第三話「香炉峰」
永承元年(1046年)の秋、二人の父子が、常陸国衙の頼義の下を訪れた。下野国の住人、秀郷流藤原氏の頼遠・経清である。藤原頼遠は、藤原秀郷の六世孫で、頼遠の父、正頼の代まで、五代に渡って鎮守府将軍に任官した武家の名門であった。
しかし、正頼は、頼遠の成人前に病没。当時、官位・官職への推挙は、朝廷の公卿など有力者によって行われていたため、早くに父を失った頼遠は、朝廷との縁が断ち切れ、有力な後ろ盾を得られずに、知命を過ぎても無官のままであった。
頼遠は、官途に就かぬまま、父祖伝来の下野国足利郡の所領を、細々と経営する日々を送った。しかし、京から派遣される、受領層の苛烈な搾取に憤りを覚えることが多く、朝廷に対する鬱積した気持ちを抱えていた。そのため、平忠常が叛乱を起こした際には、忠常に与同し、伊志見山に物資や兵を送っている。
その年、永承元年の春の除目で、源頼義は、常陸介に任官し、常陸国茨木郡の国衙に赴任していた。常陸介は、約四十年前、寛弘五年(1008年)に頼義の父、頼信が務めた職で、父と共に、頼義も現地に赴任していた。永延二年(988年)生まれの頼義は、当時はまだ、二十歳。若年の至りで、現地の豪族と諍いを起こしかけたこともある。
常陸国は、貞盛流常陸平氏の本拠地であるが、棟梁の多気繁幹は、既に、源氏の郎党化しているため、頼義の任国支配を喜んで受け入れている。親王任国であるため、常陸守の親王が現地に赴任することはなく、常陸介の頼義が、実質的な国司であった。
頼義は、頼遠と経清を国司の執務室に通すと、腹心の佐伯経範・藤原景通と共に、下野からの訪問者と対面した。
「ほう。陸奥か。」
頼遠の報告に、頼義は、興味深そうに頷いた。平忠常の乱の後、頼遠は、他の坂東の武家達と共に、源氏の郎党となったが、下野を去り、隣国の陸奥に赴く決意を固めて、頼信・頼義の許へ、別れの挨拶に訪れたのである。
「はい。私の妻の兄が、陸奥国亘理郡の郡司職に就いておりましたが、先年、病にて亡くなりました故、郡司の跡継ぎを探しておりました。そこで、この度、私が亘理郡郡司職を継承して、陸奥に移住することを決意した次第です。」
「そちの妻の実家は、確か、海道平氏であったな。」
「はい。常陸北部、陸奥南部に、数多の一族がおります。」
海道平氏は、平繁盛の息子、安忠を始祖とする、平氏の一族で、陸奥国南部の海道沿い、磐城国(現在の福島県東部)を中心に広大な所領を有していた。頼遠の妻、妙子は、安忠の孫、泰貞の娘である。妙子の兄、安妙は、昨年、跡継ぎのないまま、急死した。
安妙と妙子には、国妙という弟がいるが、出羽国仙北三郡の清原光頼に婿入りし、出羽に所領を有しているため、亘理郡に戻ることはできない。
「して、足利郡の所領はどうするつもりじゃ。」
頼遠は、今までの生涯を下野国足利郡の所領の経営に捧げてきた。しかし、五十歳を過ぎて、無官のままの頼遠は、亘理郡郡司の職を逃せば、二度と官職に就く機会はない。また、忠常に与同したことは、既に朝廷にも聞こえており、下野守として派遣される、受領層との軋轢が一段と厳しくなったことも確かであった。
「はい。そのことですが、足利郡の所領は、頼信様にお譲りしたいと思います。」
「ほう。それはありがたいな。」
頼義は、遠慮せずに、素直にうれしそうな顔をした。坂東の武家達を郎党化した源氏であったが、広大な坂東において、自分自身の所領は、相模国鎌倉郡のみであった。つまり、直轄地がなかったのである。頼信・頼義の源氏の父子は、坂東を支配していたが、その財力及び軍事力は、郎党達の自発的な協力・提供を宛てにするしかない。極めて、不安定な権力基盤であった。
「わしも、坂東に、自分の所領が欲しかったところじゃ。ありがたく受領させていただく。その代わり、例え、陸奥に行っても、困ったことがあれば、いつでも訪ねてくるが良い。そなたの一族は、永遠に源氏の郎党として、わしが面倒を見よう。」
「はい。この命ある限り、誠心誠意、源氏のために粉骨砕身いたします。」
頼遠は、深々と叩頭した。
「いや。こちらこそ、礼を申さねばならぬ。ところで、経清、そちはいくつになった。」
頼義は、父の後ろに控える、凛々しい青年に声をかけた。
「はい。二十七になりました。」
若者は、顔を上げると、爽やかに答えた。切れ長の目が、頼義を見据える。その堂々たる体躯と精悍な顔つきを見れば、この若者が、将来、間違いなく、優れた武勇の士になることが、誰の目にも明らかであった。
「二十七か。凛々しい武将になったな。そちの武芸は、坂東でも一、二を争うとか。」
頼義は、満面の笑みを若武者に向けた。自身も優れた武勇の士である頼義は、勇猛な武家を好んで郎党にし、自身の周辺に近侍させた。利よりも勇を好む源氏の気風は、頼義の頃から、明確に形成されつつあった。
「これはもったいないお言葉。私如きの拙き武芸、源氏の殿の足下にも及びませぬ。」
経清は、恐縮して頼義に頭を下げた。
「そちは、鹿島派の師範になったそうじゃな。則明と並んで、鹿島派の双璧を成す腕前とか。将来が楽しみじゃな。」
