第十一話「経清の決断」
「永衡殿が、死んだ・・・」
源義家は、半ば放心した様子で、手にしていた書状を取り落とした。天喜四年九月六日、大宅光房は、留守居役として多賀城に残っていた、源義家の許を訪れた。書状の差出人は、大宅光任。頼義は、永衡の死を義家へ伝える役を、守役の光任に任せたのである。
光房は、光任の長男で、乳兄弟として、幼少の頃より、義家と共に育った。義家が宇佐派の門弟に連なった時には、藤原景季と共に豊後国に赴いている。
駿河国の所領を経営するため、鹿島派に入門することはなかったが、源氏の郎党の中では、義家にとって、最も心を許せる存在であった。光房は、後軍の指揮官であり、陣中を離れられない。故に、光房に書状を持たせ、多賀城に遣わしたのである。
「永衡殿が!?」
清原貞衡は、義家の落とした書状を素早く拾い上げて、目を通した。書状を持つ手が、小刻みに震えている。今度は、藤原景季が、沈黙したままの貞衡の手から、書状を乱暴に奪い取って読み上げた。
「去る九月四日、前軍の伊具郡司永衡殿に内通の疑いがあり、将軍の命によって、陸奥権守が、伊具郡司を本陣に連行せんとしたところ、伊具郡司は、権守に斬りかかったため、権守はやむを得ず防戦の上、伊具郡司を殺害してしまったとのことです。伊具郡司は、権守を殺害して、逃亡を企てたと考えられます。」
日頃は冷静沈着な、景季の声も動揺で震えている。
「永衡殿・・・」
貞衡は、ガックリと膝を落としながら、涙を流した。
「おのれ、説貞!斬り捨ててくれるわ!」
義家は、傍らの布都御魂剣を手に取り、憎悪の瞳を虚空に向けた。怒りと哀しみで、両の眼が真っ赤に染まっている。光房は、憎悪を剥き出しにした義家の姿に、恐怖を感じた。今の義家であれば、本気で説貞を殺しかねない。
「義家様、落ち着いて下さい。頼義様も、説貞殿が、身を守るために仕方なく永衡殿を殺害したと認め、罪は問わぬと仰せです。その場に居合わせた、光貞殿と元貞殿が、説貞殿の言葉に偽りはないと、証言しております。」
光房は、刀を手にしたまま部屋を出ようとする義家を、何とか押し留めた。
「偽りはないだと!光貞と元貞が、父親の説貞に不利な証言をするはずがない!」
「そうです!義家様は、説貞を!私が、光貞と元貞を斬ります!」
義家の怒声に、怒りに声を震わせた貞衡が、立ち上がって同調した。貞衡の両目も、涙と憎しみで真紅に変わっている。まるで、血の涙を流しているかのようだ。
「貞衡殿まで、何を言われる。説貞殿は仮にも陸奥権守。斬れば、義家様と貞衡殿が、朝敵になりますぞ。景季殿も、何とか言って下さい!」
光房は、書状を手にしたままに呆然と立ち尽くす、景季に助けを求めた。
「光房殿。永衡殿が、殺された時の様子を教えて下さらぬか。」
景季は、涙を抑える様に、掠れた声で光房に問いかけた。義家と貞衡も、強引に興奮を抑えようと、真っ赤な目を光房に向ける。
「私は、後軍にいたために、後から聞いた話しかわかりませぬが・・・。今月二日の河崎柵攻めでの兵士の戦振りが、本陣で問題になりました。頼義様は、それを見越して、軍監として、権守を前軍に派遣しました。権守の報告では、柵に取り付く兵はなく、負傷する兵はなく、更に、永衡殿の周囲には矢が一本も飛んで来なかったそうです。そして、その原因が、永衡殿が被る、銀の兜にあるのではないかと・・・」
「銀の兜・・・」
義家・貞衡・景季は、その言葉に反応すると、同時に顔を見合わせた。三人は、永衡本人から、聞いたことがあった。永衡が、妻の奈加子との婚礼の祝いに、舅の安倍頼時から、銀の兜を貰ったことを。永衡が、自分に戦意の無いことを安倍側に示すために、その兜を被った可能性は十分に考えられた。
「気仙郡の兵や、経清殿、永衡殿の兵を使えば、士気が低いのは当たり前じゃ!父上は、何故、そのような卑劣な手段を使うのか・・・。」
義家は、命令を下したのが己の父であるが故に、尚更、怒りを感じた。
「永衡殿殺害の件、経清様は、既にご存知なのか?」
「経清殿は、前軍の指揮官ですから、当然、本陣から報告が行っているはずです。更に、頼義様は、前軍に参戦している郡司達に、内通を疑われたくなければ、全力で河崎柵を落とせと、命じたそうです。」
景季の問いに、光房が答えた。
「永衡殿の様になりたくなければ、と、暗に脅しているのか!」
義家は、怒りに任せて、床に拳を打ちつけた。
「経清様は、永衡殿の死を、どのようにお考えになっているのか・・・」
「そうだな・・・」
景季の呟きに、義家は、改めて、経清の心情を慮った。
「義家様。永衡殿を殺した説貞は、確かに許せませんが、今は、経清様が心配です。長い間、源氏の郎党として忠実に仕え、頼義様の経清様に対する信頼は、永衡殿とは比較になりませんが、経清様も、永衡殿と同じく、安倍頼時殿の娘婿。いつ、疑いの目を向けられるかわかりません。それに、永衡殿の死を知って、どうするつもりなのか・・・」
