一つの花 『八.神さま』
元治元年(1864年) 葉月(8月)
長州藩はこの頃、四面楚歌の状況であった。
『第一次長州征伐』では幕府軍が長州藩へ兵を送り(長岡藩は、この時不参加)、『四国艦隊下関砲撃事件』ではイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊により、長州藩の下関砲台が占拠された(この事件は、文久三年(1863年)攘夷実行の為に長州藩が下関で外国船を砲撃した事への報復であった)。
長州藩は、劣勢に立たされていると思われていた。
しかし、お祖父様も父上もいつも難しい顔をされていた。
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私と、ついでに團一郎は、今年四月に『瞽女』のはるちゃんと出会って以来、はるちゃんと毎月会っていた。
はるちゃんは目が見えないけれど、目の見える私以上に見えているものが多いのではないかと思う時があった。
目が不自由だからこそ、色々な事を敏感に、独自の視点で感じる事が出来るのだろうな、と思った。
私達は良く会ってはいたけれど、会うのはいつも町中だった。
はるちゃんは私の家には絶対に来ようとしなかったし、はるちゃんも自分の家に私達を招く事はなかった。
はるちゃんは、どこか遠慮しているようだった。
それを私達は知っていたから、それについて口に出す事はなかった。
会っている時は、團一郎はずっと緊張していてほとんど何も話さなかった。
と言うか、話せなかった。
だから、私とはるちゃんが二人で話す事が多かった。
團一郎ははるちゃんの傍にいられるだけで嬉しいようで、満足そうにいつもニコニコ(デレデレ)して私達の話を聞いていた(時々、余計な事も言ったけれど)。
はるちゃんとはお城のお堀を歩きながら、良く自分の話やお互いの家族の話をした。
会ったばかりの頃、こんな話をした。
「はるちゃんは、いくつ?」
「十二歳」
「じゃあ、私と一緒だね。
團一郎は、はるちゃんより二つ下。
はるちゃんは、いくつから三味線の修行を始めたの?」
「六つから」
「そんなに小さな頃から?」
「うん」
すると、いつも黙って聞いている團一郎がニヤニヤしながら会話に入って来た。
「ゆき姉上なんて、その頃遊んでばかりでしたよ。
鬼ごっこして転んで泥だらけになったり、近所の子とけんかして傷だらけになったり、庭の琵琶の木に登って怒られたり」
私は生意気な事を言う團一郎を、このままにする訳にはいかなかった。
「そう言う團一郎だって、『あね上に、たたかれたー』って言って泣いてばかりだったくせに。
あ。
それは、今と変わらないか。
團一郎は、今も『泣き虫』だものね」
「姉上!!」
團一郎は目に涙を溜め、ぷいっと横を向いてしまった。
はるちゃんは、くすくす笑いながら言った。
「ゆきちゃんと團一郎さんは、仲が良いね」
「全然!
團一郎は、いつも生意気な事しか言わないの!
可愛くない!
