雪どけ
【明治政府】
徳川からの『政権奪取』が目的であった『明治政府』は、自分達が政権を握ってからの青写真を描いていなかった。
その為、政権運営に次第に『綻び』が見え始めた。
『綻び』から『綻び』が生まれ、その『綻び』を修正する為に、また『綻び』が生まれた。
『戊辰戦争』後は、多くの反乱が起こった。
それらは、『廃刀令』『四民平等』『版籍奉還(藩が所有していた土地(版)と民(籍)を、朝廷に返還)』『廃藩置県』等の新政府の政策に不平を持った士族による反乱であった。
純粋に『攘夷』を信じていた人々は
『新政府に信念が無い事』
『新政府の本心』
『自分達が『戊辰戦争』の為に新政府に利用されたに過ぎない存在』
であると言う事に気付いたのだった。
明治二年(1869年)一月
横井小楠暗殺
明治七年(1874年)一月
『喰違の変』
岩倉具視暗殺未遂事件
明治七年(1874年)二月
『佐賀の乱』
江藤新平、島義勇らによる佐賀での反乱
新政府への不満により起こされた
明治九年(1876年)十月
『神風連の乱』
旧肥後(熊本)藩士・太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎らによる反乱
『廃刀令』に反対して起こされた
明治九年(1876年)十月
『秋月の乱』
旧秋月(福岡)藩士・宮崎車之助、磯淳、戸原安浦らが『神風連の乱』に呼応して起こした
明治九年(1876年)十月
『萩の乱』
旧山口藩士・前原一誠、奥平謙輔らが『神風連の乱』に呼応して起こした
明治九年(1876年)十月
『思案橋事件』
旧会津藩士・永岡久茂らによる反乱
『萩の乱』に呼応して起こした
明治十年(1877年)二月
『西南戦争』
旧薩摩藩士・西郷隆盛を盟主にして起こった反乱
激しい戦であったにも拘らず、熊本城は落城しなかった
明治十年(1877年)三月
『福岡の乱』
『西南戦争』に呼応した福岡藩士族による反乱
明治十一年(1878年)五月
『紀尾井坂の変』
大久保利通暗殺事件
反乱を鎮圧しながら、『明治政府』は自分達が否定していた外国に追い付く為に日本の歴史や文化さえも否定し、外国文化を取り入れ、日本の『外国化』に躍起になった。
今まで先人達が培って来た日本の技術や文化を衰退させ、破壊し、殺していった。
人々が大切にしていた城を壊し、日本の象徴でもある桜を伐採し、日本の精神であった仏を殺した。
『変革』には、思い切った破壊も必要である。
しかし『明治政府』が行った破壊は近代化の為だけでなく、江戸幕府を貶め、自分達の『正当性』を誇示する為だったのではないだろうか?
破壊により失われるものが、それ以上に多いと言う事に『明治政府』は気付くべきであった。
先人達の技術や願い、思い、全てのものが『明治政府』によって破壊された。
『明治政府』は『日本独自のもの』や『日本と世界との違い』が他国と渡り合える。
いや。
それ以上の力があり、価値がある事に気が付かなかった。
『残されたもの』には、必ず『意味』があると言う事に気が付かなかった。
それは発足したばかりの『明治政府』の高官に、教養や知識が無い人間が多かった為だ。
『明治政府』の高官は、『薩長土肥(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)』出身の有力者に牛耳られた。
初代『内閣総理大臣』 伊藤博文(長州藩)
初代『外務大臣』 井上馨(長州藩)
初代『内務大臣』 山県有朋(長州藩)
初代『大蔵大臣』 松方正義(薩摩藩)
初代『陸軍大臣』 大山巌(薩摩藩)
初代『海軍大臣』 西郷従道(薩摩藩)
初代『司法大臣』 山田顕義(長州藩)
初代『文部大臣』 森有礼(薩摩藩)
初代『農商務大臣』 谷干城(土佐藩)
初代『内閣書記官長』 田中光顕(土佐藩)
初代『法制局長官』 山尾庸三(長州藩)
初代『逓信大臣』 榎本武揚(幕臣)
大隈重信
(佐賀藩・『参議』兼『大蔵卿』、『外務大臣』『農商務大臣』『内閣総理大臣』『内務大臣』)
副島種臣
(佐賀藩・『参与』『制度取調局判事』『参議』『外務卿』)
江藤新平
(佐賀藩・『会計局判事』)
榎本武揚以外の政府の要職は、『薩長土肥』に占められた。
彼らは『明治政府』の『初代大臣』だと自慢するけれど、自分達が政府を牛耳っていたのだから政府の要職に就けたのは当然の事である。
実力でなった訳では無いから、誇るべき事ではない。
特に『薩の海軍 長の陸軍』と言われるように、薩摩藩と長州藩は軍事面で大きな力を得た。
彼らが、『軍』の母体を作ったのだ。
『戊辰戦争』では、侵略した所で食糧を調達すると言う『やり方』を行っていた。
侵略した所に食糧があれば良いが、何も無い所では兵は飢餓に陥る。
その『やり方』を踏襲した『昭和の戦争』では、『戦死者』よりも『餓死者』の方が多かった。
『明治政府』が人の命を守る為の『軍』を、人の命を軽んじる『軍』に変えていった。
また『明治政府』は『天皇親政』を叫びながら、政府の実権は『薩長土肥』が握っていた。