「そうだな・・・。永衡殿の無念を晴らす前に、今は、経清殿と話す必要がある。光房。経清殿は、今でも、河崎柵攻めの指揮を執っておられるのだな。」
「はい。経清殿は、柵を落とすまでは、前軍の陣営に釘付けにされているはずです。」
「そうか・・・。光房、頼みがある。」
義家は、多賀城を抜け出し、前軍の経清の許へ赴くことを決意した。
藤原経清は、陣営近くの林の中で、一人、河崎柵を見ていた。柵攻めの開始から、既に、七日が過ぎているが、一向に陥落する気配はない。攻め寄せる前軍の兵士には、未だに迷いが残っているのだから、それも当然であった。本陣の源頼義からは、即座に柵を落とせとの矢継ぎ早の催促が届くだけで、中軍・後軍からは、援軍を寄越す気配もない。頼義も、前軍の兵のみで、河崎柵が落とせると本気で考えてはいまい。頼義の狙いが、国衙に叛く可能性のある、親安倍派の兵を消耗させることにあるのは、明白であった。
実際、金為時が郡司を務める、気仙郡の兵の脱走が相次いでいる。彼等とて、攻める相手が、つい最近まで隣人であった者たちなのだから、士気が下がるのも当然であった。とはいえ、昼も夜も間断無く攻撃を続ければ、河崎柵の兵とて消耗する。前軍の兵を篩いに掛けて、柵内の兵が消耗したところで、中軍と後軍で一斉攻撃を仕掛けるつもりであろう。
経清は、わかっていながらも、何も出来ない己の無力を痛感していた。そして、永衡を想い、涙を流した。何故、あの時、永衡を一人で行かせてしまったのか。頼義が、永衡に疑念を抱いた以上、誅殺される可能性は予測出来たはずだ。そして、永衡を連行したのが、永年対立を続けた、藤原説貞の父子であれば、尚更であった。説貞は、永衡が、逃走するために斬りかけられたと主張し、頼義もそれを認めた。しかし、経清は、信じていなかった。説貞は、最初から永衡を殺すつもりで経清から引き離した。そして、永衡殺害の黒幕は、頼義のはずだ。そうでなければ、何の検分もしないまま、光貞と元貞の証言だけで、こうも簡単に説貞の主張を認めるはずがない。しかも、説貞は、何の咎めもなしに、再び、軍監として前軍の陣営に戻っているのである。
経清は、永衡の死を、頼義からの命令書で知った。その命令書は、永衡殺害の経緯に簡単に触れているだけで、経清に対し、前軍の陣営を絶対に離れず、全力で河崎柵を陥落させよと書かれていた。頼義は、経清が、永衡の死に疑問を抱き、真相を究明することを恐れたのであろう。戦時下であることを理由に、経清の動きを封じたのである。永衡の誅殺は、経清の心に、頼義への憎しみを生み出した。確かに、経清は、奥六郡の征服に拘る頼義に、不信の念を抱いたことはあった。しかし、源氏の棟梁、源頼義は、経清が、憧れ、尊敬し、忠誠を誓った男だ。憎しみなど生まれようはずがない。しかし、経清は、永衡の誅殺によって、これ以上、頼義には従えない自分を感じた。朝廷を専断する、藤原摂関家を打倒し、一君万民の律令国家の姿を取り戻す。頼義は、確かに崇高な理想を抱いている。だが、源氏の野望のために、これ以上、罪の無い人を犠牲にしたくはない。己の心に叛いてまで、妻の一族と戦いたくない。それに、永衡の疑惑の最大の要因は、彼が、安倍頼時の娘婿だったことにある。頼時の娘婿ということであれば、経清も立場は同じであった。
無論、永年の源氏の郎党、経清と、陸奥国衙の在庁官人として、陸奥守に仕えるだけの永衡とでは、頼義の信頼は大きく異なるであろう。だが、奥六郡との合戦が長期化すれば、どうなるか。仮に戦況が悪化すれば、安倍氏の娘婿である経清が、罪を被せられ、責任を押し付けられる可能性がある。いつまでも、国衙の陣営に留まってはいられない。衣川に赴き、安倍一門の一人として、永衡の無念を晴らさなければならない。
しかし、どうすれば、この想いを衣川に伝えることが出来るのか?衣川への関は閉じられ、経清自身、前軍の指揮官として、河崎柵を攻めている真っ最中だ。単身であれば、逃走して衣川に入ることも可能だが、経清には、亘理郡の兵士たちを、見捨てて行くことは出来なかった。彼等は、郡司である自分の命令で、この遠方の地において、国衙の軍勢に加わっているのだ。経清は逡巡した。
その時だった。経清は、微かに人の気配を感じた。それも、すぐ近くにいる。
「誰だ!」
経清は、腰の刀に手をかけて叫んだ。
「さすがは、鹿島派の師範。」
声は、真上から聞こえてきた。一陣の風と共に、漆黒の闇の中、黒い影が舞い降りる。
「何者だ!」
経清は、刀を抜いて身構えた。鹿島派師範の経清に、何の気配も感じさせぬまま、これほど近づくことが出来るとは、並大抵の者ではない。
「私は、夜叉一族の小太郎」
黒い影は、地に下りると、片膝を着いて一礼した。
「夜叉一族・・・すると、龍王様が話していた、蝦夷の夜叉王か?」
「いえ。私は、夜叉王の眷属の一人に過ぎませぬ。安倍頼時様の伝言を、経清様にお伝えするために参りました。」