あ。
そう言えば、はるちゃんにも兄弟がいるの?」
「三つ上のお兄ちゃんがいるの」
「そうなんだ。
私にも、八歳上の姉上と六歳上の兄上がいるの。
姉上は『うめ』、兄上は『司郎』と言う名前。
はるちゃんのお兄様のお名前は?」
「『作助』という名前。
お兄ちゃんは、とても優しくて物知りなの。
目の見えない私に、色々なことを教えてくれたの。
私は生まれつき目が見えないから、『色』というものがどんなものなのか分からなかった。
でも、お兄ちゃんが私に『色』を教えてくれた。
『青』という『色』は、冷たい水を触ったときと同じだって。
『赤』という『色』は、囲炉裏にあたったときの暖かい感じだって。
『黄色』という『色』は、お日さまの下にいるときと同じだって。
『緑』という『色』は、森の中の香りと同じだって。
私は『色』を見ることはできないけれど、『色』を感じることはできるの。
目が見えない分、色々なものを感じることができる。
それを気づかせてくれたのは、お兄ちゃん」
「・・・はるちゃんのお兄様は、すごいね。
私は目に見えるものしか、分からないし知らない。
『色』を感じるなんて、考えた事もなかった。
はるちゃんのお兄様は目が見えるのに、目に見える以上に目に見えない色々なものを見たり、感じたりする事が出来るんだね」
「うん。
物知りで、優しくて、とっても大好きなお兄ちゃん」
はるちゃんは本当に本当に嬉しそうに、少し頬を紅く染めながら恥ずかしそうに、そして誇らしげに笑った。
私は、はるちゃんのお兄様に会ってみたいと思った。
はるちゃんのお兄様は、私の知らない『世界』を知っている。
その『世界』を、私も知りたいと思った。
「ねえ。
はるちゃん。
はるちゃんのお兄様に、私、今度お会いする事が出来る?」
「え?」
はるちゃんは、少し戸惑った。
「私もはるちゃんのお兄様から、色々な事を教えてもらいたい。
司郎兄上が、以前言っていたの。
人にとって一番必要なのは、『人』なんだって。
『人』は皆、それぞれ『考え方』や『生き方』が違う。
だから多くの『人』と関わる事が出来れば、沢山の事を学ぶ事が出来るのだって。
私は、知らない事だらけ。
私は、出来るだけ多くの『人』から色々な事を学びたい。
沢山の『人』から色々な事を学ぶ事によって、はるちゃんの言っていた私の『役割』も分かるような気がするの。
これは私の我儘かもしれないし、はるちゃんにとっては迷惑な事なのかもしれないけれど・・・。
・・・会うのはやっぱり・・・無理・・・かな?
勿論、はるちゃんが無理だと思うのなら無理って言って。
はるちゃんを、困らせたくないの・・・」
はるちゃんはしばらく考えて、ゆっくりと答えた。
「家の仕事がないときは・・・大丈夫かもしれない。
私も、お兄ちゃんにゆきちゃんを会わせたい。
私のお友達だって」
「本当?
ありがとう!!
じゃあ、今度、はるちゃん達が町に来られる時に一緒に会おう!」
「うん。
いいよ。
楽しみだね」
「うん」
トントン拍子に話が進んで言った。
その時、視線を感じた。
思い出した。
團一郎がいた事を。
いたの、忘れていた。
と言うか、いつも忘れる。
團一郎は恨めしそうに私を見ながら、涙ぐんでいた。
ごめん。
除け者にして。
でも、その後『團一郎も一緒だから』と言ったら、嬉しそうに顔を輝かせて喜んでいた。
自分が除け者にされた事さえも、忘れてしまったようだ。
単純な弟だ。
それから、四ヶ月後の今日。
私と團一郎は、はるちゃんのお兄様である作助さんにやっと会う事が出来た。
作助さんの仕事が忙しかったと言う事もあるけれど、作助さん自身が私達に会う事を少し躊躇していたと、はるちゃんは言っていた。
初めて会うはるちゃんのお兄様は背が高く、少し痩せていて、とても穏やかで優しそうだった。
まるで、司郎兄上のようだった。
「はじめまして。
私は、野口ゆきと申します」
「私は、野口團一郎です」
私達が挨拶をすると、はるちゃんのお兄様は深々と頭を下げ、落ち着いた低い声で応えた。
「作助と、申します。
はるが、いつもお世話になっております」
「はるちゃんが、作助さんはとても色々な事を知っているって。
だから、私達にも色々教えて頂きたいです」
「そんな、お武家様のお家の方々にお教えすることなど・・・」
「私達には、知らない事が沢山あります。
今の私達には、書物や自分の近くにあるものからでしか知識を得る事が出来ません。
お願いします。
色々な事を、作助さんが知っている事を、感じた事を私達に教えて下さい」
私は、頭を下げた。
それを見て、團一郎もあわてて頭を下げた。
「おやめ下さい。
頭を上げて下さい」
はるちゃんも、作助さんの袂を握って一緒にお願いしてくれた。
「ゆきちゃんと團一郎さんは、私のお友達なの。
だから、お兄ちゃんお願い」
困った顔をして、作助さんは応えた。
「・・・分かりました。
・・・こちらこそ、よろしくお願いします」
私と團一郎とはるちゃんは、手を取り合って喜んだ。
嬉しかった。
しかし、作助さんは複雑な顔をしていた。
はるちゃんは嬉しそうに、少し興奮気味に言った。
「これから、お兄ちゃんと『蒼紫の森(蒼紫神社周辺の森)』へ行こうと思うの。
ゆきちゃんも團一郎さんも、一緒に行こう!!」
「『蒼紫の森』!!