自分達の身分や知識を補う為には、『天皇』と言う権威と名前が必要であった。
彼らにとって『天皇』とは、自分達が実権を握る為の『都合の良い道具』でしかなかった。
この『天皇』を敬わない『明治政府』の態度は、後の『昭和の戦争』にも影響を与えた。
他にも、『明治政府』には多くの『過ち』がある。
・ 『浦上四番崩れ(『開国』と謳っているにも拘らず、
キリスト教徒(カトリック信徒)を大弾圧)』
・ 『明治政府』の高官(伊藤博文など)は『華族』となり、特権を与えられた
(自ら与えた?)。
・ 『鹿鳴館』では表面上外国に追い付こうとしたが、外国では滑稽だと
揶揄され、『国粋主義者』からは嬌奢で淫逸で退廃的行事であると批判
された。
・ 長州藩・伊藤博文などは『戊辰戦争』後に職を失った士族の女性を
江戸城に囲い、江戸城は『千代田遊郭』とも言われた。
・ 三菱財閥創業者の土佐藩・岩崎弥太郎は『明治政府』との癒着により、
丸の内を二束三文で購入した。
そして、その周辺は今でも『三菱村』と言われている。
・ 山県有朋の『山城屋和助事件』
・ 『台湾出兵』
・ 薩長による『藩閥政府』を批判した『自由民権運動』の弾圧
・ 西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによる『征韓論』
・ 井上馨の『尾去沢銅山事件』『藤田組贋札事件』
井上は三井財閥と癒着していた為、西郷隆盛に『三井の番頭』と
呼ばれた事がある。
・ 『明治政府』の言う『明治維新』に多大な影響を及ぼした佐久間象山の墓を、
『明治政府』は粗末に扱っていた。
・ 江戸時代は『神仏習合』と言って、人々は『神』も『仏』も同等に敬い、
信じた。
しかし『明治政府』は近代化を進めると称して、
『社寺上知令』『神仏分離令』『神道国教化』を進めた。
その為、『神仏共存』のバランスが崩れ、歪んだ。
『皇国史観』『軍国主義』『尊皇攘夷』が復活し、『徴兵令』を発布し、
『葉隠』の精神さえも歪ませ、女性の地位をも低下させた。
このような『過ち』だらけの『明治政府』が近代化を成し遂げ、『日本』と言う国であり続ける事が出来たのは、『先人達の遺産』があったからである。
『明治政府』は自分達が近代化を成し遂げたと声高に言うけれど、それは『先人達が遺したものを、利用した』に過ぎない。
江戸時代の人々の、またそれ以前の先人の知識や経験等の『先人達が遺したもの』があったからこそ、近代化を成し遂げる事が出来た。
しかし『明治政府』は『先人達が遺したもの』を利用するだけ利用し、その証拠を消す為に『先人達が遺したものを、無かった事』にしようとした。
無実の罪で逆賊として『新政府軍』に斬首された小栗上野介忠順様の遺した『横須賀製鉄所』等の多くの『先人達が遺したもの』は、日本が『近代化』する為に大いに役立った。
だが『明治政府』は小栗様の業績を闇に葬り、近代化を成し遂げたのは自分達の『功績』であると主張した。
そしてその『事実』を隠す為に、『教育』を悪用して国民を洗脳しようとした。
『明治政府』は『明治維新』と言う名の『下剋上』を正当化する為、嘘に嘘を重ね、その上を嘘で塗り固め、『真実』を隠そうとした。
『明治政府』は『歴史』を歪曲する事によって『日本人』を、『日本』を変えようとした。
しかし、それは出来なかった。
どんなに隠しても、何十年何百年経とうとも、『真実』を消す事も、隠す事も出来ない。
多くの『真実』は、必ず残る。
その『真実』を人々は必ず探し、見つけ、再び残す。
多くの『人』によって、多くの『遺産』は残った。
その『遺産』とは、『人』である。
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【明治生まれの旧幕府側の人々】
《秋山好古 『旧松山藩士』》
明治十二年(1879年)
『陸軍士官学校』卒業後、『任陸軍騎兵少尉』となって『東京鎮台』に配属
明治十八年(1885年)
『陸軍大学校』卒業後、『参謀本部』勤務
その後、『騎兵第一大隊・中隊長』『陸軍士官学校・馬術教官』『任陸軍騎兵少佐』『騎兵第一大隊長』を歴任
明治二十七年(1894年)
『日清戦争』に従軍
明治三十七年(1904年)
『日露戦争』で、『騎兵第一旅団長』出征し、『沙河会戦』『黒溝台会戦』『奉天会戦』等でロシア軍と戦う。
その戦いぶりから、『日本騎兵の父』とも言われるようになった。
明治三十七年(1904年)にロシアの『バルチック艦隊』を打ち破った秋山真之様は、秋山好古様の弟
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《古市公威 『旧姫路藩士』》
明治十三年(1880年)
『パリ大学 理学部』卒業後、『内務省・土木局雇い』となって『内務技師』として勤務
明治十九年(1886年)
『帝国大学工科大学(後の『東京大学 工学部』)初代学長に就任
『仏学会(後の『日仏協会』)』『東京仏学校(後の『法政大学』)』設立・初代校長に就任
明治二十七年(1894年)
