第二話「八幡太郎義家」
長元四年(1031年)六月、追討使兼甲斐守源頼信は、降伏した平忠常を伴い、東山道を西上し、一路、京を目指していた。一行の総数は、凡そ五十名。頼信とその郎党の他に、頼信の長男で相模守の頼義とその郎党、忠常の息子の常将・常近、そして念仁である。六月六日、一行は、美濃国不破郡に入り、野上の地で野営した。
美濃国不破郡は、京を中心とした畿内と東海道・東山道を結ぶ、交通の要衝であり、古来、東山道の不破関が置かれていた。不破関は、東海道の鈴鹿関(伊勢国)・北陸道の相坂関(近江国)と共に三関と呼ばれ、東国の叛乱勢力の畿内への侵入を防ぐ、戦略的要衝の地であった。
野上で野営の準備をした頼信は、頼義・忠常・常将・常近・念仁を招き、夕餉を共にした。忠常・常将・常近の父子は、降伏した捕虜であるが、縄で繋がれることなく、行動は、半ば自由であった。縄で拘束されていないのは、それだけ、頼信が、忠常を信頼している証である。
頼信は、追討使に任官した後、忠常に降伏を勧める書状を送った。その際に、頼信が提示した条件は、息子の常将・常近は、謀反の罪に連座しない、ということであった。さすがに、安房国衙を襲撃し、安房守を焼き殺した忠常本人は、無罪放免というわけにはいかない。忠常自身、そのことは重々承知していた。忠常は、頼信の厚意に感謝し、私君の言葉を信じ、素直に降伏したのである。
「房総三国の民が飢餓に苦しむ中、伊志見山には食料が豊富で、飢えた民がそなたの陣営に続々と集まったと聞くが、誠か?」
頼信の問いに、忠常・常将・常近の父子は顔を見合わせた。四月二十八日、甲斐国衙にて降伏した忠常に対し、頼信は、度々、叛乱の詳細を詰問した。忠常の回答から、頼信は、この四年に及ぶ叛乱の全容を掴みつつあったが、どうしても判明しない、最大の謎が残されていた。それは、忠常が、どのようにして兵糧を確保したかである。
叛乱の中心地の上総国は、作田が、四年前の二万二千町から、わずかに十八町にまで激減した。上総国の実に九割九分の作田が、四年に及ぶ戦乱によって焼失したのである。無論、被害は上総国だけではない。坂東の被害の最大の原因は、忠常の叛乱軍ではなく、直方率いる朝廷軍の焦土作戦と、兵糧の調達の名を借りた、大規模な収奪であった。
一方、坂東の民からの信頼を最も重視していた忠常は、朝廷軍と異なり、兵糧の調達を一切行わなかった。それでも、忠常の手元には、兵糧が豊富にあった。
「それは・・・」
頼信の問いに、忠常は口籠った。「またか。」と頼義は呟いた。頼信の追討使任官と同時に、無条件で降伏し、あらゆる尋問に素直に答えてきた忠常も、この問いにだけは、頑として答えなかった。忠常が誰かを庇っているのは明白である。忠常は、兵糧を調達してくれた支援者に、謀反の罪が連座するのを恐れているのであろう。
「忠常。自分を支援してくれた者を、庇いたい気持ちはわかる。しかしな、わしは、そなたが降伏して、罪を認める代わりに、そなたの息子を含め、与同した者達の罪は問わないと、関白様の内諾を得ている。兵糧を送ったぐらいで、連座することはあるまい。」
頼信には、焦りがあった。頼信は、忠常の与同者達に恩義を売るために、罪を問わないことを約束した。その目的は、忠常降伏後の坂東の安定と、源氏による坂東支配を実現するためである。しかし、それはあくまで、忠常が、素直に朝廷の詮議に応じ、叛乱の全容を公にすることが、大前提である。
「そなたが、頑なにその支援者を匿い続けるのであれば、朝廷の詮議は、一段と厳しさを増すであろう。その場合、そなたは降伏を認められず、罪人として処断される可能性がある。罪人となれば、寧ろ、そなたの支援者は、連座して罪を問われかねぬ。」
頼信は、忠常の叛乱に連座する者が現れた場合、叛乱が再燃することを恐れていた。
「いや・・・。私がその名を告げれば、必ず、大乱が起こりまする。その乱は、私如きのように、房総三国を亡国せしめた程度ではすみませぬ。この国を二分するような、巨大な内乱に発展するでしょう。私は、この国の安定のためにも、決して、その名を告げるわけには参りませぬ。」
忠常は、何かを恐れるように、慎重に言葉を選んでいた。頼信には、忠常が、決して言い逃れをしているわけではないことを悟った。
「つまり、その支援者は、そなた以上の勢力を有しているというのか?」
「私如きとは、比較にならないほど、強大な勢力です。そして、朝廷は、その名を知れば、必ず、討伐の兵を差し向けるでしょう。失礼ながら、その奔流は、甲斐守様でさえ、押し留めることはできますまい。」
「そんな勢力が、この国にあるのか・・・」
頼信は、忠常の言葉を、俄かに信じることはできなかった。②
その夜。丑三時を過ぎた頃であろうか。頼義は、本能的に危険を察知して跳ね起きると、傍らに立て掛けてあった刀を手にした。野営地の周辺を、無数の松明が取り囲み、六名の見張りが周囲を警戒している。
「どうした?」
頼義の気配を感じたのか、頼信が寝所の天幕から起き上がってきた。同様に、刀を手にした佐伯経範・藤原景通が、何かを警戒するように、頼義の傍らに立った。
「いや、何か、殺気のようなものを感じたので・・・。」
頼義は、景通に命じて、六名の見張り番に、異常は無いか、聞いて周らせた。
「取り越し苦労だと良いのですが。」
景通は、頼義の許へ戻ると、見張り番からは、特に異常は無かったとの回答を得た旨を報告した。野営地の範囲は、さほど広いわけではない。五十名近くの武家が密集しているのだ。異常があれば、誰かが察知しているはずであった。