うん。
行きたい!
行こう!!」
私達四人は、そのまま『蒼紫の森』へ行く事になった。
目の見えないはるちゃんと私は、手を繋いで。
團一郎は、それを羨ましげに見ながら。
作助さんは、私達の後をゆっくりと歩いて。
作助さんは・・・何かを考えているようだった。
半刻(約1時間)後、私達は『蒼紫の森』に到着した。
『蒼紫の森』には、私達以外誰もいなかった。
私はいつも何かの行事がある時にしか来た事が無かったから、こんなに静かな『蒼紫の森』は初めてだった。
様々な緑色に彩られた森の空気はとても澄んでいて、其処にいるだけで心が癒された。
町とは違う空気が、とても美味しかった。
耳を澄ますと、鳥や虫の鳴き声や木の葉が擦り合うサラサラと言う音が聞こえて来た。
こんなに身近に『自然』を感じるのは、初めてだった。
其処は、『神聖』だった。
「『自然』の中には、沢山の『神さま』がいらっしゃいます」
作助さんは、空を仰ぎ見ながら言った。
「『自然』の中に、『神さま』?」
私と團一郎は、聞き返した。
そんな話、聞いた事が無かったから。
作助さんは微笑み、応えてくれた。
「はい。
太陽にも、風にも、星にも、山にも、海にも、木にも、石にも、水にも、火にも、動物にも、虫にも、沢山の『神さま』がいらっしゃいます。
私たちは、常に『神さま』と一緒に生きているのです。
『神さま』は、私たちに『幸福』を与えて下さいます。
恵みの雨を降らせて下さったり、作物の実りを助けて下さったり。
しかし、もし私たちが多くの『自然』を傷つければ、『神さま』は私たちに『罰』を与えます。
日照りや噴火、洪水、地震、雷雨など。
だから私たちは『自然』を、『神さま』を大切にしなければならないのです。
『自然』を傷つけることは、『神さま』を傷つけることですから」
「では、私達が生きる為に木を伐ったり、動物を殺したりする事は、『自然』を傷つける事、『神さま』を傷つける事になるのですか?」
團一郎は、聞いた。
作助さんは、團一郎を見つめながら応えた。
「『神さま』は、私たち全てを守って下さるためにいらっしゃるのです。
ですから、私たちが生きていくために必要最低限のものをとることを、『神さま』は許して下さいます。
ただし人間が『己の欲』のために過度に『自然』を壊す時、『神さま』はお怒りになられます。
『神さま』は、『過欲』をお許しになりません。
人間の『欲』には、限りがありません。
一つの『欲』が満たされても、いずれそれに慣れ、新たな『欲』を満たそうとします。
求めれば求めるほど、失うものも多いということを『神さま』は教えて下さいます。
それは、時にはとても大きな『犠牲』を払う場合もあります。
私たちはその『犠牲』を忘れないために、自分たちを戒めるために、『神さま』に感謝し、『神さま』を敬い、『神さま』を守り、『神さま』にお祈りするのです。
それは、はるか昔から行われてきたことなのです」
作助さんは手を合わせ、『自然』に対して、『神さま』に対してお祈りをした。
私は、空を見上げながら言った。
「私は今まで神棚に祀られていらっしゃる『神さま』以外、『自然』に対して、『神さま』に対して感謝なんてした事がありません。
寧ろ、冬には大雪が降って嫌だなって思います。
寒いし、冷たいし、『雪なんて、降らなければ良いのに』と思います」
そう言う私を見て、作助さんは優しく応えた。
「国によって、『自然』は違います。
南国は暑く、北国は寒い。
それぞれの『神さま』が、土地に合わせて私たちに『試練』や『幸福』を与えて下さっています」
「雪国に、『幸福』なんてあるのですか?