「頼時殿から?」
経清は、半ば安堵した表情で、刀を鞘に納めた。
「はい。頼時様を始め、安倍の方々は、永衡様が殺されたのを知り、深く悲しむと共に、経清様の身を案じておられました。」
小太郎の言葉に、経清は、少なからず驚いた。永衡が殺害されてから、三日しか経っていない。その情報が、既に衣川に届いているのである。経清は、改めて、安倍一門の諜報網に恐れを抱いた。否、この場合は、龍王のと考えるべきか。
「頼時様は、経清様がご決意されれば、いつでも、衣川に迎え入れるつもりです。無論、経清様のみならず、経清様に従う兵の全てを受け入れるでしょう。」
経清は、頼時の気持ちに感謝した。しかし、問題は、その方法であった。
「しかし、現に我々が、河崎柵を攻めている状況では、柵内の兵士達とて、攻め寄せる兵と、投降する兵の区別はつくまい。それに、本陣が山の向こうに控えている以上、我等は見張られているも同然。迂闊な動きはできぬ。」
「その点については、頼時様より、策を授かっております。中軍の本陣と後軍の注意を前軍から引き離す策を。」
小太郎は、辺りの様子を伺いながら、更に声を潜め、経清に何かを囁いた。
「なるほど・・・それならば、成功するかもしれぬ。」
経清は、小太郎の囁きに驚きの表情を浮かべながらも、納得した様に頷いた。
その頃、源義家・藤原景季・清原貞衡の三人は、前軍の陣営に向かい、夜道を駆け続けていた。鎮守府将軍源頼義が出陣した後、多賀城の城代を任せられたのは、信夫郡郡司佐藤公脩である。公脩は、平将門を討伐した藤原秀郷の六世孫で、頼義の謀臣、佐伯経範の義理の兄弟にあたる。六位のため、陸奥国において、位階は頼義と説貞に次ぐ。
義家は、奥六郡との合戦に不服を申し立てたため、頼義から多賀城の留守居役を命じられており、勝手に多賀城を離れることは出来ない。故に、病と称して部屋に引き籠もる振りをした。そして、永衡の死を伝えるために多賀状を訪れた光房に、義家の病が気がかりのためという名目で、多賀城に残ってくれるように頼んだである。
光房の役目は、病床の義家を見舞う者に対し、義家が部屋にいる振りをして取り次ぎ、見舞いを断ることであった。無論、共に城内に住む、母の直子には真実を打ち明け、光房と共に「居留守」に協力してもらったのである。
山間の道を馬で疾走する三人の前方に、虚空に浮かぶ炎の輪が見えた。おそらく、河崎柵の明かりであろう。その炎に向かう様に、二筋の篝火の列が続く。頼義の中軍と、経清の前軍を照らす、松明の火である。いかに父とはいえ、頼義に見つかるわけにはいかない。三人は、味方に気付かれぬように、松明の列との距離を十分に取って馬を走らせた。
問題は、前軍の兵に悟られずに、経清に接近する方法である。多賀城の兵には、義家の顔を見知っている者も多いために、見張りの兵に見つかるのはまずい。多賀城にいるはずの義家が、こんなところに現れれば、騒ぎになるのは必定であった。万が一、頼義に知られれば、経清の立場が危うくなる。
義家達は、前軍の陣営から離れた林の中で馬を止めると、気配を殺して、陣営の側に近付いていった。陣幕に囲まれた、前軍の本陣が見える。作戦会議が開かれる時には、その陣幕の中に、前軍の指揮官達が集まるはずである。義家・景季・貞衡の三人は、陣幕近くの木立に隠れて、ジッと中の様子を伺っていた。
半刻も過ぎた頃、鎧を纏った二人の武将が、陣幕を出ると、義家達のいる林に向かって歩いてきた。暗闇のため、義家達からは、二人の顔が見えない。二人は、誰もいないのを確かめる様に、周囲を見回しながら、忍び足で歩いて来る。義家は、口に人差し指を当て、景季と貞衡に、二つの人影に気付かれぬ様に促した。
「それでは、亘理郡の兵を全員連れて行くと仰るのですか?」
「うむ。一旦は、そうした方が良いであろう。希望しない者もいると思うが・・・残して行くことで、彼等が罪に問われる可能性もある。どうしたものか・・・」
義家達の耳に、小声で話す、二人の会話が聞こえて来た。義家・景季・貞衡は、驚いて視線を交わした。間違いない。一人は、経清の声だ。もう一人は、経清の郎党、壬生行宗の声と思われる。義家は、景季・貞衡と目を合わせ、大きく頷いた。それに対し、景季・貞衡も、首を縦に動かす。三人は、もう一度、周囲に人がいないのを確かめた。
「経清殿。」
義家は、隠れていた木の影から、経清に見える位置に、ゆっくりと姿を現した。
「誰だ!」
一瞬、経清と行宗の顔に緊張が走った。同時に、景季と貞衡も、二人の前に姿を現す。
「義家です。」
義家は、刀の柄に手をかける二人に対し、小声で答えた。
「義家様!それに、景季殿と貞衡殿か!」
経清は、驚きの表情を浮かべると、腰の刀から手を離した。義家・景季・貞衡の三人は、ゆっくりと経清・行宗に近付いた。
「義家様。どうなされたのです。多賀城での留守居役を命じられたはずでは?」