その時であった。忠常の寝所から、「父上!父上!」と叫ぶ、常将の声が響いた。頼信と頼義は、その声を聞くと、すぐに忠常の天幕に入った。
「父上!父上!」
常将・常近・念仁が、忠常を取り囲むように座っている。中心にいる忠常は、目を見開いたまま横たわり、常将がいくら揺さぶっても、まったく動かなかった。
「まさか・・・?」
瞬間、頼信は忠常の許へ駆け寄ると、首筋に指を当てた。脈がない。間違いない。
「死んでいる・・・。」
頼信は、信じられないものを見るように、忠常の相貌を凝視した。つい数時間前、夕餉の時までは生きていたのである。健康状態に不安があるようにも見えなかった。
「殺されたのでは・・・?」
佐伯経範が、忠常の上衣を脱がして、死体を検分した。目立った外傷はないようだ。しかし、背中を調べた瞬間、「これは・・・?」と呟いて、手を止めた。背中の左胸の辺り、つまり、心臓の真裏の辺りに、皮膚が陥没したような痕があった。すかさず、経範は、その痕に指を当てた。
「皮膚だけではありませぬ。骨が陥没しております。」
経範は、理解に苦しむように首を捻ると、忠常の死体を、静かに地面に横たえた。
「死因は、その陥没か?」
「おそらくは、心の蔵を狙ったのでしょう・・・。」
経範は、頼義の問いに答えたが、経範にも確証があるわけではない。
「して、何があった?そなたら、父と一緒だったのでは?」
頼信は、父の遺体の前で涙を流す、死者の三人の息子に問いただした。
「はい。我等は、父上と一緒に、この寝所で寝ておりました。つい先程、人の気配を感じ、私と常近が起きた時には、既に、父上は亡くなっておりました。誰かが立ち去るような音がしましたが、あまりにも微かな物音で、確証はありません。」
常将の言葉に、常近と念仁は、同意して頷いた。
「忠常を暗殺したのか・・・?しかし、誰が、何のために、どうやって?」
頼信の問いは、誰かに向けて発せられたというより、自問自答であった。頼信は、忠常の遺体を裏返し、もう一度、背中の傷痕を見た。どこかで見たことがあるような・・・。
「まさか・・・。夜叉・・・。」
頼信の顔が、瞬時に青ざめた。頼義は、冷静沈着な父が、これほど驚愕した顔を、今までに見たことがなかった。
「父上。心当たりがあるのですか?夜叉とは?」
頼義の問いに、その場にいた全員が、一斉に頼信に顔を向けた。
「いや。わしとて、この目で見たわけではない。兄の頼光から聞いた話だ。かって、我が兄、頼光が、大江山の酒呑童子を退治したことは知っているな。」
「はい。この国の民で、知らぬ者はいないでしょう。」
「兄上は、酒呑童子を捕らえた後、朝廷の詮議を受けさせるため、京へ護送しようとした。しかし、京へ向かう途上の野営中に、酒呑童子は謎の死を遂げた。童子が最後に残した言葉が、夜叉だったという。そして、酒呑童子の背中には、その遺体と同じ、心臓の真裏の骨が、陥没した痕があったそうだ。」
「酒呑童子は、頼光様と、四天王によって殺されたのでは・・・?」
経範が、口を挟んだ。その問いは、その場にいる全員の問いでもあった。
「実際には、一度は捕らえた酒呑童子を暗殺されたのだ。しかし、その遺体と同じく、外傷はその傷痕だけ。死因の説明は不可能だ。そこで、兄上は、戦いの最中、酒呑童の心の臓を突き刺し、殺したことにしたのだ。」
この国の童までもが知っている伝承の、意外な真実であった。
「忠常に恨みを持つ、坂東の武家の仕業でしょうか?」
「いや。坂東の武家には、このような技を使える者はおらん。鹿島派にも諏訪派にも、このような技はない。これは、武術とは別の、暗殺術であろう。常将に常近、それにわしらが無事だったところをみると、最初から、忠常一人の命を狙ったのだろう。」
その時、頼信は、何かに気づいたように、常将と常近に向き直った。
「そなたたちは、父から、兵糧を調達してくれた支援者について、何か聞いているか?」
突然、頼信が話題を変えた。常将と常近は、少々、面食らったように、顔を見合わせ、
「申し訳ございませぬ。我等が知っているのは、兵糧が、船で運ばれてきたということだけです。ただ、その船まで、兵糧を受け取りにいった者の話では、船に乗っていたのは、蝦夷ではないかとのことでした。」
常将は、懸命に微かな記憶を辿りながら、答えを見つけようとした。
「蝦夷か・・・。やはり・・・。」
頼信は、全てを理解したような表情を見せた。
「父上、何がやはりなのですか?」
「よいか、頼義。頼光が退治した、大江山の酒呑童子や土蜘蛛の正体は、その多くは、蝦夷なのだ。古来、朝廷は、皇家にまつろわぬものどもを、鬼と呼び、妖怪と呼んだ。そして、兄上が、話してくれたことがあった。畿内や西国、坂東の鬼どもは、おそらく、北方の蝦夷の支援を受けていた。酒呑童子を捕らえた時、蝦夷達は、童子を支援した事実を隠蔽するため、朝廷の詮議を受ける前に、奴を暗殺したのだ。謂わば、口封じのためだ。」
「北方の蝦夷・・・」
その場にいる誰もが、頼信の話に息を呑んだ。言い知れぬ緊迫感が、周囲を包み込む。
「そうだ。北方、つまり、奥州の蝦夷だ。忠常に兵糧を送ったのは、おそらく、奥州の蝦夷であろう。忠常は、口封じのために殺されたのだ。さすがの朝廷も、忠常の支援者が蝦夷であれば、その罪を不問にすることはあり得ない。さすれば、忠常の言う通り、坂東の叛乱とは比較にならない、奥州の大乱がこの国を襲う。」
頼義は、否、その場にいる全員が、頼信の話に戦慄した。
