第十四話「武神の弓」
藤原経清の第三軍が、和気致輔の後軍を攻撃していた頃、平将常の率いる前軍もまた、凄まじい数の矢の雨に晒されていた。吹雪に視界を遮られ、風に乗って迫る矢が見えず、源氏の郎党達が、バタバタと倒れてゆく。
「敵襲!奇襲じゃ!」
藤原茂頼は、叫び声を挙げながら、前軍の指揮官、平将常の許へ馬を走らせた。敵の放つ矢の雨から、父の身を守ろうと、秩父武基・豊島武常・小山田武任の兄弟が、将常の周囲を取り囲む。武任の左腕には、既に、矢が突き刺さっていた。
「将常殿。全軍を停止させて下さい。矢の雨の次は、刀を持った敵が、襲ってくるはず。我等も迎え撃つ準備をせねばなりませぬ。」
茂頼の言葉が、終わった瞬間であった。吹雪に波に乗って、法螺貝の音と、大勢の人間が放つ、叫び声が聞こえてきた。敵軍の襲撃であろう。しかし、目に映るのは、風に舞う雪ばかりで、敵の姿を捉えることができない。それどころか、味方の姿でさえ、ほとんど、視界に入らない。将常の目に入るのは、真っ白く舞う雪と三人の息子達、そして、茂頼とその他、数名の郎党の姿だけであった。
「全軍停止し、敵襲に備えよ!視界不良のため、味方を斬らぬ様に気をつけよ!」
将常は、そう叫ぶと、傍らの郎党に法螺貝を短く吹かせた。全軍停止の合図である。しかし、法螺貝の音が鳴り止む頃には、既に後方では、剣戟の音が響き始めた。直後、絶命の叫び声が響き渡る。戦いは、既に始まったのだ。
その頃、安倍重任の率いる、奥六郡の第二軍は、陸奥国衙の前軍の隊列に突入していた。重任と正任、そして、藤原業近が、手当たり次第に、源氏の郎党達を斬り捨てる。業近は、雪に囲まれた戦場において、平常長の姿を認めた。
「そこにおるのは、鹿島派師範代の平常長殿ではないか!我は、阿修羅王の眷属にして、安倍宗任様の郎党、藤原業近じゃ!」
業近の声に、常長は、一歩前に進み出て、刀を構えた。
「藤原業近殿。先年の武術大会以来ですな。いざ、参らん!」
常長と業近が動き出したのは、ほぼ、同時であった。二人は、真正面から激突し、彼等の剣からは、火花が飛び散る。しかし、業近の豪腕が、常長を凌駕した。常長は、腕力の差を悟ると、身体を捻って、業近の後ろに回り込んだ。業近も、常長を追って、振り向き様に剣を振るう。常長と業近の一進一退の攻防が始まろうとしていた。
同じ頃、安倍重任は、前軍の最前列を進んでいた、平国妙と遭遇していた。重任の刃は、既に二十人以上の血を吸っている。兄の貞任には及ばないものの、重任は、奥六郡では、貞任と義兄の藤原経清に次ぐ、剣術の使い手であった。対する平国妙も、老いたとはいえ、かっては鹿島派の師範代に上った人物である。重任といえども、油断できる相手ではない。二人は無言のまま間合いを詰め、相手の隙を伺った。
その時、国妙の郎党の一人が、重任の背後から斬りかかった。国妙は、その隙を見逃さなかった。振り向き様に郎党を斬り捨てる、重任の背中に、国妙の鋭い突きが襲いかかる。重任は、郎党を斬った反動を利用して、再度、国妙の方に振り返り、国妙の刀を下から掬い上げた。国妙は、刀を弾き飛ばされぬ様に、両腕に最大限の力を込める。
「さすがは、貞任に次ぐと言われるだけのことはある。」
「国妙殿こそ、平不負の異名は間違いではないな。」
二人は、互いに距離を取ると、もう一度、刀を構え直した。
「国妙殿。何故、我等に弓を引くのだ?清原光頼殿は、我等、安倍一門との義を守り、国衙を敵とはせずとも、中立を貫いているではないか。それに、国妙殿の甥の経清殿も、安倍一門の一人。我等と戦う道理はないはず。」
「黙れ!いかに安倍一門や蝦夷が、この奥州で勢威を誇ろうとも、国衙を敵に廻して、無事に済むと思うのか。京の朝廷は、それほど甘くはないぞ!」
重任の問いに、国妙は、息を切らせながら答えた。既に息が上がり始めている。対する重任は、顔色一つ、変わっていない。国妙は、己の肉体の老いを感じざるを得なかった。
重任と国妙の周囲では、夜叉王と夜叉一族による、文字通りの虐殺が始まっていた。吹雪に身を隠すために、白装束に身を包んだ夜叉一族は、神出鬼没の動きで、源氏の郎党達を翻弄していた。剣を交わす間もないまま、次々と、喉首を切り裂かれていく、郎党達。黄海の雪原は紅く染まり、舞う吹雪にさえも、血の色が混じり始めた。
夜叉王は、平将常を探していた。夜叉王と夜叉一族の任務は、前軍の指揮官の平将常を葬り、本軍を攻める、安倍貞任の支援に向かうことであった。吹雪に慣れているとはいえ、視界が狭くなっていることは、夜叉一族でさえ、陸奥国衙の軍勢と変わりはない。夜叉一族は、将常を見つけるまで、手当たり次第に敵を殺し続けるしかなかったのである。
一方、将常は、敵の奇襲によって乱れに乱れた隊列を整え直そうと、自分の周辺に郎党達を集めていた。乱戦の場合、一箇所に固まって敵を迎え撃つ方が、個々に戦うよりも生き残る可能性は高い。茂頼は、将常の命令を伝えるために、馬で戦場を駆け回った。その茂頼の動きが、夜叉王に、将常の居場所を悟らせることになった。
「常将殿!」
茂頼は、馬上から常将の姿を認めると、走り寄って、声をかけた。
「茂頼殿。ご無事であったか。」
「常将殿、前方に、将常殿がおられます。乱戦のために、兵が散り散りになってしまったため、今は、将常殿の周囲に、郎党を集めています。常将殿も、ご自身の郎党を連れて、将常殿の許へ急がれよ。」
「承知した。先程から、息子の常長の姿が見えぬ。常長を見つけ次第、我等も、将常殿の許へ向かいます。」
「いや、常長殿は、私が探しましょう。貴殿は、早く、将常殿の許へ」
茂頼は、常将にそう言い残すと、再び、吹雪の中に姿を消した。
茂頼は、父、藤原頼清の姿を探していた。頼清は、先鋒を務める、副将の平国妙と共に行軍していたはずであった。猛吹雪の中を、馬に乗って進む、茂頼は、源氏の郎党と思しき人物と遭遇すると、将常の許へ集結する様に伝えた。しかし、遭遇するのは、味方ばかりではない。むしろ、敵の方が圧倒的に多かったのだ。既に茂頼も、馬上から十人以上の敵兵と戦い、その命を奪っていた。
前方から剣戟の音が聞こえて来る。隊列の最前列の平国妙の部隊が、敵と戦っているのであろう。茂頼の父、頼清とその郎党達も、同じ場所で戦っているはずであった。茂頼は、馬上から、父の姿を求め、目を凝らした。吹雪の先に、黒い塊の一団が、激しく動いているのが見え始める。馬に鞭を当て、急ぐ茂頼の目に真っ先に飛び込んだのは、三人の徒歩の敵兵に囲まれ、今にも倒れそうな父、頼清の姿であった。
「父上!」
茂頼は、今度は悲鳴にも似た叫び声を上げながら、父を取り囲む敵に向かって突進した。敵兵の一人は、突進して来る馬を避けるため、慌てて後ろに飛びのいた。安倍頼時の六男、正任である。茂頼は、勢い余って、父の前を通り過ぎた後、馬首をめぐらし、再び、正任に向って突進した。正任は、突進して来る馬の正面に立つと、高く飛び上がって、馬上の茂頼に対して、大きく刀を振り下ろした。