「永衡殿が、説貞に殺されたそうですね・・・」
義家は、経清に向かって歩きながら、鎮痛な表情で答えた。義家の言葉に、経清は、暗い表情をしまま、何も答えなかった。
「それで、経清殿の身が案じられ、ここまで駆けつけてきました・・・」
「そうですか・・・」
経清は、戸惑った表情で、三人から目を逸らした。
「経清様。私は、永衡殿の敵を討ちたいのです!」
周囲を憚る様に小声で話しながらも、貞衡が、感情を抑えかねているのが、経清にも伝わってくる。それは、義家と景季とて、同様であった。経清は迷った。安倍頼時の娘婿として、そして、永衡の無念を晴らすため、亘理の兵達と共に、奥六郡に走ることを、義家達に告げるべきかどうか。その時だった。
「誰だ!」
突然、義家が、腰の刀に手をかけ、上を向いた。義家の動きに、全員が一斉に真上の暗闇を見つめた。瞬間、その闇の中から、一筋の影が地に降り立った。
「さすがは、八幡神の生まれ代わりと言われる御方・・・。しかし、経清殿に続き、二度も気付かれるとは、私が、未熟なせいかもしれませんな。」
「小太郎か。まだ、近くにいたのか。さすがの私も気づかなかった。」
小太郎の姿を認めた経清の緊張が緩んだが、義家は、刀の柄から手を離さない。
「この者は?」
「頼時殿の遣いです。」
義家の問いに、経清は、迷いを断ち切れずに言いよどんだ。
「安倍の遣い・・・」
経清の言葉に、義家・景季・貞衡が、一様に驚きの表情を浮かべた。
「義家様達に、お伝えすべきかどうか迷っていましたが・・・。私は、奥六郡に味方することに決めました・・・」
「そうですか・・・」
緊張した面持ちの経清に対し、義家、そして、景季と貞衡も、安堵の表情を浮かべた。三人には、経清の気持ちが、痛いほどに理解できた。
「驚かれぬのですか?」
義家達の表情に、寧ろ、経清が驚きの表情を浮かべた。
「永衡殿が、安倍側への内通の疑いで殺されたのであれば、経清様の身も危険です。頼義様は、経清様のことは信頼している様ですが、合戦の雲行き次第では、経清様に疑いを抱く者も増えるはず。その点、頼時殿や貞任殿であれば、経清様を喜んで迎え入れてくれるでしょう。経清様とて、いつまでも、義理の父、兄弟と戦うのは、苦しいはず・・・」
「ありがとう・・・」
経清は、景季が、自分の気持ちを代弁してくれたことに感謝した。
「しかし、亘理の兵はどうするのですか?」
「義家様の仰る通りです。我が身一つであれば、衣川に入るのも容易い。しかし、それについても、この小太郎が、頼時殿が策を考えてくれました。」
経清の言葉に、全員の視線が、黒装束の小太郎に向けられた。経清は、小太郎と目を合わせると、大きく頷いた。義家達には、計画を話してかまわないという意味だ。
「八日後の十五日、貞任様と則任様が、多賀城下を襲撃します。則任様は、陸奥権守の娘を奪うおつもりですなのです。陸奥国衙を襲撃されれば、鎮守府将軍の後軍と中軍は、多賀城に引き返さざるを得ないでしょう。その隙に、河崎柵の金為行様は、経清様とその兵を柵内に迎え入れる予定です。」
小太郎は、淡々と頼時の策を明かした。
「なるほど・・・」
義家は、小太郎の語る計画に、感心した表情を見せた。確かに、国衙を襲撃されれば、頼義とて、奥六郡に攻め込むどころの話ではなくなる。
「しかし、貞任殿と則任殿は、それだけの兵を率いて、多賀城に近付くことが可能なのでしょうか?陸奥国内、特に奥六郡と国衙の境界は、警戒も厳しくなっているはず。」
景季の不安は、もっともであった。行宗さえも、同じ不安を抱いている。
「貞任様・則任様は、大軍を率いて国衙を攻めるわけではありません。大軍がいると、頼義様に錯覚させれば良いのです。実際には、わずかな人数で十分です。」
「偽兵の策です。」
経清の答えに、小太郎が、説明を加えた。
「それならば、我等も多賀城下で、その策に乗ったふりをしよう。敢えて、大軍が攻めて来たと、大騒ぎをしてやろう。」
義家が、悪戯な微笑みを景季と貞衡に向けた。つられて、景季と貞衡も微笑する。
「しかし、それでは、義家様は、お父上を裏切ることになってしまう・・・」
「既に、私は、この合戦に不服を述べて、父の怒りを買っています。さすがに、父に弓を引く決断は出来ませんが、我等が経清殿のために出来ることと言えば、この程度です。経清殿は、我等の師も同然の御方。せめて、これぐらいはさせて下さい。」
「ありがたい・・・」
義家の言葉に、経清は、感涙を抑え切れなかった。その時、
「経清様!」
と、貞衡が、突然、経清の前に身を投げ出し、地面に両手をつけた。
「私も、共に衣川にお連れ下さい!私は、どうしても、永衡殿の敵を討ちたいのです。」
「貞衡!」
貞衡の言葉に、経清のみならず、義家と景季も驚きの声を上げた。
「貞衡、永衡殿の敵を討ちたいのは、私と景季も同じだ。しかし・・・」
「私は、永衡殿を兄として、本物の兄達以上に慕っておりました。その永衡殿を殺した、説貞を絶対に許すことは出来ません!」
