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源義家と藤原清衡  作者: Harry
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第一話【平忠常の乱】

第一話「平忠常の乱」


「父上!父上!」

 京、二条冷泉小路の頼信の邸宅に、頼義の声が、大音量で響き渡った。そして、その声と同じくらい大きな、廊下を踏みならす足音が響いてくる。書斎で書物を読んでいた頼信は、息子の声と足音を聞くと、思わず苦笑した。

 庭石に、水の撥ねる音が聞こえる。その日は、朝から雨が降り続いていた。頼信は、例え、雨であれ雪であれ、今日、必ず、息子がこの屋敷を訪れることを確信していた。

約三ヶ月程前、頼信の郎党で、武蔵国の住人、平将常が、頼信宛ての文の中で、近頃入手した、陸奥産の名馬を絶賛していた。頼信は、返書の中で、その名馬を京に曳いて来て欲しいと、将常に無理矢理、頼み込んだ。馬は、「弓馬の家」の名の通り、武家にとって、その実力の象徴とも呼ぶべき、大切な存在である。

 特に、頼信の長男、頼義は、馬に目が無かった。馬を人間の様に愛しみ、愛馬を失った時には、その法要まで営んだ。愛憎の激しい頼義にとって、馬も人間も、愛情を注ぐべき相手という意味では、大した違いはない。否、寧ろ、馬の方が、偽りや裏切りに満ちた人間よりも、その愛情が憎しみに転移することはなく、生涯、一途に愛情を注ぎ続けられるのかもしれない。

 頼義の邸宅は、同じ二条冷泉小路の三軒先にある。その日、陸奥産の名馬が、京に到着したらしいとの噂を耳にした頼義は、郎党の佐伯経範に「その馬が、縁の無い人に乞われて人手に渡ってしまう前に、一度見に行って、真の名馬であれば、私が父に乞うて貰うことにしよう」と声をかけた。

 経範は、「雨も降り続いておりますし、もうすぐ日も暮れるので、明日にいたしましょう。今からでは、父君にもご迷惑になります。」と諌めたが、主は彼の話を聞いていなかった。雨中にも関わらず、路地に飛び出すと、父の邸宅に駆け込んだのである。

 廊下を踏み鳴らす足音が止んだ。同時に、父を呼ぶ声が、背後から聞こえてくる。さすがの頼義も、父の書斎に無断で入り込むような真似はしない。頼信が振り向くと、頼義は、廊下に片膝を立て、頼信を凝視していた。好奇心に溢れた、子供のような目である。

「騒々しいのう、頼義。そなたも、既に四十を過ぎたのだから、もう少し、落ち着いて入って来れぬのか?」

「父上、陸奥の馬が、お屋敷に着いたと聞きましたので、急ぎ、馳せ参じました。」

父の言葉など、まるで耳に入らないかのように話す頼義に、頼信は再び苦笑した。

 源頼信は、源満仲の三男で、清和源氏の家祖、源経基の孫にあたる。清和源氏は、経基王(清和天皇の第六皇子で、貞純親王の長男)が、源姓を賜って臣籍降下し、源経基を称したことに始まる、武門の家柄である。経基の四人の息子達、満仲・満政・満季・満快の兄弟は、いずれも劣らぬ、優れた武勇の士として活躍し、「兵の家」としての清和源氏の武威を天下に轟かせることに成功した。

 満仲の長男で、頼信の長兄、頼光は、父と同様、藤原兼家とその四男、藤原道長に臣従し、「摂関家の爪牙」として忠勤を尽くした。頼光は、大江山の酒呑童子・土蜘蛛退治などの数々の退魔伝説を持ち、朝家の守護と称賛される、伝説的な辟邪の名将であった。

 頼信は、長兄の頼光とは二十歳も年が離れている。兄と同様、藤原道長に臣従し、東国の受領を歴任して、平維衡・平致頼・藤原保昌と共に、「道長四天王」と称された。

 その頼信の長男が、源頼義である。万寿四年(1027年)のこの年、源頼信は、六十歳。最早、老齢の域に達している。長男の頼義も、既に四十歳。不惑にも関わらず、時折、子供染みた行動に出るのは、未だに妻子がいないことが原因であろう。頼義は、女性を蛇蝎の如く忌み嫌い、四十になるまで、妻帯することを拒み続けた。

 頼義の母、修理命婦は、夫の頼信が、常陸介に任官して現地に赴任中、他の公家の男と交わり、その公家の子供を産んだ。その男が誰だったのか、また、その時生まれたのが、男だったのか、女だったのか、頼義は知らないし、知りたくもない。ただ、父を心から敬愛していた頼義は、母の不貞を激しく憎み、生涯、母を許さなかった。晩年の頼義は、愛馬の法要は営んでも、母の法要は一切、行わなかったと言われる。

 もっとも、当時の公家社会は、通い婚であったから、修理命婦のように、夫以外の男性の子を産むことは、決して珍しいことではなかった。当時の貞操観念が、いかに乱れていたかは、『源氏物語』を紐解けば想像できるであろう。故に、頼義の激しい憎しみは、向けられた母にとっては、あまりに酷い仕打ちであったと推測される。

 なお、母の不貞にこだわり、女性を忌み嫌ったのは、長男の頼義のみであり、頼義の二人の弟、次男の頼清・三男の頼季は、人並みに妻を娶り、子宝にも恵まれている。

「父上、陸奥の馬をお見せ下され!」

 頼義は、すぐにでも立ちあがり、厩に駆けて行きそうな勢いで、腰を浮かした。頼信は、将常に文を送った時点で、息子が陸奥産の名馬を欲しがるであろうことを察していた。

「今宵は、もう遅い。雨も降り続いているから、厩に行っても、暗くて良く見えないであろう。今宵はこの屋敷に泊まり、明日の朝、厩に行って、気に行ったのであれば、連れて帰るが良かろう。それより、どうじゃ、久しぶりに、飲もうではないか。」

「はあ・・・」

 一刻も早く、陸奥の馬を見たかった頼義は、拍子抜けしたような生返事を返した。しかし、すぐに気を取り直すと、久方ぶりに父と酒を酌み交わすことに、胸を躍らせていた。


 清和源氏の始祖、経基王は、天慶元年(939年)、武蔵介に任官し、同じく武蔵権守に任官した興世王と共に、武蔵国に下向した。興世王・経基王は、武蔵国への着任早々、現地の巡察を行った。しかし、巡察とは名ばかりで、実際には、略奪とも言えるほどの、苛烈な租税の徴収であった。当時、受領層と呼ばれる中級官人は、受領(国司)に任官すると「受領は倒るる所、砂をも掴め」の言葉通り、私財を蓄積することを目論んで、現地に乗り込み、財の徴収を行った。

 足立郡郡司の武蔵武芝は、「武蔵国では正官の守の着任前に、権守が国内の諸郡に入った前例はない」として、新任の国司に抵抗した。両王は、国司に対する郡司の無礼を責めて、国衙の兵を動員して武芝の館を襲い、徹底的に略奪を行うと、武芝の財産を封印(差し押さえ)してしまった。興世王・経基王の暴挙に対し、武芝は、山野に籠ると、私財の返還を求める文書を、幾度となく国衙に提出した。しかし、興世王・経基王は、私財の返還に応じるどころか、合戦の準備を整え、武芝を恫喝したのである。

 武蔵国に暗雲が漂う中、武芝が朝廷を依頼したのが、平将門であった。承平七年(937年)に伯父の良兼に勝利し、前年には貞盛を京へ追い払った将門は、「坂東一の武者」と呼ばれる、坂東最大の実力者であった。

 平将門は、興世王・経基王の両名と、武蔵武芝の騒乱を調停するため、足立郡に向かった。興世王・経基王は、武蔵国比企郡狭服山の山中に陣を構えており、将門・武芝は、兵と共に狭服山の山中に入った。将門は、興世王との会見に臨み、興世王と武芝の間に、見事、和睦を成立させた。

 次は、経基王の番であったが、清和天皇の孫の武蔵介は、和睦に応じなかった。興世王が、先に勝手に和睦してしまったため、機嫌を損ねたのか、経基王の器量が狭かったのか。経基王は、陣中に引き篭もったまま、話し合いに応じなかった。将門・興世王・武芝は、和睦が成立したことを祝い、親交を深めるために祝宴を開いた。各々の兵も、互いに酒を酌み交わして、合戦に至らなかったことに安堵した。

 その油断が、事件の発端となった。興世王と武芝の兵が、酔って経基王の陣に近づくと、経基王の兵が、驚いて矢を射かけてしまったのである。

 経基王は、将門・興世王・武芝の三人が、自分の承諾がないまま、勝手に和議を進めていることに憤り、また、三人が、共謀して自分を攻撃するのではと、猜疑心を抱いて、自陣の守りを固めていた。そこに、三人の兵達が近づいてきたのである。

 驚いた経基王は、攻撃を受けたと勘違いし、兵達に攻撃を命じた。そして、自分は慌てふためいて、一目散に陣中を抜け出すと、坂東からも逃げ出して、そのまま、京へと逃げ帰ってしまったのである。

 「介経基はいまだ兵の道に練れずして、驚き愕いで分散す」とは、『将門記』の表現であるが、後世、「武家の棟梁」として、日本全土の武家の頂点に君臨し、日本最初の武家政権鎌倉幕府を草創する清和源氏の始祖は、狭量で小心な公家に過ぎなかった。

 京へ逃げ戻った経基王は、太政官に駆け込むと、将門・興世王・武芝が、共謀して謀叛を起こそうとしていると虚言を述べた。京の人々は、坂東で叛乱が勃発したと噂し、大騒ぎになった。摂政の藤原忠平は、平将門に対して御教書を送り、謀叛が事実か否かの返答を求めた。御教書とは、三位以上の公卿が発する文書である。

 将門は、5月2日、武蔵国・常陸国・下総国・上野国・下野国の国司の解文を揃えて、謀叛が無実である旨を朝廷に言上した。朝廷は、三人の無実を認めて安堵し、経基王は、誣告罪(客観的事実に反する申告を行うこと)で投獄されたのである。

 その後、同年の十一月二十一日に、平将門が常陸国衙を襲撃し、謀反が現実となった。経基王の運命は一転した。翌年の一月九日、経基王は許されて放免されたばかりか、将門の謀叛を予見した先見の明のある武将として、従五位下に叙されたのである。

 その後、経基王は、征東副将軍として、叛乱鎮圧のために再度、坂東に下向する。しかし、坂東では、既に、藤原秀郷・平貞盛によって将門は殺害されていた。経基王は、将門討伐の報告を受けると、一戦も交えることなく帰京した。

 平将門の死後、経基王は、藤原純友の討伐のため、追捕凶族使として瀬戸内海に赴いた。しかし、叛乱は既に、小野好古によって鎮圧され、純友は殺害された後であった。

 その後、大宰権少弐に任官した経基王は、藤原純友軍の残党処理を行い、豊後国において、純友の家来、桑原生行を捕らえている。経基王の生涯を通して、武将としての功績が見られるのは、この一事のみである。

 しかし、その功績が武勲として讃えられ、鎮守府将軍に任官した。そして、経基王は、天慶の乱の勲功者として、「兵の家」の家祖と見做されることになる。しかし、京や西国の人々はともかく、坂東の人々は、平将門に怯え、京に逃げ帰った経基王の憶病振りを、忘れていなかった。特に、将門を討ち取った、藤原秀郷・平貞盛、そして、武蔵国・上総国・下総国に膨大な所領を有する、平良文(貞盛・将門の叔父)の後裔達は、経基王を、「誣告者」として嘲り、清和源氏は、「誣告者の子孫」として、軽蔑され続けた。