奥州の蝦夷は、大和朝廷の建国以来、皇家にとって最大の敵であった。二百年程前、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂は、蝦夷の酋長アテルイ・モレと熾烈な戦いを繰り広げ、辛くも勝利を収めた。そして、奥六郡の胆沢の地に胆沢城を建て、鎮守府を設置した。
鎮守府の設置によって、表面的には、蝦夷は朝廷に服属した。しかし、奥州は、朝廷にとって、その北限が不明なままの謎の大地であった。奥州の更に先には、渡島と呼ばれる、巨大な大地があると言う。そして、奥六郡以北には、どの程度の数の蝦夷がいるのか、その一切が謎に包まれたままであった。
「では、父上を暗殺した夜叉とは、奥州の蝦夷なのですね?」
「おそらく・・・な。」
常将の問いに返事をしたものの、頼信には確証が持てなかった。
「どのみち、忠常が死んだ以上、忠常の支援者の正体は、永遠に謎になった。この傷痕だけでは、忠常が口封じのために暗殺された証拠にはなるまい。朝廷には、忠常は、病死したと報告するしかない。酒呑童子の時と同じじゃ!」
頼信は、悔しそうな表情を見せ、拳で地面を叩いた。そして、ゆっくりと立ち上がると、秘密を抱えたまま死に臨んだ忠常の遺体に、両手を合わせた。その場にいる全員が、一斉に忠常の遺体に合掌する。
こうして、四年に及んだ平忠常の乱は、本人の謎の死によって、唐突に終わりを告げた。京へ運ばれた忠常の遺体は、首を刎ねられ、一度は、晒し首になった。しかし、降人を晒し首にすべきではないという頼信の嘆願を、忠常の私君であった内大臣藤原教通が受け入れ、忠常の首は、息子の常将の手に戻された。
常将・常近をはじめとする忠常の一族、そして、忠常を支援した坂東の武家の悉くが、その罪を不問とされ、坂東に平穏が訪れた。翌年、長元五年(1032年)二月八日、源頼信は、平忠常の乱を平定した功績により、甲斐守から美濃守に転任している。
五年後。長元九年(1036年)十月十四日、秋の除目において、源頼信は、相模守に任官した。頼義の相模守の任期満了時から、既に、四年が過ぎている。その四年の間に、頼義は、坂東諸国の郎党の邸宅を訪れ、父の頼信ではなく、頼義自身と主従の交わりを結び、源氏による坂東支配を着々と進めた。
相模国三浦郡の平為通・章名の兄弟は無論のこと、武蔵平氏の平将常(忠常の弟)、房総平氏の平常将(忠常の長男)、常陸平氏の平為幹、下野の秀郷流藤原氏の藤原頼遠・経清父子、藤原兼行・行高兄弟、相模の秀郷流藤原氏の藤原公光などの名だたる武将達は、源氏の嫡男、頼義の門前に轡を並べた。
この間、相模では、鎌倉郡の平維時と三浦郡の平忠通が死去し、世代交代が進んでいた。鎌倉郡郡司の座は平直方が、三浦郡郡司の座は平為通が、各々、継承した。為通の次男、章名は、頼義の紹介によって、相模大領丸子氏の娘婿に迎えられている。
長元九年。源頼信は、嫡男の頼義と共に、相模国衙に赴任した。
この年、頼信は六十九歳。頼義は四十九歳。天慶の乱以降、一世紀に渡って誣告者と嘲笑された、清和源氏による坂東支配の確立は、目前に迫っていた。
相模国衙に赴任した頼信が最初に呼び出したのは、鎌倉郡郡司平直方であった。相模に入った頼信は、四年前まで、頼義が暮らしていた邸宅に、その身を落ち着けた。頼信は、国衙に入る前に、直方を私邸に呼び出したのである。頼信が直方と対面するのは、京において追討使の引継ぎをして以来、実に五年ぶりの再会であった。
直方は、頼信の私邸の客間に通されると、緊張した面持ちで相模守を待った。その部屋は、五年前、娘の直子が頼義を襲った夜に、聖範と二人、謝罪に訪れた部屋であった。直方は、何故、頼信の私邸に呼び出されたのかわからなかった。鎌倉郡郡司としての職務と関係があるのであれば、国衙に呼び出されるはずである。
「久しぶりじゃな。直方殿。」
頼信は、佐伯経範一人を伴い、客間に入ってきた。直方は、深々と相模守に叩頭する。
「昨年、維時殿が亡くなられたそうだな。」
「その節には、佐伯経範殿と藤原景通殿にお世話になりました。」
直方は、父の葬儀を思い出していた。頼信と頼義は、維時の弓問の使者として、経範と景通を葬儀に参加させた。その葬儀は、一度は坂東に名を馳せた、石田の一族とは思えぬ、寂しい葬儀であった。忠常追討の失敗は、石田の一族の武名を失墜させ、その門客になる者は皆無になった。直方は、この五年の間、鎌倉郡の自領から出ることもなく、蟄居謹慎に等しい生活を送っていた。
「ところで、そなたの娘、直子殿は息災か?」
頼信の唐突な質問に、直方は、「やはり・・・」という表情を見せた。頼信から私邸に招かれた時、直方は、五年前の頼義襲撃事件を思い出していた。あの時、頼義は、笑って不問に付したが、やはり、父としては、息子の命を狙った者を、許してはおけないのであろうか。頼信は、そんな直方の気持ちを、素早く見て取ったのであろう。
「のう。直方殿。娘の直子殿を、我が源氏にくれぬか?」
「それは、命を差し出せ、ということにございますか?」
直方は、床に額を押し付けんばかりに平伏すると、真剣な表情で声を絞り出した。その様子を見た頼信は、思わず、豪快な笑い声を上げた。
「ははは!勘違いするな。わしは、直子殿を、頼義の妻に迎えたいというておるのじゃ」
「はあ??」
頼信の意外な申し出に、直方は、思わず場違いな声を上げてしまった。
「直子を、頼義殿の妻に、でございますか?」
「そうじゃ。」
「お待ち下さいませ。直子は、頼義様のお命を狙った張本人ですぞ。」
直方は混乱していた。そうであろう。どこの世界に、自分の息子の命を狙った女を、こともあろうに、その息子の嫁に迎える父親がいるであろうか?