貞衡は、経清を目を見つめたまま、涙を溢れさせた。経清も、貞衡が、永衡の優しさに救われていることに気付いていた。しかし・・・。
「貞衡殿。貴殿の気持ちは、我等にも理解できる。しかし、貴殿は、仙北三郡の俘囚長、清原氏の一族。その一族が、奥六郡に味方したとなれば、清原一門もただではすむまい。戦火は出羽にも広がる。」
経清は、優しい目で貞衡を見つめながら、諭すように語りかけた。
「しかし、私は、清原の父など、とうの昔に捨てた身です。私が安倍側に加わっても、父が支援してくれるはずがありません。」
「貴殿がそう思っていても、国衙の側では、そうは考えないのだ。頼義様は間違いなく、清原が安倍に味方したと考える。貴殿の動き次第で、清原の運命、否、仙北三郡の動きが変わると言っても過言ではない。」
「しかし・・・」
貞衡は、尚も納得できぬ顔で、経清の目を見た。
「それに貴殿には、景季殿と共に、義家様をお守りして欲しい。私は、河崎柵に入った瞬間から、義家様とは敵になる。しかし、義家様は、次代の源氏の棟梁となられる御方。そして、必ず、この国の新たな時代を切り拓く、かけがえのない、真の武勇の士だ。正直、私には、最早、頼義様は信じられぬ。しかし、義家様のことは、この先も信じ続けることが出来る。貞衡殿。頼む、私に代わって、義家様を守り抜いてくれ。」
今度は、経清が、貞衡の前で両膝・両腕を付いて、頭を下げた。その目からも、熱い涙が流れ落ちている。貞衡は、何も言わずに、経清の手を取った。
「それにな、貞衡殿。永衡殿の敵は、この私が絶対に取る。この手で説貞を斬り捨てる。だから、私に任せてくれ。」
「経清様・・・」
二人の姿に、義家・景季、そして、行宗も、涙を流さずにはいられなかった。一人、小太郎だけが、冷静な目で、五人の様子を伺っていた。
「それでは、手筈通りに。」
それだけ言い残すと、小太郎は、忽然と姿を消した。闇の中へ吸い込まれる様に。
天喜四年(1056年)九月十五日早朝。陸奥国衙多賀城下に煙が舞い上がった。それも、数箇所から同時にである。火事を知らせる半鐘の音が、静まり返った城下町に響き渡った。町の住民達は、眠い目をこすりながら、慌てて家から飛び出した。
多賀城留守居役であり、信夫郡司の佐藤公脩の許へも、すぐに報告が届いた。公脩は、急いで起き上がると、衣服を整え、兵を率いて町へ出ようとした。火勢を確認するためである。この時点では、公脩は、単なる火事と考えていた。
半鐘の音は、多賀城内の源義家の耳にも響いていた。
「義家様。」
景季が、寝所の外から、義家に話しかけた。
「入れ。」
返事と同時に戸が開き、景季が中に入って来た。その後ろには、貞衡もいる。二人は、半鐘の音と同時に跳ね起き、急ぎ、義家の部屋に駆けつけたのであった。
「始まったようだな。」
「そのようですな。」
義家の呟きに、景季と貞衡が、窓の外に目をやった。煙が、刻々と多賀城下を覆い尽くしつつある。否、煙は、広がっているだけではなく、煙の出る箇所自体が増えている様な感じだ。数名で、手分けして火をかけているに違いない。
一方、佐藤公脩は、数名の側近と共に、城門をくぐり、外へ出ようとした。その時、
「敵襲!敵襲!」
という声が響き渡り、数名の兵が、城門に駆けつけて来た。
「敵襲じゃと!?」
公脩は、驚きの表情を浮かべ、駆けつけた兵に問い質した。
「はい。多賀城下に敵が侵入し、方々に火をかけて回っているようです。」
「なんだと!?で、敵の数は?」
「しかとはわかりませんが、方々から火の手が上がっている様子から、相当な数がいる者と推測されます。町の者の中には、三百近くの敵を見たと申す者もおります。」
「馬鹿な!そんな数の兵が、こうも易々と多賀城下に侵入したのか!」
公脩は、兵士の報告が信じられなかった。現在、陸奥国は、戦時体制下にある。奥六郡との国境は封鎖され、特に多賀城の北には、要所要所に関所を設け、人の出入りを厳しく監視していた。それに、多賀城と奥六郡の間には、前・中・後軍合わせて、七千の陸奥国衙の兵が展開しているのだ。三百もの武装した兵が、気付かれずに多賀城まで到達することなど、あり得ないはずであった。
しかし、その間にも、煙は多賀城を包むかの様に広がり続けている。
「急ぎ、兵を集めよ!多賀城にいる兵、全員じゃ!敵の数がいかほどであろうと、必ず、撃退するのじゃ!それと、大至急、将軍に伝令を送れ!」
公脩は、側近に指示を出すと、自らも甲冑に着替えるために、城内に戻った。
多賀城下の一角に、陸奥権守藤原説貞の邸宅がある。城壁近くの邸宅は、説貞の権勢と見栄を象徴するかの様に、多賀城下で隋一の広大さと豪華さを誇っていた。中には、権守の郎党、二十人余りが、常時警護を固めている。反安倍派の急先鋒として、陸奥国内にも敵の多い説貞は、常に警戒を怠らなかった。
