一つの花 『九.鈴』
元治元年(1864年) 長月(9月)
私は暖かい太陽の光を浴びながら、縁側で雑巾を縫っていた。
『暇なら、雑巾でも縫いなさい。
此処に、もう着る事が出来ない古い着物があります。
これを使いなさい』
と母上に言われて一枚の薄墨色の着物を手渡され、半ば強制的に雑巾を縫わされる事になったからだ。
その着物は
『どれだけ着れば、これほどクタクタな着物になるのだろう』
と思うほど、着古した着物だった。
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当時、着古した着物は他の着物に仕立て直したり、雑巾にしたり、下駄の鼻緒にしたり、布おむつにしたりした。
そして、それらが使えなくなれば燃料として燃やし、その残った灰を肥料にした。
私達は『もの』を最後の最後まで使い、決して『無駄』にしなかった。
これは資源があまり無い日本だからこその『知恵』と、『もの』を大切にする日本人の『優しさ』から生まれた行為なのだろう。
だから、日本には『勿体ない』と言う言葉がある。
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『暇なら』って・・・。
私は、別に暇だった訳ではない。
確かに、私は縁側に座って庭を見ていた。
でも、ただボーとしていた訳ではない。
庭に咲く真っ赤な曼珠沙華を見て、考え事をしていたのだ。
曼珠沙華は秋のお彼岸の頃に咲く為、『彼岸花』とも呼ばれている。
他にも『死人花』『地獄花』『幽霊花』など不吉な異名が多く、『縁起の悪い花』と言われている。
真っ赤な花は、『血』や『炎』を連想させる。
だから、曼珠沙華を嫌う人が多い。
しかし、私の家では敢えて曼珠沙華を植えている。
以前、私は
『どうして不吉と言われている曼珠沙華を、我が家では植えているの?』
と、お祖母様に聞いた事があった。
お祖母様曰く、『綺麗だから』だそうだ。
そして、お祖母様は続けた。
『お彼岸の季節に咲くから忌み嫌われるなんて、可哀そうでしょう?
それに曼珠沙華は仏教では『天上の花』とも言われ、『おめでたい事の兆し』と言う意味もあります。
決して、不吉などではありません。
曼珠沙華に不吉な名前が多いのは、曼珠沙華に人を近づかせない為です。
曼珠沙華には、毒があるから。
でも毒をとれば、曼珠沙華は非常食になります。
ゆき。
どんな事でも『悪いところ』だけではなく、『良いところ』も見なくてはなりません。
たとえ皆が不吉だと言っても、自分の目で見て感じ、本質を知り、自分の直感や考えを大事にしなさい』
と言ったお祖母様の言葉を、思い出していたのに・・・。
母上は、私が単に『日向ぼっこ』をしていると思ったのだろう。
だから、『暇なら雑巾を縫え』と言った。
いや。
もしかしたら母上は、私にお裁縫の練習をさせたかったのかもしれない。
いや。
それとも単に自分で雑巾を縫うのが面倒で、私に縫わせようとしたのかもしれない。
必ず、目的があるはず。
でも、怖くて聞けない。
聞いても、意味が無い。
どうせ、結局縫わされる事になるから。
一人で苦手なお裁縫をしていた私に声を掛けてくれたのは、女中として働くきよだった。
きよはお祖父様より七歳年下で、父上が生まれる前から野口の家で働いている。
きよは、お裁縫もお料理も得意だ。
私は、きよに雑巾を縫うのを手伝ってくれるように頼んだ。
きよは『もちろんです』と言って、笑顔で引き受けてくれた。
きよの助けは、神の助けだ。
きよは、優しい。
「きよ。
ここが、うまく縫えない」