頼義は、破顔して傍らの景通に目を向けた。
則明とは、利仁流藤原氏の後藤則明のことで、藤原景通の父方の従兄弟にあたる。則明の父、後藤則経は、加藤貞正の息子であったが、同族の後藤公則に嗣子がいなかったため、養子に入って家督を継いだ。景通の父、加藤正重は、貞正の長男で、則経の兄である。則経は、摂津源氏の源頼光と、その長男の頼国に仕えた。則明は、幼少の頃に鹿島派に入門し、以来、十余年、二十五歳にして、鹿島派の師範の座に就いた。
なお、加藤氏は、貞正の父、重光が加賀守に任官したことから、後世、加藤氏を称することになるが、景通は、生涯、加藤氏を名乗らず、後に鎌倉章名の娘婿になると、鎌倉景通を称している。同様に、後藤氏は、藤原公則が備後守に任官したため、後世、後藤氏を称するが、生前の則明は、藤原則明と呼ばれていた。
同じ年の則明と経清は、互いに好敵手としてその実力を認め合い、固い友情で結ばれている。頼義は、則明と経清の様な、武勇と人徳を兼ね備えた、武人の鑑とも呼べる若者達を、心から敬愛した。
故に、頼義は、経清こそ、将来、自身の右腕となってくれる武将であり、自身の夢を語るに相応しい相手であると感じた。
「のう。頼遠、経清。そちらに、よく聞いて欲しいことがある。」
「はっ。何なりと。」
頼義の表情の変化に、頼遠・経清は、改めて居住まいを正した。
「わしはな、いずれ、鎮守府将軍として、奥州に赴きたいと思っておる。そのために、関白様には、陸奥守か、鎮守府将軍に任官していただけるよう、莫大な貢物を捧げている。坂東武士団同様、今度は、奥州の蝦夷達を、源氏の郎党にしたいのじゃ。
それだけではない。奥州の地は、黄金が豊富で、数多の良馬が育成されていると聞く。そなたら父子には、奥州に、源氏の尖兵として赴任して欲しいのじゃ。亘理郡郡司として得た奥州の情報を、逐次、わしに報告してくれぬか?」
「はっ。それはかまいませぬが・・・。」
頼遠と経清は、顔を上げると、驚いた表情で頼義を見た。
「そう驚くことでもないであろう。東国の武家衆に、奥州の蝦夷、そして、黄金と良馬を兼ね備えることができれば、源氏の軍事力は、間違いなくこの国最強となる。さすれば、我等源氏は、摂関家の爪牙の身分から抜け出し、己の意思で、己の信じるモノのために、戦うことができるようになる。その時、この日の本の国は、武家を中心とした、新しい姿に生まれ変わることができるのじゃ!」
頼義の胸には、小一条院の言葉が鮮やかに蘇っていた。
「坂東の軍事力に、黄金や良馬を産出する奥州の富と、剽悍な蝦夷が叛乱に加われば、間違いなく、摂関家の支配を覆すことができるのじゃ!」
頼義の想いは、経範と景通にとっても、初耳であった。頼義は、多くは語らなかった。未だ、機は熟していないことを、悟ったのであろう。しかし、頼義は、頼遠と経清が陸奥に赴任し、亘理郡郡司職に就くことに、運命を感じていた。信頼できる郎党が、多賀城に在庁官人として赴任すれば、源氏による奥州支配の布石を打つことができる。
頼遠・経清の父子は、最後にもう一度、頼義に叩頭すると、坂東を去っていった。後年、藤原経清は、極北の地、奥州において、北斗七星の宿命の下、源頼義と熾烈な死闘を繰り広げることになる。そして、その経清の残した、たった一人の遺児こそが、後に奥州藤原氏百年の栄華を築き上げる、藤原清衡である。
翌年、永承二年(1047年)、源頼信は、従四位上に昇叙し、河内守に任官した。上野介・常陸介・石見守・伊勢守・甲斐守・美濃守・相模守等、鎮守府将軍を含め、数多の受領を歴任した頼信にとって、河内守は、最後の任国となった。
同時に、六十年以上前に、河内国石川群壷井の香炉峰に邸宅を構え、傘下の武士団を育成してきた頼信にとって、河内守任官は、悲願達成の瞬間でもあった。頼信の子孫は、頼義・義家・義忠と続くが、長兄の頼光の後裔を摂津源氏、次兄の頼親の後裔を大和源氏と呼ぶのに対し、頼信の後裔は、河内源氏と呼ばれることになる。
河内国は、現在の大阪府東部に当たり、摂津国・大和国・山城国に隣接し、律令では大国に分類される。上古の時代、応神天皇~清寧天皇の御世には、河内に都が置かれたため、河内王朝と呼ばれた。国府は、志紀郡に置かれている。
頼信は、寛和二年(986年)、十九歳の年、父の満仲から、河内国石川郡壷井荘の所領を譲り受けた。頼信は、自身の初めての所領である、壷井荘の開拓に勤しみ、香炉峰に邸宅を建て、京近郊の本拠地とした。その二年後の永延二年(988年)、頼信の長男、頼義が、香炉峰の邸宅で生まれている。
頼信は、佐伯氏・大宅氏・和気氏・利仁流藤原氏等、京の下級官人を郎党化し、香炉峰において、兵馬の鍛錬を行って、武士団の育成を図った。それこそが、父の満仲・兄の頼光が、摂津国多田荘において、傘下の武士団を育成し、源氏が飛躍する土台を構築した例に倣った、真の源氏の家伝であった。
頼信、そして息子の頼義は、香炉峰で育成した武士団を率いて坂東に乗り込み、東国の武家達をも郎党化することに成功した。謂わば、香炉峰の邸宅は、河内源氏の原点とも言える。その香炉峰において、河内源氏の始祖の寿命は、今まさに尽きようとしていた。