雪国は寒くて不便で、生きていくには辛いし、苦しいです。
私は、『神さま』は私達に『試練』しか与えていないように思います」
「確かに、雪国で生きていくことは困難なのかもしれません。
しかし、その『試練』に耐え、生き抜く力を育てて下さいます。
どんなことにも耐えられる強い心を、育てて下さいます。
耐えるためにはどうすれば良いのかという、『知恵』も与えて下さいます。
雪国特有の農作物や花も、与えて下さいます。
それこそが、『神さま』が私たちに与えて下さる『幸福』なのです。
私たちはどんなに辛くとも、これからも『自然』を受け入れ、『自然』を、『神さま』を大切にして生き続けなければならないのです」
私は、幸せそうに話す作助さんを見つめた。
『ああ・・・。
作助さんは本当に色々な事を知っているな』
と、思った。
きっと『自然』の中で、『自然』と一緒に生きてきたからこそ、感じる事が出来るのだろうな。
常に町中にいる私達では気付かない、気付こうとしない事に気付く。
お堅い書物では得られない、沢山の事を知っている。
全てが、新鮮な事ばかりだった。
作助さんに出会えて、本当に良かったと思った。
私は、じっと私達の話を聞いていたはるちゃんの方を振り向き言った。
「はるちゃん。
はるちゃん。
ありがとう。
作助さんに会わせてくれて、ありがとう。
はるちゃんに出会えて、良かった。
作助さんに出会えて、良かった」
それを聞いたはるちゃんは、嬉しそうに笑ってくれた。
「私も」
と、言ってくれた。
嬉しかった。
私達は、再び森の中を歩き始めた。
作助さんは時々立ち止まっては、森に咲く花の名前、木に留まっている虫の名前、空を飛ぶ鳥の名前を教えてくれた。
その度にはるちゃんは、花の匂いを嗅いだり、鳥のさえずりに耳を傾けたり、虫に触れたりして、楽しそうに微笑んでいた。
そんなはるちゃんを見て、私達も微笑んだ。
時間が、ゆったりと流れていった。
一刻(約2時間)後、私達は町に戻った。
私と團一郎は作助さんとはるちゃんにお礼を言い、はるちゃんとまた今度会う約束をして家へ帰った。
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私と團一郎は家に帰って、誰かに作助さんの事を話したかった。
話を聞いてくれる人を探していると、床の間に青紫色の桔梗の花を活けている母上を見つけた。
私達は部屋に入り、早速、作助さんから聞いた話と自分が感じた事を話した。
全てを聞いた後、母上は溜息混じりに言った。
「全く・・・。
貴方達は忘れてしまったのですね?」
「忘れた?」
私と團一郎は、お互いの顔を見合った。
心当たりが無い。
「こちらへいらっしゃい」
と言って、母上は私達を台所へ連れて行った。
そして、台所の壁の隅に祀ってある『三宝荒神』様を指差した。
「台所に『三宝荒神』様を祀っているのは、『三宝荒神』様が火と竈の『神さま』だからです。
ですから、『火を大切にしなさい』と昔教えたはずです」
「昔って、何時ですか?」
「ゆきが四歳、團一郎が二歳の時です」