私はきよに、ガタガタな縫い目を見せた。
「はい。
ゆきさま」
きよは優しく微笑みながら、私の手から縫いかけの雑巾を受け取った。
『ちりん』
『ちりん』
きよが動く度に、きよの紺色の帯締め(帯を固定する紐)に括り付けてある鈴が鳴る。
とても、可愛らしい音だ。
その鈴は八分(約2cm)位の丸い金色の鈴で、上に赤い紐が付いている。
私は、鈴の音を聞きながら言った。
「きよの鈴は、とても優しい音色ね」
きよは手を止め、その鈴を優しく見つめた。
そして、微笑みながら言った。
「この鈴は、沢之丞さまからいただいたものなのですよ」
「お祖父様から?」
「はい。
この鈴は、私の『大切なもの』です」
「『大切なもの』・・・」
「はい。
私は昔、沢之丞さまに助けられました。
この鈴は、その時、沢之丞さまからいただいたものです」
「お祖父様に、助けられた?」
初めて聞いた。
きよは鈴を手に取り、指でコロコロ転がしながら続けた。
「私の父は、私が五歳の時に死にました。
私には、母と二人の弟がいました。
私はお金を稼ぐために、口減らしのために、働かなければなりませんでした。
母と弟たちの世話を同じ村の人達にお願いし、私はある商家で働き始めました。
商家での仕事は、とても辛かったです。
寒い冬に冷たい水を使って雑巾をしぼったり、はだしで廊下をふいたりして、私の手と足はいつも『しもやけ』と『あかぎれ』だらけでした。
つぎはぎだらけの汚れた着物を着て、少し黒ずんだくしを挿し、髪は整えても整えてもすぐに乱れてしまいました。
寺子屋にも行っていなかったので、字を読むことも書くこともできませんでした。
私は、ずっと家に帰ることを許されませんでした。
母と弟たちに、ずっと会うことができませんでした。
稼いだお金は、毎月村の誰かに奉公先まで来てもらい、手渡していました。
私は、村の人に母や弟たちの様子を聞いて知ることしかできませんでした。
とても、悲しかったです。
母や弟たちに、会いたかった・・・。
でも、それはまだ耐えることができました。
いつか必ず、母たちに会える日が来ると思っていましたから。
母たちが少しでも楽をすることができるのなら、どんなに辛くても悲しくても耐えようと思っていました。
しかし私が十一歳になってから、私を見る旦那さまの目の色が変わってきました。
旦那さまは私の身体に、執拗に触れるようになりました。
二人きりになると、何度も私を蔵に連れ込もうとするようになりました。
私は何とか抵抗し続けていましたが、いつまで抵抗できるのか不安でした。
ある時、私の肩を抱いて無理やり蔵へ連れ込もうとした旦那さまの姿を、奥さまに見られました。
奥さまは私と旦那さまを力強く引きはなし、私を畳に押し倒してののしりました。
『この売女め!!』
そして奥さまは私の髪を引っ張り、着物を引き裂き、こぶしで思い切り叩きました。
血が、鼻からも口からも流れてきました。
私の体は、あざだらけになりました。
でも、私は耐えることしかできませんでした。
『許して下さい!!
許して下さい!!』
と言うことしか、できませんでした。
しばらく見ていた旦那さまは
『この女が私を誘ったのだ!
私は悪くない!!』
と言って、その場から逃げていきました」
「・・・ひどい。
きよは、悪くないのに・・・。
そんな家、出て行ってしまえばいい!
出て行って、他の奉公先を探せばいい!!
訴えればいい!!」
きよは首を横に振って、悲しそうに答えた。
「それは、できませんでした。
その頃、母は病で伏せっていました。
『ここを出て、もし次の奉公先を見つけることができなかったら、母はどうなるのだろう?