内務省の初代『土木技監』に就任
『土木法規』制定
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《石原莞爾 『旧庄内藩士』》
明治四十二年(1909年)
『陸軍士官学校』卒業
大正七年(19188年)
『陸軍大学校』卒業
その後、軍人として生きる。
『関東軍・作戦主任参謀』として満州へ渡り、『柳条湖事件』、そして『満州事変』を起こした。
昭和十一年(1936年)
『参謀本部・作戦課長』として『二・二六事件』を鎮圧
その後、東條英機との確執により左遷。
ただ、この東条との確執により『極東国際軍事裁判』では戦犯指名から外れされた。
昭和二十四年(1949年)
死去(享年 六十歳)
因みに『陸軍大学校』での卒業論文は、『長岡藩士・河井継之助』であった。
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《工藤俊作》
山形県の農家の二男として生まれる。
『海軍兵学校』卒業後、駆逐艦『桃』水雷長、重巡洋艦『鳥海』分隊長等を歴任。
『鉄拳制裁』を禁止し、乗組員達には平等に接し、皆に信頼されていた。
昭和十七年(1942年)
駆逐艦『雷』艦長であった工藤様を含む乗組員は、『スラバヤ沖海戦』で撃沈されたイギリス海軍重巡洋艦『エクセター』乗組員三百七十六名を救助
昭和十八年(1943年)
イギリス駆逐艦『エンカウンター』の乗組員四百二十二名を救助
その後、オランダの病院船『オプテンノート』に捕虜を引き渡した。
本来であれば、工藤様達の行為は『軍法違反』にあたる。
しかし、工藤様達は『人命救助』を最優先した。
戦時下でも、『人命の尊さ』を大切にした。
工藤様達が敵を救助した事は罰則を受ける危険性があった為、『真実』は長い間隠されていた。
しかし工藤様の死後、工藤様達への『恩』を忘れなかったイギリス人元乗組員が工藤様の消息を探し続け、墓前に花を手向け、明らかとなった。
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《松浦武四郎》
伊勢国(三重)の郷士の四男として生まれる。
弘化元年(1844年)
『蝦夷地探検』に出発し、『アイヌ』の人々と親交を深める
明治二年(1869年)
『開拓判官』となり、『蝦夷地』を『北海道(当初は、『北加伊道』)』と名付ける。
また『アイヌ語』の地名を参考に、国名や郡名を考えた。
明治三年(1870年)
和人の支配を強くし、『アイヌ』の人々を支配しようとする『北海道開拓使』を批判し、辞職
その後、『北海道』に関する約百五十冊の調査記録書を遺した。
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《井上成美 『旧幕臣』》
明治四十二年(1909年)
『海軍兵学校』卒業
明治四十三年(1910年)
戦艦『三笠』乗組
装甲巡洋艦『春日』乗組
『海軍少尉』となる
大正七年(1918年)
『スイス駐在武官』を拝命してスイスへ
井上様は、『海軍中尉』『海軍大尉』『海軍少佐』『海軍中佐』『海軍大佐』『海軍少将』『海軍中将』と昇進していった。
井上様は、『日独伊三国同盟』を強化したいドイツに感化され、『反英米・親独』に傾倒する軍を批判していた。
ドイツ語が堪能な井上様は、ヒトラーの真意を知っていた。
ヒトラーは日本を侮蔑し、日本を利用する事しか考えていなかった。
井上様は日本が『日独伊三国同盟』に加盟すれば、日本に未来は無いと考えていた。
しかし軍に押し切られ、『日独伊三国同盟』は締結されてしまった。
『軍務局長』井上成美様、『海軍大臣』米内光政様、『海軍次官』山本五十六様の『海軍省』三人は『海軍三羽烏』と呼ばれ、『日独伊三国同盟』に反対し続けた。
昭和二十年(1945年)
最後の『海軍大将』となる
日本が『ポツダム宣言』受諾後、井上様は『第五航空艦隊 査閲』を命じられ、『海軍』としての最後の仕事を終えた。
戦後、井上様は横須賀市に『英語塾』を開き、多くの子供達に英語を教えた。
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《米内光政 『旧盛岡藩士』》
明治三十六年(1903年)
『海軍兵学校』卒業後、『海軍少尉』就任
明治三十七年(1904年)
『日露戦争』で一艦隊駆逐艦『電』に所属し、従軍
『海軍中尉』就任
大正四年(1915年)
ロシア駐在
大正五年(1916年)
『海軍中佐』就任
大正十四年(1925年)
装甲巡洋艦『磐手』艦長、戦艦『扶桑』艦長、戦艦『陸奥』艦長、装甲巡洋艦『春日』艦長を経て、『海軍少将』就任。
その後、『連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官』『海軍大臣』『海軍大将』『軍事参議官』、そして第三十七代『内閣総理大臣』となる。
しかし陸軍により、『米内内閣』は総辞職に追い込まれた。