剣と剣がぶつかり合う、凄まじい音と共に、茂頼が、馬から転げ落ちる。同時に正任も、雪原の上に落下した。
「茂頼!」
二人の敵兵と斬り結んでいた頼清が、すかさず、茂頼の許へ駆け寄ると、助け起こした。奥六郡の兵二人も、正任の許へと駆け寄る。
「貴殿は、藤原茂頼殿か。私は、安倍頼時の六男、正任。」
正任も、二人の兵に支えられながら立ち上がると、再び、茂頼に刀を向けた。
「安倍正任・・・」
同様に茂頼も、頼清に肩につかまりながら立ち上がった。正任の背後に、吹雪の中から、数人の兵が現れた。皆、奥六郡の兵ばかりで、源氏の郎党はいないようだ。人数的には、明らかに、茂頼と頼清が不利であった。更に正任は、安倍頼時の息子達の中では、武芸は貞任と重任に次ぐと言われる。鹿島派の茂頼といえども、簡単に勝てる相手ではなかった。
茂頼は、形勢が不利であることを悟ると、父と共に馬に飛び乗った。父を見つけた以上、この場は、逃げるのが得策である。茂頼は、頼清を後ろに乗せると、即座に馬に鞭を当て、急ぎ、その場を離れようと、全速力で馬を走らせた。
「逃がすか!」
正任は、徒歩で追うのは不可能と判断すると、弓を構え、馬上の茂頼と頼清に向けて、矢を放った。正任の矢は、後ろに乗る、頼清の背中の胸の辺りに突き刺さった。しかし、全速力で馬を走らせる茂頼は、そのことに気付かなかった。頼清も、息子に心配をかけまいと思ったのか、呻き声一つあげなかった。
その頃、白装束に身を包んだ、夜叉王と夜叉一族は、源氏の郎党達が移動する方向へと突き進んでいた。彼等の進む先に、前軍の指揮官、平将常がいると気付いていたのである。
夜叉王と共に走る、夜叉一族は、十二人。彼等は、白い闇に紛れて敵に近付き、逆手に持った両刃の短刀で、相手の喉を切り裂いた。彼等の通った道筋には、喉元から血を流した死体が累々と横たわり、生存者は一人もいなかったのである。
やがて、夜叉王と夜叉一族の前方に、黒い影が見え始めた。前軍の兵士達が、将常の周囲に集まり、雑多ながらも、円陣を組もうとしていたのである。既に、将常の許へは、百五十人以上の郎党達が集まっていた。その内、騎馬兵は、五十人以上。このまま、郎党達を集結させることに成功すれば、体制を整え、反撃さえも可能になる。
猛烈な吹雪に視界を白く染められ、源氏の郎党達は、白装束の夜叉一族の姿を捉えることが出来なかった。夜叉王と夜叉一族は、将常を取り囲む、郎党の集団の目の前へと到達すると、そのままの勢いで跳躍し、天空高く舞い上がった。そして、虚空の中で懐から刀子を取り出すと、地上の敵兵に対し、数本の刀子を投げ放った。
脳天に短刀が突き刺さり、源氏の郎党達が、バタバタと倒れてゆく。
「敵だ!」
そう叫び声を挙げた郎党も、次の瞬間、上空から振り下ろされた、夜叉王の剣によって、真っ二つに切り裂かれた。異変に気付いた、周辺の源氏の郎党達は、遠巻きに夜叉一族を取り囲もうとする。しかし、夜叉王とその一族は、止まらなかった。彼等は、ただ、円陣の中心を目指した。そこに、前軍の指揮官、平将常がいるはずである。
彼等の前には、源氏の郎党達が、波の如く立ち塞がる。しかし、その悉くが、一瞬の内に懐に入り込まれ、喉元を裂かれて絶命した。将常の首を求める夜叉一族にとって、前軍の兵士達は、何の障害にもならなかったのである。
その夜叉王と夜叉一族の前に、三人の男が立ち塞がった。秩父武基・豊島武常・小山田武任の兄弟である。彼等の背後には、彼等の父、平将常がいた。目標を見つけた夜叉王は、傘下の一族に、停止を命じた。
「貴様等、何者だ?!」
長男の武基は、白装束の不気味な集団に対し、怪訝な表情で問いかけた。
「そこにいるのは、平将常か?」
夜叉王は、武基の質問には答えずに、将常に剣先を向けた。
「そうじゃ。わしが、平将常じゃ。貴様等は、まさか・・・」
将常は、夜叉王の問いに答えると同時に、何かを思い出した様に、顔色を変えた。
「父上。下がってください。ここは、我等が食い止めます。」
次男の武常は、前に出ようとした父を制し、夜叉王に対して、刀を構えた。
「無理じゃ!こやつらは、夜叉一族じゃ!」
将常の叫びが終わらぬ内に、武常の心臓は、夜叉王の剣に貫かれていた。武常の口から、真っ赤な血が溢れ出し、真っ白な雪原を紅に染め上げる。
「兄上!」
三男の武任が、兄の武基に近付いた瞬間、夜叉王のもう一本の剣が、同じく、正確に心臓の位置を貫いた。兄と同様、武任の口からも、大量の血が溢れ出す。
「おのれ!」
武基の叫び声と同時に、周囲の郎党達が、一斉に夜叉王と夜叉一族に斬りかかり、乱戦が始まった。しかし、源氏の郎党達は、夜叉一族の敵ではなかった。十二人の夜叉一族は、素早い動きで敵を翻弄し、懐に入って、喉笛を切り裂いてゆく。
一方、武基は、夜叉王に斬りかかったが、夜叉王が懐から取り出した刀子に額を打ち抜かれ、仰向けに倒れ、絶命した。前軍の指揮官、平将常は、その一部始終を、息子達が、次々と殺されてゆくのを、ただ、呆然と眺めていた。夜叉王の余りに次元の違う強さに、抗う術がないことを悟ったのであろう。
「そうか、そなたが、夜叉王か・・・」
将常は、約三ヶ月前、夜叉王が、陸奥国衙多賀城に侵入し、安倍富忠を暗殺し、源頼義を襲った、という話を思い出していた。今、目の前にいるのは、武家というより、暗殺者である。これほどの暗殺者が、この世に二人といるはずがない。
「そうだ。」
夜叉王は、短く答えると、武任を殺した剣で、将常の心臓を貫いた。
「ぐはっ。」
将常は、大量の血を吐き出しながら、がっくりと膝を着き、絶命した。夜叉王は、将常の身体から剣を引き抜くと、血糊を振り払い、鞘に納めた。
将常の死を目の当たりにした、前軍の源氏の郎党達は動揺し、恐慌状態に陥った。
「将常様が死んだ!夜叉王に討たれた!」
郎党の一人は、狂った様に叫びながら、その場から逃げ出した。他の郎党達も、夜叉王と夜叉一族から、少しでも離れようと、蜘蛛の子を散らす様に四散した。吹雪舞う雪の大海原には、白装束の男達と、喉を切り裂かれた無数の死体だけが残った。奇妙な静寂が、白装束の男達を包み、彼等をより不気味な存在にしていた。
前軍の指揮官、平将常の死は、瞬く間に、前軍の郎党達に広まった。茂頼は、父の頼清を背に乗せて、馬で将常の許へ向かっていたが、逆方向に逃げてゆく、源氏の郎党の話を聞くと、馬を止めて思案した。将常が死んだ以上、前軍を立て直すのは、不可能に近い、ならば、本陣の頼義の許へ向かうべきではないのか。
「父上、お聞きになりましたか?将常殿が、討たれたそうです。我等は、本陣の将軍の許へ向かおうと思います。」
茂頼は、考えをまとめると、背中の父に声をかけた。しかし、父からの返答はない。
「父上!」