 「源氏は、謂わば、悪評の中で、兵の家を起こさねばならなかったのですな。」

 父の話を静かに聞いていた頼義は、憤りを感じながら、酒杯を傾けた。頼義の脳裏には、寛弘五年(1008年)、常陸介に任官した父と共に、坂東に下向した時の記憶が、まざまざと甦っていた。

 平将軍と呼ばれた平貞盛の後裔、常陸平氏の平維幹とその一族は、新任の国司の頼信に対して、あからさまに侮蔑の視線を投げつけてきた。伯父の頼光と並んで、京では武勇の士として名高い父を侮辱された頼義は、常陸平氏の一族の態度に、度々、諍いを起こしそうになったが、その度に、父の頼信に諭されていた。

 「つわものは、口や喧嘩如きで語るものではない。」

 それが、頼信の口癖であった。その言葉通り、頼信は、下総国の豪族、平忠常と合戦に及んで、坂東の武家達に、その実力の片鱗を見せつけた。

 寛弘六年(1009年)、頼信は、上総・下総両国を本拠地とする平忠常が、公事を怠り、国司の命に服さないことを咎め、合戦の準備を整えた。忠常の父、忠頼は、頼信の長兄、頼光の郎党で、頼信に仕えたこともあった。謂わば、忠常にとって頼信は、主筋にあたる。しかし、生来の無法者であった忠常は、己の軍事力を頼みに、頼信の警告を無視した。

 常陸平氏の平維幹は、忠常の勢力の強大さと、香取浦の要害の地を本拠地としていることを伝え、大軍を集めて攻める必要があることを、常陸介に説いた。頼信と維幹は、各々、二千と三千の軍勢を率いて、鹿島神宮近郊で合流し、軍議を開いた。

 忠常の本拠地は、衣川(利根川)の河尻の香取浦の入海を、遥かに入った対岸にある。鹿島神宮から忠常の本拠地まで、陸路では七日かかるが、入海を渡ると半日もかからない。故に、忠常を攻めるためには、舟が必要であった。しかし、合戦を事前に察知した忠常は、頼信の渡海を防ぐために、舟を全て隠してしまった。頼信は、使者を遣わして忠常に降伏を促した。忠常は、常陸介の頼信に反抗する気はないが、維幹は「先祖の敵」であると述べ、降伏勧告を拒絶する。

 頼信は、忠常が防備を固める前に攻撃を開始する決意を固めると、頼信・維幹の軍勢は、浅瀬を進軍して入海を渡った。頼信が坂東の地に下向したのは、その時が初めてである。しかし、源氏には父祖伝来の家伝があった。頼信は、家伝によって、常陸国の入海に浅瀬があることを知っていたのである。油断して、防備を整える間がなかった忠常は、敗北を悟ると、頼信に「名簿」を差し出し、怠状(謝罪文)を添えて降伏した。

 当時、「名簿」を差し出すことは、相手に臣従することを意味した。即ち、忠常は、頼信の郎党になったのである。頼信は、降伏した忠常の追討を中止し、軍勢を引き上げた。父の満仲、兄の頼光譲りの頼信の武勇は、まぎれもなく本物であった。頼信の実力を目の当たりにした、常陸平氏の平維幹、忠常の弟で、武蔵平氏の平将常は、揃って、頼信に名簿を捧げ、源氏の郎党となったのである。

「その家伝こそが、誣告者から兵の家を興した、源氏の臥薪嘗胆の結晶なのですな。」

「そうだ。祖父の経基王、父の満仲公とその兄弟達、そして、兄の頼光公は、常陸介・武蔵守・上野介・下野守・上総介など、坂東の受領を歴任した。現地に赴任した、我が源氏の一族は、坂東諸国の風土・地形・軍事的要地・その地の武家と住人の悉くを記録し、その知識を共有して、一族の誰かが、再び坂東に下向する時に役立てるようにした。

 その記録こそが、源氏の家伝なのだ。わしが忠常攻めの際に、常陸の入海に、馬が通れるだけの浅瀬があることを知っていたのも、兄より伝授したその家伝のおかげなのだ。」

 忠常に勝利した時の、維幹と常陸平氏の一族の顔は、今でも忘れることはできない、痛快事であった。それまで、源氏の父子を見ていた蔑みの目が、恐怖と尊敬の眼差しに一変したのである。

「つわものは、口や喧嘩如きで語るものではない。」

その言葉通り、実戦において実力を示すことで、源氏の評価を一変させた父を、頼義は心から誇りに思い、武家としての生き様を教わった気がした。

 「誣告者」という、武家としては致命的な汚名と、武将として余りにも非力な自分自身の欠点を自覚していた経基王は、臣籍降下すると同時に、後継者を優れた武勇の士に育てるべく、息子の満仲・満政・満季・満快を、諏訪派の門弟として武術を磨かせた。

 平安時代、武術の二大門派は、常陸国の鹿島派と、信濃国の諏訪派であった。鹿島派は、天孫降臨神話に登場する、武甕槌神を祖とし、常陸国鹿島神宮の鹿島宗家に伝わる武術である。一方の諏訪派は、同じく天孫降臨神話に登場する、大国主命の息子、建御名方命を祖とし、信濃国諏訪大社の諏訪本宗家に伝わる武術である。

 経基が、息子達を諏訪派の門弟としたのは、平将門を討った藤原秀郷が、鹿島派の門弟であったためと言われる。また、神懸かり的な武勇によって、坂東を瞬く間に征した平将門は、鹿島・諏訪の二大門派とは異なり、奥州に伝わる伝説の武術、阿修羅王の奥義を極めていたと伝わるが、阿修羅王の奥義は謎に包まれ、その真偽は定かではない。

 諏訪派の門弟となった満仲・満政・満季・満快の四兄弟は、各々、師範となる程の武芸を身に纏い、京に帰還した。優れた武将となった経基の息子達は、打ち揃って、藤原摂関家に名簿を捧げて郎党となり、摂関家の爪牙として活躍した。

 安和二年(969年)に勃発した安和の変では、謀反を密告して事件の端緒を作ったのは、他でもない、頼信の父、源満仲である。安和の政変によって、藤原摂関家の最大の競敵、左大臣源高明が失脚。また、事件当時、検非違使であった満季は、謀反人への連座の罪で、藤原千晴・久頼の父子を捕縛している。

 藤原千晴は、平将門を討伐した藤原秀郷の息子である。秀郷は、天慶の乱の第一の勲功者であったから、その息子の千晴は、武家の最高の名門の栄誉を欲しいままにしていた。源経基の息子達は、摂関家の競敵を失脚させただけでなく、清和源氏自身の競敵である、秀郷流藤原氏をも、失脚させることに成功したのである。

 清和源氏の「摂関家の爪牙」としての忠勤ぶりは、満仲の息子達の代に入っても続いた。頼光は藤原道長に名簿を捧げ、備前守・美濃守・但馬守・伊予守・摂津守と、大国の受領を歴任する。頼光は、道長に臣従することで、受領の地位を獲得し、莫大な財力を蓄えると、道長に膨大な進物を捧げて奉仕した。特に、寛仁三年(1018年)、道長が、火災で焼失した土御門邸を再建すると、贅を尽くした調度品の数々を道長に献上し、その献上物の絢爛豪華さに、京の人々は目を見張ったのである。


 清和源氏は、摂関家の爪牙として暗躍することで、諸国の受領の地位を獲得し、莫大な財力を得た。そして、満仲の息子達は、長男の頼光が摂津国、次男の頼親が大和国、三男の頼信が河内国に本拠地を構え、各地で傘下の武士団を育成した。

 つまり、清和源氏は、摂関家の政治力によって受領の地位を獲得し、莫大な財力を蓄え、その財力によって軍事力を養い、財力と軍事力によって摂関家に更なる奉仕を続けると共に、武家の名門として発展したと言える。

 しかし・・・と、頼義は思う。

「我等、源氏は、いつまで、摂関家の爪牙であり続けなければならないのでしょうな。」

 頼義は、明らかに、酔いがまわっているようだ。頼信は、無言のまま杯を口に運び、何も答えなかった。長男の言いたいことは、頼信にも十分過ぎるほどわかっていた。

 本来、律令国家とは、一君万民思想の下、官位・官職を、豪族による世襲・独占ではなく、各々の役割に適切な人材を、血縁・地縁を問わずに、平等に任命・抜擢するための制度であった。また、土地や人民は、豪族の私有財産ではなく、悉くが国家の所有であり、万民が等しく天皇に仕える仕組みであるはずであった。

 しかし、現実は違った。摂政・関白は、天皇からその政治的実権を奪い、あまつさえ、その摂関の地位そのものが、藤原氏の摂関家に独占されていた。官位・官職の任命は摂政・関白が独占し、摂関家に私的に奉仕した者に与えられる、謂わば、摂関家から贈られる恩賞と化していた。

 また、諸国では、公家・寺社などの権門の荘園が乱立し、租税は国庫ではなく、権門の倉に治められた。更に、諸国の国司は、万民の幸福のための役職ではなく、一定の決められた租税を国庫に治めることを請け負う、受領にまで成り下がった。

 数カ国の受領を歴任すれば、莫大な富を蓄財できるのは、一定の租税を国庫に治めさえすれば、残りは、すべて、受領の私的財産にすることができるためである。故に、「受領は倒るる所、砂をも掴め」の言葉通り、任期中に民から絞れるだけ絞り取ろうと、律令の規定以上の租税を徴収した。その多くは、国庫ではなく、受領の私的財産として蓄財され、更に、受領の任免権を持つ、京の公卿達の私的財産として治められる。

 律令国家の建設に邁進した、聖徳太子・天智天皇・天武天皇が、現在の惨状を目の当たりにすれば、怒り狂ってこの国を滅ぼそうとするに違いない。律令国家は、建設期の理想とはかけ離れた、腐敗の王国に成り下がっていたのである。

 清和源氏、そして頼信自身、その腐敗した制度の中で、典型的な受領層として、腐敗の恩恵に預かり、蓄財に励んできた。しかし・・・と、頼信も思う。こんな腐敗した制度が、いつまでも続くはずがない。実際、約百年前の承平・天慶の乱(平将門・藤原純友)の前後から、各地で群等蜂起が多発し、治安は乱れ、諸国では、自力救済のための武力衝突が日常的に発生している。

 「この国は、新しく生まれ変わらなければならない!」

 その想いは、ずっと心の中で燻っていた。しかし、頼信には、新しく生まれ変わったこの国の姿が、どのような制度の下で運営されるべきのか、想像さえできなかった。

頼信は、自分の想いを息子に伝えるべきか悩み、先程から静かになっている長男に、改めて目を向け、苦笑した。頼義は、酒杯を手に握りしめたまま、眠っていた。

 「困った息子よ・・・」

 頼信は、頼義の手から酒杯を取り上げると、起こさないようにそっと、その身体を横たえた。頼義は、何やらよくわからない寝言を口にしていた。


 その夜の丑三刻の頃。馬の足音を微かに感じ、頼信は目を覚ました。蝋燭の灯りはとうに消え、漆黒の静寂が周囲を覆っている。目を覚ますと同時に、雨音に乱れを感じた。雨中を動き回る人間がいる!庭に人の気配を感じ、頼信は跳ね起きた。そして、寝室に立てかけてあった弓矢を取ると、厩に向かって、一目散に駆けだした。