もし『米内内閣』がもう少し続けば、戦争はもっと早く終結したのかもしれない。
昭和十八年(1943年)
戦死した『連合艦隊司令長官』山本五十六様の『国葬委員長』を務め、その後『海軍大臣』となる。
昭和二十年(1945年)
『鈴木貫太郎内閣』では『海軍大臣』として留任し、戦争終結と戦後処理に尽くした。
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《山口多聞 『旧松江藩士』》
『開成中学』『海軍兵学校』卒業後、『海軍少尉』『海軍中尉』『海軍大尉』就任。
大正十年(1921年)
アメリカ『プリンストン大学』に留学
『第一潜水艦戦隊参謀』『軍令部参謀』『連合艦隊兼第一艦隊参謀』を歴任。
『ロンドン海軍軍縮会議全権委員随員』にもなった。
対米戦争を回避しよう尽力したが、それを果たす事は出来なかった。
軽巡洋艦『五十鈴』艦長、 戦艦『伊勢』艦長、『第五艦隊・参謀長』『第一連合航空隊・司令官』『 第二航空戦隊・司令官』となり、昭和十七年(1942年)『ミッドウェー海戦』で戦死。
山口様は人望厚く、死後
『部内にも名望ある三拍子も四拍子もそろった名提督』
『彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに』
と言われた。
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《鈴木貫太郎 『旧関宿藩士』》
明治十七年(1884年)
『海軍兵学校』に入学
明治二十七年(1894年)
『日清戦争』に従軍
明治三十一年(1898年)
『海軍大学校』卒業
その後、『海軍次官』『海軍大将』『連合艦隊司令長官』『海軍軍令部長』を歴任
昭和四年(1929年)
昭和天皇の『侍従長』に就任
昭和天皇から、信頼される
昭和十一年(1936年)
『二・二六事件』で襲撃されるが、一命を取り留める
『枢密院副議長』『枢密院議長』、そして『第四十二代 内閣総理大臣』に就任
『陸軍』の反対を押し切って、『太平洋戦争』を終結させた。
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長岡藩も明治以降、多くの『困難』に見舞われた。
『明治政府』による『廃城令』後、他藩では城址が『公園』になる事が多かった。
しかし長岡城跡には、『駅』が造られた。
それは、全国を見ても長岡藩だけであった。
それ程、長岡藩に対する『新政府の怨み』が深かったのだろう。
徹底抗戦により多くの損害を与えられた事を、『明治政府』は決して許す事が出来なかった。
長岡藩は越後の中ではとても影響力があり、『長岡』が新潟の中心となるはずであった。
しかし、『県』になったのは日本海側にある『新潟県』であった。
『真珠湾攻撃』での復讐の標的は、山本五十六様の出身地である長岡へと向けられた。
長岡は、アメリカにより『大空襲』を受けた。
『戊辰戦争』の時のように多くの人が死に、町は燃えた。
多くのものが、再び失われた。
長岡は、新潟で唯一『空襲』を受けた市となった。
平成十六年(2004年)十月には『新潟県中越大震災(震度7)』が発生し、家屋が倒壊し、多くの死者・負傷者を出した。
多くの災難があったにも拘らず、長岡は復興した。
何故、長岡は復興する事が出来たのか?
それは、『戊辰戦争』後も旧・長岡藩が『人』を育て、残して来たからである。
明治時代、在京の長岡人が集まる会が三つあった。
一.『老人会』
五十歳以上の旧・長岡藩士達の集まり。
参加者は、牧野頼母様、鬼頭小山様、三間正弘様、原直行様、萩原貞様、
稲垣林四郎様などの歴戦の勇士であった。
東京・本所『牧野邸』で行われ、『戊辰戦争』での話をした。
一.『月一会』
長岡人青年達の集まり。
参加者は、長岡出身の学生である小西信八様、武田勇蔵様、堤礼三郎様等
であった。
神田仲町『福田亭』に集まり、健康長寿、学業に励む事、長岡人の心を
忘れない事を誓い、お互いを鼓舞した。
会の最後には、『岡栄』の蒸菓子が配られた。
会員は始め長岡学校・長岡中学校出身者に限られていたが、郷党なら
誰でも参加しても良い事になった。
後に、『郷友会』と言う名前に変わった。
また分派して『越岡会(長岡藩出身者のみ)』も発足したが、再び
『月一会』に戻った。
『東洋大学』を設立した井上円了様や、『人類学者』小金井良精様、
『青島新聞社』経営の鬼頭玉汝様も参加した。
明治二十年代には、会員二百名を超える規模となった。
『月一会』はその後も続き、『十日会』と名前を変えて今も続いている。
一.『長岡社』
小林虎三郎様の弟・小林雄七郎様と稲垣銀治様によって創設。
『戊辰戦争』で敗れた人々が、薩長閥に対抗しうる青少年を育てる事を
目的とした。
『郷党の青少年育成団体』を発足する事に約八十五人が賛同し、多くの
寄付金が集まった。
小林虎三郎様、三間正弘様、森源三様、長谷川泰様、外山脩造様、
渡辺廉吉様、梛野直様、三島億二郎様等が寄付した。