城下に煙が蔓延し、人々が逃げ惑う中、安倍則任は、説貞の邸宅の門前で馬を降りると、兄の貞任及び、五人の郎党と共に、門内の中庭に入った。
「何者だ!」
邸内の警護兵二人が、槍を交差させて、彼等の行く手を遮った。たちまち、門前には、十人以上の兵が集まって刀を抜いた。貞任は、目にも留まらぬ早さで刀を抜くと、問答無用とばかりに、二人の警護兵を斬り捨てる。
「我は、安倍貞任!命が惜しくば、そこをのけ!」
説貞の郎党達は、白昼、妖怪でも見たかの様な驚きの表情を浮かべた。
「て、敵じゃ!安倍貞任じゃ!」
警護兵達は、腰を抜かさんばかりの姿勢で後ずさりしながらも、何とか刀を貞任達に向けている。彼等の叫び声に、邸宅の他の兵達も、一斉に中庭に集まって来た。
「麗子!私だ。則任だ。そなたを迎えに来たぞ!」
則任は、屋敷の中にいるであろう、麗子に、大声で呼びかけた。
「則任様!」
その声に答える様に、麗子が、障子を開いて縁側に出る。白い寝衣姿のままの彼女は、裸足もかまわずに、庭へ降りると、則任の許へ駆け寄ろうとした。
「なりませぬ!」
縁側近くの警護兵が、麗子を羽交い絞めにする。
「どけ!」
則任は、行く手を遮る者を強引に斬り捨て、麗子の許へ駆け寄ろうするが、警護兵が壁になって、前へ進めない。その時、屋根から二つの影が舞い降りると、麗子を羽交い絞めにする兵の背中に短刀を突き立てた。同時に、もう一つの影は、別の警護兵の首筋を一閃。血飛沫が舞い上がり、兵は声も無く絶命する。
突然、後方に現れた黒装束の男達に、説貞の郎党は、大混乱に陥った。貞任と則任、そして、奥六郡の兵達は、その隙を逃さず、一気に攻勢に転じる。
「麗子!」
麗子が懸命に伸ばした手を、則任はしっかりと握り締めた。崩れ落ちそうな麗子の体を抱きかかえると、彼女を庇う様にして、門外への脱出を試みる。
「待て!」
追いすがる警護兵の一人が、二人の背後から、白刃を煌かせて、斬り付けようとした。則任は、刃に反射した朝の光に、一瞬、視界を奪われた。
「しまった!」
次の瞬間、その警護兵の体が、どうと倒れた。視力の戻った則任の目に飛び込んで来たのは、返り血を浴びた貞任の姿であった。
「則任、郎党どもと共に、先に行け!おまえの目的は、彼女を無事に、衣川に連れ帰ることじゃろう。ここは、わしと夜叉だけで十分じゃ!」
「兄上!恩に着ます。」
則任は、急いで麗子を抱き起こすと、中庭を突っ切り、門外に待たせていた馬に麗子を乗せた。続いて、自分も馬に飛び乗ると、
「しっかり、つかまっておれよ!」
と、麗子に声をかけると、全色力で馬を駆けさせた。五人の郎党達も、則任の後に続く。一方、邸内では、則任と麗子を追おうとする警護兵達の前に、両手に刀を構えた、貞任が立ちはだかった。既に、中庭には、七人の兵の死体が転がっている。
「説貞の郎党は、一人も活かしてはおかぬ。仕える主を間違えた愚かさを知れ!」
十数人は残っている説貞の郎党に対し、貞任に従うのは、たったの二人。しかし、返り血に染まった、貞任の阿修羅の如き形相に、兵達は戦慄を覚えた。
その頃、義家と景季・貞衡は、甲冑姿で、馬を歩かせていた。多賀城下の全体が炎に包まれているかの如く、凄まじいまでの煙で一寸先も見えない。周囲の街路は、煙から逃げ惑う人々でごった返していえる。
「ここまで大規模に火をかけられると、町の被害も甚大であろう。いかに経清殿の為とはいえ、我等も反撃せずにはすむまい。」
義家は、煙を吸わぬ様に口元を手で押さえながら、もどかしげな表情で呟いた。
「いえ、義家様。どうやら、実際に燃えているのは、町の極一部のようです。この煙は、おそらく、煙幕でしょう。」
「煙幕・・・」
景季の返答に、義家と貞衡は、冷静に周囲を見回した。確かに、煙の量は凄まじいが、実際の炎は、ほとんど目に入らない。単に煙に視界を奪われているせいではなさそうだ。逃げ惑う城下の人々は、敵の数を二百とも三百とも噂しているが、義家達は、ここまで、一度も敵の姿を見ていない。少数の兵が、騒ぎを実際以上に大きくしているのであろう。
「則任殿は、麗子殿に会えたのでしょうか・・・」
「権守の邸宅へ向かいましょう。」
貞衡が心配そうに呟くと、彼等は、馬に鞭を当て、街路を急ごうとした。しかし、視界不良な上に、人ごみが激しいため、馬を全速力で駆けさせるのは危険過ぎる。
「これでは、身動きが取れん。」
「大量の煙が、人々の恐怖感を煽り、敵の数を実際以上に多く感じさ、混乱を招いているのでしょう。これでは、城代の信夫郡司も、将軍に至急の援兵を請うしかありますまい。頼時殿の策通りになりそうですな。」
景季の感嘆の呟きに、義家と貞衡は、黙ったままで頷いた。
義家・景季・貞衡は、藤原説貞邸の門前に達すると、馬を降りて中庭に入ろうとした。門前には、一頭の別の馬が繋がれている。門内に入った彼等の目に飛び込んで来たのは、まさに、一人の兵が、血飛沫を上げながら倒れる姿であった。
