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むつの花  作者: 野口 ゆき
7/77

一つの花 『七.蛙』

元治(げんじ)元年(1864年) 文月(ふみづき)(7月)


私はお城の南側にある千手口門(せんじゅぐちもん)の近くで、お城から父上が出てこられるのを待っていた。


お城のお堀に咲く沢山の薄紅色の蓮が、待っている時間を楽しくさせてくれる。

太陽の光がお堀の水に反射し、蓮と蓮の間からきらきらと光り輝いて、とても綺麗だった。


しばらくすると、父上が一人で門から出て来た。

私は、父上に声を掛けた。

「父上」

父上は走り寄って来る私にゆっくりと顔を向け、言った。

「ああ・・・。

ゆき」

「父上、お一人ですか?

六助(ろくすけ)は、どうしたのですか?

一緒ではないのですか?」

「ああ。

六助は具合が悪そうだったから、先に家へ帰らせた。

「六助の具合が?

大丈夫でしょうか・・・?」

「『暑さ負け』だと思うが・・・。

兎に角、安静にしている事が一番だろう。

帰ったら、六助の所へ見舞いに行こう思う」

「私も行きます」

「ああ。

そうしてくれ。

ゆきが顔を見せれば、六助も喜ぶだろう」

「はい。

でも、六助は素直に家へ帰ったのですか?

六助の事だから

『旦那様を置いてなどいけません!!』

と言って、絶対に帰らなそう・・・」

「ああ。

私も、そう思った。

だから前もって手紙を用意し、六助に

『とめに、至急この手紙を渡すように』

と言って先に帰ってもらった」

「手紙には、何と書かれたのですか?」

「『六助の具合が悪そうだから、無理矢理にでも布団に寝かせるように』と」

「母上なら、六助を布団に縛り付けてでも寝かせそう・・・。

でも、そうまでしないと、絶対に六助は無理しますものね」

「ああ。

そうだな」

と微笑む父上の顔が少し暗い事に、私は気付いた。

「・・・どうされたのですか・・・?

父上も、具合が悪いのですか?」

父上は、静かな声で答えた。

「ああ・・・。

具合が悪い訳ではない・・・」

「では、どうしてそんなに暗い顔をされているのですか?

何か、あったのですか?」

すると父上はお城に顔を向け、眩しそうにお城を見つめながら言った。

「・・・京都で、長州(ちょうしゅう)藩が御所(ごしょ)に大砲を向けた事を知っているだろう?」

「はい。

長州藩が、会津(あいづ)藩を排除しようとした(いくさ)ですね」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



当時、京都では『公武合体(こうぶがったい)論・開国(かいこく)論』を唱えた佐久間象山(さくましょうざん)様が三条木屋町(さんじょうきやまち)河上彦斎(かわかみげんさい)らに暗殺されるなど、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の過激化が進んでいた。

六月に起きた『池田屋事件』も、尊王攘夷派の暴走を益々激しくさせていった。

そして、とうとう『禁門(きんもん)(へん)(『蛤御門(はまぐりごもん)(へん)』。長州藩が、京都を守護していた会津藩排除を目指して挙兵。長州藩は『攘夷』と叫びながら洋式銃を携え、御所を攻撃。戦闘は一日で終結し幕府方が勝利したが、戦火により京都の街も火の海と化した)』が勃発した。

この戦で大敗を喫した長州藩とそれに与する公家達は『朝敵(ちょうてき)』となり、御所から一掃された。

長州藩兵は『薩賊会奸(さつぞくかいかん)』と書かれた履物を履きながら、京都を去って行ったと言う。

会津藩へのこの深い憎悪は、後の『戊辰(ぼしん)戦争』で晴らされる事となる。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「でも、戦は薩摩(さつま)藩と会津藩が力を合わせて食い止めたのですよね?

天子(てんし)様をお守りする事が出来て、良かったのではありませんか?