 雨音に交じって、馬の蹄の音が響く。足音が、次第にこの屋敷から遠ざかってゆくのがわかる。間違いない。盗賊だ。おそらく、昨日から、東国から曳かれてきた陸奥産の名馬の跡を付け、強奪する機会を伺っていたのであろう。

 異変を察知したのか、闇夜の屋敷の中で、何人もの人間が動き始めたのがわかる。郎党達であろう。頼義も、即座に動き出したに違いない。昨夜、頼義は、深酒をして寝入ってしまったが、頼信は、息子の武勇を信じていた。頼義の武芸は、既に頼信を越えている。例え、身体に酒が残っていても、本能的に即座に行動に移るであろう。

 厩に着いた頼信は、傍に何者かの気配を感じたが、暗くて識別できない。しかし、殺気を感じないため、身内であることは間違いない。頼信は、寝衣のまま、甲冑も付けずに馬に飛び乗り、盗賊の跡を追った。

 昼間は賑やかな都大路も、夜になれば、一面の闇が街全体を覆い、昼間とは別の顔を住人に見せる。その様は、まるで、魑魅魍魎が跋扈する、異界への入り口であった。今宵は更に、雨が加わったため、その不気味な表情を、一段と色濃く映している。

 遠くから、馬の蹄の音が響いてくる。雨音が無ければ、より鮮明に聞こえるに違いない。盗賊は、雨の音を考慮に入れて、敢えて、今宵を選んだのであろう。馬の足音は、前方から一つ、背後から複数聞こえてくる。おそらく、頼義と、頼信の郎党達であろう。

 馬の蹄の音を頼りに盗賊を追跡していた頼信の耳に、突然、雨音とは異なる、激しく水を打つ音が聞こえた。近くからは、水が水を弾く音と共に、水が流れる音が聞こえる。盗賊の乗る馬が、川の中に乗り入れたに違いない。

 川だ!と思った頼信は、その本能故か、咄嗟に叫んだ。

「射よ!あれや!」

 その瞬間、頼信のすぐ傍で、弓弦の弾く音が響いた。同時に、頼信の耳元で、空気を裂く音が聞こる。

「うっ!」という唸り声と同時に、前方の馬の足音が変わった。蹄の音が、小さくなったのである。間違いない、盗賊が、落馬したのだ。

「父上!」背後から聞こえてきたのは、頼義の声であった。頼義は、左手に弓を構えている。頼信の予想は的中した。父の期待通り、頼義は、馬の嘶きを聞いて目覚めると、直観的に盗賊だと判断し、弓矢を手にして厩に向かった。途中、自分のすぐ傍に誰かがいることに気づいたが、父だという確信を持てなかった。しかし、京の町を疾走中に、頼義は、わずかに前方を走るのが、父の頼信だと確信していた。

 一方の頼信も、背後から追ってくる馬の足音が、頼義だと確信していた。数多の武勇の士が集う頼信の郎党達の中でも、武勇において、頼義の右に出る者はいない。馬を盗んだ賊が、川に乗り入れたことを悟った瞬間、頼信は、頼義に、声のみで、矢を射る方向を指示したのである。

 源氏の父子は、轡を並べて、川の中を動き回る馬の方に、慎重に近づいた。盗賊が落馬したことは間違いないが、致命傷ではない可能性もある。賊が、いつ、再び起き上がって、襲ってくるかわからない。その時、二人の背後から、松明を持った、数名の一団が近づいてきた。二条冷泉の屋敷に詰める、頼信の郎党達である。先頭には、頼義の郎党、佐伯経範の姿もあった。

 頼義は、経範から松明を受け取ると、炎を高く掲げ、河原へ近づいた。乗り手を失った陸奥の馬は、方向を失い、同じ場所を何度も回り続けていた。その手前には、うつ伏せの人間の姿が見えた。頼義は、松明の灯りを、川原に横たわった人の身体に向けた。その首筋には、深々と矢が刺さっている。

「さすがは、源氏の父子ですな。」

 経範は、膝を落として、うつ伏せの身体を、仰向けに返した。盗賊は、既に事切れている。漆黒の闇の中、頼義の放った一箭は、見事、盗賊に致命傷を負わせたのである。矢を放った頼義も見事であったが、声のみで頼義を導いた、頼信もまた、見事であった。

 経範の感嘆の声は、他の郎党達にとっても同感であった。次々と感嘆の声が広がってゆく。郎党達は、自らの主君を改めて誇りに思うと同時に、自身の武勇を恥じた。武家の屋敷に盗賊が侵入した折、誰よりも先に異変を察知し、盗賊を討ち取ったのが、他ならぬ、主君の父子であったからである。郎党としては、失格であろう。

「さすがは、武家の名門、源氏ですな。」

盗賊の死亡を確認した経範は、もう一度、感嘆の声を挙げた。

 頼信は、悪い気はしなかった。女嫌いで、跡継ぎがいない、という欠点はあるが、頼義は、源氏の棟梁に相応しい、優れた武勇の士に育ってくれた。少なくとも、頼義が生きている間は、源氏は、「兵の家」の名を汚すようなことはあるまい。

 頼信は、誇らしげに、自らの後継者の姿を見つめた。


 翌朝、朝日が昇るのを待ちかねたように、頼義は、厩に赴いて、昨夜盗賊から奪い返した、陸奥産の名馬を改めて眺めた。その堂々たる体躯に、頼義は一目で魅かれた。その体高は、ゆうに五尺は越えるであろう。陸奥国は、日本最大の名馬の産地と言われ、畿内の馬の倍以上の価格で取引されていた。

 畿内の馬が、体高四尺三寸(約130センチ)程度の馬格であったのに比べ、坂東の馬が四尺七寸(140センチ以上)、陸奥国の馬は、五尺(150センチ)近い馬格であったと言われる。特に、陸奥国の最北の地、奥六郡と呼ばれる地域の牧では、体高が五尺四寸(160センチ以上)を越える巨躯の俊馬が、数多育成されていると伝えられていた。

 しかし、陸奥産の馬、特に奥六郡の馬の売買は、蝦夷の俘囚長、安部氏が独占しており、京の商人が入手することは、非常に困難であると言われている。今回、頼信の武蔵国の郎党、平将常の文には、奥六郡の名馬は、兄の忠常より譲り受けたと記されていた。

 頼義が、夢中になって馬の身体を触っていると、厩に頼信が訪れた。

「気に入ったか?」

返事は聞かずともわかっていた。

「はい。父上、ぜひ、この馬を譲って下さい。」

「はじめから、そのつもりで、将常に頼んだのじゃ。」

「ありがとうございます!」

頼義は、興奮した面持ちで例を述べると、馬の方に向き直って、縦髪を撫で続けた。

「昨夜、雨の中、お前を探して駆けまわったから、雨影と名付けよう」

早速、名前まで付けた頼義に、頼信は、昨日から何度目かの苦笑を禁じ得なかった。

「馬と同じくらい、愛することができる、妻が見つかると良いのだが・・・」

さすがに、その言葉は口には出さなかった。しかし、源氏の嫡男が、不惑を過ぎても妻帯せず、跡継ぎがいない状態が続くことは、「兵の家」の存亡に関わる重要な事柄であった。

 頼信は、最早、頼義が妻帯することは、半ば諦めていた。家の存続のため、養子の候補者を検討し始めていたのである。

 その年の暮れ、十二月四日、藤原道長が死去した。享年六十三歳。

 一つの時代が終わりを告げた。律令国家は、大きな転換期に差し掛かっていた。


 翌年の長元元年(1028年)五月、京の朝廷を震撼させる事件が勃発した。平忠常が、安房国衙を襲撃、安房守平維忠を焼き殺したのである。平維忠は、平貞盛の次男、維将の息子で、維時の弟である。平忠常の安房国衙襲撃は、朝廷への叛逆ではなく、あくまで、貞盛流平氏の維忠の殺害を意図した私戦であった。その背景には、貞盛流平氏と良文流平氏の間に横たわる、百年に及ぶ抗争の歴史があった。

 天慶三年(940年)二月十四日。藤原秀郷と平貞盛は、北山の戦いで平将門を討ち取り、坂東における、天慶の乱は集結した。当然のことながら、天慶の乱の第一の勲功者は藤原秀郷、第二の勲功者は平貞盛であった。

 藤原秀郷は、無官の身から従四位下を叙され、下野・武蔵両国の国司を兼任した。国司の兼任は、史上例がない。乱後、秀郷の所領は、上野・下野両国一帯に拡大した。

 平貞盛は、乱後、従五位上に昇進し、極位は、従四位下に昇る。陸奥守・丹波守を歴任、鎮守府将軍に任官した。その貞盛は、蔭位の制度を最大限利用した。四人の実子以外にも、弟の繁盛の息子で、甥の維茂・維幹、孫の維時・維忠の他、多くの甥・孫を養子にしたと伝えられる。律令制下における蔭位は、従五位の嫡子には従八位上が、庶子には従八位下が、二十一歳で叙位される。

 将門討伐の勲功で、従五位に昇進した貞盛は、息子の世代には蔭位が適用されるが、孫の世代には適用されない(従八位下以下の官位は無い)。貞盛は、甥・孫を養子にして自分の庶子とすることで、一族の従八位下の叙位を企図した。

 貞盛は、父、国香の常陸国の所領を継承すると、甥・孫を養子にして、従八位下を受けさせ、官職を与えた。そして、一族を坂東諸国の在庁官人に仕立て上げると、官の権威を利用して、貞盛流平氏の権力の増大を図ったのである。

 天慶の乱の発生当時、貞盛と将門の叔父、平良文は、鎮守府将軍として陸奥国に赴任していたため、当然、良文には、叛乱鎮圧の勲功は無い。しかし、乱後、将門の上総・下総両国の所領は、良文の勢力下に入った。自身の本拠地、武蔵国と合わせ、良文流平氏は、武蔵・上総・下総の三カ国に跨る、坂東最大の勢力に発展したのである。

 だが、将門討伐の勲功者ではない良文が、何故、将門の遺領を継承したのであろうか。当然、秀郷・貞盛が反発したであろうことが推測されるが、朝廷は、良文が上総・下総両国の遺領を継承することを許している。

 そのため、坂東では、奇妙な噂が流れた。平将門が叛乱を起こし、坂東に独立国を建国した時、鎮守府将軍であった叔父の良文は、甥の将門に呼応して、奥州で謀反を起こそうと企てていたと。将門の謀反は、彼の死によって、わずか三ヶ月で鎮圧されたために、挙兵の機を逸した良文は、朝廷と取引をした。坂東・奥州に燻る叛乱の火種を、良文が沈静化する代わりに、上総・下総の将門の遺領の継承を、朝廷に認めさせたのである。

 無論、坂東に流れる、根拠の薄弱な噂であって、証明できる者はいない。しかし、このような噂が流れるほど、良文による上総・下総両国の所領の継承を、朝廷が認めたことは、当時の人々にとって、奇妙な出来事であったに違いない。

 そして、その噂によって、人々は思い知った。もし、坂東・奥州の両地域が呼応して叛乱を起こせば、朝廷は、それを鎮圧する軍事力を持たないことを。坂東・奥州の全ての民の頭上に君臨する英雄が出現すれば、その時、京の朝廷は、間違いなく、この国の支配者の地位から転落する。

 上総・下総の所領を、良文に奪われた形になった貞盛は、その噂を利用した。否、寧ろ、貞盛が、その噂を積極的に広めたのかもしれない。良文を「半謀反者」と罵り、自身の一族にも、良文の一族を「半謀反者の一族」と呼ばせたのである。