茂頼は、振り返って父を呼んだが、頼清は、茂頼の背にもたれかかったまま、身動き一つしなかった。
「父上!」
茂頼は、驚いて馬から降りると、父の身体を馬から降ろした。その時、初めて気付いた。頼清の背中、それも、心臓の辺りに、一本の矢が突き刺さっていることに。
「父上!父上!」
茂頼は、何度も父の身体を揺さぶったが、頼清は目を開けなかった。茂頼は、恐る恐る、父の首筋、動脈に指を当てた。そして、ようやく悟った。父の頼清が、既に絶命していることに。茂頼の両目から、涙が溢れる。
「父上!」
茂頼の慟哭は、凄まじい吹雪によってかき消され、誰の耳にも届かなかった。
その頃、安倍重任と平国妙の死闘にも、ようやく、決着が着こうとしていた。若さ故の重任の体力が、国妙を凌駕しつつあったのである。五十一歳の国妙には、長時間の死闘は、命取りとなった。既に、両足と左手を負傷し、満身創痍の状態にある。
「これで終りだ!」
重任の鋭い剣先が、国妙の刀を弾き飛ばした。
「勝負あったな。」
重任は、国妙の首筋に刀を当てると、二人の戦いを周囲から見守っていた、奥六郡の兵達を呼び寄せた。
「両手と両足を縛り、我等の本陣に連れてゆけ!」
「待て。わしをどうするつもりじゃ。平不負と呼ばれたこのわしが、このまま、おめおめと生き恥を晒せるものか。早く、殺せ!」
国妙は、両手を縛ろうとする兵達に対し、激しく抵抗した。
「国妙殿は、仙北三郡の清原氏の一族。そして、経清殿の叔父でもある。私の一存で、勝手に殺すわけにはいかん。」
重任は、それだけ答えると、国妙に背中を向けた。その時、吹雪の中から現れた兵が、重任の傍へと走り寄り、何事かを囁いた。
「前軍の指揮官、平将常殿が、討ち取られたそうだ。これ以上、国妙殿が、戦っても無意味というもの。」
「将常殿が・・・」
重任の言葉に、余程の衝撃を受けたのか、国妙は、今度は抗うことなく、無表情のまま、両手両足に縄を受けた。
「正任と業近の位置を探せ。」
重任は、兵の一人に命令を下すと、他の兵を一箇所に集結させた。重任の許へは、百人近くの兵が集まっていた。
「正任と業近と合流し、敵の前軍の残党狩りを行う。それが、一段落したら、貞任の兄上の本陣攻めに合流し、源頼議の首を取る!」
重任の言葉に、奥六郡の兵達は、歓声で答えた。
その頃、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の率いる本陣も、安倍貞任の兵と死闘を繰り広げていた。貞任の第三軍が、最初に浴びせた、凄まじい数の矢により、源氏の郎党達の戦力は、事実上、半減していた。額に矢を受けて絶命した者、肩に矢を受けて負傷した者、そして、馬に矢が刺さって、落馬した者。死傷者は、到底、数え切れない。
だが、彼等には、死傷者について考える余裕など無かった。貞任の号令により、奥六郡の兵二千が、源氏の郎党達に一斉に襲いかかったのである。猛吹雪に視界を奪われた郎党達は、満足な戦いも出来ぬまま、次々と倒れていった。特に、二振りの阿修羅刀を自在に操る、阿修羅王安倍貞任の周囲には、血飛沫と屍の山が築かれていった。
そして、貞任は、荒れ狂う雪景色の中、遂に見つけた。陸奥守兼鎮守府将軍源頼義を。頼義の周囲は、長男の源義家を筆頭に、藤原景通・大宅光任・大宅光房・三浦為通・鎌倉章名・藤原則明・藤原景季・藤原範季・清原貞衡など、源氏の精鋭が揃っていたため、奥六郡の兵達に対し、優勢に戦いを進めていた。そこに、貞任が現れたのである。
「ようやく、見つけたぞ。源頼義!貴様等は、既に、二千の兵に囲まれておる。逃げ道はない。観念せい!」
貞任は、頼義の姿を認めると、血糊で紅に染まった阿修羅刀を突き出した。
「なんじゃと!」
頼義は、憤怒の形相で、貞任の前に踏み出そうとした。しかし、その頼義を、義家が手で制した。そして、無言のまま、貞任の前に進み出る。
「義家か。これで、ようやく、貴様と本気で、それも木刀ではなく真剣で、この阿修羅刀で戦うことが出来る。」
「貞任殿。何故、我等が戦わねばならぬのだ。」
「それは、貴様の父に聞け。」
貞任の返答に、義家は、返す言葉が無かった。
「だが、これも宿命であろう。天に二つの太陽が無い様に、この国にも、最強の男は二人もいらぬ。わしか、貴様か。生き残った者が、最強じゃ!」
貞任は、二振りの阿修羅刀を手にすると、右手を前方に突き出し、左手は上段に構えた。
「貞衡。刀を一本、貸してくれ。」
貞衡は、自分の刀を鞘から抜くと、義家に渡した。そして、周囲に転がる死体の中から、目ぼしい刀を拾い、空になった鞘に刺した。
義家は、布都御魂を右手に持ち、上段に構えると、左手に持った刀を前に突き出した。二刀流の貞任に対し、義家も、同様に二刀流で挑んだのである。その間にも、源氏の郎党達と奥六郡の兵達の戦いは続いていたが、貞任は、安倍の兵に対して、攻撃中止を命じた。奥六郡の兵達は、貞任の背後に下がって、二人の戦いを見届けようとした。
奥六郡の兵が退くと、源氏の郎党達も、一旦、戦闘を中止した。大勢の源氏の郎党達と、奥六郡の兵達が、源義家と安倍貞任を取り囲んだ。彼等は、この一騎打ちを、固唾を飲んで見守ろうとした。
合戦の最中とは思えぬ静寂が、義家と貞任の周囲を包む。聞こえてくるのは、雪を舞い散らす風の音と、遥か遠くの死闘の雄叫びであった。義家と貞任は、構えを崩さぬまま、ゆっくりと間合いを詰めていった。
先に動いたのは、義家であった。義家は、左手に持った刀で、貞任の右手を狙った。その義家の左手に対し、貞任は、左手の刀を振り下ろす。義家は、布都御魂で、貞任の左の剣を受け止めた。ほぼ同時に、貞任は、右の刀で、義家の左手の刀を弾いた。
その後は、凄まじい剣戟が始まった。互いに二刀で戦っているため、刀と刀が激しくぶつかり合い、その音が、周囲に木霊する。
「両方の腕の動きが合っている。貴様、二刀流の腕を上げたな。」
何度目かの剣戟の後、貞任が、感心した様に義家に声をかけた。
「奥六郡と合戦など、したくはなかった。だが、正直に言えば、私も、貞任殿と戦う、この瞬間を待っていたのだ!」
義家は、天高く舞い上がると、貞任めがけて、二本の刀を同時に振り下ろした。しかし、貞任は、難なく、二振りの阿修羅刀で、義家の二本の刀を受け止めた。
「確かに腕は上がったようじゃ。しかし、例え、貴様の武芸が、このわしよりも優れていようと、それだけでは、この阿修羅王には勝てぬ!」
「何だと?!どういう意味だ?」
貞任の思いがけない言葉に、義家は、怪訝な表情で見返した。
「その答えは、これだ!」
貞任は二本の阿修羅刀を、義家の左手の刀の刀身に、思い切り打ちつけた。甲高い金属音と共に、打ちつけられた刀身が、二つになって割れ落ちた。
「なに!」
義家は、そして、源氏の郎党達は、驚愕の表情で割れた刀を見た。