長州藩も、国に帰ったとか・・・。

他に、何か心配事でもあるのですか?」

朝廷(ちょうてい)は、幕府に『長州藩追討』をご命じになられた」

「幕府が、長州藩を攻撃するのですか?」

「ああ。

しかし、それは無理な話だ。

今の幕府は、軍費も軍備も不十分だ。

それに、諸藩が幕府の参戦命令に従うとは思えない。

幕府の権威は、弱まりつつある。

幕府に協力する藩が、どれほどいるか・・・。

幕府軍は、武器も人も不足する事態に陥り兼ねない。

対して、長州藩には『禁門の変』で用いた洋式銃がある。

そもそも幕府軍とは、士気も違う。

長州藩は『禁門の変』の恨みを晴らす為に、自藩を守る為に、死に物狂いで幕府に立ち向かって来るだろう。

窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』と言う。

追い込まれた人間は、とてつもない力を発揮する。

幕府がもし長州藩に勝つ事が出来れば、幕府の権勢は回復するかもしれない。

だが、もし負ければ軍費も軍備も全て無駄になる上、幕府の弱体化が露呈し、権力も急速に失墜する・・・。

こんな事をしている場合ではないのだ・・・。

日本人同士が争っている場合ではないのだ・・・!」

父上はきつく目を瞑り、強く自分の両手を握り締めた。

私は、どうすれば良いのか分からなかった。

こんな父上を、私は今まで見た事がなかった。

私は、ただただ父上の悔しそうな顔を眺めている事しか出来なかった。

しばらくして父上は再びお城を見上げ、苦しそうに呟いた。

「長岡藩は、譜代藩(ふだいはん)だ。

どんな事があっても、幕府を守らなければならない」

「・・・」

「長岡藩も、いずれこの時代の渦に飲み込まれて行くのかもしれない・・・」


それは、長岡藩も戦に巻き込まれるかもしれないと言う事だろうか?

まさか・・・。

でも、幕府が負けるなんて事は・・・ない・・・はず・・・。


私はこの時はじめて、戦を身近に感じた。

少し前までは、あまり気にも留めていなかったのに・・・。

こんなにも、時代の流れが早いなんて・・・。

私は、少し怖くなった。


私が何も言えずに父上を見つめていると、突然、父上が何かを思い出したかのように私の方を振り向き、私の肩を掴んで問い質した。

「ああ!!

そう言えば、ゆき。

どうしたのだ?

何故、此処にいる?

何かあったのか?」

「ああ!

そうでした!

姉上が、家に帰って来ているのです!」

「何!?

とうとう三行半(みくだりはん)(離縁状。当時、離縁状が三行半だった事から)でも突きつけられたか!?」

「・・・違います」

「そ・・・そうか・・・」

父上の額には、大粒の汗が伝っていた。

本気で、姉上が出戻って来たと思ったのだろう。

ただ、有り得ない事ではないから恐ろしい。

何と言っても気の強い母上の血を色濃く継いだ姉上が、嫁ぎ先でちゃんとやっているのか心配なのだろう。

父上の心配が絶える事は、この先ずっと無いだろう。

気の毒だ・・・。

「では、うめは何故戻って来たのだ?」

「ただ、久しぶりに遊びに戻って来ただけだと思いますけど・・・。

私も、詳しくは聞いていません」

「本当か?

本当にそうか?

何か、隠しているのではないか?

うめに、変わった事はないのか?」

「・・・いえ。

特には・・・」

「・・・そうか」

そう言うと、父上は大きな溜息をつき、私の前を歩き始めた。

まだ安心しきれていないと、背中が語っていた。

「?」

私は、父上の背中に何かが付いているのを見付けた。

良く見ると、それは小さな青蛙だった。

一体、何処で付けて来たのだろう・・・。

と言うか、何時から・・・。

「父上。

蛙が背中に付いていますよ。

取りますから、じっとしていて下さい」

そう言って、私はそーと蛙を取ろうとした。

すると父上は振り返りもせず、姉上が心配なせいか、いつもより足早に歩きながら言った。

「取らなくても良い」

「? 