 その噂を聞いた良文は激怒したが、激昂して合戦を仕掛けるほど、愚かではなかった。貞盛が、良文の評判を落とそうとするのであれば、良文も、貞盛の評判を落とせばよい。承平五年(935年)、従兄弟の将門が、貞盛の父、国香を殺害した時、貞盛は、戦上手の将門と戦うことを嫌がり、父の敵を討とうともしなかった。そして、将門が坂東に覇を唱える間、貞盛は、将門の執拗な追跡から逃げ続けていたのである。

 その話は、坂東の人間であれば、誰でも知っていた。朝廷は、最後まで将門と戦い続けた貞盛を、不撓不屈の武勇の士と称えたが、将門贔屓の坂東の住人達は、正々堂々と戦おうとしない貞盛を、内心軽蔑していた。良文は、それを利用した。貞盛を「逃げ上手」と揶揄し、坂東中にその噂を広めさせたのである。

 平将門は、朝廷にとっては謀反を起こした極悪人であったが、坂東の住人にとっては、朝廷の苛烈な圧制に抵抗し、人々を率いて立ち上がった、不世出の英雄であった。故に、将門を恐れて逃げ回った「逃げ上手」よりも、将門に呼応して立ち上がろうとした「半謀反人」の方が、坂東の民に圧倒的に支持された。

 貞盛と良文の熾烈な情報戦は、京の朝廷に対しては貞盛の完勝であったが、坂東の住人に対しては、貞盛の完敗であった。この後、「石田の一族」「村岡の一族」(石田は国香の本拠地。村岡は良文の本拠地)と呼ばれる、貞盛流平氏と良文流平氏は、坂東の覇権を巡って、互いに「先祖の敵」と罵り、血腥い争いを繰り返した。「石田」と「村岡」の争いは、坂東の民の悉くを巻き込み、貞盛と良文の孫の世代になっても続いたのである。


 平忠常謀反の報告を受けた、朝廷の対応は素早かった。六月五日には、関白藤原頼通を中心に、忠常謀反に関する朝議が開かれている。前年に藤原道長を失った朝廷では、長男の頼通を中心に、新たな権力構造が構築されつつあった。

 六月五日の朝議では、平忠常に対し、追討使を派遣することが決定した。問題は、誰を追討使に任命するかであったが、頼通を筆頭に、弟の内大臣藤原教通、道長の政敵で、小野宮流の右大臣藤原実資の思惑が複雑に絡み合い、追討使の決定は延期された。

 朝廷の有力者達の思惑とは別に、坂東の情勢は、刻々と変化した。六月に入ると、平忠常が、上総国衙を占領し、上総介県犬養為政を拘禁したとの報告が朝廷にもたらされた。実際には、安房守殺害後、県犬養為政が妻子を京へ避難させたため、上総の在地豪族が国衙を占領し、為政を拘禁したらしい。当時、受領と在地豪族の紛争が頻発していたため、在地豪族は、続々と忠常に加担して、叛乱は燎原の火の如く、上総・下総・安房三国の房総半島全域に拡大した。

 自己の利益しか省みない朝廷の有力者達も、流石に追討使の決定が急務であることを理解したのであろう。六月二十一日の朝議では、追討使の候補者は、三人に絞られた。平直方・平正輔・源頼信である。

平直方は、平将軍平貞盛の曾孫で、平維時の息子である。相模国に鎌倉に本拠地を構え、「村岡の者ども」を先祖の敵と呼んで、抗争を繰り返した。直方は、在京していた頃、藤原頼通に郎党として仕えており、坂東に帰ってからも、毎年、莫大な財物を捧げて頼通に奉仕していた。直方を追討使に推挙したのが、頼通であったことは、言うまでもない。

 更に、直方の父、維時は、右大臣藤原実資に郎党して仕え、私的に奉仕を続けてきた。本来、頼通の最大の政敵である実資は、頼通とは別の武将を推挙して、関白に対抗することが推測されたが、直方の追討使任官は、頼通のみならず、実資にとっても自己の利益に繋がるため、敢えて、頼通の推挙に異を唱えなかった。

 なお、候補者の一人として名の挙がった平正輔は、平貞盛の四男、維衡の息子で、直方の父、維時の従兄弟にあたる。正輔は、頼通の父、道長に郎党として仕えていたから、正輔を推挙したのが、頼通であってもおかしくはない。源頼信も同様である。結局、追討使の本命は、最初から、平直方であり、平正輔と源頼信は、当て馬として名前が挙がったに過ぎなかったのであろう。

 無論、直方が藤原頼通に、父の維時が藤原実資に、莫大な進物を献上して、直方の追討使任官を願い出たのは間違いない。結局、追討使には、前検非違使右衛門尉平直方と、外記を世襲する、文官の中原氏の成通が任官した。文官の中原成通は、謂わば、武家の直方の目付として任命されたのであろう。

 その日の朝議では、忠常に焼き殺された前安房守平維忠の後任として、藤原北家真夏流の藤原光業を任命することを決定した。また、東海道・東山道の諸国に、平忠常追討の官符を下すことを決定した。

 平直方・中原成通は、追討使任官から四十余日を経た、八月五日、二百名の軍勢を連れて京を出陣した。出発まで四十余日を経ることになったのは、朝廷が、出陣に吉日を選んだためと言われている。

 同月。京において、平忠常の郎党が捕えられた。郎党は、藤原教通に宛てて書かれた、忠常の書状を有していた。藤原教通は、道長の次男で、当事、内大臣に地位にあった。

 忠常は、在京の頃、教通を私君として仕えており、教通宛ての書状には、追討令の不当を訴える忠常の心情が、切々と書かれていたであろう。しかし、内大臣の教通には、関白・右大臣の決定を覆す権力は無かった。


「父上!父上!」

 京の頼信の邸宅に、再び、頼義の声が響き渡った。同時に、廊下を踏みならす大きな足音が響いてくる。頼信は、息子の声と、その足音を聞くと、「またか。」と、思わず、苦笑いを浮かべた。

 「父上!」

「あいかわらず、騒々しいのう。」

 部屋の前の回廊で、頼義が一礼している。頼信は、息子に「入れ。」と促すと、二人は、向かい合って胡坐をかいた。

「先程、関白様からの使いが参りまして、私が、相模守に内定したとのことです!」

頼義は、人生初の国司任官に。興奮と喜びを抑えきれないようだった。

「相模守か・・・」

 頼信の予測は外れた。坂東で叛乱が起こった時、頼信は、自分に坂東諸国のいずれかの国司の命が下ると予測していた。追討使には平直方が任命されたものの、朝廷が、坂東諸国の国司を、武家で固めないはずはなかった。特に、平忠常が、頼信に名簿を捧げたことは知れ渡っていたから、頼信に忠常追討の協力依頼が無いとは思えない。

 しかし、頼信本人ではなく、息子の頼義が相模守に内定したことは、想定外であった。頼義の武勇は、遍く知れ渡り、左馬助・兵庫允・左衛門少尉・左近将監・民部少輔などの京官を歴任しているものの、国司の経験はない。

 更に、相模は、追討使平直方の本拠地であり、直方を全面的に支援するため、貞盛流平氏のいずれかが、相模守に任命されると噂されていた。

「なぜ、頼義なのだ・・・」

その言葉を、口にはしなかった。目の前の息子は、明らかに、初の国司任官に興奮している。そして、坂東の地において、忠常追討の合戦に参加することを望んでいた。朝廷は、直方より格上の武家の頼信を相模守に任命すれば、事実上、頼信は、追討使直方の風下に立つことになり、それを嫌って、現地に赴任しないと予想したに違いない。

 その点、息子の頼義であれば、初の国司任官でもあり、直方の傘下に入ることに異議を唱えず、忠常追討を全面的に支援するであろう。更に、頼信は、直方ではなく、息子の頼義を支援するために、源氏の軍事力を動員せざるを得ない、と見越したのであろう。

「さすがは、老獪な公卿共よ・・・。」

頼信は、人生初の国司任官に心沸き立つ頼義を眺め、朝廷の政治力に舌を巻いた。

「で、そなたは、相模に赴任するのだな?」

答えは、聞かずともわかっていた。初の国司任官の上、坂東では、忠常が猛威を奮っているのである。血気に逸る頼義が、赴任しないはずはない。

「無論です!忠常など、私が討ち取ってご覧に入れましょう!」

頼信の懸念した通りであった。頼義は、忠常との合戦に参加する気でいるのだ。

「頼義、よく聞くのだ。」

頼信は、興奮する頼義を、諭すように語りかけた。

「相模に赴任しても、そなたは、できるだけ、忠常との戦に関わってはならん。例え、合戦に参加しても、戦功を挙げない程度に参加すれば良い。」

「そんな・・・武家にとって、合戦で戦功を挙げるのは、最大の栄誉。しかも、忠常は、父上の家人。何故、そのようなことを言われるのです!父上は、この頼義の武勇を見縊っておいでか!」

「だから、そなたは青いと言われるのだ!もう少し、大人にならんか!」

頼信は、珍しく息子に怒声を浴びせた。頼義は、久しぶりに父に叱責され、驚きの表情を浮かべると、急に大人しくなった。

「よいか。直方が追討使では、決して忠常には勝てぬ。否、忠常は、決して降伏しないであろう。元々、この戦は、忠常が朝廷に謀反を起こしたのではなく、石田の平氏と村岡の平氏の身内争いに過ぎないのだ。

それを、石田の者共が、関白と右大臣を利用し、忠常を謀反人に仕立て上げ、自ら追討使となって、朝廷の権威を借りているにすぎぬ。そなたも、忠常が、この父の郎党になった時のことは、覚えているであろう。忠常にとって、石田の一族は、先祖の敵。絶対に降伏などしない。」

「では、忠常はどうするつもりなのでしょうか?」

「この合戦は、間違いなく長期化する。そして、いずれは、直方は追討使を解任される。その時、後任の追討使に任官するのは、間違いなく、このわしじゃ。そなたが行動を起こすのは、それからじゃ。

直方が忠常の追討に失敗すれば、石田の一族は、坂東において、その勢威を失う。そして、わしが忠常を降伏させれば、坂東の武家や民の悉くが、我が源氏に従うであろう。その時、源氏は、誣告者の末裔から、坂東の覇者に成り代わるのじゃ!」

「父上・・・」

 頼義は、頼信の深謀遠慮に感嘆し、改めて父を尊敬した。源氏が、坂東の覇者となる!頼義の心に、新たな興奮が芽生えた。

「さすがは父上、この頼義、まだまだ未熟でした。」

 頼義は、素直に父に頭を下げた。頼信は、息子の武骨だが、素直な心根を気に入っていた。彼の素直さは、間違いなく、坂東の武家達の心をつかんでゆくであろう。

「して、相模には、誰を伴うつもりじゃ?」

「佐伯経範、和気致輔、大宅光任、藤原景通の四人です。」

頼義は、自身の股肱の臣とも呼ぶべき郎党達の名を上げた。

「頼清と頼季も同道させてやってくれ。あの二人にも、国司の仕事を身近に経験させる、良い機会じゃ。」

頼信は、頼義の同母弟、二人の名を挙げた。頼義に異論があるはずはない。源氏の嫡男は、父に一礼をすると、早速、相模赴任の準備に取り掛かった。


 同年十月十四日。相模守に正式に任官した頼義は、同母弟の頼清・頼季、郎党の佐伯経範・和気致輔・大宅光任・藤原景通、他、三十名余りの従者を連れて、一路、東海道を東に向かった。当時の受領(国司)は、遥任が許されており、必ずしも、任官した本人が、現地へ赴く必要はない。遥任とは、受領の代理人として、目代(代官)を派遣することで、実際、中級の文官達は、現地へ下向せず、京に留まることが多い。文官は、京を長く離れることで、中央の政治情勢に疎くなることを恐れたのであろう。