弓弦の振動が鳴り響き、風を射抜く音が、周囲の静寂に木霊する。
「義家か・・・」
香炉峰の邸宅内にある的場に足を運んだ頼信は、的の中央を射抜いた射手が、ようやく十歳になったばかりの我が孫であったことに、少なからぬ驚きを覚えた。射場から的まで、百間(180m)以上はある。この距離では、精兵を持って鳴る、成人の坂東武者でさえも、三矢に一矢程度しか当たらぬであろう。
義家の持つ弓は、およそ七尺(210cm)。成人武将の持つ弓と何ら遜色の無い長さである。十歳の義家の身長が、五尺三寸程度であることを考えれば、七尺の弓は、相当に扱い難いはずである。しかし、義家は、七尺の弓を自在に使いこなしているようだ。
「御祖父様。」
祖父の姿に気付いた義家は、頼信の方に向き直ると、礼儀正しくお辞儀をした。隆々たる筋肉に、広い肩幅、厚い胸板。八幡太郎と呼ばれる義家は、およそ十歳とは思えぬ、威風堂々たる体躯をしている。知らぬ者が義家を仰ぎ見れば、最早二十歳を越えた、青年武将と見間違えるであろう。
「義家、御祖父様に、弓の腕前を披露して差し上げよ。」
傍らの頼義は、愛情に満ちた眼差しを義家に向けると、先程の遠的を指差した。弓道場には、頼義の他に、直子、直方そして、藤原景通の息子、景季がいた。最早、六十代後半の直方は、孫の義家・義綱・義光の三兄弟が、余程に可愛いのか、ここ数年の間、一年の内半分近くを、河内の香炉峰で過ごしていた。④
義家より六歳年長の藤原景季は、源氏の御曹司の武芸指南役に選ばれていた。この年、景季は十六歳。幼少の頃より武芸に優れ、その才能は、父の景通を超えると噂されている。
もっとも、武芸指南役とはいえ、義家に武芸を教えているのは、景季ばかりではない。源氏の期待を一身に背負って生まれてきた義家には、祖父の頼信・直方、父の頼義、藤原景通・大宅光任などの河内源氏の郎党が、競って武芸を教え込んだ。景季は、武芸指南役というより、義家の第一の郎党と呼べるであろう。
幼少の義家に、最も熱心に武芸を手解きしたのは、母の直子であった。直子は、日本一の女傑と言われる程の武芸の腕前であり、また、男性のように膂力に頼らず、無駄の無い、繊細な動きによって高められた、芸術的な武芸の持ち主であった。
義家にとって、筋力の弱い幼年時代に、母から繊細な武芸を教わったことは、力に頼らない、柔よく剛を征す武を会得する上で、大きな利点になったに違いない。義家は、少年期に入ると、大人顔負けの筋力を身に付けたが、彼の武芸には、無駄な動きが無い。更に、父の頼義自体が、日本一の弓取りと謳われる武将で、弓術にかけては並ぶ者が無く、頼義は、暇さえあれば、自ら長男に弓の手解きをした。
頼義は、源氏一門に伝わる、頼光流の第一人者であった。頼光流とは、頼信の兄の頼光が、父の満仲より伝授した諏訪派の武術を極めた上に、鹿島派の門弟に連なって奥義を会得し、二つの流派の武術を総合して創始した、源氏一門特有の武術である。
頼信・頼義など、源氏の一族の多くは、頼光流の武術を学び、武芸を身に付けた。また、自ら望んで源氏の郎党となる武家達は、頼光流の武術を会得するために、名簿を捧げて臣従した者も多い。頼光流の武術を極めた数多の武家の中でも、頼義が、最も優れた武芸の持ち主であることは、衆目が一致して認めるところであった。
祖父の見守る中、義家は、弦を引き絞ると、新しい遠的に狙いを定めた。空気を切り裂いて突き進んだ矢は、寸分違わず、的の中央、白い円の中に突き刺さる。続いて、義家は、その場を一歩も動かぬまま、右隣の的に向かって矢を放った。正面の遠的とは角度が異なるが、義家の矢は、事も無げに的の中央に突き刺さる。
香炉峰の的場には、全部で十の遠的が並んでいる。義家は、無言のまま横に移動すると、残りの八つの的に順番に矢を放った。七つ目の的は、わずかに中央を外し、黒い円に突き刺さったが、他は、全て中央の白い円の中に納まっている。
「十中八、九か・・・」
頼信は、改めて、凡そ十歳とは思えぬ、我が孫の腕前に感嘆の声を漏らした。既に八十歳を越えている頼信には、最早、十の内、五、六程度しか、的の中央に当てることはできない。否、五十代の最盛期でも、十中八、九程度であったであろう。
義家が手にしているのは、二人張の弓で、騎射に優れた坂東武者の多くが使用する三人張りの弓に比べれば、やや小ぶりである。最盛期の頼信が使用していた弓が四人張り、日本一の弓取りと謳われた頼義の弓が五人張りであるから、さすがに、現段階では、祖父・父には遠く及ばない。しかし、兵衛府の京武者が使用する弓は、二人張りであったから、既に、大人と同等の膂力を備えていることは確かであった。
「父上、義家は、間違いなく、我を遥かに凌ぐ、日本一の武者になりまするぞ。」
六十一歳になった頼義は、義家の成長を待ち焦がれていた。あと十年。十年経てば、義家は、日本一の武者として、東国の武家、全てが認める、源氏の棟梁に成長する。
「そうだな。神託通り、今年中に、義家を、宇佐に送らねばならぬな。しかし、義家が、再び戻って来るまでに、わしは・・・。」