でも、蛙は泥だらけですよ。

着物が、汚れてしまいます。

それに背中に蛙を付けているなんて、恥ずかしいですよ。

笑われてしまいます」

「構わぬ。

着物は、洗えば良い。

蛙が付いていても、蛙柄だと思えば良い。

もし此処で蛙を取って道に置いていけば、蛙が誰かに踏まれてしまうかもしれぬ。

このまま家まで連れて帰って、庭に放してやれば良い」

蛙の柄の着物・・・。

私は少し戸惑ったけれど、蛙を思う父上の優しさに少々驚き、そして感動した。

母上の前ではいつも小さく見える父上の背中が、この時なんだかほんの少しだけ大きく私には見えた。


と、ここまでは良かった。


「一句、浮かんだ」

突然父上が立ち止まって、言った。

「『青蛙 我が背につけて 我帰る』」

「・・・」

「どうだ?」

父上は振り返り、満面の笑みで私に聞いた。

どうだって・・・。

下手に、決まっている。

しかし父上の笑みが自信満々で、私は何だか褒めてあげないと可哀想だと思い、取り敢えず差し障りのない答えをした。

「・・・とても・・・良いと思います。

情景そのままで・・・。

最後の洒落も・・・利いています・・・。

『蛙』と『帰る』・・・」

そう答えた時の父上を見る私の目は、悲しそうだったに違いない。

でも父上はそんな私には気付かず、とても嬉しそうに鼻歌を歌いながら殿町(とのまち)にある我が家へ向かって歩き出した。


_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _



父上と私を玄関で迎えてくれたのは、竹刀を右手に持ち、瑠璃色の着物を襷掛けした姉上だった。

「お帰りなさいませ。

父上」

突然の姉上の登場と出で立ちに、父上は驚いて後退った。

「う・・・うめ。

元気であったか?

本富(ほんぷ)家の皆様は、お元気か?」

「はい。

恙なく暮らしております。

父上にも宜しくと、言付けられております」

「そうか・・・。

それは、何より・・・」

やっと安心したのか、今度の溜息は暖かかった。

「今日は、何故帰って来た?

何故、そのような格好をしている?」

團一郎(だんいちろう)を、鍛えに参りました」

「團一郎を?

何故?」

「聞いたところ、あの子は家で本ばかり読んで、剣術の稽古も疎かにしていると言うではありませんか?

それは、何故か?

理由は、父上と母上が團一郎を甘やかしているからです。

司郎(しろう)が江戸にいる今、團一郎を男らしく鍛える事が出来るのは姉である私しかいないと思い、今日は本富家の許可を得てこちらに参りました」

「團一郎は、剣術が得意ではないのだ。

無理に教えなくとも・・・」

「何を言っておいでですか!!

父上!!」

父上は母上に怒られた時のようにビクッとし、背筋を伸ばした。

「そうやって甘やかすから、團一郎は何時まで経っても泣き虫で弱虫なのです!

苦手なものを克服しなければ、辛い事から目を背ければ、それが一生の弱みとなります!

しかし、苦手なものを克服すれば自信にも繋がり、それが強みにもなるのです!

そのように私は、父上からも母上からも言われ育ったはずですが!?」

「そ・・・そうだっ・・・た・・か・・・な・・・?」

「主に、母上からでしたけれど。

それにしても、本当にお二人は團一郎には甘過ぎます!!

それは、團一郎の為にはなりません!!