 しかし、武家は、自らが任国に赴くことで、徹底的な蓄財と、任国の在地有力者を傘下に治めることを企図した。在地有力者、特に任国の武家を自己の郎党化することができれば、動員可能な軍事力を増大させることができる。特に、頼義の様に、初の国司任官時に、遥任する武家は、まずいないと考えて良い。

 現地に赴任する武家は、任国支配のために、京から郎党を伴う場合が多い。任国では、在庁官人が受領の部下になるものの、信頼できるかどうかは別である。自身の手足になって働く郎党が必要であった。佐伯経範・和気致輔・大宅光任・藤原景通の四人は、今の頼義にとって、心から信頼できる股肱の臣であった。

 佐伯経範は、古代豪族佐伯氏(大伴氏の分流)の末裔である。佐伯氏は、佐伯部を率いる中央伴造として、主に宮門警護の役割を担い、大和朝廷の時代から、皇家に仕え続けた。その分流は、全国に点在しているが、京においては、下級官人として、細々と生き延びている家系が多い。

 経範も、京の下級官人の一族の出身で、父の経資の代から、源氏の郎党として仕えていた。佐伯経資は、満仲・頼信の二代に仕え、息子の経範は、頼義の幼少の頃より、第一の側近として頼義に近侍した。この年、経範は四十七歳。主君より六歳年上の経範は、既に 三十年以上、片時も頼義の傍を離れたことがない。

 和気致輔は、和気氏の末裔で、その祖は、垂仁天皇の皇子、鐸石別命に遡る。奈良時代末期、和気清麻呂が、宇佐八幡宮神託事件(弓削道鏡が、皇位を得ようと宇佐八幡神宮の神託を捏造した事件)の功績によって、和気朝臣の氏姓を賜り、和気氏を称した。和気氏は、平安時代を通じて、下級官人として朝廷に仕えた。

 和気致輔は、五年前まで、頼信の郎党であったが、世代交代を企図する頼信の命によって、この頃には、頼義の郎党となっていた。致輔は、この年、四十五歳。

 大宅光任は、駿河の豪族、大宅光継の長男である。敏達天皇の末裔、国見真城は、大宅真人の氏姓を賜り、大宅氏を称した。光継の父、経繁の代から源氏に仕える累代の郎党で、経繁は、満仲と頼光に郎党として仕えた。光継は、幼少期より、頼信に使え、現在でも、頼信に近侍している。十二年前、十五歳の光任を、頼義の郎党として推挙した。光任は、この年、二十七歳。

 藤原景通は、鎮守府将軍藤原利仁の末裔で、利仁流藤原氏の藤原正重の息子である。河内の豪族であった、曽祖父の重光は、源満仲に仕えた。以降、重光の一族は、累代の郎党として、満仲・頼光・頼親・頼信に近侍している。

 正重は、頼信の郎党で、昨年、元服した景通を、頼義の郎党として推挙した。景通は、この年、十六歳。頼義の郎党の中で、最年少の武将である。

 駿河国を通過し、足柄峠を越えた一行は、相模国に入った。当時の相模国衙は、相模湾に面した余綾郡(現在の神奈川県大磯町)にある。余綾郡に到着した頼義一行は、在地豪族の平忠通に案内され、国衙近くの頼義の新居に入った。

 平忠通は、平忠光の息子である。忠光は、良文の息子で、頼信の兄、頼光の郎党として活躍した。頼光と共に数々の退魔伝説を持つ、頼光四天王の一人、碓氷貞光とは、忠光の元の名である。貞光は、頼光の郎党になった後、頼「光」に「忠」義を尽くす、という意味を込め、自ら忠光に変名した。忠光の息子の忠通も、父と同様、頼光に郎党として仕え、後に、頼信の郎党として活躍した。

 天慶の乱の後、坂東諸国の中で、上野国・下野国は藤原秀郷の勢力下に、常陸国は平貞盛の勢力下に、上総国・下総国・武蔵国、そして後に安房国が、平良文の勢力下に入ったことは、既に述べた。坂東八カ国の内、相模国のみが、いずれの勢力下にも属さない、真空地帯であった。秀郷流藤原氏・貞盛流平氏・良文流平氏は、この真空地帯を我が物にせんと、一斉に相模国に進出した。

 秀郷流藤原氏で、相模国に進出したのは、秀郷の曾孫、藤原文行である。文行とその息子の公行・脩行は、相模国大住郡の波多野郷・大友郷を開墾した。公行の息子、公光は、左衛門権少尉・相模守に任官して、相模国における秀郷流藤原氏の地盤を固めた。なお、公光は、左衛門権少尉の官歴から、佐(左)藤氏を称した。現在に至るまで、日本全国最大の氏族、佐藤氏は、公光の後裔であると言われる。

 貞盛流平氏は、貞盛の次男、維将とその後裔が、相模国に進出した。平忠常の追討使に任官した平直方は、維将の息子、維時の息子(貞盛の養子)で、維将の孫、貞盛の曾孫にあたる。維時・直方父子は、相模国鎌倉郡を本拠地とし、他郡に進出、開墾を進めた。

 良文の息子の忠光、孫の忠通は、相模国三浦郡を開墾し、本拠地として邸宅を構えた。「石田」と「村岡」は、この隣接する相模国の鎌倉郡・三浦郡の間で、最も激しく争い、房総平氏・武蔵平氏・常陸平氏を巻き込んで、互いに「先祖の敵」と罵り、憎み合った。⑩

「気に入っていただけましたかな?」

「おう。気に入ったぞ。何と広い厩じゃ。あれなら、百頭以上の馬が入るであろう。さすがは坂東じゃのう。馬を大切にする気風がある。」

 忠通の案内を受け、頼義は、早速、愛馬の雨影に飼葉を与えた。そして、客間に入ると、正面の座にどっかりと腰を下ろした。頼義の正面左右には、弟の頼清・頼季、郎党の佐伯経範・和気致輔・大宅光任・藤原景通が着座している。忠通は、頼義の正面に相対すると背後の少年二人を、頼義に紹介した。

「この二人は、私の長男と次男です。以後、相模守様のお傍にて、お仕えさせていただければ、光栄でございます。」

「為通にございます。」

「章名にございます。」

二人の少年は、正面の頼義に、深々と頭を下げた。

「為通と章名か。良かろう。こちらこそ、よろしく頼むぞ。ところで、二人とも、年はいくつじゃ。」

新しい主の問いに、為通は十九歳、章名は十八歳と答えた。

「十九と十八か。ここにおる景通は、今年で十六じゃ。年も近いゆえ、二人とも、仲良くしてやってくれ。」

「藤原景通にございます。」

主に促された景通は、緊張した面持ちで、為通と章名の兄弟に頭を下げた。

「忠通、色々と、世話になったな。父上から、相模で頼れるのは、御主しかおらぬと言われておる。今後も、何かと頼りにさせてもらうと思うが、よしなに頼む。」

頼義は、胡坐をかいたまま、忠通に頭を下げた。

「これは・・・相模守様、おやめくだされ。我等、源氏の郎党の端に加えていただけるだけでも、武門の誉れというもの。我が三浦の領地は、ご自身の領地と思い、何なりとお命じ下され。」

それは、忠通の本心であった。忠通の父、忠光は、自身も優れた武勇の士であったが、源頼光の神秘的な武芸に心から魅せられ、名簿を捧げて源氏の郎党となった。少なくとも、忠光の一族で、源氏を誣告者の末裔と、侮る者はいない。

 忠通の子孫は、後世、三浦氏・大庭氏・梶原氏を称し、源氏累代の郎党として、源頼朝の鎌倉幕府草創の中核を担うことになる。

「して、将常の動きはどうじゃ?」

 頼義は、同じく頼信の郎党で、忠通の従兄弟の様子を尋ねた。将常は、叛乱の張本人、忠常の弟で、良文流平氏の本拠地、武蔵国の所領を継承した坂東有数の豪族である。将常が、兄の忠常に与同すれば、戦火は上総・下総・安房に収まらず、一挙に坂東全域に飛び火して、天慶の乱を越える規模の叛乱に発展する可能性がある。

「今のところ、忠常に与同する動きはありませぬが、当然のことながら、追討使を支援するつもりも、皆無のようです。」

「それはそうであろうよ。将常が、直方を支援するはずがあるまい。それは、忠通とて同じであろう。」

「はあ・・・」

 忠通は、気のない返事をして、軽く頭を下げた。平忠常の謀反は、朝廷に対する叛乱ではなく、あくまで、石田の一族との私戦であることは、坂東の人間で、知らぬ者はいない。無論、忠常と同族の「村岡」の一族が、いかに追討使であれ、「石田」の直方に手を貸すはずがない。

「父上も、将常に、絶対に軽挙はならぬと、文を送っているのだが・・・。」

将常が動けば、やがて、忠通も動かざるを得なくなる。そうなれば、「村岡」の一族の悉くが朝敵となり、朝廷も、東海道・東山道の諸国のみならず、全国に平忠常追討の官符を下して、兵を動員する必要が生じる。朝廷が、最も恐れる事態であった。

「一度、将常に会いに行ってみようと思う。」

「その時は、私もお供させていただきます。」

二人の緊張した面持ちは、長旅の末、相模に辿り着いて安堵した一行に、今が戦時であることを、改めて認識させた。


 翌日、源頼義は、頼清・頼季・佐伯経範・大宅光任と共に、相模国衙に出仕した。国衙では、前任の相模守藤原登任と、相模国衙の在庁官人、相模国各郡の郡司達が、頼義を出迎えた。相模国は、足上(足柄上)郡・足下(足柄下)郡・余綾郡・大住郡・愛甲郡・高座郡・三浦郡・鎌倉郡の計八郡で構成される、上国である。

 各郡の郡司職は、律令国家成立以前の古代豪族、国造家の末裔か、在地豪族が世襲する。当時の三浦郡郡司は、平忠通であり、鎌倉郡郡司は、平直方であった。直方は、平忠常追討のために、安房国に出陣中で、父の代理として、直方の次男の聖範が出仕していた。

 聖範は、この年十七歳。勇猛で名高い父には似ておらず、生来の病弱であった。幼少の頃より、武家の跡取りになることを諦め、文官の道を目指している。国衙の仕事は、武よりも文、主に書類の整理であるから、前任の登任は、文人の聖範を重宝した。寧ろ、国衙としては、無駄に武勇に優れた父の直方より、文人の聖範が出仕して、文書類を処理してくれた方が、行政の運営は円滑に進み、都合が良い。

 頼義と同時に任官したはずの新任の相模介・相模掾は、未だ、相模国に到着していないらしい。介と掾の到着を待たず、早速、前相模守藤原登任から、新相模守源頼義に、国衙の印鍵の引き継ぎが行われた。印鍵とは、朝廷への上申文書に押印する印と、国衙の正倉(倉庫)を開くための鍵のことで、文字通り、印と鍵である。同時に、印鍵こそが、天皇より委任された、国衙の権力の象徴であり、印鍵を力ずくで奪うことは、京の朝廷に繋がる国衙の権威を、全面的に否定することを意味する。

