一つの花 『六.竹笛』
元治元年(1864年) 水無月(6月)
文久三年(1863年)の『八月十八日の政変(会津藩と薩摩藩を中心とした『公武合体派』と長州藩を中心とした『尊王攘夷派』の対立の果て、長州藩と七人の公卿が京都を追放された『七卿落ち』)』以降、京都には勢力挽回を目論む尊王攘夷派達が潜伏していた。
京都で探索をしていた『京都守護職』配下の『新選組』は、攘夷派・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛し、拷問の末、恐ろしい計画を自白させた。
その計画とは、祇園祭の前の風の強い日に尊王攘夷派達が京都の町に火を付け、その混乱に乗じて天子(孝明天皇)様を誘拐して長州へお連れし、尚且つ幕府寄りの人間を殺すと言うものであった。
そして元治元年(1864年)六月、京都三条木屋町旅館『池田屋』に潜伏中の長州藩、土佐藩、肥後藩を中心とした尊王攘夷派達を新選組が襲撃した。
『池田屋事件』である。
『京都守護職』は、文久二年(1862年)に設立された京都の治安維持を目的とした役職であった。
京都には元々『京都所司代(『長岡藩第十一代藩主』牧野忠恭公も、1862年からこの任に就いていた。しかし、小藩である事を理由に1863年に辞任)』や『京都町奉行』が治安維持の役目を果たしていたけれど、過激派による天誅(暗殺)や強盗が横行し、対応しきれなくなっていた。
そこで幕府は『京都守護職』を、『京都所司代』『京都町奉行』の上に新たに設置した。
この『京都守護職』として白羽の矢が立ったのが、『会津藩第十代藩主』松平容保公であった。
しかし、容保公は固辞し続けた。
当時会津藩は浦賀や蝦夷地の警備により財政難であり、多くの藩士を京都へ送り込めば益々貧窮する事は目に見えていたからだ。
また尊王攘夷派達の恨みを一身に受ければ、矢面に立った会津藩がいつか亡ぼされると言う危険性もあった。
容保公は会津を守る為に、どうしても引き受ける訳にはいかなかった。
しかし、当時『将軍後見職』であった一橋慶喜公と『越前・福井藩第十六代藩主』松平春嶽公からの再三の要請を受け、とうとうその任を引き受ける事になった。
『会津藩初代藩主』保科正之公が残した家訓
『会津藩たるは 将軍家を守護すべき存在』
を、引き合いに出された為だった。
美濃・高須藩(岐阜)から養子に来た容保公は、歴代の会津藩主の中の誰よりも『真の会津藩主』でありたいと思っていた。
だから、正之公の言葉は絶対であった。
容保公が『京都守護職』の任を引き受ける事を藩士達に告げると、皆慟哭した。
『会津は亡びる』
そして会津藩が危惧したように『池田屋事件』以降、会津藩と『新選組』は尊王攘夷派の恨みを更に受ける事になった。
この頃の私は、京都の出来事を何となくは耳にしてはいたけれど、遠い国の話、自分にはあまり関係の無い話だと思っていた。
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庭の紫陽花に水をあげていると、お祖父様の竹笛の音が聴こえて来た。
とても深く、優しい音色が。
「ねえ。
六助。
お祖父様の竹笛の音は、本当にきれいだと思わない?」
私は、庭掃除をしている六助に言った。
六助は、にっこりと笑って言った。
「沢之丞さまの笛は、皆さまを温かくして下さいます。
私も、大好きです。
しかし、ご存知ですか?」
六助はくすくす笑いながら、私に言った。
私は首を傾げながら、六助に聞いた。
「何を?」
「沢之丞さまは、元々竹笛が不得手だったのですよ」
「え!?