甘さが優しさとは、限りません!!」

「そ・・・そうだな・・・。

済まぬ・・・」

「それと、團一郎は剣術が苦手な訳ではありません。

寧ろ、筋は良いのです。

武士として生まれた以上、剣術は必須です。

やりたくなくとも、やらなければならない事なのです。

團一郎は、その事に目を背けています。

単に、やろうとしないだけです。

やりたくないだけなのです。

傷つきたくないから、避けようとしているのです。

出来るのにやらない。

それは、やりたいのに出来ない人達に失礼です。

やりたくても出来ないのは、時代と運によります。

出来るのにやらないのは、自分次第です。

やりたくなくとも、やり続けていれば何時か役に立つ時が来ます。

『嫌いな剣術も、苦労してやり続けてきて良かった。

楽しい。

自分の弱みを克服する為に、努力してきて良かった。

困難を乗り越える事が出来て、自信がついた』

それを團一郎に知ってもらう事が、今の私の使命です!」


私は、驚いた。

ただ単に團一郎が不甲斐ないから、姉上は團一郎を痛めつけていたのだと思っていた。

姉上は、團一郎の事をちゃんと考えていたのだ・・・。

姉上なりに・・・。

いや。

でも苦しんでいる團一郎を見つめている時の姉上は、とても楽しそうだけれど・・・?


「ゆき」

突然姉上に呼ばれて、私の声は裏返ってしまった。

「はい!?」

「團一郎は、何処?」

「もうそろそろ、藩校から戻って来ると思うけれど・・・」

すると、間の悪い事に團一郎が戻って来た。

團一郎は姉上の姿を見止めると、目を大きく見開き、まるで鬼でも見たかのような真っ青な顔をして慌てて踵を返して走り去ろうとした。

「團一郎!!!」

姉上は竹刀を置き、代わりに玄関に置いてあった下駄を素早く拾って團一郎に向かって思い切り投げた。

素晴らしいコントロールだった。

衝撃を少なくする為に、姉上は平らな面が團一郎に当たるように投げた。

その下駄は、團一郎の後ろ頭に命中した。

團一郎は、その場に顔から倒れた。

透かさず姉上は足袋のまま玄関を下り、團一郎に向かって走り出した。

團一郎は直ぐには立ち上がる事が出来ず、とうとう姉上に捕まった。

襟首を掴まれ、まるで猫のようだった。

姉上は、怒りながら言った。

「團一郎!

どうして逃げたの!?」

「・・・」

團一郎は、恐怖のあまり声が出なかった。

「團一郎!!」

「はいい!!」

團一郎は、直立不動になった。

「お・・・恐ろしくて・・・」

「何が!?」

「あ・・・姉上が・・・」

「何ですって!?」

「ひいい!!

ごめんなさい!!」

團一郎は、昔からうめ姉上を恐ろしがっていた。

姉上は、團一郎には容赦が無い。

父上は、最早気の毒そうに團一郎を見つめる事しか出来なかった。

自分と團一郎の姿を、重ねていたのだろう・・・。


恐る恐る、團一郎は上目遣いで姉上に聞いた。

「うめ姉上・・・。

今日は、何をしに・・・?」

「貴方に、剣術の稽古をつけに来ました」

「え!?

結構です!!」

「『結構なお誘いです。是非お願い致します。姉上』と、言う意味ね?

では、着替えて庭へ参りましょう。

團一郎さん?」

姉上の笑顔が怖い。

團一郎は、ひきつった顔で言った。

「・・・・・・・・・・はい」

観念したようだ。

顔面は蒼白。

目は虚ろ。

可哀想だけれど、強くなる為の修行だから。

頑張れ。

團一郎の襟首を持って引きずりながら、姉上は私の方を振り返った。

「ゆきも、久しぶりに手合せしない?」

「うん。

そのつもりだった」

姉上はくっきりとしたえくぼを作って、にっこりと微笑んで言った。

「それでこそ、我が妹」

「でも、その前に六助の部屋へ行っても良いですか?」

「勿論よ」

私達の会話を不思議そうに聞いていた團一郎が、私に尋ねた。

「六助に、何かあったのですか?」

私は、引きずられている團一郎に言った。

「具合が悪くて寝ているの。

暑気中(しょきあた)り』だと、思うけれど・・・」

「では、私も参ります!

私も、六助が心配です!

稽古は、お見舞いの後でも良いでしょう?