これらの寄付を元手に、三人の給費生が選ばれた。
稲垣詮平様、小山吉郎様、仙田楽三郎様であった。
稲垣詮平様は夭逝したが、小山様は『海軍造兵総監』に、
仙田様は『長岡中学校長』になった。
その後も多くの寄付により、『帝国大学』『陸軍士官学校』
『高等商業学校』『高等商業学校』に数々の長岡出身の者が入学した。
山本五十六様も、『長岡中学校』『海軍兵学校』の学費を『長岡社』
から拠出された。
『長岡社』の寄付金の一部は三島億二郎様へも送付され、長岡の
『殖産興業』の為に使われた。
明治十三年(1880年)、『西南戦争』での長岡藩士達の武勲が認められ、長岡『長興寺』で堂々と『戊辰戦争戦没者追悼会』が開かれた。
約二百七十名が集まり、『真言宗』『日蓮宗』『浄土真宗』『浄土宗』の読経が次々と響き渡った。
その後、長岡藩士・鬼頭ます様が祭文を読み、涙を誘った。
長岡でのこの『法会』は何回忌か毎に行われ、大正五年(1916年)には帰郷出来ない在京者の為に、東京・港区『済海寺(長岡藩主・牧野家の菩提寺)』で『五十年祭』が行われた。
この時、約百八十名が集まり、その中には山本帯刀様の娘・かねじ様、継兄さんの妹・牧野やす様、酒井貞蔵様の娘・千代様、高野五十六(後の、山本五十六)様、渡辺廉吉様、根岸錬次郎様達もいた。
『子爵』牧野忠篤(長岡藩第十五代藩主)様、元『銃士隊長』『大区長』稲垣林四郎様、『長岡本町・町長』秋葉半様が弔辞を述べられた。
八十歳の稲垣林四郎様の弔辞は、多くの長岡藩士達に戦の苦難を思い出させた。
その後、『五間梯子』が染め付けられた『備前焼の盃』と、竹皮に包まれた『海苔巻鮨』が配られた。
この『海苔巻鮨』は、『戊辰戦争』の際に配られた『おにぎり』を模したものである。
こう言った『人』に支えられ、『人』は育てられた。
『戊辰戦争』後、『逓信省』へ入った長岡藩士がおり、その伝手で『逓信省』そして『日本電信電話公社(後のNTT)』に就職する者が沢山いた。
神田神保町『一誠堂書店』は、元は酒井宇吉が長岡で創業した『酒井書店』が開いた古書店である。
柳田國男、志賀直哉、川端康成、井上靖、三島由紀夫、松本清張等が、顧客であった。
神田に古書店を開いた事により、その後、神田が『古書店街』となった。
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【明治生まれの長岡藩の人々】
《山本五十六》
高野貞吉様が五十六歳の時、高野家の六男として生まれる。
旧制『新潟県立長岡中学校』卒業後、『海軍兵学校』へ。
明治三十八年(1905年)
装甲巡洋艦『日進』の配属となり、『日本海海戦』に参加。
この時、左手の人差指と中指を失い、左大腿部に重傷を負った。
大正十四年(1915年)
牧野忠篤子爵様のお口添えにより、家名を断絶されていた山本帯刀家を相続。
『山本姓』を、引き継ぐ。
長岡育英団体『長岡社・長老』渡辺廉吉様も
『高野家の遠祖は、山本家と御縁があり、私ども家臣と致しましては賛成でございます』
と言い、また『牧野家・家宰』名児耶六都様も『山本家』復活を喜んだ。
山本家を継いだ山本五十六様は長岡に戻り、山本家の菩提寺である『長興寺』に赴いた。
山本家のお墓は『戊辰戦争』後、荒れに荒れていた。
それを見た山本様は上着を脱ぎ、雑草が生えた所に無造作に横たわる山本家の墓石を起こし、整然と並べ、墓地の四方に石柵を廻らして石柱を建てた。
そして僧を招き、祭祀を行った。
山本様はこの時、長岡藩の汚名を雪ぐ事を決意した。
その後山本様は、『海軍少佐』『海軍中佐』『海軍大佐』『海軍少将』『海軍中将』と昇進した。
そして、とうとう『海軍大将』になった。
しかし山本様は軍人として昇進しながら、戦争の早期終結を模索していた。
もしかしたら、早く戦争を止める為に山本様は昇進し続けたのかもしれない。
アメリカ『ハーバード大学』留学の経験もあり、アメリカの事を熟知していた山本様は、アメリカと戦争をして日本が勝てる訳が無いと考えていた。
山本様は『ロンドン軍縮会議』に参加したり、『日独伊三国同盟』締結に反対するなど『戦争回避』に尽力していた。
しかし、戦争拡大を進める軍部の強行姿勢に抗いきれず、『連合艦隊司令長官』まで任ぜられ、ハワイ『真珠湾』を攻撃する事になってしまった。
山本様は当時の『首相』近衛文麿に、『日米開戦』の見通しについてこう言った。
『それは是非やれと言われれば、初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。
然しながら、二年三年となれば、全く確信は持てぬ。
『三国条約』が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願ひたい』
つまり、アメリカとの戦争は
『長くは持たない』
と言う事である。
山本様は『連合艦隊司令長官』を引き受けた際、こう思った。
『徹底的にアメリカを倒し、戦意を失わせ、戦争を早期に終結させる』