生きているだろうか-。頼信は、寂しそうに呟くと、最後の言葉を飲み込んだ。
永承三年(1048年)、源頼信は、病の床についた。八十一歳の頼信の体力の衰えは早い。四月に落馬して腰を痛めた頼信は、五月に入ると、最早、自力で起き上がぬほどに衰えていた。頼信は、己の寿命が尽きたことを悟ったのであろう。京・東国を問わず、源氏の一族や主だった郎党達に、文を送って病を伝えた。
香炉峰の邸宅には、連日、見舞いの客が訪れた。遥か東国の地、坂東からも、三浦為通・鎌倉章名・平将常・秩父武基・豊島武常・小山田武任、平常将・多気繁幹などが、領国を留守にして頼信の枕元に馳せ参じた。源氏の郎党達は、頼信を見舞うと共に、源氏の御曹司、義家に挨拶し、その驚愕すべき武勇に、改めて臣従を誓った。
新緑が映え渡る、五月の終わる頃、隣国の摂津源氏の源頼国が、五男の頼綱を伴って、香炉峰の邸宅に見舞いに訪れた。頼信の甥の頼国は、この年、七十七歳。頼国の五男の頼綱は、二十五歳の若武者であった。頼綱は、源氏の血脈に相応しい、堂々たる体躯を誇ると同時に、和歌に秀で、歌人としても頭角を現しつつあった。
「叔父上、痩せられましたな。」
「その呼び方は、止めて欲しいのだがな。」
頼国の丁重な挨拶に、頼信は上半身を起こすと、苦笑いで返した。源頼国は、頼信の兄、頼光の長男であるが、頼光は、頼信の二十歳上の兄であるため、叔父と甥でありながら、頼信と頼国は四歳しか違わない。礼儀正しい頼国は、四歳違いの頼信を、常に叔父として遇するのであるが、頼信には、それが面映かった。
頼国は、若い頃は、父の頼光、頼光四天王と共に大江山の酒呑童士を退治した伝説を持つ優れた武将で、皇太后宮大進・春宮大進・蔵人・左馬権頭・上野介・美濃守・三河守・備前守・摂津守・但馬守・伯耆守・讃岐守・紀伊守を歴任し、位階は正四位下に昇る。頼信の極官は従四位上であるため、位階は叔父よりも高い。
頼国は主に京武者として活動し、その交友関係は、武家以上に、公家に広く及んでいる。武人としてのみならず、文人として優れていた頼国は、内昇殿を許され、摂政藤原師実、参議藤原為房などの公卿に娘を娶わせるなど、公家社会での栄達を目指した。
その点、武家の頂点を目指し、東国の武家を傘下に治めていった頼信とは、進むべき道が異なっていたと言える。否、頼信は、嫡流である兄の頼光とは、敢えて異なる道を目指したのであろう。
頼国の嫡男、頼弘は、頼義同様、小一条院判官代に任官後、若くして従五位下に昇ったが、三十歳を目前にして病に係り、出家した後、病没してしまう。嫡男を失った頼国の哀しみは深い。頼弘は、頼義と同じ年であったから、頼国は、頼義を実子のように可愛がったと言われる。
頼国・頼綱父子の到着から一刻余り後、今度は、大江成衡・匡房父子が、香炉峰の邸宅を訪れた。大江氏は、平城天皇の皇子、阿保親王を祖とする、皇別氏族である。阿保親王の子、本主が、大枝朝臣の姓を賜り、大枝本主を称した。本主の子、音人の代に、大枝を大江に改め、以降、学者の家系として続き、成衡は、諸上から数えて、八代目に当たる。
成衡の父、挙周は、藤原道長に近侍したため、同様に道長に仕えた源氏と大江氏の交流は深い。頼光と頼信は、文章博士・大学頭を歴任した大江挙周・成衡に、学問を師事した。以降、頼国・頼義の世代も、挙周・成衡を学問の師と仰いでいる。成衡の長男、匡房は、この年、八歳。四歳で読書をはじめ、五歳ので『論語』を諳んじ、八歳で『史記』『漢書』『後漢書』に通じた、俊才の誉れ高い神童であった。⑥
「お初にお目にかかります。大江匡房でございます。」
「遠いところ、よくぞ参られた。」
八歳の神童の挨拶に、頼信は、病を感じさせない、満面の笑みを見せた。頼信の寝所には、左に源頼国・頼綱、大江成衡・匡房。右に頼義・頼清・頼季・直子・義家・義綱・直方が並び、直子の膝には、四歳の金王丸が抱かれている。
「皆、よく来てくれた。」
自らの死期を悟っていた頼信は、感慨深げに一同を見渡した。この場に郎党はおらず、家族と親友だけであることが、頼信の気を緩めたのかもしれない。
「わしは、もう長くはない。」
郎党達の前では、決して口にしなかった頼信の弱気の言葉に、その場にいた誰もが、驚きの表情を浮かべた。無論、郎党達にも、頼信の余命がいくばくもないことは伝わっていたでろう。故に、病の床で郎党の一人一人に言葉を与え、源氏への忠誠が揺らぎ無いことを確認したに違いない。しかし、自らの死期を明確に口にしたことはない。
「そこで、じゃ。今後、我が源氏一門が、今の世の移り変わりに、どのように対処してゆくべきか、話おうておきたいと思う。」
頼信は、頼義、義家に話しかけた後、反対側の頼国、成衡に目を向けた。
「のう、成衡殿。わしには、この国が、大きく変わりつつあると感じられる。しかし、どのように変わっていくのか、否、どのように変わってゆくべくなのか、わしにはわからんのじゃよ。先年の長元の大乱をはじめ、地方では群盗蜂起が相次ぎ、京の都においても、魑魅魍魎が跋扈し、夜は、一人歩きもままならぬ。
