた。国衙に引き出され、処刑されると観念していた興重は、涙を流して、頼義に感謝した。
義家は、そんな父の度量の広さに、改めて尊敬の念を抱いた。同時に、義家の胸には、ある決意が固まっていた。
「父上、私は、鹿島派の門弟となって、剣術を教わりたいと思います。」
息子の唐突な申し出に、頼義は、唖然とした表情を見せた。
「そなたは、宇佐から戻ったばかりではないか。二年も離れ離れであったのだ。きっと、母も悲しむぞ。」
「武家が、親子の情に流されて、己の鍛錬を怠って良いものではありませぬ。」
義家の言葉に、頼義は、何も言い返せなかった。本当は、義家を手元に置きたいのは、頼義自身であった。頼義は、妻に託け、義家を押し留めようとした己を恥じた。
「無論、一度、鎌倉楯に戻り、秋頃から鹿島派の末席に連なりたいと思いまする。」
「わかった。そちの言う通りじゃ。則明、経清、義家を頼むぞ。」
頼義は、則明と経清に深々と頭を下げた。せめてもの親心であった。
「わかりました。頼義様。お任せ下され。しかし、十二歳にして、先程の神技。数年も経てば、我等二人など、足下にも及ばぬ、武神になりましょう。」
「武神・・・」
「なれるかもしれぬ。義家様ならば。」
経清が、何気なく発した「武神」という言葉は、頼義と郎党達の心の中に、深く、強く刻み込まれた。
鹿島神宮は、常陸国鹿島郡に鎮座する、全国六百社の鹿島神社の総本社で、天孫降臨神話において、葦原中国の荒ぶる神々を平定した、武甕槌神(建御雷神)を祭神とする。創建は、神武元年と伝えられ、神話の時代から続く、日本最古の神社の一つである。
なお、「神宮」とは、天皇や皇家の祖神を祭った神社で、平安時代には、神宮号を持つ神社は、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社しか存在しなかった(平安時代以前には、伊勢神宮と石上神宮の二社のみであった。社伝によれば、日本最古の神社は、伊勢神宮・石上神宮である。石上神宮は、平安時代に成立した『延喜式神名帳』において、神宮から神社に改称されている)。
古来、日本には、八百万の神々が祭られているが、世界の他の神話と比較して、何故か、武神は数少ない。明確に武神として祭祀されているのは、建御雷神・経津主神(香取神宮)・建御名方神(諏訪大社)の三神と思われる。
国譲りの神話において、大国主命の息子、建御名方神は、建御雷神に敗北しているため、日本最強の武神は、建御雷神であろう。なお、藤原氏の祖、中臣鎌足は、鹿島神宮の神官の息子であるとの伝承があり、平城京に春日大社が創建されると、藤原氏は鹿島神を勧請して、一族の氏神としている。
平安時代、鹿島神宮の宮司職は、中臣鹿島連姓を下賜された、卜部家が継承していた。この卜部氏の一族は、頼義の伯父(頼信の兄)、頼光の四天王と称された、卜部季武を輩出している。常陸国鹿島郡には、鹿島宮司家と並んで、土地の民に崇められてきた、鹿島宗家と呼ばれる家系が存在した。鹿島宗家の継承者は、代々、國摩真人を称し、建御雷神の武術を後世に伝えてきたと言われる。
鹿島宗家の武芸は、室町時代に至り、飯篠家直の天真正伝香取神道流、塚原卜伝の鹿島神当流などの流派を生み出し、兵法三大源流の一つとなった。天慶の乱の際、平将門と共に叛乱を起こした鹿島玄明は、鹿島宗家の出身と言われ、また、将門を討伐した藤原秀郷は、鹿島派の師範であったと言われる。
永承五年(1050年)七月、源義家は、武芸指南役の藤原景季と共に、当時、日本武術界最大の門派と謳われた、鹿島派に入門した。平安時代中期の日本には、利仁流・秀郷流・頼光流・満政流など、数多の剣術流派に分派していたが、その源流を辿れば、すべて、鹿島派か、諏訪派のどちらかに行き着くと言われていた。