「のう、直方殿。」
頼信は、直方の気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと語りかけた。
「頼義は、わしの嫡男だが、今年、既に四十九歳。しかし、あの年で、未だに妻がおらぬ。頼義が妻帯していないのは、他でもない。おなごを嫌っておからじゃ。
頼義の母は、わしが常陸介として坂東に赴任中、他の男と寝て、その男の子を生んだ。京の女にはよくあること。わし自身は、そのことで、特に妻を恨んではおらぬ。しかし、潔癖な頼義は、それ以来、母を憎み続け、おなごを寄せ付けなくなったのじゃ。」
「はあ。」
直方は、何とも答えようのなかった。頼義の女嫌いは、直方も知っていた。しかし、ならば尚の事、父親から見ても、女とは思えぬほどの武勇を誇り、男勝りの直子を、頼義が妻に迎えるとは思えない。
「直方殿。五年前、この部屋で、頼義様と対面された時のことを、覚えておられますか?」
今度は、経範が口を挟んだ。経範は、五年前にこの部屋にいた一人である。
「はい。あの折、直子の罪を笑って許してくれた頼義様の男気に、この直方、心底感服いたしました。我が石田の一族が、名簿を捧げるのは、このお方しかおらぬと。」
「この経範は、頼義様のお傍にお仕えして三十余年。頼義様が、あれほどおなごに興味を示したのを初めて見ました。頼義様は、弱く、醜い京の女を嫌っておられる。そして、おなごとは皆、そのような生き物だと思ってこられた。
しかし、直子殿は、京の女とはまるで違う。我等武家の男子と、同様の忠孝の価値観を持っておられる。頼義様は、そのような直子殿に魅かれておるようです。もっとも、御自身で、自分の気持ちには気づかれておりませぬようですが。」
「これは、意外でしたな・・・。私は、直子の父として、この国最強の女などと呼ばれる娘に、縁談などあろうはずはないと諦めておりました。寧ろ、それが幸いし、しかも、お命を狙った張本人との縁談が舞い込むとは。人間の運命とは、わからぬものですな。」
直方は、一気に緊張が解けたように、笑顔を見せた。頼義に名簿を捧げるつもりであった直方にとって、その主君になるはずの男を娘婿に迎えることができるとは、これほどの喜びはないであろう。
「わかりました。直子は、必ず、源氏に嫁がせまする。同時に、我が鎌倉郡の所領は、すべて、婚礼の引き出物として、頼義様に進呈いたしまする。」
直方は、すべてを決意した表情を見せ、頼信に深く叩頭した。頼義を婿にする。この一事に、石田の一族の命運のすべてを賭けたのである。
「何も、そこまでしなくとも・・・。鎌倉の所領を頼義に譲ってしまったら、そなたや、息子の維方殿・聖範殿はどうするつもりなのじゃ。」
直方の意外な申し出に、今度は、頼信が焦る番であった。
「忠常の追討に失敗した時、弓馬の家としての我が一族の武名は失墜し、最早、武家として家を保つのは難しくなりました。聖範は、生来、武家には向いておらず、文官として生きていくつもり故に、何ら問題はございませぬ。伊豆国田方郡北条に領地があります故、食うには困らぬ程度の収入は維持できます。
維方は、どこぞの武家に養子に出すつもりでおります。石田の一族としてでは、武家として生きるのは難しい故、他家の養子となった方が、本人のためにもなります。そうなると、最早、鎌倉の所領は必要なくなります。」
頼信は、直方の言葉が、決して思いつきではないことを悟った。追討使を解任されてから五年の間、ずっと、今後の道を模索していたのであろう。武家の名声は、一度失ってしまえば、二度と取り返しがつかなくなることを、頼信は、改めて実感した。
思えば、清和源氏の一族も、始祖の経基王が誣告者と蔑まれてより、百年の歳月をかけて、武名を取り戻したのである。
「わかった。そちの想い、喜んで受け取ろう。源氏と平氏の婚儀。それも、この国最強の女との結婚じゃ。二人の間に生まれて来る子供は、この国始まって以来の、最強の武勇の士になることは間違いないであろう。」
頼信と直方の胸には、まだ見ぬ、我が孫の姿が去来した。そして、天は、二人の男の期待を裏切らなかった。頼義と直子の間に生まれた、源平の血を引くその子供こそ、本書の主人公、源義家である。
翌年、長暦元年(1037年)の春、相模国鎌倉郡において、源頼義と平直子の婚儀が盛大に執り行われた。婚儀には、坂東の武家のみならず、駿河・遠江・三河・尾張・美濃・信濃・伊勢など、東海道・東山道の武家の悉くが出席し、競って頼義に名簿を捧げた。
この時、婚儀に参列した坂東の主だった武家は、次の通りである。
頼義の河内時代からの郎党、佐伯経範とその息子の経秀・大宅光任・和気致輔・藤原景通、相模の三浦為通(平忠通の息子)・鎌倉章名(為通の弟。相模大領丸子氏の娘婿となって、鎌倉氏を称した)・藤原公光、武蔵の平将常(平忠常の弟)・秩父武基(将常の長男)・豊島武常(将常の次男)・小山田武任(将常の三男)、上総の平常将(忠常の長男)・平常近(忠常の次男)、常陸の平為幹、多気繁幹(為幹の息子)、下野の藤原頼遠・経清(頼遠の長男)、上野の藤原兼行(藤原姓足利氏の祖)・行高(小山氏の祖)である。
上記武家達とその一族は、累代の郎党として源氏に仕え、後世、坂東武士団による、鎌倉幕府樹立の中心的存在となった。