うめ姉上?」

團一郎は、姉上の顔色を窺った。

姉上は少々疑った目をし、淡々と答えた。

「六助を見舞ったら、庭へ来るのですよ」

「はい・・・。

多分・・・」

「多分!?」

「必ず戻って来ます!!」

「武士に、二言は有りませんね!?」

「はい!!!」

「宜しい」

そう言って、姉上は團一郎を解き放った。

團一郎は、安堵の溜息をついた。

姉上は竹刀を取りに、玄関へ向かいながら言った。

「先程私も六助を見舞ったけれど、少し良くなったようよ。

母上が、付きっきりで看病しているようだから」

「母上が・・・」

それなら、良くなるだろう。

ある意味、気の毒だけれど・・・。

竹刀を手に取り、姉上は続けた。

「『年なのだから、あまり無理しては駄目よ』と六助に言ったら、逆に説教されたわ。

『もう少し女らしくしろ』とか、『嫁がれた方が、何度も実家に戻って来てはなりません』とか。

相変わらずうるさかったけれど、元気そうで安心した。

皆で見舞ってあげれば、六助も喜ぶと思うわ。

では、父上。

また後程。

ゆき。

團一郎。

六助の許から戻ってから、稽古を始めましょう」

と言って、姉上は素振りをしながら庭へ行った。

父上と團一郎は姉上の背中を見ながら、黒くどんよりとした重い溜息をついた。

父上は私達に向かって、言った。

「ゆき。

團一郎。

先に、六助を見舞いに行ってくれ。

私は、用事を済ませてから行く」

そして、父上は姉上のいない奥の庭へと向かって行った。

きっと、蛙を降ろしに行ったのだろう。

私と團一郎は、六助の部屋へ向かった。

案の定、母上が六助の枕元で六助を見張って・・・。

いや。

看病していた。

部屋に入って来た私達を見て、六助は本当に嬉しそうに、満面の笑みを湛えながら私達を迎えてくれた。

その笑顔が『見舞ってくれて嬉しい』からなのか、『母上と二人きりでいる事から解放される喜び』からなのかは、分からなかったけれど・・・。

取り敢えず六助の顔色は良かったので、母上の睨みは(良い意味で)効いたのだろう。


良かった。



_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _



『バーーーン!!』


『バーーーン!!』


「ゆき。

竹刀は、左手でしっかりと持ちなさい。

右手は添えるだけと、何度も言ったでしょう?」

「團一郎。

相手の動きを、良く見なさい。

先の先まで、読むのです」

「ゆき。

そんなに腕を伸ばしてはいけません」

「團一郎。

何故、泣いているのです?

男なら、しゃんとなさい」


姉上に稽古をつけてもらって、一刻(いっとき)(約2時間)。

私と團一郎は、汗だくになって座り込んだ。

しかし、姉上は平然としていた。

顔も、汗をかいていなかった。

お祖母様も母上も、首から上はあまり汗をかかない。

武士の女性は常に平静を保っていると見せる為、汗をかかないように訓練している。

私は、まだまだ修行が足らない。

ぐったりとした團一郎が、言わなければ良いのに姉上に皮肉を言った。

「うめ姉上は、本当は男に生まれるはずだったのですよ。

姉上の落とし物を、私が拾ったのです」

姉上はうんざりとした面持ちで溜息をつき、言った。

「貴方達兄弟は、本当に良く似ているわね。

司郎も、全く同じ事を言ったわ。

『姉上が男に生まれていれば、私は苦労しないで済んだのに』

て。

ああ。

我が家の男共は、本当に不甲斐無い。

私だって、自分が男に生まれてくれば良かったって思うわ。

そうすれば、江戸の道場へ修行にも行けただろうし・・・。

そうしたら、『伊庭(いば)小天狗(こてんぐ)』とも言われる伊庭八郎(いばはちろう)様に御指南頂けたのかも・・・。

役者のように良い男と聞いているし・・・。

稽古をつけてもらったら、もしかしたら・・・。

ああ・・・。

でも、そうすると男では駄目ね。

だったら、女として江戸へ修行へ行きたいわ。

伊庭様に、お会いしてみたい。

ああ・・・。

でも、それは夢・・・。

現実は、厳しいわ・・・。

残念でならない・・・。

あ。

でも、男でも構わないかしら・・・」

姉上はそう言って、しばらく妄想にふけっていた。

うめ姉上には、少々妄想癖がある。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



江戸には、とても沢山道場がある。

その中でも有名なのが、


千葉周作(ちばしゅうさく)北辰一刀(ほくしんいっとう)流『玄武館(げんぶかん)