長身の男が、義家達に背を向けたまま、倒れる男を眺めている。背後に人の気配を感じたのか、男は、振り向き様に三人に刀を向けた。
「貞任殿!」
それは、全身を返り血で染めた、まさに阿修羅の如き、貞任であった。彼の両腕の刀からは、斬ったばかりの兵の血が滴り落ちている。貞任は、義家達の姿を見据えながらも、その二刀流の構えを崩そうとはしなかった。目にも、殺気が宿ったままだ。景季と貞衡は、思わず、刀の柄に手をかける。中庭には、説貞の郎党達の屍が、累々と横たわっている。動いている者は、一人もいなかった。
「則任殿は、無事に麗子殿と会えたのですか?」
義家は、景季と貞衡の動きを手で制すると、目を血走らせたままの貞任に声をかけた。
「うむ。無事に連れ去った。」
貞任は、義家の声で、ようやく我に返り、刀を柄に納めた。
「この者達は、貞任殿が一人で・・・」
貞衡が、無数に転がる死体に目を向けながら呟いた。
「残念ながら、屋敷の主も、息子達もおらぬようじゃ。」
貞任は、口惜しそうに呟くと、ゆっくりとした足取りで門外に向かった。
「引き上げるのですか?」
「うむ。則任の目的は果たした。それに、これだけ騒ぎを起こせば、頼義も多賀城に引き返さざるを得まい。前軍の経清殿も、河崎柵に入ることが出来るであろう。」
擦れ違いの義家の問いに、貞任は、振り返って答えた。直後、鋭い眼光を義家に向ける。
「経清殿の為に、今日のところは礼を言おう。しかし、国衙を襲った我等には、最早、和平の道はない。わしと貴殿は、明日からは敵同士じゃ!次に会った時には、互いの命を賭けることになる。それを忘れるな。源義家!」
「貞任殿・・・」
貞任は、義家の呟きに振り返りもせずに、説貞邸の門を潜った。義家と景季、貞衡は、無言でその背中を見送った。直後、説貞の邸宅が、凄まじい勢いで燃え上がった。瞬間、二人の人影が宙を舞うと、煙の中に消えて行った。。
「この匂い・・・油か!」
三人は、急いで門外に出ると、繋いでいた馬に飛び乗った。既に、貞任とその馬の姿は見えない。屋敷を埋め尽くす炎は、門外にも迫りつつある。
「先程の二人の影・・・あれが、夜叉一族か・・・」
義家は、炎上する説貞の邸宅を眺めながら、経清の許で出会った安倍頼時の遣い、黒装束に身を包んだ、小太郎を思い出していた。
信夫郡司佐藤公脩からの早馬が、源頼義の許へ届いたのは、その日の夕刻、西の空に日が沈みかけた頃であった。
「そんな馬鹿な!多賀城に三百の敵じゃと!」
頼義の怒声が、居並ぶ諸将の前で鳴り響く。
「奴等は、いったい、どのようにして、城下まで侵入したのでしょう?」
佐伯経範の問いに答えられる者は、一人もいない。陣幕の中には、源氏の郎党と陸奥国の郡司達が顔を揃えていたが、多賀城急襲の報告に、皆、浮き足立っていた。
「光任に、直ぐに多賀城に引き返し、敵を撃退する様に命じよ!」
頼義は、本陣に待機していた、大宅光房を呼ぶと、後軍の指揮官である、大宅光任への指示を伝えた。後軍の光任には、千の兵を預けてある。数の上であれば、相手の三倍に達するが、早馬の伝えた敵の数が、正確とは限らない。陸奥国衙多賀城の城下町は、火災と煙によって、未曾有の大混乱に陥っているのだ。
「本陣も、引き返さざるを得ないでしょうな。」
藤原景通の言葉に、頼義も頷かざるを得なかった。
「しかし、多賀城を襲撃した兵と、河崎柵の兵が連動して、我等を追撃する恐れがあります。前軍は、そのままにした方が良いでしょう。」
「うむ。前軍は、動かさぬ。経清には、河崎柵の兵の追撃に備えさせよう。」
頼義は、佐伯経範に答えると、藤原元貞を呼んだ。
「経清と説貞に、前軍は、陣営を動くなと伝えよ。我等も、多賀城の情勢を見極めたら、この陣営に戻って来る。急げ!」
元貞は、一礼すると、陣幕を後にした。
「すぐに多賀城に引き返す!明朝までには、戻らねばならん!」
頼義の号令一下、郡司達は、自分の兵を率いるために立ち上がった。郡司達の姿が消え、源氏の郎党のみになると、和気致輔が、
「前軍が、安倍側に寝返り、我等を追撃する恐れはないのでしょうか?」
と、不安な表情で口にした。
「確かに、前軍の兵が、河崎柵の兵と一緒になって、我等を背後から襲えば、中軍は総崩れになります。」
致輔の懸念に、経範が同調した。
「経清が、我等を襲う心配はあるまい。」
頼義は、落ち着いた口調で、二人の懸念を打ち消した。
「前軍には、金為時も、海道平氏の郡司達もおる。奴等とて、一致団結して謀反を起こす準備など出来てはおるまい。それに、説貞が、軍監として見張っておるしな。」
「万が一のために、私が、兵五百と共に、本陣の殿を務めましょう。」
「そうじゃな・・・経清が裏切るなど、考えたくもないが・・・」
頼義は、致輔の提案に、険しい表情で同意した。
前軍の陣幕に藤原元貞が到着したのは、夕陽が完全に沈んだ頃であった。
「多賀城下が、敵の襲撃を受けております。その数、三百!」
「なんじゃと!」