頼義は、義父の直方より、鎌倉郡の所領を譲り受けると、鎌倉郷に巨大な邸宅、鎌倉楯を築いた。その厩には、三百頭以上もの馬を繋ぐことが可能であったと言われる。以後、鎌倉楯は、源氏の坂東支配の拠点となり、その門前には、坂東の武家の悉くが、轡を並べて頼義に私的に奉仕した。
直方の長男、維方は、頼信の紹介によって、武蔵平氏の平将常の娘婿になった。将常は、あの忠常の弟であるから、直方の心中は、察するに余りある。将常は、娘婿の維方に、武蔵国の熊谷郷の所領を譲り、維方とその子孫は、熊谷氏を称した。
頼義の懇請によって、直方と次男の聖範は、鎌倉楯に留まった。直方は、頼義の岳父として、また、頼義の在京中時は代官として、源氏の坂東支配を全面的に支援した。次男の聖範は、文官として相模国衙に出仕を続け、後年、伊豆山権現(走山権現)の住職に任じられている。
生涯、妻帯しなかった聖範は、晩年、兄の維方の孫、時方を養子として迎えた。時方は、伊豆国田方郡北条を所領として、北条時方を称した。この北条時方の息子が、後の鎌倉幕府初代執権北条時政であり、時政の娘が、源頼朝の妻、北条政子である。
歴史の歯車は、既に、頼義の時代より動き始めていた。頼義の六世孫の源頼朝と、直方の六世孫の北条政子が、世代を越えて巡り合い、再び、夫婦として結ばれ、日本史上最初の武家政権、鎌倉幕府を草創するのである。
相模国大住郡波多野郷の領主、藤原公光は、源氏との繋がりを深めるため、頼義の股肱の臣、佐伯経範の長男、経秀を娘婿に迎え、波多野郷を譲った。経秀は、後に波多野経秀を称し、父の佐伯経範も、死後、波多野氏の始祖として、波多野経範と呼ばれるようになる。波多野氏は、累代の郎党として源氏に仕え、経秀の四世孫、義通の娘は、源義朝の次男、朝長を生んでいる。朝長は、源頼朝のすぐ上の兄であった。
上記の通り、三浦氏・鎌倉氏・北条氏・熊谷氏・秩父氏・豊島氏・小山田氏・上総氏・千葉氏・小山氏など、後世、鎌倉幕府草創の中核的となった御家人の一族は、頼信・頼義父子の坂東支配の確立と同時に、累代の郎党として源氏に仕えるようになった。
しかし、長元の乱(平忠常の乱)は、源氏とその郎党達にとって、序章に過ぎなかった。鎌倉幕府の草創に至る、約百五十年に及ぶ苦難の歴史は、まだ、開幕したばかりであった。この後、源頼義・義家父子に率いられ、二度の奥州大乱を戦い抜くことで、源氏の主従は、血よりも固い絆で結ばれ、源氏神話の世界に生きるのである。
長暦二年(1038年)の冬、頼義は、妻の直子を伴い帰京した。京に短期間滞在した後、頼義と直子は、河内国石川群壷井の香炉峰の邸宅に入った。そして、香炉峰において、もう一度、婚礼の儀を行ったのである。今度は、河内国の郎党をはじめ、隣国の摂津源氏・大和源氏など、源氏一門を招いての婚儀であった。
頼義は、源氏一門と郎党達に、直子を自身の唯一の正妻として披露したのである。河内での婚儀に参列した武家は、次の通りである。摂津源氏の源頼国・頼家の兄弟、頼国の息子の頼資・頼実・実国・頼綱。大和源氏の源頼房・頼遠。他に、嵯峨源氏の源貞清、村上源氏の源親季、藤原頼清・茂頼父子である。
翌年、長暦三年(1039年)七月五日、香炉峰の邸宅において、頼義と直子の間に、待望の男子が生まれた。幼名は不動丸。源氏と平氏の血を引く男子の誕生に、日本中の武家達の目が、香炉峰に注がれた。東海道・東山道の諸国をはじめ、遠く坂東に至る武家の悉くが、昼夜を問わずに馬を走らせ、河内国香炉峰の邸宅に祝いに駆けつけた。
不動丸の守役には、頼義の股肱の臣、大宅光任が選ばれた。光任は、この年、三十八歳。光任は、十五歳の時より頼義に仕え、佐伯経範・藤原景通・和気致輔と並び、頼義の信任の最も篤い郎党であった。光任が源氏の御曹司の守役に任命されたことは、源氏の郎党達に、嫉妬と羨望の念を抱かせた。
誰の胸にも、予感と期待があった。それは、源頼信と平直方が、そして、頼義と直子が、夫婦になった時から、抱いた夢でもあった。二人の間に生まれてきた男子は、将来、この日の本の国、全ての武家の頂点に立つ男になると。
その噂は、最早、予感や期待ではなく、予言となって、日本全土を駆け巡ったのである。そして、この不動丸こそが、本書の主人公、「武家の棟梁」源義家である。
長久二年(1041年)、源頼義は、小一条院の判官代に任官した。前年には、次男の仁王丸(後の義綱)が生まれ、源氏の未来は、まさに順風満帆であった。そして、この小一条院判官代への任官が、頼義の運命、否、思想を根本的に変えてしまったと言って良い。小一条院との出会いは、源氏一門の命運を左右する、大きな転換点となった。
小一条院とは、三条天皇の第一皇子、敦明親王のことである。藤原北家の師尹の次男、済時の娘、皇后藤原娍子を母とする敦明親王は、父の三条天皇の退位後、皇太子敦成親王の即位に伴い、立太子した。父の三条天皇は、在位中から、敦明親王を皇太子とすることを望んでいたが、藤原道長と対立した三条天皇は、道長の圧力に屈して、一条天皇の第二皇子で、道長の娘の彰子を母とする、敦成親王を皇太子とした。
そして、三条天皇は、長和五年(1016年)、敦明親王を、敦成親王の皇太子とすることを条件に退位。敦明親王が、後一条天皇として即位する。
後一条天皇は、寛弘五年(1008年)の生まれであるから、長和(1016年)の即位時には、まだ九歳。一方、正暦五年(994年)生まれの敦明親王は、立太子の年、既に二十三歳。天皇より、十四歳年上の皇太子が誕生したのである。
