蛙を殺したお嬢様
神谷凛は眠っていた。彼女は悪夢を見ていた。
悪夢は長い事続いた。具体的な内容は覚えていない。しかし、嫌な、身体にまとわりつく湿気のような嫌な感覚は体にはっきりと残っていた。
目を覚ました時、世界に裂け目が生まれたような気がした。彼女は考えた。(ハムレットならこの裂け目を見て何と言っただろう?)
「気持ち悪かった」
凛は手を見た。
「ああ、本当に気持ち悪かった」
凛は手をじっと見ていた。まるで、自分の手の平が気持ち悪いものであるかのように。
それから一時間後。
凛は食卓についていた。テーブルには弟と父がいた。父は会社へ。弟は中学へ。凛は高校へ。それぞれに行く所がある。
「早く食べてしまいなさいよ」
母がキッチンで言う。母は凛と父の弁当の仕上げをしていた。弟は給食だ。
「もう食べたよ」
弟が言う。母の言葉は弟に向けられたものだ。凛は食べるのが早い。父は新聞を読みながら
「お前は食うのが遅いからな」
と言った。凛は外を見た。曇り空だった。
雨が降るかも知れないな、彼女は思った。
もし、傘を持っていなかったら、濡れるだろう。雨が降ったら、この地域が水浸しになるだろう。
あらゆる建物、人間、動植物、田んぼ、尖塔、洞穴、井戸。あらゆる部分に雨が降るだろう。
雨が降ればいい。そうすれば私も………
「凛」
母が呼んだ。凛は母を見た。
「何、ぼうっとしてるの?」
「なんでもない」
凛は窓の外を見るのをやめた。残っていたコーヒーを飲み干した。
※
学校までの登校路、凛はとぼとぼと歩いていた。
登校路は田舎道を辿っていく。田んぼに挟まれた道だ。田舎だ、ここは。そして私は普通の女子高生。そんな事を凛は思う。
凛は学校なんかに行きたくなかった。行く意味がわからなかった。そして、学校に行く意味を大人に尋ねてみれば、彼らは怖い顔をするのだった。
彼女はとぼとぼ歩いていた。彼女は色々な嫌悪感を体の内に秘めていた。男子と付き合うのなど論外だった。男子は不潔なノータリン集団で、女子は小動物のように群れてキャアキャア言っている生き物だった。どっちにも、あまり馴染めなかった。
この世界が亡びたらどうだろう。そんな事も思う。学校に行くくらいなら死んだ方がマシ。そう思って、死んだ人もたくさんいる事だろう。それでも、学校はあの場所に有り続ける。
学校を卒業したら会社に行き、会社を卒業したら、どっかに行く。どっちにしろどこかに行く。どこかで人は生きていく。
どうしてこんなだろう、私は。彼女は自分の髪に触れた。髪はパサパサしていた。シャンプーを変えたせいかもしれない。
女に生まれて良い事なんてなかった。でも、男に生まれれば良かったとも思わない。つまりは、生まれなければ良かった。
あーあ。
凛の目にふと、蛙が目にとまった。一匹の雨蛙。蛙はこっちを見ていた。どうしてこっちを見ているんだろう? その時には、凛の全身は脱力していた。彼女は無意識的に、足元の石を拾った。拳くらいの大きさ。それなりの重さだった。彼女は何も考えずに、石を蛙に投げた。思ったよりもスピードが出た。
凛は蛙が避けると思っていた。石を投げた瞬間には、蛙は避けると予測していた。ベチャッという嫌な音がして、石は蛙を押し潰した。石が転がると、そこにはもう生きた蛙はいなかった。緑色の液体と、有機的塊があった。凛はしかし、目をそらさずその塊を見た。
それはただの塊だった。もはや蛙ではなかった。蛙は死んでいた。ピクピクという、生きていた兆候すらなかった。一瞬で、置物のようになっていた。見事に殺したのだった。
彼女は食い入るようにそれを見た。今、自分が一つの生命を殺したという事。それがーーかけがえのない事にも思えた。
凛は、今朝見た悪夢を思い出した。自分はこんな悪夢を見たんだ。そう思った。こういう気持ち悪い悪夢を自分は見たんだ。
蛙は死んだ。私が殺した。凛の中に奇妙な喜びが走った。それは、自分が汚らしいものに塗れるのを悦ぶような、暗い悦びだった。
凛は緑の塊から目を逸した。歩き出した。そして、今自分が犯した罪について考え出した。
「私は蛙を殺したんだわ。私は蛙を殺したんだわ。特に何もしていない蛙を石を投げて殺した。人間だってきっとおんなじ。人を殺すのなんて簡単。本当に簡単。ハンマーで殴って、毒を盛って…私自身、苦しんで死にたいし、誰かを殺してみたい……」
わけのわからない事を口にしつつ、(ああ自分はこうやって気が狂っていくんだな)と思った。蛙の目がちらついていた。夢の中で見たような気がする。
ふと、頬に冷たいものを感じた。触ってみると、水滴だった。雨だ。凛は傘を持っていなかった。
このままだと濡れちゃうな。そう思って、凛は駆け出そうかと思った。が、駆けるのを途中でやめた。とぼとぼと歩いた。
あっという間に雨は強くなった。あたり一面に雨が降り注ぐ。凛の服も鞄ももう濡れていた。
彼女は、雨の殴打を、贖罪のように感じていた。雨に打たれるべきだと感じていた。
凛はふいに立ち止まった。空を見上げる。空からは雨が……
凛は振り返った。田んぼ道を逆に歩き出した。蛙の死体がある地点まで行こう。
彼女は蛙の死体をもう一度見るつもりだった。それで何をしたいのかわからなかった。蛙の死体を靴で踏みにじりたいのか、それとも、蛙の汚い死体に謝りたいのか。墓でも建てたいのか。小さな墓標を。死んだ小生物のために。
どっちともわからない気持ちで凛は歩いた。ツカツカと。はっきりした足取りで。
雨は強くなっていた。凛は歩いた。雨の中を。一人で。