「この二振りの阿修羅刀は、かって、須佐乃袁命が使っていた、十拳剣を二振りに鍛え直したもの。布都御魂であればこそ、阿修羅刀と互角に闘えるが、そんな鈍らな剣では、阿修羅刀の攻撃には耐えられぬ。貴様には、二刀流で戦うための剣がないのじゃ。」
「ちっ!」
義家は、悔しそうな表情を浮かべ、割れた刀を投げ捨てた。確かに、貞任の言う通りであった。阿修羅刀と互角に戦える刀が、布都御魂の他にもう一本、必要であった。しかし、そんな刀が、どこにあるというのか。その時であった。
「義家!この剣を使え!」
父の頼義が、一本の剣を、義家に差し出した。
「父上!この剣は・・・」
「そうじゃ。源氏の名刀、髭切の太刀じゃ。この太刀であれば、阿修羅刀とも、互角に戦えるはずじゃ。」
義家は、父から髭切を受け取ると、左手に持って一振りした。
「布都御魂と髭切の二刀流か。貴様も、贅沢な男だな。確かに、それならば、阿修羅刀とも互角に戦えよう。来い!今度こそ、決着をつけてやる!」
義家は、右手に布都御魂を持って上段に構え、左手の髭切の太刀を、貞任に向かって突き出した。そして、間髪入れずに、貞任に突きを入れると同時に、布都御魂を振り下ろす。貞任は、髭切を難なくかわすと、布都御魂を受け止めた。すると、今度は、貞任が、阿修羅刀で義家に突きを繰り出す。凄まじい剣戟が再開した。
両者は一歩も譲らず、激しい死闘が繰り広げられる。頼義と源氏の郎党達は、義家の勝利を祈って、見守ることしかできなかった。それは、奥六郡の兵も同じである。彼等は、義家と貞任を遠巻きに囲みながら、固唾を飲んで、一騎打ちを見守った。
その時、馬の嘶きと共に、数人の騎馬の群れが、貞任と義家の許へ近付いてきた。藤原経清と、彼に従う奥六郡の兵達である。経清は、義家と貞任の死闘に気付くと、黙って馬から降りて、貞任の傍へと近付いた。貞任は、経清に気付くと、義家と間合いを取って、構えを崩さぬまま、経清の傍へ向かった。
「貞任殿。後軍は、既に壊滅させた。今、則任殿と良照殿が、捕虜と燃え残った兵糧を、本陣に運んでいるところだ。」
「そうか。」
経清の報告に、貞任は、満足そうに頷いた。
「なんじゃと!後軍が壊滅・・・。経範は、致輔は、為清は、どうなったのじゃ?!」
経清の言葉が聞こえていたのか、頼義が、興奮した口調で経清に問いかけた。
「三人とも、私が斬りました。」
頼義の問いに、経清は、静かな口調で答えた。
「なんじゃと!経範と致輔が・・・」
五十年以上、自分の傍らにあった側近の死に、頼義の表情は、絶望と怒りに変わった。
「おのれ、経清!よくも、わしの郎党達を!」
頼義は、立ち上がって剣を抜き、今にも経清に斬りかからんばかりの勢いであった。
「経清!源氏を裏切り、奥六郡へ走ったばかりか、経範や致輔、為清までも殺すとは・・・貴様には、人の心がないのか?!」
「何を仰る。経範殿から聞き申した。永衡殿を殺し、富忠から借りた蝦夷兵を使って、阿久斗川事件を偽装し、奥州を戦乱へ導いた本人に言われたくはない。貴方こそ、自分の野望のために、人の心を失ったのだ!」
「許さぬ!」
頼義は、完全に怒りに我を忘れ、経清に斬りかかろうとした、その頼義を制したのは、藤原則明であった。
「経清殿は、私にお任せを。」
則明は、興奮する頼義を抑えると、自ら進み出て、義家の隣に並んだ。
「経清殿、お相手つかまつる。」
則明は、剣を鞘から抜くと、ゆっくりと構えた。
「同門の貴殿とは、戦いたくはなかったが・・・致し方ない。」
経清も、剣を手にして、則明と対面した。経清と則明は、幼少の頃に鹿島派に入門し、共に育った、同い年の親友であった。共に若くして、鹿島派の師範に上り詰め、国摩真人の許で、剣の腕を競い合った。二人は、修行の中で、幾度も剣を交えてきた。その二人が、敵と味方に別れ、命を賭けて戦う日が来ようとは・・・
「天喜三年の武術大会の再現のようじゃ。」
源義家・安倍貞任・藤原経清・藤原則明。この四人は、二年前の天喜三年の武術大会において、準決勝に残った四人でもあった。あの時、この四人が、互いに敵と味方に別れ、命懸けの戦いをすることになるとは、誰が予想できたであろう。
経清と則明の戦いは、静かに始まった。同門の、それも二十年以上に渡り、共に修行を重ねた二人だけに、互いの手の内は、全て把握していた。経清と則明は、互いに相手の目を見据えながら、少しずつ、間合いを詰めてゆく。吹雪は、そんな二人の頬を激しく叩きつけるが、両者共に集中力を切らすことはなかった。
その隣では、義家と貞任の熱く激しい戦いが、再び、開始していた。刀の数が多い故に、剣戟の音が凄まじい。経清と則明の戦いが、「静」の戦いであれば、義家と貞任の戦いは、「動」の戦いであった。義家と貞任、経清と則明、四人の性格と剣技の違いが、「静」と「動」の対照的な戦いを生み出しているのであろう。
やがて、経清と則明の戦いでも、剣戟が始まった。則明は、雪の上を滑る様に間合いを詰めると、経清の胴を狙って、水平に刀を払った。経清は、宙に舞い上がり、則明の剣をかわす。経清は、そのまま、空中から則明に脳天めがけて、刀を振り下ろすが、則明は、それを刀で受け止めると、不安定な経清の身体を力づくで弾き飛ばした。
その隣では、義家が、布都御魂と髭切の太刀を同時に振り下ろし、貞任が、二本の太刀で受け止める。その時だった。則明は、体勢を崩した経清を蹴り飛ばすと、貞任に向かい、突進した。貞任は、両手で義家の剣を受け止めているため、胴がガラ空きになっている。貞任は、両腕に力を込めて、義家の剣を押し返すと、間一髪、則明の突きをかわした。
「何をする!互いに一騎打ちのはずだ。」
貞任は、怒りに満ちた表情で、則明を睨んだ。
「経清殿の相手をするとは言ったが、一騎打ちをするとは言った覚えはない。ちょうど、一騎打ちの戦いが二組。二対二の戦い、というのはどうだ。義家様も、よろしいですな。」
則明の言葉に、義家は、黙って頷いた。
「二対二の勝負か。それはそれで、面白そうじゃ。経清殿も良いな。」
「ああ・・・」
経清は、ゆっくりと立ち上がりながら、気の進まない返事をした。経清は、則明と互角に戦えるのは、自分と貞任以外にいないと考え、則明との勝負を受けた。しかし、源氏の御曹司である、義家に剣を向けるのは、気が進まなかったのだ。
経清のそんな気持ちは、貞任や則明には通じなかったが、おそらく、義家も、鹿島派の師である、経清に剣を向けることに、躊躇いがあったことは間違いない。しかし、状況はそれを許さなかった。奥六郡に味方すると決めた以上、安倍一門の一人として生きると決めた以上は、義家と則明は、敵なのである。
義家と則明は、互いに目くばせすると、貞任に向かって、二人同時に攻撃を繰り出した。義家が、上段から剣を振り下ろし、則明が、突きで足元を狙う。経清は、貞任と則明の間に割って入り、則明の突きを剣で弾いた。そのまま、凄まじい攻防が続く。