そして山本様の思惑通り、昭和十六年(1941年)『真珠湾攻撃』は成功した。
しかしその勝利は、山本様にとって『屈辱的な勝利』であった。
『国際法』では、攻撃する前に必ず『宣戦布告』しなければならなかった。
しかし『真珠湾攻撃』の時、『宣戦布告』はなされなかった。
諸説あるが、外務省が『真珠湾攻撃』を成功させる為にわざと知らせを遅らせたとか。
アメリカにとって『真珠湾攻撃』は、『奇襲作戦』に他ならなかった。
この勝利はアメリカ人の心を傷つけ、怒らせた。
その怒りは山本様へ、長岡へ、日本へと向けられた。
アメリカはその頃には既に日本軍の暗号を解読し、日本軍の作戦は全て筒抜けとなっていた。
昭和十七年(1942年)
『ミッドウェー海戦』では空母四隻、航空機約三百機を失うと言う大敗を喫した
昭和十八年(1943年)
『ブーゲンビル島』上空で撃墜され、戦死(享年 五十九歳)
山本様は継兄さんを尊敬しており、生前、こんな事を言っていた。
『私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。
軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立をさせねばならぬ』
山本様は、山本帯刀家のお墓のある『長興寺』に今も静かに眠っている。
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《杉本鉞子》
『長岡藩・家老』稲垣平助様の六女。
『勤皇派』であった稲垣平助様は『北越戊辰戦争』の際に出奔した為、戦後は長岡藩内で『不忠の家臣』とされ蔑ろにされた。
その為、鉞子様は長岡で肩身の狭い生活を送っていた。
そんな環境の中でも、鉞子様は『武士の娘』として厳しく育てられた。
そして『海岸女学校(後の『青山学院』)』と『英和女学院』で四年間英語を学んだ後、明治三十一年(1898年)、結婚の為に渡米。
夫の事業失敗や夫の死を乗り越え、友人であるフローレンスに支えられながら、鉞子様は大正十四年(1925年)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』を出版。
自分の半生を書いたこの本は、アメリカでベストセラーとなる。
後に、この本は七ヶ国語に訳された。
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《松岡譲》
父親は、古志郡石坂村『松岡山・本覚寺』僧侶。
松岡様は小説家となり、夏目漱石の長女・筆子と結婚。
著書は、『法城を護る人々』『敦煌物語』等。
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《斎藤博》
長岡藩士・斎藤祥三郎様の二男。
明治三十三年(1910年)
『東京帝国大学・法科大学』卒業後、『外務省』に入省
親英米派であった斎藤様は『シアトル領事』『ニューヨーク領事』となり、『パリ講和会議』『ワシントン会議』『第一次ロンドン海軍軍縮会議』『ジュネーブ会議』等に出席
昭和四年(1929年)
『外務省情報・部長』に就任
『特命全権アメリカ大使』となって、山本五十六様と共に『軍縮』に尽力
昭和十二年(1937年)
『パーネー号事件(日本海軍が、揚子江上にいたアメリカ軍艦を誤爆し、沈没させた事件)』に対して、ラジオを通してアメリカ全国民に謝罪
昭和十四年(1939年)
ワシントンで死去(遺骨は、アメリカの巡洋艦『アストリア』によって日本へ運ばれ、アメリカ政府は斎藤様の『死』を悼んだ)
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《島峰徹》
『東京高等歯科医学校(後の『東京医科歯科大学』)の創立者であり、附属医院長
《小野塚喜平次》
『東京帝国大学総長』
《山田又七》
『宝田石油』の創業者
《中島慶次》
『王子製紙』元社長であり、『紙の博物館・初代理事長』
《反町茂雄》
『弘文荘』を開業
古書鑑定家
《伊東多三郎》
『東京大学・名誉教授』
著書『国学の史的考察』『近世国体思想史論』『幕藩体制』等
《小原直》
検事
『幸徳事件』『シーメンス事件』『大浦事件』『八幡製鉄所汚職事件』『朴烈事件』等を担当し、『カミソリ大臣』と言われた。
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どんな困難な事にも長岡が耐える事が出来たのは、『人』がいたからである。
どんな困難からも長岡が復活出来たのは、『人』がいたからである。
『人』を育てると言う『長岡の藩風』が、『人』を育てたからである。
『米百俵の精神』が、『人』を通してずっと受け継がれてきたからである。
『人』が多くの『もの』を、『こと』を残し、伝えて来たからこそ、長岡は復活する事が出来たのだ。
『人』が『人』を残し、『人』を育てて来たのだ。
『人』は、『遺産』である。