弟たちは、どうなるのだろう?』
『新しい奉公先を見つけることができたとしても、ここより良い所とは限らない』
当時の私は、『今とは違う世界』へ行く事への『不安』がありました。
奉公先とその周りという、『せまい世界』しか知りませんでした。
『新しい世界』なんて、知りませんでした。
知ろうとも、知りたいとも思いませんでした。
私はどんなに苦しくとも、これが自分の『世界』であり、自分の『宿命』であり、それを変えることはできないと思っていました。
『旦那さまをこんな風にしたのは、私のせい』
『奥さまを怒らせたのは、私のせい』
『ののしられているのは、私が悪い』
『叩かれているのは、私が悪い』
『何かを求めてはいけない』
『私が耐えればいいのだ』
そう思わなくては、生きていけませんでした。
奥さまに毎日叩かれても、逃げようなんて、何かを求めようなんて思ってはいけなかったし、思いもしませんでした」
一呼吸おいて、きよは庭に咲く曼珠沙華を見ながら言った。
「沢之丞さまに出会うまでは・・・」
「きよは、何時お祖父様にお会いになったの?」
「十二歳の時でした。
その日も、今日のように曼珠沙華が咲いていました。
奥さまからお使いを頼まれて道を歩いていると、前を歩くお侍さまの懐から竹笛が落ちました。
私はそれを拾って土を払い、お侍さまに渡しました。
そのお侍さまが、沢之丞さまでした。
沢之丞さまは、当時十九歳でした。
今の司郎さまに、お顔立ちが似ておられました。
沢之丞さまは竹笛を受け取ると、笑顔で言ってくださいました。
『ありがとう』
私は、息をのみました。
今まで、私は奉公先でそんな言葉を言われたことがありませんでした。
『私は、お礼を言ってもらえるような存在ではない』
『私には、そんな資格はない』
『見返りなんて、求めてはいけない』
『働いていられるだけで、幸せだ』
『ご主人さまと母たちの役に立つのなら、どんなことにも耐えられる。
何もいらない』
そう、自分に言い聞かせてきました。
でも、本当はずっと欲しかったのだと思います。
心の奥底で、求めていたのです。
目に見えない『もの』を。
『温かい言葉』を。
そのたった一言が、心からのその一言が、沢之丞さまにとって何気無いその一言が、私を救ってくれました。
今では慣れ親しんだ他愛のない言葉だけれど、当時の私にとっては『特別な言葉』でした。
初めてお礼を言われ、私は
『一人の人間として見てもらえた』
『存在が認められた』
と思いました。
私は、その場で泣き崩れてしまいました。
それを見た沢之丞さまは驚き、心配して私の顔をのぞき込みました。
『どうした?
どこか痛むのか?
大丈夫か?
医者に連れて行こうか?
そうだ。
私に負ぶさると良い』
オロオロしながら、沢之丞さまは私を気遣ってくださいました。
その優しさに、私はもっと泣いてしまいました。
『いいえ。
いいえ。
どこも痛くはありません。
ただ嬉しくて、嬉しくて泣いているのです』
私がそう言うと、沢之丞さまは私の背中を優しくさすって下さいました。
そして私の傷だらけの手を取り、苦しそうに呟きました。
『奉公先で、折檻されているのか?』
私は沢之丞さまから手を引き抜き、両手を後ろに隠しました。
そして自分の手を握りしめ、
『いいえ。
いいえ』
と申しました。
自分が折檻されているなんて、認めたくありませんでした。
認めてしまったら、『元の世界』に戻れなくなると思いました。
沢之丞さまは、私の姿をじっと見つめました。
何かを、考えているようでした。
そして、突然おっしゃいました。
『私の家に来れば良い。
ちょうど、女中が辞めてしまったばかりなのだ』
私は、その言葉に驚きました。
そして、一瞬、『夢』を見ました。
『今の世界』から、出ることができる・・・?
出ることができる!?
私は無意識の内に、『出たい』と思いました。
でも、それをすぐに打ち消さなければなりませんでした。
『そんなこと・・・出来ません!』
私の言葉を聞き、沢之丞さまは静かに問いかけました。
『今の奉公先に、居たいのか?』
沢之丞さまの言葉に、私は声を荒げて叫びました。
『いたくありません!!』
と。
私はその時初めて、自分の『本当の気持ち』を『言葉』にしました。
しかし、その瞬間、私はその『言葉』を取り消そうと思いました。
自分の『本当の気持ち』を口に出すなんてことを今までしたこともなかったですし、許されるべきことではないと思っていました。
私の『本当の気持ち』が通じることは、今までも、これからもないと思っていました。
誰にも、私の『本当の気持ち』は通じないと思っていました。
しかし、沢之丞さまは違いました。
沢之丞さまは私の『言葉』を聞いて、にっこりと笑いながらおっしゃいました。
『ならば、私の家に来れば良い』
私は、理解が出来ませんでした。
信じられませんでした。
沢之丞さまのこの『言葉』は、私に対しておっしゃっているのか?