 藤原登任は、印鍵を頼義に手渡すと、安堵の表情を浮かべた。登任は、この年、四十二歳。頼義と一歳違いである。受領の任期は四年。万寿元年(1024年)に相模守に任官した登任は、無事に任期を果たしたことで肩の荷が降りたのであろう。頼義と同様、相模守が人生初の国司任官であった。

 無論、四年前は、平忠常の叛乱は起こっておらず、登任は、蓄財に励むため、特に警戒を抱かずに、坂東に赴任した。この五月、平忠常が、安房守平維忠を焼き殺したとの報告を受けた時、登任は、改めて、坂東の恐ろしさを思い知った。

 中級の文官に過ぎない登任は、忠常が相模に侵入した場合、己の身を守ることすらおぼつかない。忠常との個人的な怨恨はないため、平維忠のように、焼き殺されることはないであろうが、上総介県犬養為政のように、拘禁される恐れは十分にあった。登任は、この半年余りの間、悪夢に怯える日々を過ごしたに違いない。

 登任は、頼義への引継ぎを済ませると、その日の内に相模を出発。足柄峠を越え、坂東から逃げ去るように、一路、東海道を西に突き進んだ。

 この年から約三十年の後、極北の地、陸奥国衙多賀城において、再び、登任から頼義への印鍵の引継ぎが行われるとは、誰一人、想像していなかったに違いない。

 明けて、長元二年(1029年)正月。新年の除目で、平維時が上総介に、平致方が武蔵守に、源頼信が甲斐守に任官した。平維時は、直方の父であるから、言うまでもなく、追討使の直方を支援するための人事であった。維時は、乱の発生後。在京して忠常追討のための政治工作を行っていた。忠常に拘禁されていた前上総介県犬養為政が、解放されて帰京したため、上総介の後任として赴任することになったのである。

 しかし、上総介の官位を得ても、上総国衙は、否、上総国全土が、忠常の占領下にあり、上総に入国することすら、ままならなかった。維時は、京を出立すると、東海道を東へ進み、ひとまず、相模国鎌倉郡の直方の邸宅に入った。


 その維時が、相模国衙を訪れた。表向きは、新任の上総介として、相模守への挨拶に立ち寄ったのであるが、本当の目的は、追討使への支援依頼に他ならない。頼義が、相模守に赴任してから、既に二ヶ月が経過していた。しかし、新任の相模守は、相模国内の巡察を行っただけで、忠常追討に関しては、未だ、何も手を着けていなかった。

 朝議の場で新任の挨拶を述べた維時は、広間に居並ぶ、源氏の郎党及び相模国の郡司達を、睨みつけるようにじろりと見渡した。

「ここには、謀反人の一族もいるようじゃな。」

名前を挙げなくても、忠通のことを指していることは、その場の誰もがわかっていた。維時は、この年、七十一歳。朝議に出席している官人の中でも、群を抜いて老齢であり、同時に、経験に基づく迫力を備えている。

 忠通は、何かを言いかけたが、思い留まると、老人を睨み付けた。

「新任の相模守は、謀反人を恐れ、無為に日々を過ごされているそうじゃな。」

新任の上総介は、今度は、一行に直方の支援に動こうとしない相模守を、痛烈に皮肉った。頼義は、維時の目を見た時、二十年前、父と共に坂東に下向した時に見た、常陸平氏の為幹とその一族の目を思い出した。明らかに、源氏を誣告者の子孫として見下した、侮蔑の目だ。

「それが、人にものを頼む態度か!」

忠通と異なり、直情径行の頼義は、怒りを露わにして立ち上がった。居並ぶ頼義の郎党達が、一斉に維時を睨み付ける。

「わしは、相模守にお願いをしに参ったのではない。朝廷からの、忠常追討の命を伝えに参っただけじゃ。それとも、新任の相模守は、朝命に背くとおっしゃるのか?」

維時は、負けじと頼義に怒鳴り返した。

「それに、甲斐守に任官した、頼信殿も、一行に京を動こうとしないと聞く。源氏は、それほどに忠常如きを恐れているのか?」

「何だと!」

頼義が刀の柄に手をかけた。同時に、頼義の郎党達も、一斉に刀の柄に手をかけ、身構える。まさに、一触即発の状態であった。

「その忠常如きに苦戦を強いられているのは、上総介殿のお子ではありませんかな。」

緊迫した雰囲気の中、忠通が、維時に皮肉を浴びせ返した。

「苦戦どころか、戦もせずに、忠常から逃げ回っていると聞きましたぞ。折角の追討使の肩書も、逃げ上手が帯びては、何の役に立ちませんな。」

佐伯経範が追い打ちをかける。

「何じゃと!」

今度は、顔を真っ赤にして怒鳴ったのは、維時の番であった。しかし、さすがに年の功か、即座に落ち着きを取り戻すと、

「相模守が追討に非協力的であることは、朝廷に報告させていただく。」

と捨て台詞を残して、国衙を立ち去った。

「わしの目の黒いうちは、絶対に石田の輩などの協力はせん!」

元々、源氏は、忠常・将常・忠通など、良文流平氏を郎党と抱えており、忠常に対する同情の気持ちが強かった。直方に協力して忠常を追討しても、源氏には、何の益もない。更に、今回の維時の態度を見れば、貞盛流平氏の源氏に対する軽蔑の意識は、相当根強いことを実感させられる。

居並ぶ群臣の中で、維時の孫の聖範だけが、辛そうに立ちすくんでいた。


 忠通や経範の言葉通り、事実、直方は苦戦していた。追討使に任官し、東海道・東山道の諸国に忠常追討の官符が下されたものの、思い通りに兵は集まらない。坂東八カ国の内、上総・下総・安房の三カ国は、平忠常の勢力下にあり、武蔵国は忠常の弟、将常の本拠地であるため、追討の支援はあり得ない。

 期待していた上野・下野では、秀郷流藤原氏の藤原頼遠が、追討に協力するどころか、忠常の叛乱に与同し、伊志見山に兵糧を送っていると噂されている。直方が動員できるのは、同族の常陸平氏と自領の相模国鎌倉郡の兵だけで、その兵数は、忠常率いる叛乱軍の五分の一にも満たなかった。

 その上、直方と共に追討使に任官した、中原成道との関係も悪化の一途を辿っていた。文官の家系、中原氏の成通は、当初から、忠常追討に疑念を抱いていたらしい。成通は、京から出陣した直後の長元元年八月十六日には、早くも、美濃国において、老母の病を理由に帰京を願い出ている。

 中原成通は、忠常の叛乱が、貞盛流平氏と良文流平氏の私戦に過ぎず、貞盛流平氏が、朝廷の公権力を私戦に利用していることを見抜いていた。坂東への進軍を先送りにしていた成通は、翌年の長元二年十二月十八日には、朝廷への報告を怠ったことを理由に、追討使を更迭されている。

 一方の直方は、忠常に殺された平維忠の後任として、安房守に任官した藤原光業と共に、五千の兵を率いて、相模から安房へ渡海した。既に、忠常は、安房から上総へと引き上げていたため、光業と直方は、難なく無人の安房国衙に入ることができた。

 しかし、直方の進軍は、そこまでであった。直方の兵力は、わずかに五千。同族の常陸平氏に協力を仰いでも、一万程度の兵しか期待できない。対する忠常の兵力は、四万とも五万とも言われている。いかに追討使と言えども、五倍近い兵力差がある以上、一大決戦を挑むのは、あまりにも無謀であった。

 兵数に劣る直方は、焦土戦術を実施し、度々、安房から上総に出兵した。上総の田畑を焼き払い、忠常軍の食糧を絶つことを目論んだのである。しかし、忠常は、田畑を焼かれたことに激怒したものの、肝心な食糧には不足していない模様であった。

 忠常が軍営とした上総国夷隅郡伊志見山には、諸国から支援の食糧が続々と送られてきているとの噂が流れていた。そのため、朝廷軍によって田畑を焼き払われた民は、追討使の直方に深い恨みを抱いて、寧ろ、伊志見山の忠常軍に身を投じた。忠常の坂東における人気は、直方の無策と焦土戦術によって、一段と高まったと言って良い。

 石田の一族と呼ばれる貞盛流平氏は、直方の曽祖父、貞盛の代から、坂東で搾取した進物を京の公卿に捧げ、朝廷の権威を得ることで、坂東における勢力の扶植を企図した。対して、村岡の一族と呼ばれる良文流平氏は、自ら先頭に立って田畑を開墾し、坂東の民と共に汗を流すことで、京の朝廷よりも、民の信頼を得ようとした。その違いが、今、歴然とした実力の差となって、直方の前に立ち塞がっているのである。

「我等は、間違った道を進んでいたのかもしれぬ・・・。」

朝廷において、直方の追討使更迭が公然と取沙汰されるようになり、直方は、焦燥感に囚われ始めていた。朝廷の権威が通じなくなった坂東には、最早、石田の一族の居場所は無いのかもしれない。直方は、平将軍貞盛以来の武名が、自らの代で終焉することに、深く絶望した。⑬

 翌年、長元三年(1030年)三月。平忠常は、二万の軍勢を率いて、再び、安房国衙を襲撃した。圧倒的な兵力の差に、安房守藤原光業、追討使平直方、そして、上総国衙に赴任できず、直方と共に安房に留まっていた上総介平維時は、船で安房を脱出。相模へと逃げ帰った。安房守藤原光業は、安房国の印鍵を捨てて逃走したのである。

 ところが、対岸の三浦半島は、平忠通の勢力下にあり、直方・維時・光業の上陸を拒否した。否、拒否するどころか、矢を射かけて追い返したのである。そのため、直方一行は、三浦半島を回って、自領の鎌倉郡まで、船での帰国を余儀なくされた。光業は、鎌倉の地に上陸すると、そのまま、京への道を一目散に逃げ去った。

 同月の二十七日、朝廷は、後任の安房守として、平正輔を任命した。平正輔は、長元元年には直方、源頼信と共に、追討使の候補者の一人として名が挙がった武将である。伊勢に本拠地を持つ正輔は、直方と同族の貞盛流平氏であったから、直方と共に忠常追討に尽力することを、朝廷が期待したことがわかる。

 しかし、正輔は、安房国に赴任しなかった。否、赴任できなかった。当時、正輔は、伊勢国において、公雅流平氏の平致経と、伊勢国内の所領を巡って争っていた。正輔の安房守任官を知った平致経は、安房に向けて出陣しようとした正輔を追跡。合戦を仕掛けて、安房への赴任を妨害したのである。

 最早、直方には、万に一つも勝ち目は無かった。朝廷では、再び、直方の更迭が議題に上るようになった。そして、直方・正輔が候補から消えた今、追討使に相応しい武将は、一人しかいなかった。

 相模の本拠地に戻った平維時・直方の父子は、朝廷に、四度目の追討官符の発給を願い出た。しかし、関白藤原頼通は、「伊志見山の忠常の兵力は、減少している」として、追討使の増援要請を、冷たく却下した。頼通の情報源は不明であるが、朝廷は、既に、直方を見捨てていたのである。

 貞盛流平氏のお家芸である、朝廷の権威を振りかざすこともできず、上総介・安房守に任官した維時・正輔は、任国に赴任することさえできない。上野・下野の秀郷流藤原氏は、直方を支援するどころか、忠常に協力し、甲斐守・相模守の清和源氏の頼信・頼義父子は、忠常追討に動く気配も見せない。