元貞の報告に、軍監の藤原説貞は、驚いて立ち上がった。陣幕の中にいるのは、亘理郡司の藤原経清と磐城郡司の平忠清、そして、標葉郡司の平助衡。行方郡司の平忠衡と気仙郡司の金為時は、間断なく続けられる、河崎柵への攻撃を指揮している最中だ。
「で、将軍の指示は?」
説貞のみならず、忠清と助衡も驚愕の表情を浮かべ、騒然とする中、経清は、ただ一人、冷静に元貞に尋ねた。
「中軍と後軍は、城下の敵を撃退するために、至急、国衙に引き返すそうです。前軍は、河崎柵の兵の追撃に備え、現在の陣営を動くなとのことです。」
「我等の前軍が、殿も同然ということか・・・」
忠清の呟きに、説貞と助衡が顔を見合わせた。経清は、それには答えずに、壬生行宗を呼び寄せた。
「忠衡殿と為時殿に、至急、攻撃を中止し、陣営まで退却するように伝えよ。」
行宗に命じながら、経清は、いよいよ、来るべき時が来たことを実感していた。
「攻撃を中止すれば、寧ろ、柵内の兵達は、我等を追撃し易くなるのでは?」
説貞は、不安な表情で経清に問いかけた。
「無論、我等が、追撃に備えていることを敵に示さなければならないでしょう。磐城と行方の兵が戻れば、私が、亘理の兵を率いて、城柵の攻撃に向かいます。郡司の方々は、将軍から退却命令が届いた場合、即座に撤退出来るように、準備して下さい。」
「撤退の場合は、亘理の兵が殿になるということか?」
「そうです。」
経清は、ここ数日、亘理郡の兵士達を、前軍の他の兵達と引き離す方法を考えていた。なるべくなら、気仙郡・磐城郡・行方郡・標葉郡の兵の血は流したくはない。
「それでは、わしも、経清殿と共に殿に残ろう。軍監として、見届けねばならん。」
説貞の申し出を、経清は断らなかった。秘密裏に事を進めるためには、説貞には一緒に来て欲しくはないが、逆に、千載一遇の機会になるかもしれない。永衡の復讐のための。
それから半刻余りの後、忠衡・為時と共に、行方郡・気仙郡の兵達が引き揚げて来た。それを見届けると、経清は、行宗に亘理郡の兵達を集めさせた。
「経清殿。本当に亘理郡の兵だけで、大丈夫なのですか?敵が、多賀城を攻めたのであれば、当然、柵主の為行もそのことを知っているはず。弟は、好機を見逃す男ではない。寧ろ、今日、柵内から兵が押し寄せなかったのが、不思議なぐらいです。」
前線から戻り、多賀城急襲を知った為時が、心配な表情で声をかける。
「承知しております。だからこそ、敵に隙を与えてはならないのです。柵を攻め続けることで、我等が撤退する気がないことを、相手に見せつけなければなりません。」
「しかし、柵内には、三千の兵がおる。彼等が、一気に押し寄せてたら、亘理郡の兵だけでは、ひとたまりもない。」
経清の答えに、為時が、なおも食い下がる。
「だからこそ、亘理郡の兵のみで攻めるのです。少数の兵ならば、敵が出撃した場合、この暗闇に隠れて逃げ易いのです。」
「わかりました・・・。経清殿と兵達のご無事を祈ります。我等も、いつでも撤収できるように、準備を進めます。」
なおも心配そうな為時に、経清は笑顔を見せると、心の中で別れを告げた。明日からは、ここにいる郡司達は、皆、敵になるのだ。
「説貞殿、行きましょう。」
「うむ。」
経清は、説貞を促すと、亘理郡の四百の兵と共に、河崎柵に向かった。河崎柵は、丘の高台に立っているため、林道の中からも、柵を照らす篝火が見える。経清は、丘の麓近くまで来ると、全軍を停止させ。
「説貞殿。」
突然、経清は、刀を抜くと、説貞と対峙した。
「なんじゃ。」
説貞は、経清のただならぬ雰囲気に呑まれ、かすれた声で返事をした。
「何故、永衡殿を殺した?将軍の命か?」
「こんな状況で、何を言い出すのじゃ。今は、それどころではないわ。」
説貞は、経清の鋭い眼光に殺気を感じ、額から脂汗を流した。
「将軍の命かと聞いておる。返答次第では、ただではすまさん。」
「どういう意味じゃ。そなた、謀反でも起こす気か?」
「そうだ。」
経清の返答に、説貞は戦慄した。経清は、自分を殺そうとしている!
「ま、まて。私は、将軍の命に従っただけじゃ。永衡殿は、敵に内通する恐れがある故、誅殺せよとな。」
経清の眼光から発せられる、凄まじい憎しみに、説貞は、思わず、尻餅をついた。
「我等は、今から、河崎柵に入り、奥六郡の軍勢に加わる。しかし、その前に、永衡殿の無念を晴らす!貴様を斬る!」
瞬間、経清の剣が一閃した。声を出す間もなく、説貞の首筋からは、大量の血飛沫が溢れた。経清は、血に染まった刀を高々と掲げると、亘理郡の兵達に向き直った。
「我等は、これより、奥六郡の安倍頼時様に味方する。既に、河崎柵に迎え入れてもらえるように、手筈は整っている。もし、亘理に戻りたい者がいれば、咎めはせぬ。わずかばかりながら、路銀を渡す故、亘理に帰るがよい。家族を大切にせよ。」
経清の宣言に、亘理郡の兵達は、歓喜の声を上げた。それが、答えだった。