私は大きく目を見開き、 沢之丞さまの顔を見つめました。
沢之丞さまの『目』は、旦那さまや奥さまとは違う『目』でした。
私は初めて自分の『本当の気持ち』が、『言葉』が、人に通じたのだと思いました。
自分の『運命』を変えた、変えてもらった瞬間でした。
私はおどおどしながら、 沢之丞さまに聞きました。
『・・・私が行っても・・・大丈夫・・・でしょうか・・・?』
『大丈夫だ!
寧ろ、来てくれると助かる!!
そうだ!!
奉公先は、何処だ?
お前を、我が家に迎える事になったと伝えねばな!
奉公先へは、私が直接言いに行こう!
もし駄目だと言ったら、『折檻している事を、世間に広めるぞ』と脅せば良い!
何とかする!
心配するな!!』
そう言うと、沢之丞さまは懐から白い布巾を取り出しました。
隠していた私の傷だらけの手を取り、手にその布巾を巻きました。
そして袂から小さな鈴を取り出し、私に握らせてくださいました。
沢之丞さまは
『強く握ると鈴は壊れてしまうから、優しく握ってあげておくれ』
とおっしゃられて、私の手を優しく包むように握って下さいました。
私は鈴を見ようと手を開くと、手に巻いていただいた布巾が少し血でにじんでいました。
私は無意識の内に、手を強く握りすぎていたようでした。
爪が、手の平に食い込んでいたのでしょう。
血が出るくらいに・・・。
沢之丞さまは私の顔を優しく見つめながら、おっしゃいました。
『これ以上、自分で自分を傷つける事はない』
と・・・」
私はその時、気付いた。
そして、きよに聞いた。
「もしかして、その時にお祖父様から頂いた鈴が、この鈴・・・?」
きよは鈴を優しく握り締め、頷き、嬉しそうに言った。
「はい。
この鈴です。
ただ、この鈴をいただいた当時、私は沢之丞さまにこの鈴を早く返さなければならないと思っていました」
「どうして?」
「六助さんに聞いたところ、この鈴はもみじさまへお渡しするための鈴だったそうです。
もみじさまは当時許嫁の方を亡くされたばかりで、沢之丞さまはもみじさまのお心をおなぐさめするためにこの鈴をお渡ししようと思っていらしたそうです。
そんな大切な鈴を、私が持っていてはいけないと思いました。
しかし、その気持ちとは相反して、
『この鈴を返したくない』
という気持ちもありました。
この鈴は、私にとっても大切な鈴・・・。
返したくない・・・。
でも、それは私のわがままに過ぎません。
ある時、私は沢之丞さまに思いきって申し上げました。
『ありがとうございました!!