あんなに、お上手なのに?」
「竹笛の音色を、もみじさまがお好きでいらしたから猛練習されたのですよ。
その時、沢之丞さまは今のゆきさまと同じくらいの年齢だったと思います」
「え!?」
お祖父様が竹笛が(も)下手だった事も、お祖母様の為に頑張って練習した事も、全て驚くべき事ばかりだった。
六助は、何でも知っている。
私も、気を付けなければ。
六助は、にこにこ笑いながら続けた。
「沢之丞さまご自身も竹笛の音色がお好きでしたが、本当はもみじさまの喜んだお顔が見たかったからなのです。
ただ、やりたいことと出来ることは違うというのでしょうか・・・。
どんなに練習しても、いっこうに上達しませんでした。
『もう、諦めてはいかがですか?
きっと上達しません』
と、私は何度も沢之丞さまに申しあげました」
「上達しない・・・」
六助は、自分の意見をはっきりと言う。
でも、それは嘘が無い証拠。
だから、私達家族は六助を信頼している。
六助は、続けた。
「しかし、沢之丞さまは決して諦めませんでした。
『私は、諦めない』
とおっしゃられて、結局私の意見は聞き入れて頂けませんでした。
頑固な方で、やると決めたら必ずやります。
ゆきさまも、沢之丞さまにそっくりです」
「・・・そう・・・?」
私って、頑固なの?
それにしても
『私の家族は、不得手なものが多いなぁ・・・』
と思いながら、私は六助の話を聞き続けた。
「沢之丞さまはどんな時でもどんな所でも竹笛を持ち歩き、寝ても覚めても、一日中、竹笛を吹き続けました。
まさに、歩く騒音でした。
厄介なのは、沢之丞さまご自身が、自分が騒音を発していることにお気づきになっておられなかったことです。
毎回同じところを間違えたり、どうしてこんな音を出すことが出来るのかと思うほど本当に聞くに耐えない音色で、とうとう沢之丞さまのお父上さまも
『近所迷惑になるから』
とご注意されたそうです。
それ以来、沢之丞さまは音がもれないようにと、押し入れの中や、布団をかぶって練習をするようになりました」
「押し入れの中や布団を被って・・・」
「それを想像すると少々笑える話ですが、というか実際に見ていた私はよく笑っていました。
しかし、沢之丞さまはとても真剣でした。
もともと、生真面目な性格でしたから・・・。
努力に努力を重ねていたのですよ。
ただただ、もみじさまの為に」
「へえ・・・。
で、お祖父様はどれくらいで上手に竹笛を吹けるようになられたの?」
「十五年かかりました」
「十五年も!?
そんなに不器用だったの!?
お祖父様は!?」
「私も、何故あんなに下手だったのか皆目見当もつきませんが、沢之丞さまは
『突然吹けるようになった』
とおっしゃっていました。
もしかしたら、努力の結果は突然やってくるものなのかもしれませんね。
その努力の跡が、沢之丞さまの指先にありますよ」
「指先?」
「指先に、『指孔』の跡がついていらっしゃるでしょう?」
「『ゆびあな』?」
「笛には、いくつもの穴があいているでしょう?
あれですよ」
「ああ」
「沢之丞さまはあまりにも竹笛を吹きすぎて、指についた丸い輪っかの跡が取れなくなっていました」
「ああ・・・。
あれは、竹笛の穴の跡だったのね・・・」
私は、お祖父様の指先にある薄いまん丸の跡を思い出した。
「沢之丞さまはコツをつかんだのか、その後めきめきと上達されて、信じられないことに、とうとう竹笛の名手とまで言われるようになりました。
そして、その噂をお聞きになられた『長岡藩第九代藩主』牧野忠精さまは、沢之丞さまをお城へお呼びになられ、竹笛を披露させました。
お殿さまは芸術に対して造詣が深くていらしたので、沢之丞さまの竹笛の音色をお聴きになりたかったのでしょうね」
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牧野忠精公は冷泉家(『小倉百人一首』の撰者である藤原定家の子孫)から和歌の免状を頂いていたり、『雨龍』の絵を描く事を得意とされたりと、芸術に精通されていたお殿様でした。
『雨龍』とは『登り龍』の事で、天に昇って雨を降らせる想像上の生き物である。