朝廷は、最早、群盗どもに対応する術をもたず、我等源氏の様な、武家の私的な軍事力を頼る一方じゃ。いったい、何が、今の変化をもたらしたのであろう。律令国家は、最早、この国を治める力を失ったのであろうか?」
頼信の問いに、成衡は、学者らしく、慎重に言葉を選ぶように語り出した。
「確かに、この国は、今、大きく変わりつつあります。しかし、貴殿と同様、未だに誰にも、この国の新しい姿は見えておりません。律令国家に代わり得る、新しい政治の仕組みが生み出されない限り、どれだけ、朝廷がその権威を失おうとも、律令国家が続くことは間違いありません。
数百年前、この日の本の地には、国と呼べる様な統治機構は存在せず、各地の力ある豪族達が、限られた領域の民を治めていました。やがて、その中から、大王を頂点とする大和朝廷が頭角を現し、周辺の豪族達と同盟を結んで、緩やかな連合国家を形成しました。
しかし、唐土の地に、隋・唐の巨大帝国が出現し、半島では新羅が高句麗・百済を滅ぼして統一国家を実現すると、この国にも、強力な集権国家が必要になりました。
即ち、兵の動員にせよ、兵糧の調達にせよ、戦の度に豪族の私兵や私財に頼らねばならぬのでは、大規模な動員・調達は不可能です。よって、強力な王権によって、この国の全ての民と財を動員し得る体制に変革する必要に迫られたのです。
故に、天智・天武の帝は、唐の律令制を導入し、豪族の土地・人民の私有を廃止して、この国を一君万民思想に基づく、中央集権国家に造り替えたのです。
律令国家が誕生した後、唐の威光は衰え、新羅にも日本に侵入する力はなく、中央集権国家の軍事力は、東国の蝦夷の征討に向けられました。桓武帝の御世、坂上田村麻呂公が、蝦夷の大規模な叛乱を平定し、奥州に鎮守府が置かれると、この国に軍事力は不要となり、国衙の軍勢は解体されたのです。
外敵の脅威が無くなると、内輪の権力闘争が始まるのが世の常です。藤原摂関家を頂点とする公家達は、律令国家を私物化し、国庫の財産を収奪し、民からその財を搾り取り続けました。群盗蜂起や朝廷への叛乱が続くのは、本来の律令国家の有り方、一君万民の思想から、現実の政治が余りにも乖離してしまったが故ではないでしょうか?」
「その通りです。諸悪の根源は、藤原摂関家と、その権威に媚びる公卿共にある。故に、藤原摂関家を。廟堂から追い落さねばならんのです!」
頼義は、小一条院との会話を思い出し、義憤に駆られたように激しい言葉を吐いた。⑦
「頼義殿は、小一条院様の判官代を努めておられたな。我が子、頼弘も、かって、小一条院様のお言葉を、わしに熱く語ったものじゃ。」
頼国は、失われた長男の言葉を、しみじみと思い出すようにつぶやいた。
「しかしな、従兄弟殿。我等源氏は、その藤原摂関家の爪牙として忠実に仕えてきたからこそ、現在の実力を蓄えることができたのも、また現実。叔父上が、数多の東国の武家を郎党化することができたのも、摂関家に臣従することで、諸国の受領に任官し続けたが故なのじゃ・・・」
頼国の言葉に、頼義は、沈黙せざるを得なかった。それは、源氏一門の最大の弱さでもあった。成衡が語った通り、律令国家を私物化した摂関家に名簿を捧げ、その郎党として国庫の財産を横領した張本人こそ、源氏一門なのである。国庫の富を収奪しなければ、源氏は、現在、何の力も持たない貧乏公家であり、朝廷の威光を借りなければ、諸国の武家達を臣従させることもできなかったであろう。
「源氏の御一門は、権力が何故に発生すると思いますか?」
沈黙が続く中、匡房が唐突に、幼子とは思えぬ口調で質問したため、一同は、一斉に八歳の神童に目を向けた。
「権力とは、皆が権力がある、と思うところに発生します。つまりは、実態のない幻、思い込みのようなものです。そして、その共同幻想を生み出す基本は、組織です。権力は、組織を構築することによって、初めて生み出されるのです。
この世界には、三種類の力があります。暴力・財力・権威です。暴力は、人間が先天的に有する、自然の本質的な力です。しかし、個人の暴力を超えた集団の暴力は、組織化されることで、強大化します。それが軍事力です。
次に、財力ですが、農耕にせよ、商売にせよ、一人の人間が生み出す富には限界があります。しかし、無数の人間を組織化し、組織によって運営される農耕・商売は、個々人の努力によって生み出される富の、何十倍もの富を生み出すことになります。
集団によって強大化した暴力、財力の使用に正統性を与える力。それが、権威です。権威は、組織の力を使用する者に正統性を与えます。この国の組織、つまり、律令制度は、天皇の権威によって、正統性が保証されています。国司は、天皇の名において任命されることで、諸国の税を徴収し、国衙の軍勢を動かす権威、つまり、正統性を得、郡司は、その国司の命令によって、国衙を運営する正統性が保証されるのです。
即ち、朝廷の権威とは、天皇の権威に他なりません。律令国家という組織の行為の全てが、天皇の権威によって正統性を与えられているのです。では、その天皇の権威は、誰によって、否、何によって正統性を保証されているのでしょうか?