覚えている訳が無い・・・。
私達二人は、そう思った。
「仕方の無い子達・・・。
では、これから母が話す事を、きちんと覚えておくのですよ。
ゆき。
團一郎」
「はい。
母上」
「作助さんの言ったように、『自然』の中には沢山の『神さま』がいらっしゃいます。
しかし、『自然』の中だけに『神さま』が宿っていらっしゃるのではありません。
私達の『身近なもの』にも、『神さま』は宿っていらっしゃるのです」
そう言って、再び私達を床の間まで連れて行った。
そして袋棚から一つの木箱を取り出し、大事そうに抱えて私達の前に置いた。
木箱の中身を、私達は見た事がなかった。
『大切なものだから、絶対に触れてはいけません』
と、幼い頃から言われていたから。
私と團一郎は初めて見られる木箱の中身を、緊張しながら見つめた。
木箱の中には、陶器で作られた杯が入っていた。
でもその杯は、普通の杯とは少し違っていた。
その杯の真ん中には、竹の飾りが付いていた。
「これは?」
「これは貴方達のご先祖様が、『長岡藩第三代藩主』牧野忠辰様から頂いた大切な杯、『十分杯』です」
「『じゅうぶんはい』?」
「八分目を超えてお酒を注ぐと、中に入っていたお酒が下に漏れてしまう仕組みになっています。
『欲のまま酒を注ぎ続ければ、全てが『無』になってしまう』。
つまり、『足るを知れ』と言う事です。
『人間の『欲』には、際限がない。
『欲』に飲み込まれ、大切なものを見失ってはならない』
『過欲』を戒める、忠辰様のお教えなのですよ」
私はこの時、作助さんの言葉を思い出した。
『『神さま』は、『過欲』をお許しになりません』
私は、母上に自信を持って言った。
「『欲張ってはいけない』と言う事ですね」
「そうです。
作助さんが話してくれた事と、重なりますね。
『過欲』は、人を亡ぼします。
それを、忠辰様はお教えになりたかったのです。
今のお殿様、忠恭様も素晴らしい方ですけれど、やはりそのご先祖様も賢君であらせられたと知った時、私は自分がお殿様に代々お仕えしている長岡藩士の娘である事に『誇り』を持つ事が出来ました。
貴方達も、自分に『誇り』を持つのですよ」
「はい」
母上は私達の返事を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、母上。
先程母上がおっしゃられた『神さま』が宿っていらっしゃる『身近なもの』とは、この『十分杯』の事なのですか?
この杯に、『神さま』が宿っていらっしゃるのですか?」
私は『十分杯』を指差しながら、聞いた。
母上は『十分杯』に目を向け、応えた。
「そうです。
この杯には、『九十九神』と言う『神さま』が宿っていらっしゃいます」
「『つくもがみ』?」
「長い年月、九十九年を経て古くなった『もの』に『神さま』は宿られるのです。
だから私達の生活の中には、この『十分盃』だけでなく、沢山の『神さま』がいらっしゃるのですよ。
そして年月関わらず、『もの』には『神さま』だけでなく、『人間の魂や思い』も込められています」
「『人間の魂や思い』?