しかし、この二対二の戦いは、明らかに、義家と則明の二人の方が、貞任と経清よりも、有利であった。何故なら、義家と則明は、同じ鹿島派で修行し、鹿島派の剣術を使うため、二人の息と技が、見事に一致していた。対する、貞任と経清は、流派が違うため、互いに相手の技を知らず、攻撃はバラバラで、呼吸を合わせることができない。
「このままでは、まずいな・・・」
貞任と経清の表情に、焦りの色が現れ始めた。その瞬間であった。義家が右手に持つ、布都御魂が、ぼんやりとした、薄い光を放ち、唸る様な音を出し始めた。
「これは・・・?」
「何だ?」
布都御魂の異変に、義家・則明・貞任・経清の動きが止まった。そして、義家の持つ、布都御魂に四人の視線が、否、その場に居合わせた、全ての者の視線が釘付けになった。
「まさか・・・」
義家は、三ヶ月前、多賀城において、同じ様に布都御魂が、光を放ち、唸り声を挙げていたのを思い出した。
「夜叉王が、近付いているとでも言うのか・・・」
義家は、驚きの表情を浮かべ、布都御魂を見詰め続けた。
「なるほど、布都御魂が、夜叉王に反応している、ということか。」
義家の言葉に、貞任が反応した。貞任には、思い当たる事があった。
「布都御魂は、太古の昔、鹿島神が神武天皇に授けた剣。そして、夜叉王と夜叉一族は、神武天皇を苦しめ続けた者の末裔・・・」
貞任は、布都御魂を凝視しながら、独り言の様に呟いた。
「だから、国摩真人様は、義家様に布都御魂を授けたのか。奥州の地での戦いにおいて、夜叉王こそが、最も警戒すべき敵である故に・・・」
経清と則明は、国摩真人の意図を、ようやく、理解したようだった。
その時、四人の戦いを見守っていた、藤原景季が、突如、義家の傍に駆けつけ、貞任の前に立ち塞がって、刀を抜いた。
「義家様、則明様。将軍を連れて、この場から離れて下さい。貞任殿と経清殿に加え、夜叉王まで現れれば、我等には、万に一つも勝ち目はありません。ここは、私に任せて、多賀城まで撤退して下さい。お二人の任務は、将軍の護衛のはずです。」
「馬鹿な!逃げろと言うのか。しかも、そなたを残して。」
景季の言葉に、義家は、あり得ない、という口調で反論した。
「今日、この場において、将軍と義家様が死んでしまえば、源氏は終りです。お二人は、何としても生き延びて下さい。頼義様と義家様さえ、生きていれば、源氏と坂東武家は、何度でも甦ることができます。」
「いかに景季殿といえど、貞任殿と経清殿を一人で相手にするのは無理だ。私も残って、景季殿と共に戦おう。それに、夜叉王が来るのであれば、尚更だ。」
則明は、景季と共に死すことを覚悟した。
「いや、則明様には、将軍と御曹司を護衛するという、重要な務めがあります。この先、敵の包囲を打ち破り、頼義様と義家様を無事に多賀城に戻すためには、必ず、則明様のお力が必要になります。ここは、私にお任せ下さい。」
「景季殿一人では、無理だ。」
則明が、尚も食い下がる間に、今度は、三浦為通と鎌倉章名、彼等の郎党、数十名が、景季の許へ集結した。
「景季殿は、お一人ではない。我等も共に残って、貞任と経清を食い止めようぞ!」
「為通殿、章名殿・・・」
景季は、為通と章名の申し出に感激しながらも、義家と則明に、即座にこの場を離れる様に促した。二人は、覚悟を決めたのか、刀を手に周囲に警戒したまま、頼義の傍へと向かおうとした。
「義家、待て!まだ、決着は着いてはおらんぞ。」
義家を追いかけようとする、貞任の行く手を、景季が遮った。
「貴殿の相手は、この私だ!」
景季の気迫に感じるものがあったのか、貞任は、歩みを止めて、景季に向き直った。
「では、貴様を蹴散らして、義家を追うことにしよう。」
景季と貞任は、互いに剣を構えると、相手の隙を伺った。
「兄上!」
「範季、待て!」
景季の弟の範季は、思わず、兄の許へ飛び出そうとしたが、父の景通に遮られた。それまでの間、景通は、迷い、逡巡し続けたようやく、何かを決心したようだった。
「景季!親としては、おまえを残してゆきたくはないが、わしは、将軍の傍を離れるわけにはいかない。わしと範季は、最後まで、将軍を護衛する。だから、おまえも生きろ!決して、死ぬんじゃないぞ!」
景通にとって、精一杯の親心だったに違いない。景通は、最早、生きて、再び、景季に会うことはないと、覚悟を決めたのであった。しかし、貞任と対峙する景季には、父と弟の方へ振り返る余裕はない。貞任は、そんな景季を哀れに感じたのか、一旦、構えを下げ、景季に父子の別れの時間を与えた。
「貞任殿。ありがとう。恩に着る。」
景季は、貞任に礼を言って振り返ると、景通と範季と目を合わせた。親子・兄弟の間に、言葉はいらなかった。ただ、言い尽くせぬ、熱い思いが、それぞれの胸にこみあげていた。その後、景季は、既に馬上の人となっていた、頼義・義家・則明・貞衡・光任達に視線を向けて、一礼した。
「景季、死ぬなよ。」
義家は、一言だけ、景季に言葉を投げた。そして、馬に鞭を当てると、吹雪の中、全速力で駆け出した。景通と範季も、急ぎ、馬に飛び乗って、義家達の後を追った。
景季は、義家達を見送ると、貞任の方に振り返り、再び、一礼した。
「義家様、経清様、そして、則明様には及ばないが、私とて、鹿島派の師範。ここで、貴殿を食い止めてみせる。」
景季は、貞任に対し、剣を構えた。
「経清殿。奴等を追ってくれ。」
貞任は、視線を経清に向けると、義家達を追うように促した。
「よし。ここは任せた。ただ、できれば、景季殿は・・・」
言いよどむ、経清に対し、貞任は、黙って頷いた。経清は、それを見届けると、義家達を追撃しようと、動き出した。その経清を、三浦為通と鎌倉章名が遮った。
「経清!ここから先は、一歩も通さぬ。」
為通と章名は、刀を抜くと、二人同時に、経清に襲いかかった。経清は、背後に飛んで、二人の攻撃を避ける。
「お二人では、私には勝てませぬ。」
「それくらいのこと、我等にもわかっておる。だが、我等には、四十人近い郎党がおる。最早、一騎打ちなど望んでおらぬ。将軍が、無事にこの戦場を脱出するまで、何としても、ここで食い止める。」
為通と章名の背後では、四十人近い郎党達が、一斉に剣を抜いて、身構えた。
「馬鹿な!我等は二千近い兵で、貴殿達を取り囲んでいるのですぞ。たったの四十人程度では、どうにもなりません。降伏して下さい。」
「我等の郎党に、源氏のために命を惜しむ者など、一人もおらぬ!」
経清の必死の説得も虚しく、為通と章名、そして、彼等の郎党達は、鬨の声を上げて、一斉に経清に襲いかかった。同時に貞任と経清の背後に控えていた、奥六郡の二千の兵も、数少ない、源氏の郎党達に向かって突進した。
乱戦が始まった。しかし、その数は、二千対四十。兵力差は、五十倍である。源氏の郎党達は、生きるためではなく、死に花を咲かせるために戦った。そして、奥六郡の無数の兵に取り囲まれ、一人、また一人と倒れていった。