義家の入門当時の門弟は、総勢約三百名。門弟の中には、義家のように、武家の名門の子弟の他に、地方豪族の子弟や、良民の中でも、特に武芸に秀でた者などが、郡費で入門している者もいた。三百名の門弟の中で、免許皆伝を受けた師範は、藤原則明と藤原経清の二名のみ。その下に、藤原季俊・兵藤景経・豊島常家・平常長・藤原茂頼など、十名の師範代が名を連ねている。師範代の下には、一ノ位~八ノ位での位階があった。
武家の名門中の名門、源氏の御曹司とはいえ、義家は、鹿島派の末席に連なった以上、末席の門弟に過ぎない。あとは、その実力によって、上席の地位を勝ち取るしかない。
「それでは、義家殿と景季殿の剣術の腕前を見せてもらおう。」
入門の日、師範の許へ挨拶に訪れた義家と景季に、則経と経清は、早速、木刀を手渡した。鹿島派への入門に、年齢制限は無い。故に、位階は、入門した年数に関わらず、実力によってのみ定められた。逆に言えば、実力さえあれば、入門初日から、一ノ位の席次に座すこともあり得る。
経清は、広大な鹿島派の道場内の中央、演武場に二人を案内した。演武場の周囲を、三百に及ぶ鹿島派の門弟達が埋め尽くし、新参者の二人の武芸を見学する。特に、その新参者が、源氏の御曹司とその武芸指南役ともなれば、俄然と注目は集まった。
まずは、八ノ位の門弟が相手であった。経清は、無作為に二人を選んだ。義家の相手は、地方豪族の子弟、大野大吉。景季の相手は、氏すら無い、次郎と呼ばれる農民の子である。第一試合は、義家対大野大吉。第二試合は、景季対次郎。
「はじめ!」
経清の掛け声と、ほぼ、同時であった。義家の木刀が、大吉の木刀を一撃で叩き落したのである。一瞬の出来事であった。第二試合においても、景季は、開始の合図と同時に、瞬時に次郎の懐に飛び込むと、相手の手の甲に手刀を見舞って、同様に木刀を叩き落とした。いかに最下位とはいえ、鹿島派の末席に連なる者達である。各々、腕に覚えがある者達が揃っていることは間違いない。それでも、義家と景季にとって、八ノ位程度の武芸者の木刀を叩き落すことなど、赤子の手をひねるより容易い。
演武場の周囲の見物席から、どよめきの声が上がった。しかし、鹿島派の門弟達が驚くのは、これからであった。義家と景季は、同様の調子で、三ノ位の門弟まで、難無く蹴散らしてしまったのである。
「これほどとはな・・・」
ある程度、予想していたとはいえ、十八歳の景季はともかく、十二歳の義家が、三ノ位の門弟まで易々と倒してしまったことに、経清は舌を巻いた。続いて、景季は、二ノ位の源貞清との試合において、苦戦しながらも、辛くも勝利を治めた。
「貴様等、何をしておる。それでも日本最強を謳われる、鹿島派の門弟か!新参者を相手に、師範代まで引っ張り出す気か!」
師範席で試合を見物していた則明が、演武場を囲む門弟に怒声を浴びせた。
「次。源義家と清原貞衡!」
経清が名前を挙げると、見物席の中から、物静かな少年が前に進み出た。知性的な顔立ちをしたその少年は、凡そ、武芸に優れている様には見えない。
「出羽の清原貞衡です。」
貞衡は、演武場の壇上に上ると、義家に一礼した。
「御曹司。貞衡は、長暦三年の生まれ、貴殿と同い年ですよ。」
義家は、経清の言葉に、貞衡の少年の様な風貌を理解した。堂々たる体躯を誇る義家は、とても十二歳には見えないが、貞衡のような華奢な身体つきこそ、本来の十二歳の体型なのであろう。
「はじめ!」
試合開始の合図が告げられても、二人共睨み合ったまま、ピクリとも動かない。隙が無いために、互いに攻めあぐねているのだ。義家は、これほど気を感じさせない相手と対峙するのは、初めてであった。一見、隙だらけに見える貞衡の構えは、まるで、義家を誘っているようである。