牧野忠精公は家臣や民にも『雨龍』の絵を沢山描いて配られたので、『雨龍の殿様』とも呼ばれた。
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「お祖父様がお殿様に呼ばれて竹笛をご披露した事は聞いた事があったけれど、私、それは伝説だと思っていた・・・。
本当の話だったんだ・・・」
「本当のことですよ。
ただ、沢之丞さまはあまり自慢されない方ですから、その話が伝説と化してしまったのかもしれませんね。
お殿さまのご前でも、沢之丞さまは堂々と竹笛をご披露し、お殿さまからお褒めのお言葉を頂いたそうです」
「そうなんだ・・・」
私は、お祖父様を誇らしく感じた。
「ただ、その話をお聞きになった方々の中には
『沢之丞殿は、何でも器用にこなすな。
侍など辞めて、笛の名人にでもなった方が良いのではないか?』
『中士の分際で、よくも殿の御前で笛を吹くなどと言う大それた事が出来るものだ』
という、嫉妬や中傷の声もありました」
「ひどい・・・」
「その方達は沢之丞さまがどれ程努力されていたのかを知らないから、そのようなことを言ったのでしょう。
何でもそつなくこなす人は、本当は誰よりも、人知れず努力をしています。
最初から何でも出来る人など、存在しません。
ただ、その努力が目に見えないために、恨まれ疎まれることがあります。
それは、とても悲しいことです」
「では、みんなの前で努力している姿を堂々と見せたり、言ったりすれば良いのではない?」
「それではあからさま過ぎて、むしろ疎まれるのではないのでしょうか?
知識や能力を、ひけらかしてはいけません。
驕り高ぶっていると見られ、かえって嫌われてしまいますし、見苦しいです。
自分の努力を自慢する人間は、自分の努力を人に分かって欲しいから、分かってもらうことによって自己満足を得たいから、努力したという事実を他人に知らせることによって自分の足りない能力を補いたいからです。
たとえ言葉に出さなくても、見ている人、気づいてくれる人は必ずいます」
「確かに・・・。
一人でも分かってくれている人がいるのなら、もしかしたら、それで十分なのかもしれない・・・。
天才や秀才と言われる人達は羨ましいと思うけれど、大変なのね・・・。
出来て当然、出来れば疎まれ、出来なければ蔑まれる、ひけらかせば憎まれる・・・。
ああ・・・。
私は、普通で良かった・・・」
「ゆきさまは沢之丞さま、もみじさま、久馬さま、とめさまの血を引いていらっしゃいますから、きっと素晴らしい能力をお持ちですよ」
「え!?
本当!?
どんな!?」
「え!?」
六助はあからさまに目を逸らし、困った顔をした。
「え・・・と・・・。
それは・・・これからですよ・・・。
ゆきさまは、まだお若いから・・・」
と言って、六助は目を逸らし続けた。
はぐらかされた。
取り敢えず、今の私には何もないのか・・・。
私の落胆した表情を見て、六助は何とか私を元気付けようとした。
「ゆきさまの能力を引き出すためには、多くの努力が必要だと思います」
「あ・・・。
やっぱり・・・」
「まだ自分の本当の力を見つけることができないのなら、見つける努力をされたらいかがですか?」
「自分の本当の力を、見つける努力?」
「そうです。
そして見つかったら、それに向けてまた努力するのです。
何事も、努力が一番です。
努力し続け、続けようとする強い意思が大切です」
「努力と意思・・・」
「はい」
「難しいけれど・・・やってみる・・。
自信無いけれど・・・。
あ。
でも、お祖父様も父上も俳句に関しては壊滅的だと思う。
あんなに努力しているのに・・・」
「ははは。
確かにそうですね。
ただ私が思うに、お二人にとって俳句は趣味で、楽しむためのものと『区切り』をつけていらっしゃるのではないでしょうか?」
「『区切り』を付けている?」
「はい。
自分で
『やるべきこと、やらねばならぬこと』
に対しては、どんな努力も惜しまない。
しかし、それ以外のものには『区切り』をつけて行うとお考えなのではないでしょうか?」
「『区切り』を付けて行う?」
「全てに対して、全力で行えば誰でも疲れます。