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『明治維新』は、『改革』などでは無い。
『明治維新』は、『下剋上』であり、『テロ』であり、『クーデター』であり、『反乱』であり、『革命』である。
彼らは自分達が実権を握る為に、内乱を起こしたのだ。
『薩長土肥』に支配された内閣である『藩閥内閣』が、それを物語る。
『薩長土肥』が『明治政府』の要職に就く事により、内閣は牛耳られた。
これが、『改革』である訳が無い。
どんなに言い繕うとも、嘘を言っても、歴史を書き変えようとしても、『真実』を隠す事は出来ない。
何故なら嘘をついた事を、嘘をついた自分自身が知っているからだ。
『真実』は、嘘をついた人の中に必ずある。
『真実』を隠そうとしても、『真実』は隠しきれない。
自分を騙す事は、決して出来ない。
『真実』は、必ず表に出る。
『明治維新』は、『革命』である。
しかし『明治維新』の『革命』は、漢語の『革命』とは少し違う。
漢語の『革命』とは、
『天の命を革める』
と言う意味である。
『革命』とは、『天』から見放された王や一族を『全て』根絶やしにする事である。
しかし『それ』を、『明治政府』はしなかった。
『明治政府』の下では、『旧幕府軍』出身の人々が自力で生きていく事は難しかった。
『旧幕府軍』出身の人々の『支え』だけでは、生きてはいけなかった。
『旧幕府軍』出身の人々が『生きる』事が出来たのは、『旧幕府軍』出身の人々だけではなく、『明治政府』の人々による『支え』があったからである。
『明治政府』の中には『旧幕府軍』出身の有能な人々を登用したり、命を助け、支えてくれた人がいた。
『恩赦』を与え、断絶された家名を回復する事に尽力してくれた人がいた。
・ 『札幌農学校(後の『北海道大学・農学部』)』『駒場農学校(後の
『東京大学・農学部』)』を設立し、無職となった教養ある武士を農業に
携えるようにした。
・ 『明治政府』の中には、勇猛であった長岡人に一目を置く者も多かった。
根岸錬次郎様は、『君は長岡出身か?長岡城の戦いは激しかった』と親しみを
込めて話し掛けられたと言う。
・ 薩摩藩・黒田清隆は、森源三様を『北海道・開拓使』として任命した。
・ 長州藩・伊藤博文は、三間正弘様、根岸錬次郎様、小山正太郎様、
渡辺廉吉様を登用した。
・ 早期に降伏を決定し、多くの人々を救った米沢藩士・宮島誠一郎様は
『明治政府』に三島億二郎(川島億次郎)様を紹介した。
その後、その繋がりが三間正弘(三間市之進)様や小山正太郎様、
根岸錬次郎様へと続いた。
・ 『内務省』官僚であった
丹後(京都)宮津藩士・河瀬外衛様も、
長岡藩を救ってくれた。
丹後宮津藩は『長岡藩第十二代藩主』牧野忠訓様のご実家であり、
その縁で救済してくれたと言われている。
河瀬様により、三間正弘様や秋田外記(花輪求馬)様、渡辺廉吉様達は
出世する事が出来た。
他にも、『軍人』として採用された者も沢山いた。
・ 薩摩藩・松方正義は、自分を尋ねて来た三島億二郎様に
『近く緊縮政策(『松方デフレ』)』を行う事を明かした。
それを聞いた三島様は長岡に戻ると直ぐに、銀行経営を縮め、通貨対策をし、
『松方デフレ』の影響を最小限にした。
松方正義には、兄がいた。
名前は、松方正之進。
『戊辰戦争』の際、薩摩藩『十三番隊長』として長岡で戦っていた。
そして彼がいた富島村に、当時『隊長』であった三島億二郎様率いる
長岡藩兵が突進し、松方正之進は戦死。
つまり三島億二郎様は、松方正義にとって『兄の仇』であった。
それでも、松方正義は『松方デフレ』を三島様に教えた。
・ 庄内藩は長岡藩や会津藩同様、最後まで『新政府軍』に抗った。
にも拘らず、庄内藩は厳罰を与えられず、また庄内藩の藩主も打ち首を
免れただけでなく、役職にも就かせてもらえた。
それは薩摩藩士・西郷隆盛によるものだった。
その『恩』もあり、庄内藩士達は『西南戦争』が勃発した際に西郷側に
付いた人々もいた。
こう言った多くの『支え』があったからこそ、『旧幕府軍』出身の人々は『生きる』事が出来たのだ。
多くの人々の『支え』により、長岡の人々も『旧幕府軍』出身の人々も『助けられた』のだ。
もしかしたら『明治政府』の人間が『旧幕府軍』出身の人々を登用したのは、『人材不足』であったからなのかもしれない。
もしかしたら『明治政府』の人間が『旧幕府軍』出身の人々を登用したのは、『優越感』を得る為だったのかもしれない。
それでも『明治政府』の中には、敵味方関係なく心から『支え』『助けてくれた』人々がいたのだ。
それは、『事実』である。
『人』と言う『遺産』が残ったのは、『旧幕府軍』出身の人々だけではなく、『明治政府』の人々の『支え』があったからである。
『明治政府』の中には、自分達の大切な人々を『旧幕府軍』に殺された人もいただろう。
『旧幕府軍』に、町を焼かれた人もいただろう。
しかし『新しい世』の為に、『日本』の為に、『憎しみ』を抑える事を選んだ。
この事は、『明治政府』が『完全なる悪では無い証拠』なのではないだろうか?