この鈴、お返しいたします!!』
と。
沢之丞さまは少し驚いた顔をして、ほほえみながらおっしゃいました。
『これは、お前にあげたのだよ』
『でも、これはもみじさまへ・・・』
『ああ・・・。
でも、この鈴はお前が持っていた方が良い。
この鈴は、『魔除け』だ。
悪いものから、お前をずっと守ってくれる。
だから、この鈴を持っていると良い』
そう言って、沢之丞さまは私の頭をなでて下さいました。
私の頭をなでる沢之丞さまの手は、私の手を包んでくれた時のように暖かかった・・・。
私はそれ以来、この鈴をずっと持ち続けています」
きよは、本当に幸せそうだった。
この鈴には色々な『思い出』も、『思い』も詰まっている。
だから、きよはこの鈴を大切にしている。
この鈴を、きよは持ち続けている。
この鈴が、きよを助けてくれる。
この鈴が、きよを守ってくれる。
この鈴が、きよを力付けてくれる。
きよは鈴を見つめながら、続けた。
「野口の家で働くまで色々と大変でしたけれど、なんとか私はここで働くことが出来るようになりました。
沢之丞さまもご家族の方たちも、とても良くしてくださいました。
私は、『幸せ』だと思いました。
『この世界』に、いることができて・・・。
苦しいことに耐えてきて、良かったと思いました。
野口の家に来てから、沢之丞さまは私に字も教えてくださいました。
字を読めること、書けることによって、私は『新しい世界』を知ることができました。
『新しい世界』は、私の視野を広げてくれました。
私は、もっともっと知りたいと思いました。
それと同時に、他の人にも『新しい世界』を知ってもらいたいと思うようになりました。
母や弟たち、村の人たちに私が覚えた字を教えてあげたいと思うようになりました。
沢之丞さまは、私の手が空いている時はいつでも家に帰ることを許してくださいました。
沢之丞さまは私が村に帰る時に、本や墨や筆、紙を下さいました。
私は時々村に戻り、みんなに字を教えるようになりました。
つたない教え方だったかもしれません。
それでもみんな、嬉しそうに学んでいました。
みんなが喜ぶ姿を見ることが、嬉しかった。
そして、そんな私の姿を見る母も嬉しそうでした。
嬉しそうな母の姿を見て、私も『幸せ』でした。
私は、長い時間を母と過ごすことができました。
今までの時間の穴を埋められるくらい、母の傍にいることができました。
最期まで、母の世話をすることができました」
「最期まで・・・?」
「母は、私が十八歳の時に亡くなりました。
でも、私は最期に『親孝行』ができました。
母の幸せそうな姿を、沢山見ることができました。
ずっと母の傍にいて、母の最期を看取ることができました。
母は息を引き取る時に、私に言いました。
『ありがとう』
母は、嬉しそうな顔をしていました」
「きよの母上様は、『幸せ』だったのね・・・」
私の問いに、きよは自信を持って答えた。
「はい。
そして、私も・・・。
母が亡くなるまでも、亡くなってからも、弟たちや村の人たちはずっと私の傍にいて、私を力づけてくれました。
沢之丞さまたちは、私がしばらく実家に居ることを許して下さいました。
みんな、私に優しく接してくれました。
色々と、手助けしてくれました。
だから、私は母の死に耐えることができました。
人の『優しさ』が、私を救ってくれました。
『幸せ』でした。
以前の奉公先では、知ることができなかったことです。
人の『優しさ』を知り、それを他の人にも与えれば、『優しさ』が戻ってくると思いました。
ただ・・・」
「ただ?」
「ただ『優しさ』は、時に人を『堕落』させることもあります」
「人を、『堕落』させる?」
「はい・・・。
私の前に働いていた女中は、沢之丞さまのお父上さまに追い出されました」
「え?
追い出された?
何故?」
「沢之丞さまは、どなたにも優しく接して下さいます。
その女中に対しても、そうでした。
女中の実家は大変貧しかったらしく、沢之丞さまはよく野菜や魚などをその女中に持って帰っても良いと言っていたそうです。
始めは女中も感謝しつつも、申し訳ないからと少しずつもらっていたそうです。
しかし、その女中は沢之丞さまの『優しさ』に慣れすぎ、それを当然と思うようになったそうです。
野菜や魚だけでなく、貴重なお砂糖やその他の食材までも持って帰るようになったそうです。
そのことに気付いたのは、六助さんでした。
そして、とうとう六助さんは女中が盗みを働いている現場を取り押さえました。
『なぜ盗んだ!?
沢之丞さまを裏切るような行為をして、申し訳ないと思わないのか!?』
女中は六助さんの顔を睨み、笑いながら言ったそうです。
『持って行っても良いと言われたから、持って行っただけのこと。
それに沢之丞さまはおやさしい方だから、どうせ許して下さる。
だったら、もらっても良いだろう!?