目的や目標が高すぎると、人は次第に意欲を失ってしまいます。
ですからまず、
『やるべきこと、やらねばならぬこと』
と
『多少手を抜いても良いこと』
を分け、
『やるべきこと、やらねばならぬこと』
に対しては全精力を注ぎ、
『多少手を抜いても良いこと』
に対しては楽しむためのもの、高すぎる目標を持たぬものと『区切り』をつけるのです」
「高過ぎる目標を、持たない?」
「目標が高すぎては、楽しむことはできません。
ただ、楽しむためのものとは言え、多少上達しなければ楽しみも半減してしまいます。
ですから
『多少手を抜いても良いこと』
には、今現在自分が出来ることよりも少し高めの目標を立てます。
そしてもし、その目標が達成できないようならば、すぐに『見切り』をつけて新たな目標、もう少し低い目標などを立てるのです」
「『見切り』をつけて良いの?」
「楽しむためのものが上達できないことによって苦痛だと感じてしまっては、その時点でそれは『楽しむためのもの』ではなくなってしまいます。
それ以上続けても上達しないのならば、やり続ける時間がもったいないです。
新しい目標を立ててやった方が良い時は、そちらを優先し、そちらに時間を費やすべきです。
そして、少しずつ無理のない程度に目標を高くしていくのです。
新しい目標を立てて上達したことにより、楽しみは増えていくのです」
「でも、達成出来なかった目標やそれを目指してやってきた事は、少し『無駄』になってしまうかもね」
「ゆきさま。
『無駄』では、ありませんよ。
多くの時間を費やすかもしれませんが、やってきたことは決して『無駄』ではありません。
努力によって得た知識や経験や苦労は、しっかりとその身に残ります」
「知識や経験や苦労は残る・・・」
「例えば、俳句であれば『季語』を覚えたり、『季語』として使おうとした花の名前を覚えたり、その花の色は何色なのか、花に集まる虫は何という虫なのか、など色々な知識や経験が広がっていきます。
そして、その知識や経験を広げる為の苦労は、忍耐力や自信、次の努力への力となります。
だから、全てが『無駄』と言うわけではないのです」
「『無駄』では・・・ない・・・」
「そうです。
『無駄』ではなかったからこそ、あんなにも下手であった沢之丞さまの竹笛は上達していったのです」
「う・・・ん・・・?」
「ただ、得た知識や経験、苦労も、その人自身のその後の行動により生きも死にもします」
「知識や経験、苦労が、生きも死にもする・・・?」
「そうです。
今までの知識や経験を活かしながら、更に努力を重ねなければならないのです。
今までの知識や経験を殺さない為にも、努力し続けなければならないのです。
今までの知識や経験を生かすも殺すも、結局はその後の自分の努力次第なのです」
「自分の努力次第・・・」
「ゆきさまのお祖父さまであらせられる沢之丞さまと、お父上さまであらせられる久馬さまは、それをしっかりと体現されておられます。
お二人の俳句の作風が、最近変わったと思われませんか?」
「変わった・・・け・・・?」
「昔はまるでお公家さまのような女性的な俳句でしたが、最近はそれと共に野武士の様な堂々とした男性的な部分も加わったと思います」
「それはただ、思った事を全てそのまま俳句に表現するようにしただけでは・・・」
「いいえ!
お二人は努力し努力し続け、様々な経験と知識を得たことにより、とうとうあの作風になられたのだと思います!
私には、お二人の俳句の素晴らしさが分かります!
ゆきさまにも、いつかそれが分かる日が来ます!!」
「あ・・・。
そう・・・」
とてもきらきらした目で拳を握って嬉しそうに話す六助を、私はただ見ている事しか出来なかった。
そして、思った。
『取り敢えず、二人の俳句を分かってくれている人がいて良かった・・・』
『主人に対する盲目的な愛情の為に、六助の目は曇っているのだろう・・・』
『きっと、六助の俳句も壊滅的なのだろう・・・』
『私には、一生お祖父様と父上の俳句の素晴らしさは分からないだろう・・・』
『努力って、実る時と実らない時があるのだ・・・』
『二人が、そして六助が楽しいと思っているのなら、それはそれで良いのかもしれない・・・』