それって・・・『霊』とか『恨み』とか、と言う事なのでしょうか?」
「まあ。
それも、あるかもしれませんね」
「え!?」
何だか、少し怖い話になってきた。
團一郎は若干青白い顔をし、声が出せないでいた。
そんな團一郎を無視して、母上は話した。
「ただ、それだけではなく、例えばこの杯には
『大切に使ってもらいたい』
『長く使ってもらえるように丁寧に作ろう』
と言う『職人の魂や誇り』。
これを与えて下さった『お殿様の思い』。
これを与えられた『ご先祖様の思い』。
ご先祖様を思う『私達子孫の思い』。
そして
大切にしたいと言う『ご先祖様と今の私達の思い』が詰まっています」
「あ」
私はこの時、あの帯を思い出した。
母上はそんな私を見て軽く頷き、続けた。
「そういった多くの『魂や思い』も、この杯には込められているのです。
『自然』に『神さま』が宿っていらっしゃるように、『もの』にも『神さま』や『人間の魂や思い』が宿っているのです。
ですから、私達はそれら全てを大切にし続けなければならないのです」
『自然』も『もの』も、大切に・・・。
私は花を手折っても、また他の花が咲く。
『もの』を壊しても、まだ他の『もの』がある。
そう思っていた。
手折った花にも、壊した『もの』にも『神さま』や『魂』が宿っているのなら、私はどれだけ大切なものを今まで傷つけて来たのだろう。
私は、どれだけ多くの命を奪って来たのだろう。
私は、自問自答した。
すると、母上はにっこりと微笑みながら下を見続けている私に言った。
「ゆき。
貴方は先程、自分はあまり『神さま』に感謝した事が無いと言っていましたね」
「はい・・・」
「そんな事は、ありませんよ」
「え・・・?」
「毎日ご飯を頂く時に、手を合わせて『頂きます』。
そして食べ終わった時に、『御馳走様』と言うでしょう?
それらは、『神さま』や『食べ物』『作った人々』への感謝の思いを伝えているのですよ。
貴方は知らぬ間に、『神さま』へちゃんとお礼を言っているのですよ」
「・・・」
「それに、貴方はたとえ嫌いな食べ物でも、残さず食べるようにしているでしょう?
それも、『神さま』への感謝の思いの一つです」
『食べるようにしている』ではなく、『食べさせられている』が正しいのだけれど・・・。
でも私は母上のその言葉を聞いて、少し心が軽くなった気がした。
少しかもしれないけれど、私は『神さま』にちゃんと感謝の気持ちを口にしていた・・・。
良かった・・・。
その時、突然母上がゆっくりと立ち上がり、廊下の近くまで歩いて行った。
「・・・母上・・・?」
私と團一郎は、不思議そうに母上を見つめた。
すると母上は懐から懐紙を取り出し、それを持って右手を少しずつ上に上げながら静かに屈んだ。
そして、いきなり右手を振り下ろして、懐紙を畳に敲きつけた。
『バン!!!』
「!!!」
私も團一郎も、驚き過ぎて飛び跳ねた。
何が起きた!?
確かめたいけれど、母上の背中しか見えない。
母上は、もぞもぞとしていた。
廊下を、懐紙で拭いているようだった。
私達は何だか怖くて、覗き込む事が出来なかった。
團一郎は震えが止まらなく、目から涙がこぼれていた。
私は、恐る恐る聞いてみた。
「は・・・母上?
一体、何が・・・」
その時の母上の顔が怖くて、今でも思い出すと鳥肌が立つ。
母上は笑顔で、しかし、目は一切笑わず答えた。
「蠅です」
そう言って、母上は懐紙の中で平べったい黒い『物体』になった、かつて蠅だった『もの』を見せてくれた。
私はその蠅らしき『もの』から目を逸らし、上目遣いで母上に尋ねた。
「は・・・母上。
虫にも、『神さま』が宿っていらっしゃるのではないでしょうか?
それに・・・『一寸の虫にも五分の魂』とも言いますし・・・」
それに対して、母上は冷静に応えた。
「蠅は、害虫です。
寄生したり、病原菌を運んだりします。
駆除は当然です」
「そう・・・ですか・・・?」
腑に落ちないと思いつつも、私も團一郎もそれ以上何も言えなかった。
恐ろし過ぎて。
私達は、その時思った。
『全てを大切にする事は、やはり少々難しい事なのだ』と。
でも出来る限り、『自然』も『もの』も『虫』も『全て』を大切にしようと思った。
そして、もし別れる時が来たら最後に必ず言おう。
『ごめんなさい
そして
今まで有難う』