翌年の寛仁元年(1017年)六月五日、三条上皇が崩御すると、道長は、後一条天皇の同母弟、敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太弟にすることを望み、今度は、敦明親王に圧力をかけた。そして、二ヵ月後の八月九日、敦明親王は、自ら皇太子の廃位を願い出て、皇太子を辞退したのである。
自らの野望の実現のために、敦明親王を廃太子に追いやった道長は、さすがに罪の意識を感じたのか、八月二十五日、敦明親王に小一条院太上天皇の尊号を贈り、準太上天皇の資格を与えた。同時に、道長は、娘の寛子を敦明親王の妃に入れ、敦明親王の王子達を、二世王でありながら、親王宣下するなど、破格の厚遇を与えた。道長は、敦明親王が、反道長派の勢力に利用されることを恐れたのであろう。
一方、敦明親王の正室、藤原延子は、悲しみの余り急死。延子の父で、関白藤原兼通の長男、左大臣藤原顕光も、失意の内に病没した。
源頼義が、小一条院判官代に任官した長久二年(1041年)、敦明親王は、既に四十八歳。皇位は、後一条天皇の皇太弟、後朱雀天皇が継承していた。もし、皇太子を辞退していなければ、敦明親王の御世であったことは間違いない。
敦明親王を廃太子に追いやった道長は、既にこの世に亡い。しかし、敦明親王の心には、藤原摂関家に対する、青い怨念の炎が燻り続けていた。
判官代とは、上皇や女院の家政機関である、院司の次官のことで、主に、五位・六位の中級貴族が任官した。小一条院は、即位こそしていないが、準太上天皇扱いであったから、上皇と同様、院司が設置されたのである。なお、院司の長官を院別当、次官を判官代、その下にあって雑務を行う役職を、院主典代と呼ぶ。
小一条院判官代は、源氏との縁が深く、過去には、摂津源氏の源頼国(頼光の長男)の長男、頼弘が任官していた。小一条院は、言うなれば、既に政治生命を絶たれた存在であり、院に奉仕しても、政治的に得るものは少ない。しかし、頼義は、薄幸の皇子に、誠心誠意仕えた。
小一条院は、皇族の中では、珍しく狩猟を好み、従者を連れて、頻繁に京近郊の山野に出かけた。生来、丈夫な体ではなかった院は、非力であった故に、一人張りの小弓しか引くことができない。小弓で仕留めることができるのは、兎程度の小動物のみで、鹿などの大型動物を仕留めることは無理である。
一方、既に、日本一の弓取りの名声を得ていた頼義は、八人張りの強弓を引ける猛将である。しかし、小弓しか使用できない主の小一条院を憚り、院の前では、頼義も、小弓しか使用しなかったと言われる。院は、そのことに気づいていたが、頼義の優しさを汲み取り、口には出さなかった。
「源氏は、坂東の武家の悉くを、傘下に治めたそうじゃな。」
ある夏の日の狩の最中、自身に影の如く付き従う判官代と馬を並べた小一条院は、おもむろに頼義に話しかけた。
「いえ。坂東の武家は、源氏にではなく、朝廷に忠誠を誓っているに過ぎませぬ。」
唐突な院の問いに、頼義は、話の展開が読めず、模範的な回答を返した。
「そう警戒しなくても良い。何もわしは、そなたを咎めようとしているのではない。世の移り変わりの激しさに感慨を覚えておるのじゃ。摂関家の爪牙と呼ばれ、今は彼等に使われている源氏も、その遠くない内に、摂関家を凌駕する力を持ち、この国の行末を左右するようになるであろう、とな。」
「いえ。そのようなことは・・・」
無い、とは言い切れなかった。祖父の満仲、叔父の頼光、父の頼信と、摂関家に臣従することで財力を蓄え、軍事力を拡大した源氏は、最早、単なる爪と牙のままでいることに飽いていた。そして、数多の東国の武士団を門客とした頼信・頼義父子は、今や、この国に並ぶ者無き軍事力を有していると言って良い。最早、その軍事力は、約百年程前に坂東で独立を宣言した、平将門の比ではない。
「無い、とは言えぬであろう。仮に、源氏が叛乱を起こせば、今や、この国には、それを鎮圧できる軍事力は無い。摂関家も、既に、そのことに気付いておるであろう。
しかし、源氏一門は、いつまで、単なる爪と牙として、摂関家に利用され続ける気なのじゃ。そもそも、源氏は、何を目指しておるのか?わしには、源氏が、己の力を無益に費やしているようにしか思えぬ。」
頼義は、何も答えられなかった。確かに、頼義は、父の頼信と共に、坂東を始め、東国の武家を傘下に治め、武家に新しい秩序をもたらすことに尽力してきた。しかし、その先に、一体、何があるというのだろう。我々は、どこに向かっているのだろう。自問しても、頼義には答えが見付からなかった。そして、彼は、心底、正直者であった。
「わかりませぬ・・・。父は、確かに、この国の有り方がおかしくなっていると申しております。我等受領層は、四年の任期中に、民から絞れるだけの財を絞り取り、その多くは、国庫ではなく、自身の私的財産として収奪し、更に、受領層の任免権を持つ、京の公卿達に貢物として治めております。
謂わば、摂関家を中心に、官位・官職を得た官人達が、国庫の財産を公然と横領していると。そして、我等源氏一門も、その恩恵に預かっている一人なのだと。
父と同様、私も、こんな腐敗した制度が、いつまでも続くとは思えませぬ。しかし、では、どうすれば良いのか、どのような国を目指せば良いのか、我等には、道が全く見えておらぬのです。」