斉藤弥九郎(さいとうやくろう)神道無念(しんどうむねん)流『練兵館(れんぺいかん)

桃井春蔵(ももいしゅんぞう)鏡新明智(きょうしんめいち)流『士学館(しがくかん)

伊庭秀業(いばひでなり)心形刀(しんぎょうとう)流『練武館(れんぶかん)


であり、特に前述の三流派は明治時代には

『技は千葉、力は斉藤、位は桃井』

とも言われ、多くの剣客を輩出した。

現在の日本にも、その流れを汲む道場が残っている。

このまま残してもらいたいものだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「まあ。

愚痴を言っても仕方が無いわね。

現実は、受け止めなければ。

さあ!

團一郎!

弱音を吐かずに、もう一勝負!!」

團一郎の顔が、醜く歪んだ。


それから半刻(はんとき)(約1時間)して、父上が歩いて来た。

「父上!!」

團一郎は救いの神が舞い降りて来たかの如く、父上に駆け寄った。

父上は気の毒そうに團一郎を見つめながら、うめ姉上に言った。

「まだ、稽古をしていたのか?

あまり無理をするのは、良くない。

少し休んだ方が、良いのでは・・・?」

姉上は、仕方無いと言う感じで答えた。

「そうですね。

では、しばし休憩しましょう」

その言葉に、團一郎は叫んだ。

「休憩!?

終わりではないのですか!?」

姉上は、静かに冷たく言った。

「何か?」

「・・・いえ。

宜しくお願い致します・・・」

團一郎の目は、死んでいた。

私は、父上を見て思い出した。

「あ。

そう言えば、父上。

蛙は、取れましたか?」

事情を知らないうめ姉上と團一郎は、不思議そうに聞いた。

「蛙?」

私は、姉上達に説明した。

「お城から家に帰る途中、父上の背中に蛙が付いていたのを見つけたのです。

父上は町で蛙を取ると踏まれる可能性があるからと、家の庭に逃がしてあげるつもりだったのです」

姉上は、驚きながら言った。

「背中に蛙が付いていたなんて、全く気付かなかった・・・。

あまりにも一体化されていて・・・。

で、蛙は取れたのですよね?」

すると、父上は少々言い辛そうに答えた。

「それが、何時まで経っても降りてくれなくてな・・・。

取ろうにも手が届かなくて、ゆきに取ってもらおうと思ってこちらに来た。

六助の傍にはとめがいるから心配無いと思うが、早く六助の様子も見に行きたいし・・・」

父上の言葉に、私は驚きながら聞いた。

「え?

まだ六助のお見舞いにも、行っていなかったのですか?

と言うか、今までずっと蛙が降りるのを待っていたのですか?

棒か何かで、取れば良いのではありませんか?」

「棒で落としたら、蛙が可哀想だろう」

「では、奥の庭でずっと蛙が背中から降りるのを待っていたのですか?」

「ああ」

その返事を聞き、私達三人はお互いの目を見合わせた。

気が長いと言うか、トロトロしていると言うか・・・。

呆れると同時に何だか笑いが込み上げて来て、皆くすくす笑い始めた。

父上らしい。

それを見ていた父上は何が何だか分からないといった感じで、首を傾げて私達の事を見ていた。

私は父上の背中に回って、父上の背中にへばりつく蛙を静かに取り、庭に咲く紫色の紫陽花の葉に乗せてあげた。

紫陽花の葉の上をゆっくりと歩く蛙を見て、しみじみと感じた。


『ああ・・・。

楽しいな・・・。

平和だな・・・。

幸せだな・・・』


それと同時に、父上の言葉が蘇った。


『長岡藩も、いずれこの時代の渦に飲み込まれていくのかもしれない』

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