朝廷は、日本書記編纂時に、この国は、高天原に住まう天照大神によって、天孫のニニギノミコトとその子孫が、葦原中つ国の統治を委任されたため、皇家がこの国を支配することになったと主張しました。しかし、実際には、目に見えぬ天ではなく、この国に住まう人々が、皇家がこの国を支配することに正統性を認めているからこそ、天皇の支配の正統性が保証されているのです。突き詰めれば、この国の権力は、この国の人々が、正統だと思う場所に発生していることになるのです。」
八歳の神童の言葉に、父の成衡を含め、誰もが耳を傾け、話に集中していた。
「その朝廷の権威に、歴史上初めて挑戦したのが、平将門です。将門は、火雷天神の神託を得ると、天皇に代わり得る存在として新皇を称しました。受領の苛政に喘いでいた坂東の民は、諸手を挙げて新皇の誕生を受け入れましたが、藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲等、朝廷の権威から脱却しきれない者達によって、あっけなく討たれてしまいました。
この国には、朝廷、突き詰めれば、天皇に代わり得る正統性を持つ権威は存在しません。この日の本に住まう全ての民が納得する権威、その力が誕生しない限り、朝廷の支配は永遠に続くのではないでしょうか?」
「では、現在の腐り切った藤原氏の専横が、未来永劫続くと申すのか?」
いまや、一君万民思想の信望者とも言える頼義は、相手が八歳の童子であることも忘れたように問いかけた。その頼義の問いには、成衡が答えた。⑧
「藤原氏は、自ら皇位に就くことなく、皇家の外戚になることで、律令制度を動かしてきました。摂政・関白は、あくまで天皇の代行者に過ぎず、天皇の権威によってその地位が保証されています。つまり、藤原氏を外戚に持たない天皇が即位すれば、藤原氏は外戚の地位を失い、摂政・関白としての正統性を失います。
仁和の宇多帝の即位以来、約百五十年の間、摂関家は、天皇の外戚、外祖父の地位を独占してきました。しかし、今の関白様には、皇家の外孫が生まれていません。そして、現在の皇太弟、尊仁親王の母は、陽明門院ですから、尊仁親王が即位すれば、宇多の帝以来、百五十年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が即位することになります。
その時、藤原氏が摂関の地位に就くことなく、尊仁親王の親政が実現すれば、この国は、摂関家の専横の呪縛から、解き放たれるのではないでしょうか?
しかし、関白の頼通様と右大臣の教通様は、尊仁親王が皇太弟の位を辞退するように、陰に陽に圧力をかけていると言われています。今は、かって道長公が、小一条院様に圧力をかけ、皇太子の地位を辞退させたように、尊仁親王が圧迫に耐えかねて、皇太弟の地位を辞退せぬことを祈るばかりです。」
「守るべきは、尊仁親王ということか・・・」
「さすがじゃな。よいか、頼義、これが政治というものじゃ。」
頼信の言葉に、頼義は、目から鱗が落ちた思いで、大江の父子を見つめた。頼義は、今日まで、藤原摂関家の専横を抑えるためには、武力によって、摂関家をその地位から引きずり降ろすしかないと考えていた。東国の武士団を率い、摂関家を朝廷より駆逐し、一君万民思想の下、天皇親政を実現する。
それが、この国から腐敗を一掃する唯一の道であると信じていた。しかし、今、成衡と匡房が、武力以外の方法で摂関家からその正統性を奪う方法を披露したのを聞き、目の覚める思いであった。
「政治とは、自らの理想に正統性を与えることで、衆目の賛同を得、権力を握って実現することなのです。」
成衡と匡房の言葉は、無論、この父子が独創的に生み出した思想ではない。無念の死を遂げ、怨霊と化した菅原道真以来、藤原氏に苦渋を味あわされ続けた、学者の家の菅原・大江両氏が、待ち望んだ世であった。
「しかし、天皇親政が実現すれば、本当に、今のこの国の矛盾は無くなるのであろうか?国司は、国庫の富の収奪を止め、群盗は、おとなしく良民に戻るのであろうか?」
頼国の問いに、一同は、再び沈黙した。頼国は、上野・美濃・三河の東国三カ国に加え、備前・摂津・但馬・伯耆・讃岐・紀伊の畿内・西国の受領を歴任し、頼信以上に、諸国の実状をつぶさに見てきた。そして、京においては、文人として、様々な公家や受領層との交流を深めてきた。
「今の律令制度の下では、京の公家が、国司に任命されて地方に赴任するか、遥任して代官を派遣しておる。しかし、公家達は、地方の実情など、まるで理解しておらんのじゃ。ただ、決められた租税を徴集するだけで、その国の民が、何を考え、何を求めているかなど、考えたこともないであろう。
もっとも、わずか四年の任期の間に、一国の民の気持ちを理解することなど、到底不可能であろう。藤原氏を排斥し、天皇親政が実現したところで、その状況が変化するとは、とても思えぬ。」
頼国の言葉は、頼義、そして、大江氏の父子の胸に、重くのしかかった。
「私が、口を挟むことではないかもしれませぬが・・・。」
今まで沈黙を守ってきた直方が、遠慮がちに口を開いた。