先に均衡を破ったのは、痺れを切らした義家の方だった。義家は、正面から切り込むと、貞衡の手の甲めがけ、突きを放った。貞衡は、ほとんど音を立てずに、静かに義家の突きを交わす。間髪入れず、義家の無数の突きが、貞衡を襲った。しかし、貞衡には、一本も当たらない。貞衡は、義家の木刀の動きを、完全に見切っているようだ。
「ぐっ!」
突然、義家は、体中に衝撃を感じた。貞衡の突きが、義家のみぞおちに入ったのだ。義家には、貞衡の突きが全く見えなかった。
「それまで!」
義家の敗北であった。この瞬間、義家の序列は三ノ位に決定した。義家と貞衡は、一礼して演武場を降りた。
「次の試合、藤原景季と物部長頼!」
最後の試合は、新参者の景季の、一ノ位の物部長頼への挑戦であった。長頼は、鹿島派随一の巨躯の男で、貞衡とは反対に、周囲を圧倒するような気を放っている
「常陸の物部長頼でござる。」
「河内の藤原景季です。」
長頼と景季は、互いに挨拶を済ますと、一礼して木刀を構えた。
試合開始と同時に、長頼が先手を仕掛けた。景季より一回り以上も大きい、巨漢の長頼が繰り出す激しい突きに、さしもの景季も、防戦一方となった。景季は、演武場の広さを目一杯使い、弧を描くように動き、長頼の背後に回り込もうとした。しかし、さすがに、一ノ位の高弟だけあって、長頼は、景季の動きを見切ったかのように背後をとらせない。
「このままでは・・・」
焦った景季は、宙に舞い上がると、渾身の力を込めて、上段から木刀を振り下ろした。鈍い音と共に、景季の木刀に裂け目が入る。八試合目の景季の木刀が弱っていたこともあろうが、それ以上に、長頼の怪力が、景季の力を上回ったのである。
「それまで!」
経清の掛け声で、試合は終了した。景季の敗北であった。さすがの景季も、一ノ位の高弟を勝ち抜くことはできなかった。景季の序列は、二ノ位となった。しかし、義家よりも一段上席となった景季は、何とか、武芸指南役の面目を果たしたと言える。
「御曹司。先程、手合わせしていただいた、清原貞衡殿です。」
試合が終了すると、経清が、貞衡を伴って、義家に声をかけた。
「先程の貞衡殿の動きこそ、柔よく剛を征す、武芸の妙技です。」
「それでこそ、鹿島派の門弟に連なった甲斐があったというものです。今まで、同年齢の者に負けたことはなく、これほどの武芸者に出会えるとは思いませんでした。貞衡殿。今後、よろしくご指導をお願いいたします。」
義家は、貞衡に素直に頭を下げた。同い年の競争相手の出現を、本気で喜んでいるようであった。
「御曹司。私は、出羽国仙北三郡の清原武則が末子、貞衡です。以後、よろしくお願いいたします。」
貞衡は、源氏の御曹司に対し、深々と叩頭した。
「経清様。貞衡様。御曹司はお辞めくだされ。私は、この鹿島派では、一介の門弟に過ぎませぬ。」
「申し訳ありません。仰る通りですな。今後、義家殿とお呼びいたします。ちなみに、私の母方の叔父、国妙は、清原武則殿の娘婿で、貞衡殿とは義理の兄弟です。そのご縁で、貞衡殿をお預かりしております。貞衡殿は、間違いなく、義家殿の良き競争相手になると思います。」
経清は、暖かい眼差しで、二人の少年を見守った。こうして、義家の鹿島派における修行が始まったのである。
永承五年(1050年)の十月、鹿島派の藤原経清の許へ、亘理郡郡司藤原頼遠の危篤の知らせが届いた。文には、頼遠から、自分の余命がいくばも無いこと、そして、亘理郡の郡司職を経清に継承して欲しい旨が記されていた。
経清は、鹿島派の師範の職を辞して、陸奥国へと去っていった。翌年、陸奥国において、大動乱が発生するこを、この時の経清は、知る由も無かった。