その間、貞任と景季は、まるで、周囲の戦いとは無関係かの様に一騎打ちを始めていた。しかし、貞任の二刀流の剣裁きに圧倒され、景季は、防戦一方であった。
「やはり、私では、貞任には勝てぬのか・・・」
景季は、貞任の阿修羅刀を何とか受け止めながらも、反撃の機会を伺っていた。しかし、二刀を自在に操る、貞任の攻撃に隙はなかった。そして、逆に貞任の刃が、一瞬の隙を突いて、景季の胴を切り裂いた。
「うぐっ!」
景季の鎧の隙間から、血が滴り落ちる。鎧を着ていなければ、即死だったに違いない。そして、次の瞬間、貞任の阿修羅刀が、景季の右肩を貫いた。
「ぐっ!」
景季は、苦しみに耐え切れずに声を挙げ、思わず、刀を落とした。
「勝負あったな。」
貞任は、景季の首筋にピタリと剣を当てた。
「貞任殿!」
乱戦の中、経清は、貞任と景季の様子に気付くと、二人の傍に駆け寄った。既に、源氏の郎党達は、為通と章名を含めて、十人程度しか残っていない。激闘の末に果てた、三十人以上の屍から流れる血が、白い雪原を紅く染めている。
しかし、彼等の死は無駄ではなかった。奥六郡の兵、七十人以上の屍が、雪原に晒されているのである。源氏の郎党達は、一人一人が、二人以上の敵を倒し、死んだのであった。彼等の奮戦ぶりが、いかに凄まじかったのかが、それだけでも垣間見える。
その時、突如、真っ白な吹雪の中から、白装束の集団が、戦場に登場した。夜叉王と夜叉一族である。その異様な風体と彼等の放つ強烈な殺気に、源氏の郎党のみならず、奥六郡の兵士達も、恐怖で顔を青ざめさせた。
「夜叉王。首尾はいかがじゃ?」
夜叉王の突然の登場に、貞任でさえも、驚きの表情を隠しきれなかった。
「前軍の平将常と、その一党は壊滅した。頼義と義家はどうした?」
「前軍が壊滅・・・」
夜叉王の言葉に愕然としたのは、景季と為通・章名など、源氏の郎党達であった。
「前軍を壊滅させたか。頼義と義家には逃げられた。しかし、この雪の中じゃ。まだ、そう遠くへは行っていまい。ここを片付けたら、奴等を追う。」
貞任は、景季が動かぬよう、首筋に刃を当てながら、夜叉王に答えた。
「そうか。では、即座にこの場を片付けよう。」
次の瞬間、夜叉王と夜叉一族が、一斉に動き始めた。夜叉王は、瞬時に為通と章名の傍へ近付くと、瞬く間に二人の喉を切り裂いた。他の源氏の郎党達の生き残りも、同じ運命を辿った。夜叉一族は、次々と郎党の喉を切り裂き、血飛沫が、白い雪原に飛び散った。後には、累々たる屍の山だけが残された。一瞬の内に、源氏の郎党は壊滅。その場で生き残ったのは、景季一人となった。
「為通殿!章名殿!」
景季は、絶望の余り、絶叫した。貞任と経清、夜叉一族、そして、奥六郡の兵が、景季の周囲を取り囲む。最早、景季には、助かる道さえなかった。
「景季。降伏せよ。わしも一度は、そなたを友と思うたこともある。あの十三湊と恐山に共に旅した者の一人としてな。わしとて、そんな相手を殺したくはない。」
貞任は、絶望の淵にいる景季に対し、降伏を促した。
「景季殿、貞任殿の言うとおりだ。私は、かって、貴殿の師であった。弟子の死を望む、師はいない。私も、貴殿には死んで欲しくない。降伏せよ。そして、生きるのだ。生きて、再び、義家殿に仕えればよいではないか。」
経清は、必死に景季を説得した。経清にとって、景季は、義家と共に鹿島派に入門して以来、剣の技と心を鍛え上げた、愛弟子の一人であった。景季は、義家に次いで、優秀な弟子でもあった。剣の師が、その弟子の命を、失いたいはずがない。
「私は・・・降伏はせぬ・・・」
景季は、斬られた脇腹を押さえながら、懸命に落とした刀を拾い上げた。
「貞任殿。私を殺せ。殺すのだ。」
「何故、それほどまでに、命を無駄にしたがる。捕虜になることが、それほどの恥辱か。」
「そうではない。」
景季は、渾身の力を込めて、貞任に対し、剣を構えた。
「義家様は、迷っておられる。将軍が、ご自身の父である頼義様が、強引に始めたこの合戦において、貞任殿や経清様と刃を交えることを・・・。あの御方も、お二人のことを、心の底から友と思うておる。だから、敵とは思えんのだ。
しかし、戦場において、迷いや躊躇いは、死に繋がる。いかに義家様が武芸に優れていようと、貞任殿を憎み、経清殿を敵と思わなければ、戦いの最中に迷い、躊躇うことで、必ず、隙が生まれ、そして、義家様が命を落とすことになる。
だからこそ、私は死ぬべきなのだ。義家様のために、貞任殿と経清様に斬られて、死すべきなのだ。私が死ねば、義家様も、貞任殿を憎めるようになるであろう。経清様を敵と見做すことができるであろう。だから、頼む。義家様のために、私を殺してくれ。」
景季は、最後の力を振り絞って、貞任に斬りかかった。貞任は、渾身の力を剣に込めて、景季の剣を弾き飛ばした。
「わかった・・・。貴様の最後の願い、聞き届けてやろう。」
「待て!貞任殿。景季、死んではならん!」
大きく剣を振り上げた貞任を、経清が、必死で止めようとする。
「経清様、今まで、ありがとうございました。私も、貞任殿、経清様のことを、友と思うておりまする。」
景季は、すべてを観念したかの様に、目を閉じた。貞任は、振り上げた剣を渾身の力で振り下ろし、一撃で景季の首を落とした。経清の声にならない慟哭が、吹雪に覆われた雪原に響き渡った。藤原景季、享年二十五歳であった。
その頃、鎮守府将軍兼陸奥守の源頼義は、陸奥国衙多賀城に向けて、吹雪の舞う雪原を走り続けていた。既に、頼義に従っているのは、長男の源義家の他には、大宅光任と光房の父子、藤原景通と範季の父子、下毛野興重、鹿島派の藤原則明・清原貞衡・藤原季俊・物部長頼・海野幸家、そして、大宅光任の十二人の郎党のみであった。
しかし、猛烈な吹雪のために、方角が定まらず、既に一行は、多賀城の方向がわからなくなっていた。経清の言葉により、後軍が壊滅したことは判明したが、前軍の様子も不明なままである。だが、源氏の郎党、千八百の軍勢が、壊滅的な打撃を受けたことは確かで、郎党達は、散り散りになって、雪原を彷徨っているであろう。
最早、軍勢を建て直し、攻撃に移るのは不可能であった。故に、この場は、一刻も早く戦場から離れる必要があった。敵は、奥六郡の兵達は、将軍の首、その一つを狙っている。鎮守府将軍の頼義が討ち死にすれば、奥州において、朝廷の威光は地に堕ちる。頼義は、何としても、多賀城に生きて還る必要があったのである。
二十数名の一行が、戦場を彷徨う中、奥六郡の兵達が、彼等を発見し、追撃を始めた。安倍頼良の弟、良照の兵である。良照は、後軍を壊滅させた後、捕虜を本陣に連行すると、自らは、二百の兵を連れて、残党狩りを行っていた。良照は、自分達の前方をひた走る、源氏の一団の中に、頼義がいることに気付いていなかった。
「追え!逃がすな!」
良照は、兵達を叱咤しながら、全速力で源氏の一行を追いかけた。奥六郡の数人の兵が、馬上で弓を構え、前方の敵に矢を射掛ける。