勿論『明治政府』の中には、私利私欲に塗れた人間もいただろう。
しかし『日本の将来』を考えた『人』は、『明治政府』の中に絶対にいたのだ。
『明治政府』を、全否定してはならない。
『明治政府』によって『助けられた事』も、『支えられた事』も忘れてはならない。
『悲しみ』が、『消えた』訳ではない。
『苦しみ』が、『消えた』訳ではない。
『憎しみ』が、『消えた』訳ではない。
お互いが、全てを『忘れた』訳ではない。
しかしお互いが、新しい『道』を選んだのだ。
お互いが『憎しみ』を、犯した『罪』だけに向ける『道』を選んだのだ。
『憎しみ』を後世まで伝えない『道』を、次の代の人々に『憎しみ』を向けない『道』を選んだのだ。
『憎しみ』に、『区切り』をつける『道』を選んだのだ。
『悲しみ』や『苦しみ』を伝え、『憎しみ』を抑え、『憎しみ』を糧に『生きる道』を選んだのだ。
そうでなければ、『前』に進めなかった。
そうでなければ、『日本』は発展しなかった。
お互いが『過去』の為ではなく、『現在』と『未来』の為に『生きる』と決めたのだ。
その『道』を選ぶ事が出来たのは、先人達がそれを示してくれたからだ。
徳川の時代が長く続いたのも、戦のない『平和な時代』が続いたのも、先人達が教え、遺してくれたからだ。
『憎しみ』を後世まで、遺してはならない。
『怨み』『怨まれる』ような『未来』にしてはならない。
『争い』をしてはならない。
『先人』達が、『人』が、それを示してくれたのだ。
だから『憎しみ』を乗り越えて、敵味方関係なく、手を携えて共に生きていく事が出来たのだ。
『人』は、『過ち』を犯す。
『人』であれば、『正しい事』をすれば、『間違った事』もする。
それは何十年経っても、何百年経っても、何千年経っても、変わらない。
『過ち』は、なくなら無い。
しかし、『過ち』を減らす事は出来る。
『過ち』を、繰り返さないようにする事は出来る。
その為に、『人』がいるのだ。
『小さな戦』は、未だにある。
しかし『第一次世界大戦』『第二次世界大戦』『太平洋戦争』のような、世界を巻き込むような戦はずっと起きていない。
それは『戦の惨さ』や『戦の愚かさ』を、先人達が身を以て教えてくれたからだ。
『人』が『引き継がなければならない事』は、『憎しみ』ではなく、『憎しみを乗り越える意志』や『憎しみを持ち続ける愚かさ』である。
『先人達の意志』や『先人達が生きてきた証』を『無』にしない為にも、私達には『全てのもの』を引継ぎ、それを『後世』に伝える『役割』がある。
『日本』は、多くの『人』によって作られて来た。
それは、今も、これからも変わらない。
生きている全ての『人の役割』は、『人』と言う『遺産』を残す事である。
『人』は残されたそれらの『遺産』を受け取り、学び、それらを自分達の『遺産』と共に残し、後世に伝えなければならない。
『人』は『生き様』を示し、『誰か』が『何かの形』で、その『人の生き様』を残す事によって、後世に伝えられ、生き続ける。
後世の『人』はそれを学び、また後世の『人』はその先の『人』に伝える。
そうして、『人』は『人』を育て、『人』を残し続ける。
決して忘れてはならない。
『忘れる』と言う事は、『過去を無かった事にする』と言う事だ。
苦しみ、無念の中死んでいった人達を、『存在しなかった者』とする事だ。
忘れてはいけない。
忘れてしまっては、全てが『無』になり、同じ事を何度も繰り返す。
二度と同じ事を繰り返さない為、『過去』から学ばなければならない。
だから、『過去』を曲げてはいけないのだ。
『過去』を、変えてはいけないのだ。
『過去』を、捨ててはいけないのだ。
『過去』を捨てない為に、『過去』を忘れない為に、亡くなった人々を弔う為に、長岡では毎年夏に『火の花』が上げられる。
その『火』は、かつて私達を、私達の故郷を焼いた『火』とは違う。
とても綺麗で、色とりどりに輝く『火の花』だ。
その『火の花』が、教えてくれる。
『遺産』は、『人』は、『生き続けている』と。
この『火の花』を次の世代に継ぐ事こそが、『平和への道』であると。
空の上から、私は毎年咲くこの『花』を見ている。
その『花』を見ていると、まるで自分が『花』の中にいる様な気がしてくる。
この『花』を見る度に、『雪』の中を裸足で歩いた時の事を思い出す。
色とりどりの『火の花』が、永遠に咲き続けますように・・・。
そう思わずにいられない。
『過去』は、どんな事があっても『消す』事は出来ない。
『過去』は、どんな事があっても『変える』事は出来ない。
しかし、『今』と『未来』は『変える』事が出来る。
その『思い』は、後世の人々によって受け継がれているのだと私は思う。
何故なら、毎年、『火の花』が長岡に咲くのだから。
『火の花』が、私達を包んでくれるのだから。
『火の花』が咲き続ける限り、『平和』は続くのだ。
『平和』は、続くのだ・・・。




