家族2
過ぎし日の約束 2
笑顔の人々がザワザワという音だけを発し、遊園地の中を彷徨っている。
少なくとも、彼の目にはそんな風に映った。
誰もが、楽しそうだ。
誰もが、幸せという言葉を顔に貼り付けたような笑顔を浮かべている。
男も女も、子供も大人も、年寄りも赤ん坊も、誰もが心から遊園地を楽しんでいる
のだろう。
きっと彼だけが必死さに顔をゆがめ、汗を流し、走り回っているのだ。
息を切らして、ジェットコースター乗り場に着く。
息子はここにいるだろう。
発車前のジェットコースターのライドは満席だった。
ライドに乗って前を見ている客の顔を、一人一人見て回る。
同じ顔が、前だけを向いて、期待にはちきれそうに笑みを浮かべている。
発車を告げるベルが鳴る。
ライドが動き出す。
息子はどこにいる?
ガタン、ガタン、ガタン
徐々に加速していくライド。
ジェットコースターのホームが途切れるそのギリギリまで動くライドと共に歩き、
彼はようやく息子を見つけた。
名前を呼ぼうと息を吸い込んだその瞬間、彼は驚きのあまり言葉を失った。
乗客はみな、彼の息子も含めて全員、セーフティガードを降ろしていない。
彼は大声に息子の名を呼びながら、狂ったように動くライドにしがみついた。
息子だけでも助けなければ、降ろさなければ。
だが彼の身体は後ろから羽交い絞めにされ、無理やりライドから離された。
「離せ!! 息子が!!」
暴れる彼が振り向くと、係員が笑顔で彼を止めている。
何も言わず笑顔をにたにたと浮かべたまま、ライドがコースに出て行くと、係員は
ようやく彼の手を離した。
彼は弾かれたように走り出した。
ジェットコースターのコースのどこが危険かは分からない。
だが、どこかで息子が放り出されたら…。
彼は落ちる息子を受け止められるだろうか。
無理だろう。
分かっていても、彼は走ることを止められなかった。
ジェットコースターの乗り場から、コースに沿ってレールを見上げながら走る。
上を見ていたために、周囲を確認できず、程なく彼の脚は誰かにぶつかった。
「す、すみません!」
条件反射的に詫び、転びかけた体勢を整え、ぶつかった相手を見る。
そこで彼はまた、驚きのために呼吸をも忘れて目を見開いた。。
ジェットコースターのライドに乗って、コースに発車したはずの息子が、そこにい
た。
息子は言葉もなく立ち尽くす彼を見上げた。
「あ~あ、見つかっちゃった」
息子は笑い、彼を手招きした。
「お父さん、車椅子押してよ」
彼は呼ばれるままに、ゆらゆらと息子の傍に歩み寄った。
そうだった。
息子は小学生のときに交通事故で下半身不随になり、車椅子生活を余儀なくされて
いたのだった。
「ごめんな」
彼は苦笑いしながら息子に詫びた。
何を早とちりしたのか、彼の息子は一人で走ることもできなければ、ジェットコー
スターにだって一人では乗れないのだ。
「今度は、お姉ちゃんを探そう」
息子の車椅子を押しながら、歩き出す。
何かがおかしいと、彼は首を捻った。
だが、頭はハッキリと物事を捉えられず、記憶が曖昧だ。
そういえば、自分は会社に行こうと駅に行ったのだろうか?
それとも、夜勤明けで家に帰るところだったのだろうか?
なぜ、遊園地のあるこの駅に来たのだろう。
よく思い出せないが、それでいい。
彼は心の中で頷いた。
今は子供たちと遊んでやらなくてはいけない。
「あ、アイスだ!」
息子の声にハッと我に返る。
「お父さんアイス買ってよ。そしらた俺ここでアイス食べてるから、お父さん、お
姉ちゃんを探してきなよ。早く見つけないとお姉ちゃんが拗ねるよ」
息子は器用にウインクをして見せた。
彼は売店でアイスを買い、息子に手渡すと観覧車に向かった。
娘はそこにいるはずだ。
息子を先に探しにいっただけでも拗ねるか知れないのに、早く探さないと更に娘は
拗ねるだろう。
幸い娘は息子のときよりも、ずっと簡単に見つかった。
回るゴンドラの中に、娘の姿が見えたのだ。
娘も彼を見つけ、嬉しそうに大きく手を振った。
彼も大きく手を振り返し、ギクリとその手を直ぐに止めた。
娘の背後に、ゆらりと黒い影のようなものが揺れた。
人の姿のように見えるその影は、娘の肩に手を置くようにピッタリと娘の背後に張
り付いている。
見るな…頼むから、振り返るな……。
娘が背後のものに気づかないように、彼は必死に祈った。
一人で乗ったはずの狭いゴンドラの中に、もしふとしたはずみに、自分以外の誰か
がいることに気づいてしまったら、それはどれほど怖いだろう。
ゴンドラが地に着くまで、彼は気が気ではなかった。
娘の乗ったゴンドラの扉が開くと、彼は直ぐに娘の腕を掴んで強く引いた。
きゃっと小さく悲鳴を上げて、娘が彼の腕の中にすっぽりと納まる。
彼は自分の身体で多い尽くすように娘を抱きしめ、ゴンドラの中を睨んだ。
「あなた? どうしたの?」
不思議そうに首をかしげながら、彼の妻がゴンドラの中から現れた。
「おまえ…来てたのか?」
「だって、貴方だけに子供を任せられないもの」
いつもは不機嫌な妻が、楽しそうに笑いながら答えた。
「おいおい、ずいぶん信用がないな」
彼も苦笑いして妻の上機嫌に応じた。
何年ぶりだろう。
妻とはまともに会話を交わすことさえ減っていた。
彼は妻を嫌いでもないし、憎いとも疎ましいとも思ったことはないが、妻はそうで
はないような気がしていた。
妻は彼を厭わしく思い、嫌っているのではないかと、ずっと疑っていた。
「あら? あの子は?」
妻がキョロキョロと辺りを見回し首をかしげる。
息子を探しているのだろう。
彼は笑いながら娘を手放し、息子はアイスを食べながら待っていると告げた。
「まあ、優しい。貴方が買ってあげたの?」
「そりゃあ、アイスくらい買ってやるさ」
「ずる~い! あたしも欲しい!」
「ああ、おまえにも買ってやるよ」
「あら貴方、私には?」
「おいおい、おまえまで俺にたかるのか?」
「それはそうよ。ね~」
妻と娘が互いに顔を見合わせて笑いながら、同意しあう。
幸せな時間だった。
こんな時間、今まで一度だってあっただろうか。
彼が忘れているだけだろうか。
家族4人で、アイスを食べながら他愛の無い会話を交わして笑いあう。
そんな小さな幸せで、彼は十分に満足だった。
「ねぇ、アイス食べたら、次はどうする?」
娘がアイスを片手に、彼にほほ笑みかけて問う。
その手元のアイスが溶けて落ちるのを、綺麗に洗濯されたハンカチで受け止めなが
ら妻が答えた。
「ね、みんなでミラーハウスに行って見ない?」
「賛成! ちょっとずつ時間をずらして入って、中で合流しようよ!」
妻と娘が楽しそうに笑い会う姿に目を細め、彼はかつて感じたことがないほどの、
深い幸福感に包まれた。