「将軍、追っ手が迫っています。将軍達は、このまま、戦場を脱出して下さい。追っ手は我等が食い止めます。」
頼義と平行して疾走していた、大宅光房は、馬首をめぐらし、反転した。
「貴様達も、我等に続け!将軍をお守りするのじゃ!」
光房の命令に、十二人の郎党達も、一斉に向きを変える。
「父上!将軍と義家様を、お頼みします。」
「光房、無駄死にはするなよ・・・」
光房は、父と一言だけ、言葉を交わすと、良照の一団に向かって突撃した。下毛野興重・藤原季俊・物部長頼・海野幸家も、それに習って、良照とその兵達に向かって突進する。
「父上、我等も!」
「待て!景季と約束したではないか、我等は、将軍を守るのじゃ!」
光房を追って、追っ手と戦おうとした息子の範季を、景通が制した。
「しかし・・・相手は、我等の十倍近い数です。彼等だけでは・・・」
範季は、光房を案じて、尚も食い下がる。
「これ以上、将軍を護衛する者が減ってしまえば、次に敵に遭遇した時に、頼義様を守り切れなくなる。その程度のこともわからんのか!」
父の叱咤に、範季もようやく納得して、再び、頼義の後を追った。
大宅光房を先頭とする一団は、良照の率いる二百の敵に対して、馬上から矢を次々に放ちながら、突進した。一人、また一人と、奥六郡の兵が、矢の犠牲となって、馬上から雪の上に転げ落ちる。二つの集団が交差する時、源氏の郎党達は、刀を鞘から抜き払って、馬上の敵を切り払った。奥六郡の兵達は、血飛沫と共に馬から落ちて、絶命してゆく。
「我等だけで、敵を壊滅させるぞ!」
下毛野興重の言葉に大きく頷くと、源氏の軍団は、再び、馬の向きを変え、奥六郡の兵達に向かって突き進んだ。
「わしは、安倍頼時の弟、良照じゃ。貴様等は、何者じゃ!」
良照は、自身の傘下の兵達が、瞬く間に斬り倒されるのを見ると、敵がただの兵ではないことを悟った。
「私は、大宅光任の子、光房!」
「鹿島派師範、藤原季俊!」
「同じく鹿島派の物部長頼!」
「我こそは、諏訪派師範の海野幸家だ!」
「わしが、下毛野興重じゃ!」
光房・季俊・長頼・幸家・興重が、各々、良照に対して名乗りを上げる。良照は、その名を聞くと、驚愕の表情を浮かべながらも、兵達に指示を出した。
「囲め!敵を囲むのじゃ。相手は、鹿島派、諏訪派の使い手達。一対一では歯が立たぬ。敵は、我等の十分の一にも満たぬ!一人一人を囲んで、一斉に攻撃せよ!」
奥六郡の兵達は、良照の指示を理解したのか、源氏の軍団を遠巻きに囲みながら、ゆっくりと包囲を狭めてゆく。そして、良照は、一人、興重に向かって突進した。
「下毛野興重!富忠を誑かし、龍王様を危機に陥れた男。そして、兄上の仇!」
良照は、興重に対して、猛然と突撃。興重の馬に自らの馬をぶつけ、自身は、馬上から興重に飛び掛った。二人は、互いに絡み合ったまま、馬上から雪の上に転落する。
「なんの!」
良照に組み伏せられた格好の興重は、足に力を込めると、思い切り蹴り上げて、良照を跳ね飛ばした。そして、間髪入れずに刀を抜き、良照に斬りかかる。良照は、雪の上を転がって、興重の刃をかわした。
一方、藤原季俊・物部長頼・海野幸家の鹿島派、諏訪派の門弟達は、各々、十人以上の敵に囲まれながらも、次々と敵の兵達を斬り伏せ続けていた。既に、三十人は殺しているであろう。鹿島派師範の季俊と、諏訪派師範の幸家にとって、武芸の心得の薄い相手が、どれほどの数で襲って来ようとも、全く脅威とはならなかった。
大宅光房は、自身の郎党達を指揮しながら、敵と戦っていた。十二人の郎党の内、既に半数の六人が失われている。それでも、六人の犠牲で、二十人以上の敵を倒していた。
「将軍。義家様。無事に多賀城に辿り着いて下さい。敵は、ここで食い止めます。」
光房は、義家達が走り去った方向を眺めながら、決意を胸に敵に立ち向かった。
源義家とその一行は、多賀城へ向かって、真っ白な雪原を走り続けた。既に、一行は、七人にまで減っている。源頼義・源義家・大宅光任・藤原景通・藤原範季・藤原則明・清原貞衡である。鎮守府将軍と陸奥守を兼ねる、源頼義の周囲には、息子を含め、六人しか残らなかったのである。文字通りの大敗であった。
「ええい!経清め。貞任め。」
頼義は、悔しさを抑えきれずに、悪態を口にしながら、馬に鞭を当て続けた。次の瞬間、猛烈な吹雪に混じって、無数の矢が、一行に向かって飛来した。その内の一本が、頼義の馬の眉間に突き刺さる。頼義の愛馬は、悲鳴の様な否鳴き声を上げると、前足を高く上げ、頼義を振り落とした。そして、ドサリと雪の上に倒れ、動かなくなる。
「父上!」
「将軍!」
義家、光任、景通が、雪の上に蹲る、頼義の許へと駆け寄った。同時に、則明と範季、貞衡は、矢が飛来した方向に目を向けた。右手の丘の上から、無数の敵が迫って来る。その数は、凡そ、二百。率いるのは、安倍頼時の八男、安倍則任であった。
「将軍、敵です!」
範季の声に、頼義は、絶望的な表情を見せた。落馬の衝撃で、腰を痛めたようだ。
「我が命運も、ここで尽きるのか・・・」
頼義が、力の無い声で呟いた。
「義家、わしを置いて逃げよ。そなたの腕なら、一人でも突破できるであろう。最早、わしは、そなたにとって、足手まといに過ぎん」
「愚かなことを・・・鎮守府将軍であり、陸奥守であるのは、父上です。私は、無位無官に過ぎません。父上がいなくなったら、誰が、陸奥国衙を守るのです。」
「こんな大敗を喫しては・・・経範も失ってしまった。わしには、もう、奥六郡と戦う力など、残ってはおらぬ。このまま、ここで死なせてくれ。」
頼義は、雪の上に蹲ったまま、立ち上がろうとはしなかった。夢遊病者の様な目つきで、眼前の雪を追っている。
「いい加減にしなされ!父上は、負けたまま、引き下がるのですか?源氏が、安倍一族に大敗を喫したまま、復讐をしないのですか?それでも源氏の棟梁か!」
義家は、叫びながら、頼義の頬を平手打ちにした。瞬間、頼義の目が、正気に戻った。
「将軍。少しの間、お待ち下さい。」
藤原則明は、頼義に声をかけると、敵の方向へと一人で突進した。そして、最初の敵との擦れ違い様に、剣を一閃させた。血飛沫が舞い上がり、奥六郡の兵が、馬から落下する。則明は、背中が空いた、敵の馬の手綱を掴んで、元来た道を引き返そうとした。その則明に対し、二人の奥六郡の兵が、両脇から則明を挟む様に並走した。則明が、刀の柄に手をかけた瞬間、左側を並走する敵兵の首に、矢が突き刺さった。その直後、今度は、右側の敵兵の首にも、矢が突き刺さり、馬上のまま、息絶えている。
「義家様か!」
則明の目に、頼義の傍らで、弓を構える、義家の姿が飛び込んできた。義家は、再び、矢を番えると、則明の後ろに迫る敵に向かって、矢を放った。狙い違わず、矢は、奥六郡の兵の首に突き刺さり、敵兵が、馬から転げ落ちる。