「我が石田の一族は、始祖の平将軍以来、坂東の地に多くの所領を有しながらも、摂関家に臣従し、官位を得ることで、朝廷の権威を借りて、坂東の民を支配しようとしてきました。私の父、維時などは、まさにその典型で、その目は京にばかり向いており、自らが治める民の気持ちを省みることなど、一度として無かったでしょう。
対して、村岡の一族は、百年前の将門公のように、常に、京よりも、坂東の民に目を向けておりました。民と共に汗を流し、田畑を開拓し、群盗からその田畑を守り抜く。否、群盗のみならず、京の朝廷が派遣する、受領の悪政からも、民を守ろうと戦っておりました。彼等は、この百年、民と共に生きてきたのです。
今にして思えば、村岡の一族が、この百年の間に、坂東全域に所領を拡大したのに対し、我等、石田の一族が所領を失い、衰退の途を歩んできたのは、足下の民を全く省みていなかったからではないかと気付きました。
私が、忠常追討の還付を朝廷より得ながら、追討に失敗したのも、忠常が、坂東の民の間で、絶大な人気を誇っていたためでしょう。頼信様が忠常を降伏させた後も、村岡の一族の人気は衰えることなく、坂東の大地に根を張っております。
諸国の良民達が求めているのは、天皇の神格や朝廷の権威などではなく、自分達と共に田畑を耕し、自分達のために戦ってくれる、在地の指導者ではないのでしょうか?」
直方の言葉は、坂東の大地において、忠常と戦い、忠常に敗北した者のみが口にできる、一つの真実を含んでいた。
「しかし、それでは、行政の単位は細分化されて、この国はバラバラになり、律令制導入前の、豪族が割拠する乱世に逆戻りしてしまうでしょう。」
成衡は、直方の言葉に一縷の真理を認めながらも、律令制度の中枢の学者として、反論せずにはいられなかった。
「では、その指導者達を束ね、彼等を導く存在がいたらどうでしょう?」
一同は、一斉にその声の主に目を向けた。その言葉を発したのは、今まで姿勢を正したまま黙していた、義家であった。
「今、坂東の大地で、民と共に汗を流し、田畑を開墾して指導し、彼等のために戦っているのは武家。その武家同士の対立によって、乱が起こるのです。しかし、この日の本の国の武家達を束ね、武家の間の争いを調停し、全ての武家が心から臣従する存在、武家の棟梁が誕生すれば、この国は、新しく生まれ変わるのではないでしょうか。」
「武家の棟梁・・・」
今度は、十歳の神童の言葉に、一同が驚愕する番であった。
確かに、過去にも、棟梁と呼ばれる存在はいた。直方は平氏の棟梁を自称していたし、頼信・頼義は、東国では、源氏の棟梁と呼ばれていた。対して、京において源氏の棟梁と呼ばれるのは、源氏の嫡流である頼国であった。最近では、その本拠地の名を冠し、摂津源氏の棟梁、河内源氏の棟梁と呼ばれ始めている。
そして、河内源氏の棟梁、頼信・頼義には、三浦為通・鎌倉章名・平将常・秩父武基・豊島武常・小山田武任・平常将・多気繁幹等、数多の武家が名簿を捧げて臣従し、彼等の一人一人にも、更に多くの武家達が、家人として名簿を捧げていた。
しかし、源氏の郎党達が、頼信・頼義父子に名簿を捧げているのは、彼等の武芸に感嘆しているためだけではない。寧ろ、本質的な理由は、京の摂関家と太い繋がりを持つ、頼信・頼義と結び付くことで、朝廷の官位を得るためであった。
摂関家・源氏・東国武士・東国武士の家人という多重構造は、支配構造というよりは、派閥という呼び方が相応しい。朝廷のために働くことで、源氏は摂関家から恩賞を得、その恩賞を東国武士に与え、その東国武士が、更に家人に与えるという、朝廷から恩賞を引き出すための派閥構造であった。
つまり、現在、頼信・頼義が東国の武家達を傘下に治めている構造は、朝廷とその恩賞があってこそ成立する仕組みであって、朝廷に代わり得る組織ではない。
義家の発した「武家の棟梁」という言葉は、現在の律令制の枠組みを越えた、武家の、武家による、武家のための政治を感じさせる、新しい息吹であった。
そして、その息吹こそが、最早、日の本に生きる民の心とはかけ離れてしまった、この国の支配体制を根本から覆す、新しい国のかたちになるのではないだろうか。
そして、その新しい国の頂点に君臨する、武家の棟梁には、源氏と平氏の血を引き、八幡神の生まれ変わりである、義家こそが相応しいのではあるまいか。
「武家の神童と、学者の神童か・・・」
頼信は、病の床において、十歳の義家と、八歳の匡房の顔を、代わる代わる見つめた。時代は変わりつつある。そして、この二人の少年は、文武各々の領域において、新しい世界を切り開く、次の時代の先駆者となるであろう。
「これで、わしも安心して逝ける・・・」
頼信は、静かに目を閉じた。頼信の予想通り、義家と匡房は、長ずるに及んで、義家は武家の棟梁に、匡房は、後三条天皇(尊仁親王)と白河天皇の近臣となって、新しい時代、院政の世を切り開いた。そして、義家の五世孫の源頼朝と、匡房の五世孫の大江広元が、律令国家に代わり得る、この国の新しい形、鎌倉幕府を草創するのである。
その数日後、永承三年(1048年)六月一日、源頼信は、帰らぬ人となった。
享年八十一歳。河内源氏の磐石な基盤は、長男の頼義に受け継がれた。
同年七月。祖父の葬式を終えると、源義家は、かねてからの誓い通り、九州の豊前国宇佐郡に向けて旅立った。弓矢の神と呼ばれる、宇佐八幡宮において、宇佐派の弓術を会得するためである。義家に同行したのは、守役の大宅光任・光房父子と、武芸指南役の藤原景季であった。