頼義は、苦渋に満ちた表情で答えた。小一条院は、そんな頼義を見て「そなたは、誠に正直者じゃな。」と苦笑した。
院は、律儀で正直者の頼義を、誰よりも信頼していた。そして、東国の武家達が、何故に源氏の門前に轡を並べるのか、その理由を十分に理解していた。
「よいか、判官。我が国は、かって、大伴・物部・佐伯・中臣・土師・葛城・平群・蘇我・紀などの有力豪族に推戴された大王が治める、連合政権であった。」
小一条院が、おもむろに院が語り始めた。
「まだ、大和に朝廷があった頃、天皇は大王と呼ばれ、無数の豪族達の盟主に過ぎず、この国の土地は、全て、大王を含めた豪族の私有地であった。朝廷の役職は、大伴・物部・蘇我等の有力豪族が世襲し、能力よりも血縁が重視されていたのじゃ。
しかし、聖徳太子・天智天皇・天武天皇などの英明な君主は、この国を、天皇を中心とする、中央集権国家に生まれ変わらせようとした。大陸の唐に習い、豪族の土地の私有を廃止し、官職は血縁ではなく、個人の能力によって与える制度を構築しようとした。
それが、律令制じゃ。
一君万民、つまり、全ての土地と民は、天皇を中心とした国家の所有物であり、民は、天皇と国家のために土地を耕し、能力のある個人が、官位・官職を得て、その実力を天皇と国家、そして民のために発揮する。それが、聖徳太子・天智天皇・天武天皇などが描かれた、律令国家の本来の姿じゃ。
ところが、この数百年の間に、この国は、著しく変わってしまった。諸国に荘園が乱立し、この国の土地の多くが、国家のものではなく、公家達の私有地に変わってしまったのだ。官位・官職は実力のある者にではなく、権力者に賄賂を贈った者に与えられるようになってしまった。あまつさえ、藤原氏が官位・官職を独占し、摂関の地位を乱用して、天皇の位ですら、好き勝手に替えるようになってしまったのじゃ!」
頼義は、その言葉に、小一条院の摂関家への積年の恨みを見た気がした。本来、皇位に就くべき存在であった院は、二十四歳で政治生命を絶たれ、長い春秋を過ごしてきた。その間に、この国のあり方、あるべき姿を、すっと模索し続けてきたに違いない。そして、それを実現する力が自分に無いことに、深い憤りを感じていたに違いなかった。
「摂政や関白などという役職は、幼帝や女帝の補佐のために設けられた、臨時の役職に過ぎず、律令の規定には存在しないのじゃ。そもそも、幼い皇子や、皇女が皇位に就かなければ、古のように、皇位を成人皇族に限れば、摂政・関白など必要ない。
しかし、摂関家は、己が朝廷の実権を握り続けるために、外孫を強引に皇位を据え、しかも、敢えて、補佐が必要な幼帝を即位させ続けているのじゃ。更に、その摂関家内部で権力闘争を起こし、権力を奪った者が、自らの外孫を皇位に就けるために、天皇を退位に追い込んでおる。そう、皇位を完全に私物化しているのじゃ!」
それが、誰のことを指しているのか、この国で知らぬ者はいなかった。藤原道長は、己の外孫の後一条天皇・後朱雀天皇を皇位に就けるため、三条天皇に圧力をかけて退位させ、敦明親王を廃太子に追い込んだ。そして、娘の威子を後一条天皇の中宮として、一家三立后を実現した。その時、道長が詠んだ歌が、有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」である。
「傲慢以外の何者でもない。しかも、摂関家は、そこまでして権力を得て、何をしたのじゃ。そもそも、何がしたかったのじゃ。賄賂を寄越す者に官位と官職を与え、国家の財産を収奪させ、そこから更に賄賂を贈って寄越す者に、更なる官位・官力を与える。私腹を肥やすこと以外、何もしておらぬではないか!」
小一条院は、激昂する自分自身を抑えられなかった。心に燻っていた青い炎が、一気に赤い炎となって燃え上がったのであろう。頼義は、黙ってうつむくしかなかった。その道長に仕え、賄賂を贈り続け、現在の官位・官職を得てきたのが、他ならぬ源氏なのだ。
頼義は、今ほど、摂関家の爪牙と呼ばれることを、恥ずかしく思ったことはなかった。そして、摂関家のために戦うことが、この国のために戦うことと同義ではないことを、改めて実感した。どれほど、その武勇を称えられ、東国の武家達が、こぞってその門客に連なろうとも、自分自身も、国家の富を収奪する、腐敗官僚の一人に過ぎないのだ。頼義は、今、己の生き方そのものを恥じていた。
院には、頼義の心境が、手に取るようにわかっていたに違いない。院は、落ち着きを取り戻すと、再び、穏やかな口調で彼に語りかけた。
「よいか、判官。権力とはな、得ること、そのものが目的なのではなく、何を成すために得るのか、その目的こそが重要なのじゃ。源氏は、確かに、せいぜいが四位止まりで、官位・官職は、摂関家と比ぶべきもない。
しかし、摂関家は、この長きに渡るの泰平の世の中で、奢れる余り、大切なことを忘れている。それは、軍事力じゃ。いかに摂関の地位を得ようと、いかに財力を蓄えようと、最終的に権力を支えているものは、軍事力じゃ。そして、源氏は、まさにその軍事力を一手に掌握しておる。今の源氏の軍事力は、将門や忠常の比ではない。」
頼義は、院の口ぶりに、驚きを禁じ得なかった。まさか、頼義に対して、朝廷に謀反を起こせ、という意味なのであろうか?