義家は、今度は、背中の矢筒から、二本の矢を手に取ると、二本同時に弓に番え、矢を放った。二本の矢は、右と左に分かれて進み、別々の敵兵の首に突き刺さる。
「この目で見ていなければ、信じられん・・・」
景通と範季は、義家の神技に、呆然と呟くばかりであった。
「双燕箭です・・・古来、誰一人、極めた者がいないと言われる、宇佐派の奥義・・・」
義家と共に宇佐派の弓術を学んだ、光任が呟いた。実際、光任も、自分で目にしたのは、初めてであった。同時に、則明が、主のいない馬を連れ、頼義の許へ舞い戻った。
「将軍、新しい馬です。こちらに乗り換えて下さい。」
「しかし、既に、敵に囲まれておる。突破するのは、難しいぞ。」
頼義は、周囲を見回しながら、力の無い声で返事をした。
「源頼義様、義家様。降伏して下さい。そうすれば、命は保証します。」
安部則任の声が、真っ白な雪原に響き渡る。頼義の言葉通り、二百人近い敵兵が、彼等の周囲を取り囲んでいた。
「則任殿か!我等は・・・降伏などせぬ!」
義家は、立ち上がって弓を構えると、再び、二本同時に矢を放った。二本の矢は、則任に向かって真っ直ぐに進むと、則任の両頬を掠めて、飛び去った。則任の左右の頬から、同時に血が滴り落ちる。則任は、驚愕の余り、声も出せなかった。
「次は、外さぬぞ。」
義家が、改めて、新しい矢を番えると、則任の護衛兵が、主を守ろうと、慌てて、義家と則任の間に立ち塞がった。
「仕方がない。一気に攻めよ!」
則任は、奥六郡の二百人の兵に対し、一斉に攻撃を命じた。頼義は、急ぎ、新しい馬に飛び乗る。頼義に従う、義家・光任・景通・範季・則明・貞衡も、同時に馬に飛び乗り、全速力で囲みを突破しようとした。
「逃がすか!」
則任の合図で、奥六郡の十人の弓兵が、一斉に弓を構える。
「馬を狙え!」
十本の矢が、同時に放たれた。その内、一本の矢が、義家の馬の右後ろ足に突き刺さる。今度は、義家の愛馬が倒れ、義家は、雪の上に投げ出された。
「ちっ!」
義家は、起き上がるなり、二本の矢を弓に番え、同時に放った。二本の矢は違わずに、二人の弓兵の首筋に突き刺さった。
「ひるむな!もう一度、射るのだ!」
則任の言葉で、八人になった弓兵が、一斉に矢を放つ。その内の一本が、今度は、範季の馬の腹を射抜いた。苦痛に呻く馬が、前足を上げた瞬間、範季は、急いで、馬から飛び降りた。他の五人も、一斉に馬の首を返し、乗馬を失った二人に駆け寄る。
「どうしても、我等を行かせたくないようだな。」
義家は、再び、二本の矢を番え、弓兵に向かって放った。今度は、間髪入れずに、更に二本の矢を放つ。一瞬の内に、奥六郡の弓兵の内、四人が絶命した。義家は、尚も弓に矢を番えると、構える間もなく、信じられない速さで連射した。放たれた矢は、一本も無駄にはならず、次々と、確実に弓兵の首筋を射抜いてゆく。
「信じられん・・・瞬く間に、十人を射抜くとは・・・それも、一本も外さず」
頼義は、敵に囲まれていることを忘れ、息子の神技を呆然と見詰めていた。それは、彼に従う、光任・景通・範季・則明・貞衡も同じであった。
「貞衡、矢が足りない。皆の矢を私に貸してくれ。」
義家の矢筒に残っていたのは、既に、六本の矢のみであった。その間にも、奥六郡の二百の兵達は、七人に向かって、猛然と襲い掛かって来た。則明と景通、範季は、剣を抜き払って、敵中に飛び込んだ。三対二百の乱戦が始まった。
義家は、貞衡の矢を受け取ると、今度は、三本の矢を同時に弓に番え、そして、放った。三本の矢は、まるで、生き物の様に、別々の敵を目指して進み、首筋に突き刺さる。
「二本どころか、三本、同時にじゃと!?」
頼義は、驚いて、光任と顔を見合わせた。義家は、間髪入れずに、三本ずつ、矢を放ち続ける。矢は、一本も目標を違えることなく、確実に、奥六郡の兵の命を奪い続けた。
「矢だ!矢が足りぬ!」
義家の要求に、貞衡は、頼義と光任の矢を全て預かり、義家の矢筒に突っ込んだ。光任と貞衡は、それでも尚、矢が足りなくなると考え、敵中に突っ込んで、敵の死体から矢筒を奪い集め、義家の許へ運ぶ。義家は、黙々と矢を射続け、矢が放たれる度に、矢と同じ数だけの奥六郡の兵の命が、消え続けた。
「信じられぬ・・・この吹雪の中、一本も外さず、しかも確実に急所を射抜くとは・・・まさか・・・本当に八幡神の生まれ変わりだとでも言うのか・・・」
義家の神技に、則任は、恐怖のみならず、畏敬の念さえ覚えた。既に、義家の矢だけで、四十人以上の兵の命が失われている。
「ここまで、追い詰めていながら・・・」
則任は迷った。義家の弓だけではない。則明・景通・範季の三人にも、既に二十人以上の兵が斬られている。今、則任が率いる兵の中には、彼等に太刀打ちできる兵はいない。指揮官としては、これ以上、兵の命を無駄にするわけにはいかなかった。しかし、鎮守府将軍を捕らえる、もしくは、殺害する機会は、二度と訪れないであろう。
「貞任の兄上か、経清殿がいれば・・・」
則任は、頼義の一行が遭遇した相手が、自分であることに天意を感じざるを得なかった。則任は、政治家として、もしくは、指揮官としても有能ではあったが、武芸においては、安倍一門の中でも、強者とは言い難い。貞任・経清・重任・業近は無論のこと、正任・宗任・良照にも劣る。それに対し、頼義・義家・光任・景通・範季・則明・貞衡の七人は、いずれも劣らぬ、一騎当千の武者である。則任の太刀打ちできる相手ではなかった。
その間にも、範季は、失った愛馬の代わりに敵の馬を奪い、則明は、義家のために新しい馬を奥六郡の兵から奪い取っていた。そして、義家の連射は続いていた。このままでは、二百の兵が、全滅する恐れさえもある。
「退け!退くのじゃ!」
悩んだ末に、則任は、奥六郡の兵を撤退させる決断を下した。義家の神技に恐れをなしていた、奥六郡の兵達は、義家の矢の射程距離から離れるために、可能な限り、遠くへと逃げ出した。最早、総崩れしたと言える。則任も、兵と共に撤退し、距離を置いて、頼義主従を見詰めていた。
「義家様。この馬をお使い下さい。」
義家は、則明が連れて来た馬に飛び乗ると、もう一度、今度は一本の矢を弓に番えて、遠巻きにこちらを見ている、則任に向けて放った。矢は、則任の首をかすめ、背後の木へと突き刺さる。信じられない飛距離であった。通常の弓兵が放つ矢の四倍以上の飛距離であったであろう。則任は、義家が、敢えて、狙いを外したことを理解した。これ以上は、追うなという脅しであろう。
「父上、急ぎましょう!」
「そうじゃな・・・」
頼義は、今、目の前にいる男が、自分の息子であるとは、信じられない気持ちでいた。
「行くぞ!」
頼義は、自身の気持ちを落ち着けるためにも、声をあげた。源頼義・源義家・大宅光任・藤原景通・藤原範季・藤原則明・清原貞衡の七人は、一斉に馬を走らせた。
彼等は、後世、勇猛七騎と呼ばれ、伝説の存在となる。