一行が向かう宇佐八幡宮は、長暦三年(1039年)、「己卯年七月五日に生まれた男子こそ、武神、八幡神の生まれ変わりである」との神託を降した。寛徳元年(1044年)、その神託は、頼信・頼義父子に伝えられ、父子は、義家を、京の石清水八幡宮において元服させた。そして、神託に従い、義家が十歳になった時に、宇佐八幡宮を訪れ、宇佐派の弓術を会得することを誓った。
宇佐八幡宮には、八幡神と呼ばれる、誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・比咩大神の三神が祭られている。特に、応神天皇は、皇祖神であり、かつ、弓矢八幡と呼ばれ、弓矢の神として称えられている。
上古の時代から、宇佐八幡宮には、宇佐派と呼ばれる、鹿島派・諏訪派を凌ぐ、日本最強の弓術が伝承されていると噂されてきた。しかし、現実には、応神帝以降、宇佐派の奥義を会得できる人物は現れず、宇佐派の門弟として世に出た武将は存在していない。
故に、宇佐派の弓術は、門外不出の秘伝とされ、宇佐八幡宮の神人にのみがその技を継承し、その一切が謎に包まれていた。
義家一行は、摂津国の住吉大社において航海の無事を祈願した後、住吉津から船を出し、難波津を経由して、瀬戸内海へ出た。古来、遣唐使が、遠く唐の国を目指して船出した経路である。京、河内の香炉峰、そして坂東の往復の中で育った義家にとって、船の旅は初めての経験であった。
瀬戸内の海は、穏やかで、激しい雷雨に遭うこともなく、一行は、無事に豊前国三毛郡に到着し、陸路、宇佐郡に入った。宇佐八幡宮は、宇佐神宮とも呼ばれ、本殿は、小椋山の丘の上に立ち並んでいる。寄藻川の神橋を渡った一行は、大鳥居の前で、宇佐大宮司家の公忠の出迎えを受けた。
当代の宇佐大宮司、宇佐公忠は、神武東征神話に登場する菟狭津彦から数えて、二十八代目の後裔と言われている。もっとも、宇佐大宮司職は、宇佐氏が独占してきたわけではない。六世紀の欽明天皇の時代、宇佐氏に代わり、朝廷から派遣された大神比義が宇佐大宮司の座に就任した。しかし、代を重ねる内に、大神氏は、宇佐八幡宮の祝職を世襲し、大宮司の座を宇佐氏に譲った。
大鳥居の前で出迎えた公忠は、一行を一之殿に案内すると、義家一人を伴って、一之殿へ入った。神社特有の冷え切った空気が、義家の全身を包む。義家は、何か霊的な存在を感じ、全身の隅々まで、力が染み渡っていくような気がした。
一之殿の遥か奥、前方に御簾がかかっているのが見える。公忠が、膝を着いて御簾を上げると、奥に広間があった。その中央には、台座が立っている。
「これは・・・」
台座の上には、巨大な弓が設置されていた。長さは、九尺はあろうか。その傍らには、一筒の巻物が置かれている。
「この弓が、先祖代々、この宇佐八幡宮に伝わる、ご神体の品陀弓です。神代の時代、弓矢の神、応神帝が使用した弓であると伝えられております。貴殿が、八幡神の生まれ変わりであるとの神託を下したのは、このホムダ弓なのです。
長暦三年(1039年)、己卯の年、七月五日の夜、宇佐八幡宮の境内に、弓弦の音色が響き渡りました。調べてみると、音色の源は、このホムダ弓であることがわかりました。当時、大宮司職に就いたばかりの私は、八幡神に問いました。そして、己卯の年、七月五日の夜に生まれた者こそが、八幡神の生まれ変わりであるとの、神託を得たのです。宇佐・石清水の神人が探した結果、河内国の香炉峰において、源氏の御曹司が、同日に生まれたことがわかりました。傍らにある巻物には、宇佐派の奥義が記されております。ご承知の通り、応神帝以降、宇佐派の奥義を会得できた人物は、一人も存在しません。宇佐派の弓術の基本のみが、この公忠をはじめ、当社の神人達に受け継がれております。
しかし、八幡神の生まれ変わりである貴殿には、宇佐派の奥義を会得できるはずです。そして、宇佐派の奥義を窮めた時こそ、貴殿は、応神天皇以来の、このホムダ弓の主となることができるのです。」
義家は、何かに取り憑かれたように、ホムダ弓に向かって両手を伸ばした。その時の義家は、まるで、自分の腕ではないような錯覚に囚われていた。義家は、弓を手に取ると、矢をつがえぬまま構えを取り、弦を引こうとした。しかし、弦は、ピクリとも動かない。おそらく、七人張はあろう。日本一の弓取りと謳われる、父の頼義でさえ、この弓を引くことは不可能に違いない。
「裏手の大尾山に、上古の時代の修練場があります。貴殿には、そこで、当社の神人達が、宇佐派の弓術の基本を伝授いたします。その後は、この奥義書に記された神技を会得できるように、自分自身で修練していただきたい。ホムダ弓を自在に操ることができるようになった時が、奥義を会得する時でしょう。そして、その時、貴殿は、まぎれもなく、天下第一の武勇の士になるのです。」
公忠に言われるまでもなかった。ホムダ弓に魅せられた義家は、八幡太郎の名にかけて、必ず、この弓を自在に使いこなせるようになることを、八幡神に誓った。
後世、武門の神として、そして、武家の棟梁として、日本全土の武家の尊崇を集める、八幡太郎義家の伝説は、ここに始まる。