私は、何も悪いことなどしてはいない!!』
と。
六助さんは何の反省もしていない、全く悪びれる様子もない女中に驚いたそうです。
しかし黙っておくわけにはいかず、沢之丞さまとお父上さまにご報告しました。
沢之丞さまは辛そうではありましたが、穏便に済まそうとしていらっしゃいました。
しかし、お父上さまはそれをお許しにならなかった。
お父上さまは、沢之丞さまにおっしゃったそうです。
『分け隔てなく優しくし、助ける事は素晴らしい事だ。
しかし過度の優しさや助けは、人を『堕落』させる。
一度楽をしたり、良い思いをすると人はそれを覚え、甘え、それが当然と考えるようになってしまう。
一つ満たされると、もっともっとと欲が出る。
苦しかった事も、辛かった事も忘れてしまう。
人は、弱い生き物なのだ。
困っているから、何かを与える。
それは、本当の『優しさ』ではない。
『物を与える』のみ。
それは、与える人間の『同情』と『自己満足』を満たすに過ぎない。
お金や物を渡す事は、時には必要な事だ。
しかし、与えられた者の『幸せ』は一時に過ぎない。
『努力した分だけ、それに見合うものを得る事が出来る事』
『働く事の喜び、一生懸命働く事の意味や意義を知ってもらう事』
『次に繋げられる為に努力する事』
『生き甲斐を見つける事』
お前が与えるべきものは『もの』だけではなく、そう言った事だったのではないのか?
『どんな事があっても対応出来るような力を付けさせる事』が、『お前の為すべき事』だったのではないのか?
ただ助けるのではなく、『自立出来るように手助けし、支援する事』こそが本当の『優しさ』だったのではないか?』
と。
沢之丞さまは、黙ってお父上さまの言葉を聞いていたそうです。
そしてその後、沢之丞さま自ら、女中に出て行くように言ったそうです」
「・・・でも、その女中は?」
「ずいぶん抵抗したそうですが、六助さんに連れられて実家に戻ったそうです」
「女中は、その後どうしたの?」
「時間はかかったそうですが、何とか自力で仕事を見つけたそうです」
「そう・・・」
「ただ沢之丞さまはその女中のことが心配だったようで、仕事が見つかるまでも、見つけてからも、ずっと見守っていたそうです」
「・・・」
私は正直、お祖父様は人が良過ぎる上に、甘いと思った。
女中が物を盗んだ事に気付かなかった事も、盗んだと分かった後もそれを大目に見た事も、盗んだ事を訴えなかった事も、仕事が見つかるまで心配して女中を見守り続けた事も。
けれど同時に、それはお祖父様らしいとも思った。
お祖父様は、今も昔も変わらないと思った。
遠くから、きよを呼ぶ声が聞こえて来た。
「きよー」
お祖父様だった。
「沢之丞さまが、呼んでいらっしゃいます。
ゆきさま。
行ってまいりますね」
そう言って、きよはお祖父様の許へ行こうと立ち上がった。
私は、背を向けるきよに声を掛けた。
「ねえ。
きよ」
きよは、振り返った。
私は、きよに聞きたかった。
きよはお祖父様に出会うまで、とても辛かったと言った。
お祖父様の『優しさ』に触れてからは、『幸せ』だと言った。
でも、その『幸せ』は人を『堕落』させる事もあると言った。
ならば、今は?
今は、どうなのだろう?
きよは今、『幸せ』なのだろうか?
私は、恐る恐るきよに聞いた。
「きよは・・・今・・・『幸せ』・・・?」
きよは振り返り、微笑みながら言った。
「今、ここで、こうしてゆきさまに昔の事をお話しすることができて、私は『幸せ』です」
そして可愛らしい鈴の音を鳴らしながら、きよは奥へと消えていった。
『ちりん』
『ちりん』
『ちりん』
優しい鈴の音が、ずっと私の心に響き続けた。