 直方は、まさに、四面楚歌の状況に陥っていた。もう一つ、直方が疑問を抱いていることがあった。直方と忠常の争いによって、房総三国の田畑の多くは焼き払われ、忠常は、食料の確保に難儀しているはずであった。しかし、忠常軍の兵糧が尽きたとの報告を得ることができない。寧ろ、伊志見山の忠常の陣営は食料が豊富で、田畑を焼かれた民の多くが、伊志見山に集結しているとの噂が流れている。

 誰かが、忠常を支援しているに違いなかった。坂東の武家、例えば、上野・下野の秀郷流藤原氏や、武蔵平氏では、これほど大規模な支援はできない。誰かが、坂東の武家達を越える、遥かに強大な勢力を持つ誰かが、忠常を支援しているはずであった。そしてその者は、時が満ちれば、公然と朝廷に反旗を翻すに違いない。

 長元三年(1030年)六月、追討使平直方・上総介平維時・武蔵守平致方は、朝廷に解文を奏上した。平致方は、平公雅の息子で、祖父は、平良兼である。公雅は、貞盛・将門の従兄弟で、将門の妻は良兼の娘であったから、将門の義理の弟にあたる。

 天慶の乱の後、公雅は、坂東における良兼の遺領を叔父の良文に譲り、自身は、伊勢国に所領を有して、京武者として活動する道を選んだ。

 公雅の息子の致頼、その息子の致経は、伊勢国の所領を巡って、貞盛流平氏の維衡・正輔と熾烈な抗争を繰り返していた。この三月にも、平正輔が安房守に任官し、坂東に赴任しようとした矢先、致経は、正輔を襲撃して、安房への赴任を妨害している。

 公雅は、叔父の良文と従兄弟の貞盛の争いに対して中立的であったが、次世代の致頼・致経にとっては、最早、貞盛流平氏は、宿敵であったと言える。致方は、致頼の弟で、当然ながら、貞盛流平氏の維時・直方とは協調的であったとは言えず、追討使とは一線を画していた。もっとも、武蔵国内には、忠常の弟の将常が強大な勢力を誇っており、忠常追討に動きたくとも、動けない状態であったことは確かである。

 解文では、去る五月、平忠常が出家したこと、忠常に講和の意思があることが述べられていた。忠常は、弟の将常を通して、致方に講和の意思を伝えたのである。同時に、忠常は、私君の内大臣藤原教通に、申し開きの書状を送っていた。その書状の中で、忠常は、今回の合戦は、あくまで、石田の一族との私的な争いであり、決して朝廷に叛逆する意図はないことを繰り返し述べている。

 また、自分は朝廷に降伏する意思はあるが、先祖の敵である、平維時・直方父子には絶対に降伏しない旨を、改めて強調している。忠常の主張は、叛乱の発生時から一貫しており、朝廷も、これ以上、石田の一族に肩入れして、叛乱を長引かせるべきではないと判断していた。三年に及ぶ合戦で、房総三国を始めとする坂東の国力の低下は目を覆うばかりで、この国最大の穀倉地帯は、一粒の米も生み出さぬ、不毛の荒野に変わり果てていた。

 上総・下総・安房の房総三国では、飢餓が深刻化し、遂には、下総守藤原為頼の妻子が餓死したとの報告が、朝廷にもたらされた。為頼は、忠常の乱が勃発した時、忠常に抵抗せず、中立的な立場を取ったが、さすがに、国司が伊志山の叛乱軍の陣営に、食料を恵んでもらうわけにはいかなかったのであろう。

 なお、坂東の荒廃は、合戦による影響というより、追討使の平直方の焦土戦術と、兵糧を確保するための、上総介平維時の強引な税の徴発を起因としていた。坂東の至るところで、維時と直方、そして石田の一族への怨嗟の声が満ちていた。そして、関白藤原頼通・右大臣藤原実資をはじめとする朝廷は、遂に決断した。

 長元三年七月八日の朝議において、朝廷は、平直方の召喚を決定した。事実上、直方を追討使の任から更迭したのである。朝廷の権威を頼ることで、坂東に威を振るった石田の一族は、遂に、朝廷に見捨てられた。

 平直方、そして、石田の一族の武名は地に堕ちた。坂東には、最早、彼等の身の置き所はなくなったのである。

 長元三年七月半ばのある夜。相模守源頼義は、三日程前から、三浦郡郡司の平忠通の邸宅に招かれていた。既に、平直方更迭の報告は、相模の頼義の許へももたらされていた。まだ、朝廷から正式に宣旨が出たわけではないが、後任の追討使に父の頼信が任命されることは、火を見るよりも明らかであった。

 今度こそ、源氏の合戦になる。忠常が、父に降伏しなければ、頼義は、相模から安房に渡って、忠常を攻めるつもりであった。安房へと至る最短の近道は、三浦半島から船で安房に渡る方法である。頼義は、早速、三浦半島への軍勢の渡海地点を確認すべく、視察に出かけたのであった。

 時刻は、既に酉の刻(20時)を過ぎている。相模湾を真紅に染め上げてた夕陽が落ちると、周囲は静寂の闇に包まれた。一行の馬の蹄の音だけが、漆黒の空に響き渡る。頼義に従うのは、弟の頼季・佐伯経範・大宅光任・藤原景通・平忠通・平聖範である。

 直方の息子の聖範は、相模国衙の在庁官人として、頼義に忠実に仕え、今では、頼義の最も信任の篤い文官となっていた。頼義の郎党や、相模の郡司達は、武家が中心で、事務処理が苦手な者が多い。生来、病弱であった聖範は、勇猛な武勇の士を父に持ちながらも、早くから文官の道を目指したため、学問に優れ、行政に明るく、武骨者の集まりの国衙において、異彩を放っていた。

 また、武家の道を諦めていたため、石田の一族特有の、清和源氏に対する偏見がない。聖範は、頼義を蔑む姿勢を一切、見せなかったため、頼義の郎党達からも、既に、身内の一人と見做されていた。

頼義一行が、鎌倉郡を抜け、高座郡に差し掛かった時である。風を突き刺すような、鋭い音を感じ取った頼義は、本能的に体を後ろに逸らした。瞬間、頼義の目の前を、一本の矢が通り抜けた。体を逸らさなければ、頼義のこめかみに命中していたに違いない。

「何者だ!」

襲撃に気づいた一行は、抜刀して周囲を見回した。瞬時に、頼義を守るように取り囲むと、手にした松明を高く掲げる。一行の周囲には、見渡す限りの田畑が広がっており、隠れる場所などほとんどない。一行の前方に、一本の大木があった。景通が、

「あそこだ!」

と声を上げた瞬間、次の矢が、景通の左脇をすり抜けた。

風を切る音に次いで、鉄が何かを弾く音がした。頼義は、今度は、刀で矢を払い落としたのである。

「かなりの腕前だな。」

頼義は、感嘆の声を上げた。六人の郎党が頼義を取り囲む中、その壁の間を抜け、正確に頼義を狙ったのである。こんな芸当ができるのは、頼義の知る限り、頼義自身しかいない。その矢を冷静に払い落とした頼義も、さすがという他はない。

 景通は、即座に馬を大木の方へ向けた。経範・光任もそれに続いた。大木から次の矢が放たれた直後、景通が、弾かれたように落馬した。

「景通!」

残った頼義・頼季・忠通・聖範も、一斉に馬を駆けさせた。光任が、景通を助け起こしていた。どうやら、左肩に刺さったようだ。光任は、景通の左肩から矢を引き抜くと、

「相当、浅いぞ。これなら、大事ない。」

と、景通を励ました。そして、駆け寄ってきた頼義に報告した。

「狙いは正確ですが、矢傷は深くはありません。どうやら、小弓のようです。」

その間にも、大木から、次々と矢が放たれる。頼義は、単騎、大木に向かって馬をかけさせた。そして、襲い来る矢を、難無く刀で薙ぎ払って進んだ。

「相模守様!」

慌てた郎党達が、頼義の後に従い、馬を駆けさせた。頼義が近づくと、観念したのか、射手は、木の上から飛び降りた。そして、抜刀して頼義に切りかかる。鬼の面を付けているため、顔がわからない。

 射手は、馬上から頼義が繰り出す刃の突きを、悉くをかわした。頼義は、その身のこなしの軽さに、内心、下を巻いた。そして、馬上の不利を悟ると、馬から下りて、両手で刀を握り直し、力を込めて切りかかった。射手は、その一撃を受け止めようとしたが、その力を受け切れずに、体をひねってかわした。

 頼義は、「非力だな」と思った。普通、これだけの弓術・剣術を身に付けた者であれば、頼義の一撃を交わそうとせずに、受け止めるだろう。頼義は、射手の正体に興味を覚えた。追いついた郎党達が、射手を取り囲んだ。

「殺すなよ。」

頼義は、郎党達に命じると、瞬時に突きを繰り出した。まさに電光石火、あまりに激しい突きに、射手は、成す術もなく硬直した。次の瞬間、鬼の面が、二つに割れた。中から、幽玄な美しい顔が現れた。

「おんな・・・?」

頼義をはじめ、郎党達の誰もが、驚愕して息を呑んだ。しかし、本当に驚いたのは、聖範の次の叫び声であった。

「姉上!」

「なに!」

その場にいる全員が、刀を向け合っていることも忘れて、一斉に振り向いて聖範を見た。そして、聖範と射手を交互に見比べる。

「姉上・・・ということは、前追討使、直方殿の娘か・・・?」

頼季が、全員の気持ちを代弁して尋ねた。

「姉上、なぜこのようなことを・・・。お祖父様の命令ですか・・・?」

聖範は、頼季の問いには答えず、刀を下げて、ゆっくりと姉に近づいた。

「違う!」

美しい声が、闇夜に響き渡った。一同は、改めて、目の前の射手が、女であることを確信した。平直方の娘は、その切っ先を、弟に向けた。

「直方の娘が、何故、わしの命を狙う?」

今度は、頼義が問う番であった。直方の娘は、振り向いて頼義を睨み付けた。その目には、憎しみの炎が宿っている。

「何故、貴様は、相模守でありながら、忠常追討に協力しなかったのだ?相模の兵を出そうとしなかった?