「しかし、将門も忠常も、最後には、朝廷に敗北いたしました。坂東の軍事力だけでは、津波の様に、次々と押し寄せる朝廷の軍事力に、勝利は不可能であることが、証明されているのではないのでしょうか?」
「そうじゃ。坂東を始め、東国の軍事力だけでは、まだ足りぬのであろう。しかしな、判官。天慶の乱の際の、平良文の噂を聞いたことがあるか?」
「はい。真偽はわかりませぬが、将門に呼応して、奥州において兵を挙げるつもりだったとか?」
「そうじゃ。坂東において、藤原秀郷が、あまりにもあっけなく将門を討ち果たしたために実現しなかったが、良文は、奥州で挙兵して、将門と同盟を結ぶつもりであったと言われておる。坂東の軍事力に、黄金や良馬を産出する奥州の富と、剽悍な蝦夷が叛乱に加われば、間違いなく、摂関家の支配を覆すことができるのじゃ!」
それは、朝廷の苛烈な搾取を受け続け、鬱積した恨みを抱く坂東の民であれば、誰もが一度は抱いたことがある、希望であったに違いない。そして、最早、摂関家に対する憎悪の感情は、諸国の民だけではなく、朝廷内部の、それも、元皇太子までもが抱くほどに、巨大な津波となって、この国を根底から崩そうとしていた。誰かが、最初の火を点ければ、炎は凄まじい勢いで、この国を覆い尽くすに違いない。
「しかし、叛乱に成功した後、この国は、どのような姿になるべきなのでしょうか?」
それは、頼義にとって、最後の問いかけであった。新しい国の姿が見えなければ、叛乱が成功し、権力を得ても、私服を肥やすだけの摂関家と、結局は変わらなくなってしまう。
「本来の律令国家に復するのじゃ。一君万民の思想の下、土地の私有を廃止し、官位・官職を血縁ではなく、能力のある者に与えられる。それが、聖徳太子以来、偉大なる先駆者達が描いた、この国の理想の姿なのじゃ。」
「一君万民・・・奥州・・・」
その二つの言葉は、頼義の胸中に、深く刻み込まれた。小一条院との出会いは、頼義に、源氏の目指すべき道を教えた。この後、頼義は、摂関家に対して面従腹背の姿勢を取ると、虎視眈々と奥州の地を狙い続けることになる。
源頼義が、陸奥守に任官し、奥州へ下向したのは、その年から、九年後、永承七年(1052年)のことである。
寛徳二年(1045年)正月、源頼義の長男、不動丸は、京郊外の石清水八幡宮で、元服の儀を執り行った。石清水八幡宮は、京の南西、男山山頂に鎮座する神社で、延暦寺が京の北東、鬼門を守護するのに対し、南西の裏鬼門を守護する、王城守護の神である。
貞観元年(859年)、空海の弟子、行教が、宇佐八幡宮の神託を受け、翌年の貞観二年(860年)、清和天皇の勅命によって創建された。祭神は、誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・比咩大神。三神合わせて、八幡神と呼ばれる。
八幡神は、応神天皇の神霊とされたことから、皇祖神として位置付けられ、天照大神に次ぐ、皇室の守護神として崇められた。また、平将門と藤原純友による、承平・天慶の乱の際には、乱鎮圧のための調伏が祈願され、見事に乱が平定されたことから、国家鎮護の神としての崇敬が高まっていた。
不動丸は、この年、数えで七歳。当時の元服は、通常、十二歳前後であったから、源氏には、元服を急ぐ事情があったに違いない。おそらく、父の頼義が、既に五十八歳に達していたことと、無縁ではあるまい。頼信も、既に七十八歳。
頼信・頼義父子は、焦燥感に駆られていた。頼義は、最早、老齢の域に達している。不動丸が十二歳になるまで、即ち、あと五年待てば、頼義は、六十三歳に達するため、必ずしも存命しているとは限らない。頼信と頼義が存命中に、不動丸を源氏の後継者として、郎党達と世情に認めさせなければ、二人が築き上げた源氏の権力基盤は瞬く間に瓦解し、源氏の百年に及ぶ努力が、水泡に帰してしまう。
そして、この年、石清水八幡宮で、不動丸の元服の儀が執り行われたのには、もう一つの理由があった。八幡神社の総本社、宇佐八幡宮において、宇佐大宮司の宇佐公忠に神託が降ったのである。即ち、長暦三年(1039年)、己卯年七月五日に生まれた男子こそ、武神、八幡神の生まれ変わりである、と。神託は、石清水八幡宮にも伝えられた。
宇佐・石清水八幡宮の神人達は、五年の歳月を費やし、該当する男子を探した。寛徳元年(1044年)、神託は、石清水八幡宮の神人によって、在京中の頼信・頼義父子に伝えられた。八幡神は、皇祖神応神天皇の神霊であり、弓矢八幡と称され、国家鎮護の神として崇敬されていたから、八幡神の生まれ変わりであることは、武神として、武家の頂点に立つことの証明に他ならない。
頼信と頼義が、いかに、この神託に驚き、喜んだかは、想像に難くない。頼信と頼義だけではない。河内や東国をはじめ、各地の源氏の郎党達の悉くが、宇佐八幡宮の神託に狂喜し、大挙して京に押し寄せると、元服の儀に参列した。坂東からは、祖父の平直方は無論のこと、三浦為通・鎌倉章名・平将常・平常将・多気繁幹・藤原兼行など、有力な郎党達が上京して、不動丸の元服を祝ったのである。
烏帽子親を務めたのは、権大納言兼春宮兼按察使兼右大将藤原頼宗の次男で、当時、参議に列せられていた、藤原俊家であった。頼宗は、藤原道長の次男で、現関白の頼通の弟である。頼宗の娘が、小一条院の妻であったために、院の尽力によって、俊家の烏帽子親が実現したのであろう。
俊家は、この年、二十六歳であったが、官位は、既に、従二位に昇っている。五位の頼義の息子としては、破格の待遇であったことは間違いない。俊家は、後に正二位・右大臣に昇り、中御門流の祖となった。
不動丸は、当時の慣例通り、烏帽子親の名から一字を与えられ、義家と名乗った。同時に、宇佐八幡宮の神託に基づき、石清水八幡宮の宮司より、八幡太郎の称号が授けられた。
ここに、八幡太郎義家が誕生したのである。
なお、不動丸は、元服の折に、石清水八幡宮の神前で、三年後、数えで十歳になった年に、宇佐八幡宮に赴き、宇佐派の門弟に連なる旨、誓いを立てた。宇佐派は、弓矢八幡の名の通り、弓術においては、鹿島派・諏訪派を凌ぎ、日本最強を謳われていた。
宇佐八幡宮の神託が、本当に義家に下されたのかはわからない。しかし、神託を受けた源頼信は、永承元年(1046年)、石清水八幡宮に一通の願文を納めて、過去の勲功を述べた。そして、百年の寿と一家の男女の栄耀富貴を祈願し、八幡神の加護を願った。即ち、石清水八幡宮を、源氏の氏神として信仰することを誓ったのである。
八幡神は、八幡太郎義家の名と共に諸国に広まり、日本全土の武家の信仰の対象となった。その結果、八幡神社は、伊勢・熊野を凌ぐ勢いで拡大し、諸国に勧請された社の数は、一万社とも二万社とも言われる(2011年現在、稲荷神社に次いで、第二位である)。
義家を八幡神の生まれ変わりとした宇佐八幡宮の神託は、その狙い通り、八幡信仰を興隆させることに成功したのである。