貴様の父、頼信もそうだ。甲斐守でありながら、追討使である父上を、一切、支援してくれなかった。おかげで、父上は追討使を更迭され、我が家の武名は地に堕ちたのだ。貴様等源氏は、我が家の敵だ!」

 直方の娘は、憎しみをぶつけるように、頼義に切りかかった。頼義は、刀を握り締めると、襲い来る刃を弾き飛ばした。刀は、娘の手を離れ、何度も宙を回転した後、地面に突き刺さった。

「それは、逆恨みというものだ。何故、我等源氏が、直方を助けなかったのか。その答えが知りたくば、そなたの祖父にでも聞くのだな。」

「姉上、何故、ここまでしなくてはならぬのです。死を賭して相模守様を殺しても、我が家には何の得もない。父上に、新たな災いが降りかかるだけです。父上が、国司殺しの汚名を切ることになってしまいます。」

聖範の冷静な言葉に、姉は、今度は弟を睨みつけた。

「よくもそのようなことを・・・。そなたは、何もわかっておらぬ。父上は、京への召喚を恥として、昨夜、自害されようとしたのだぞ!」

さすがの聖範も、姉のその言葉には驚いたようであった。

「して、父上は?」

「幸い、私が気づいて、お止めしたのだ。父上に、泣いて縋ってな。」

娘の目からは、涙が溢れていた。娘は、力なく、その場に座り込んだ。その仕草を見ていると、どれほど武芸が達者であろうと、やはり、女であることを感じさせる。

「そなた、名は何と言う?」

「直子。」

頼義の問いに、娘は、一言だけ答えた。

「直方の娘の直子か。わかり易くて良いな。」

頼義の笑い声に、張り詰めていた空気が再び動き出した。

「捕らえますか?」

娘を引き立てようとする頼季を、頼義が制した。

「放っておけ。」

「しかし・・・。」

何か言いたげな弟に、頼義は答えた。

「この源頼義、女に襲われ、ムキになって捕らえたなどど、世間に知れ渡ったら、男として、恥じ入ることなく日の下を歩けなくなるわ。聖範、姉上をお送りするが良い。」

直子と聖範は、驚いた表情で顔を見合わせた。国司を襲って不問に付されるなど、聞いたことがない。聖範は、両膝を着いて、相模守に叩頭した。直子は、黙ったまま、弟と共にその場を去った。

「それにしても・・・。」

頼義は、何かが気になったように、忠通を呼び寄せた。

「坂東の女は、皆、あれほど勇猛なのか?わしは、あのような女には、初めて会った。」

どことなく場違いな頼義の問いに、忠通は、思わず苦笑した。

「京よりは、逞しい女が多いのは確かですが・・・。直方の娘は特別です。坂東では、直子殿は、この国最強の女と言われております。」

「最強の女か。」

忠通の言葉に、頼義は、大声で笑った。吊られて、郎党達も笑い声をあげた。とても、命を狙われた直後とは思えなかった。

 その夜。国衙近くの頼義の自邸を、前追討使の直方が訪れた。次男の聖範一人を伴い、郎党も連れていない。聖範を従者としたのは、聖範が、石田の一族の中で唯一、頼義の信頼が篤いからであろう。頼義は、直方と聖範を客間に通させると、弟の頼清・頼季・佐伯経範・大宅光任と共に、直方と面会した。

この時点では、直方は従五位上、頼義は従五位下であったから、本来は、直方が上座に就くべきであった。しかし、直方の来訪目的を推察した頼義は、敢えて、上座に就くことを選んだ。直方も、下座に就いたまま、動こうとしない。

 この日、頼義と直方は、初対面であった。互いに、その名は良く知るものの、一度も面識がなかった。無いと言えば、直方は、頼義の父、頼信にも会ったことがない。頼信と維時は、摂関家の郎党として、京において、互いに凌ぎを削った関係であったが、直方自身は、清和源氏との面識は皆無であった。

「これが、源氏か・・・」

 直方は、頼義に深々と頭を下げながら、心の中で感嘆の声をあげた。五十一歳の直方に対し、頼義は四十三歳。しかし、今、眼前の頼義は、三十代前半にしか見えない。その堂々たる体躯。隆々と盛り上がった筋肉。鋭い眼光。周囲の空気を一変させる威風。頼義の姿は、まさに、武家の間で思い描かれた、理想的な武将の容姿であった。

 一方の頼義は、直方の第一印象が、想像と異なることに驚いていた。頼義は、直方を、維時のような、傲慢な男だと思い込んでいた。しかし、今宵の事件の影響もあろうが、目の前の直方は、意外な程に謙虚で、傲慢にはほど遠い人物であった。

 直方は、坂東では知らぬ者はいない、名に聞こえた武将であったが、想像よりも小柄で、大人しい人物に見えた。もっとも、直子の話では、昨夜、自害しようとした程に追い詰められていたのであるから、大人しいというより、精神的に疲れ切っていたのかもしれない。

「我が娘の直子が、相模守様に刃を向けたと聞き、お詫びに伺いました。いかなる処罰をも覚悟しております。この直方、娘ともども、自害する覚悟でおります。」

 直方は、意を決したように声を出すと、まるで床に頭をこすりつけるように、再び、頼義に深く叩頭した。頼義は、そんな直方を見つめ、寧ろ、驚きの表情を浮かべた。

「直方殿は、良い娘をもたれましたな。」

それは、頼義の本心であった。頼義は、直子に襲撃されたことなど、露ほどにも恨んでいなかった。寧ろ、父を想い、敵を討たんと刀を手にした直子の行為に、感動すら覚えていた。頼義は、今まで、女を蛇蝎の如く嫌って、寄せ付けなかった。それは、母の修理命夫が、父を裏切り、他の男の子を生んだからに他ならない。

 女とは、その美しい容姿とは裏腹に、心が弱く、弱いが故に醜く、道徳観念など持ち合わせず、一時の感情と打算でしか動かないと思い込んでいたのである。

 しかし、今宵出会った、坂東の女は違った。強く、凛々しく、父のために、自らの命を省みず、たった一人で、七人の武将を襲撃したのである。その鮮烈な潔い姿に、頼義は、生まれて初めて、女性に尊敬の念を抱いた。

 直方は、顔を上げると、困惑した表情を頼義に向けた。その時、頼義が笑顔を見せた。

「そなたの娘は、この国で最強の女だそうだな。」

緊迫した表情のまま、顔を強張らせていた直方も、つられて笑顔を見せた。この瞬間、直方は、頼義に名簿を捧げることを誓った。その豪放磊落に剛毅な気風。直方は確信した。父の維時や、他の石田の一族が何と言おうと、源氏には、武家の心を虜にする血が流れている。源氏は、間違いなく、武家の棟梁として、坂東の、否、日本全土の武家の頂点に立つであろう。

「いや。誠にお恥ずかしい限りです。護身用にと、ほんの少し、武芸を習わせましたところ、家の預かりなどそっちのけで、弓馬の道の虜になり、毎日、馬を乗り回しておりますわい。あれでは、娘ではのうて、息子でござる。

 我が子の中では、この聖範は無論のこと、兄の維方よりも、娘の直子の方が、武芸に優れておる始末。父親としては、何とも複雑な心境でござるよ。」

頼義が、直子を心底、褒めているのがわかったので、直方も、悪い気はしなかった。率直に語る直方に対し、頼義は、維時に怒りを抱いたのとは異り、寧ろ、親近感を覚えた。

「私は、今まで、女というものは、京女のように、弱く、醜く、倫理観が欠如した、男とは違う生き物だと思ってきました。しかし、世の中には、直子殿のように、強く、孝心に溢れた女もいるということが、今宵、初めてわかりました。

私を襲ったことについては、恨みを持つどころか、寧ろ、尊敬の念を抱いております。だから、今宵の出来事を責めるつもりは毛頭ありません。それに、この頼義が、女に襲撃されて、ムキになって相手を捕らえたなど、世間に知れたら、物笑いの種ですよ。父上にも叱られるでしょう。」

頼義は、直方に近寄ると、肩を抱いて頭をあげさせた。直方は、感激した表情で、もう一度、頼義に叩頭した。傍らで二人を見ていた経範は、そんな頼義を見て、驚きを禁じえなかった。石田の一族の直方に心を開きつつあることは無論のこと、頼義が、一人の女性に、これほど歓心を示したことはなかった。頼義に仕えて三十年。その間、片時も主君の傍らを離れたことがなく、彼のことは、何でも知っているつもりであった。

「これは、頼信様に報告せねばなるまい・・・。」

無論、頼義が直子に襲撃されたことではない。頼義が、生まれて初めて、女性に歓心を抱いたことを、である。源氏とその郎党にとって、今宵、命を狙われたことなど、即座に忘却してしまう程度の出来事に過ぎなかった。

 翌日、己の運命を受け入れるべく、覚悟を決めた直方は、朝廷の召喚に応じて、京へと旅立った。そして、九月二日、朝廷は、正式に甲斐守源頼信を追討使に任命した。これで、誰もが、坂東の兵乱は終息すると期待した。

 しかし、頼信は、すぐには京を動かなかった。朝廷の再三の要請にも関わらず、頼信は、京と河内の香炉峰の自邸を往復し続けた。無論、頼信は、忠常を恐れていたわけでも、手を拱いて、何もしなかったわけでもない。その年の年末から翌年の春にかけて、頼信は、政治工作に専念していた。

 政治工作の一つ目は、坂東の郎党達に、書状を書き送っていたのである。忠常の弟の将常、上野・下野の秀郷流藤原氏、貞盛流の常陸平氏、そして、謀反人の忠常自身にも、である。頼信は、自身が坂東に赴く以上、最早、合戦によって忠常を屈服させる気はなかった。忠常は、既に降伏の意思を示している。故に、坂東の他の武家が、忠常の降伏を受け入れ、命令無しに合戦を仕掛けないよう、説得する必要があったのである。

 特に、頼信は、上総介平維時の動きを警戒していた。直方の追討使更迭によって、相模の石田の一族の武名は地に堕ちた。直方は、在京しているため問題はないものの、あの傲慢な維時が、このまま、忠常を降伏させるかどうかが懸念された。

 維時が、再度、兵を率いて安房に渡り、忠常に合戦を仕掛ければ、忠常は応戦せざるを得なくなり、房総三国は、再び戦火に巻き込まれることになる。頼信は、息子の相模守頼義に書状を送り、鎌倉郡の維時が、相模から出られないように牽制させたのである。

 政治工作の二つ目は、朝廷に、降伏後の忠常の処置を一任してもらえるように、嘆願したのである。頼信は、可能であれば、忠常を助けたかった。しかし、忠常自身の処刑は免れなくとも、忠常の子達や、他の村岡の一族、それに、忠常に与同した坂東の武家達が、連座することを避けたかった。

 忠常と、それに関わった武家のすべてに罪を負わせることになれば、まさに、良文流平氏の「先祖の敵」である貞盛流平氏の思う壺であり、叛乱が再燃し、坂東は大混乱に陥るであろう。頼信の目は、既に、忠常降伏後の坂東の未来を見据えていた。

 そして、その未来の中で、坂東の中心に立ち、秩序をもたらすのは、源氏でなければならなかった。源氏による、坂東の支配。それを実現するために、頼信は、京で数ヶ月という歳月を費やしたのである。

 長元四年(1031年)三月、平忠常降伏の受入準備を整えた頼信は、遂に京を出立した。この時、頼信は、一人の法師を伴っている。念仁と呼ばれるその比叡山の僧は、平忠常の息子であった。寛弘六年(1009年)、常陸介の頼信が、忠常を屈服させた際に、名簿を捧げた彼が、降伏の証として人質に差し出したのが、息子の念仁である。

 頼信は、当時、十歳の念仁を、自身の郎党化せずに、比叡山に預けた。その念仁も、既に三十二歳。立派な青年に成長している。頼信は、忠常の降伏が順調に進展するように、最後の切札として、念仁を坂東に同行させたのである。

 翌月の長元四年四月、甲斐国八代郡の甲斐国衙に到着した頼信を待っていたのは、忠常降伏の知らせであった。忠常は、頼信が追討使に任官したことを知ると、即座に降伏の意思を伝え、頼信の坂東下向を待った。そして、頼信が、京を出立したことを聞くと、出家剃髪して、降伏の準備を整えたのである。使者の報告では、忠常は、頼信に降伏するため、既に、上総から甲斐に向かう道中にあるとのことであった。

 そして、四月二十八日。平忠常が、二人の息子、常将・常近を伴い、甲斐国衙に到着した。忠常は、出家剃髪して、改めて、正式に頼信に降伏を願い出た。坊主頭の謀反人が、追討使の前で、深々と、額を畳にこすりつけるように叩頭したのである。

 無論、頼信は、忠常の降伏を受け入れた。念仁が、涙を流して、二十二年振りに再会した父と、弟二人を出迎えたことは、言うまでもない。

 こうして、長元元年から四年に渡った平忠常の叛乱(後に長元の乱と呼ばれる)は、頼信の追討使任官によって、遂に、終息の日を迎えたのである。


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