一つの花 『一.長岡』
私が生まれ育った越後長岡(現在の新潟県)は広大な平野と多くの山々に囲まれ、中央には大河・信濃川が流れていた。
この自然に囲まれた長岡に、昔、江戸時代と呼ばれていた頃、『長岡城』と言う名前のお城があった。
長岡城は『兜城』または『八文字構え浮島城』とも言われていた。
お城の正面にあった大手門と神田口門が、まるで兜の前立てである鍬形のように八文字に開いていた事、お城が信濃川の中州の浮島のようであった事からこう命名された。
その長岡城は、今は跡形も無い。
けれど私の目には、当時の美しいお城の姿とお城を囲む自然が目に焼き付いている。
お城は約九町(一町=109.09メートル。九町≒1キロメートル)四方で、その中心には本丸(お城の中枢部。藩主や家族が住む本丸御殿を有していた)、南西には二の丸(本丸の副次的役割を担っていた)、北側に三の丸(藩政を司る役所。御会所や勘定所などが集中していた)があった。
本丸の北西には城内を見渡す為の天守の代わりに御三階櫓や稲荷神社(長岡城築城の責任者だった奥村九左衛門は、ある雪の日に苧(麻の別称)をくわえた白狐を見つけた。その白狐が雪の上を歩いた跡を見ると、兜の形をしていた。これを基に、奥村は長岡城の形を『兜』にしたと言われている。だから長岡城は『苧引形兜城』とも言われた。この白狐を祀った社が、稲荷神社である)があった。
お城を中心に左右対称に武家屋敷があり、『家老(藩政治や経済の補佐運営役)』など家格の高い家はお城の近く、『足軽』など家格の低い家はお城から遠い場所にあった。
お城は山を利用して建てられた『山城』(お城を山の上に建てる事により、敵から侵入され難くする)ではなく、平地に建てられた『平城』だった。
平城は山城よりも攻められ易い為、河川や山などを天然の守りとして利用した。
長岡城の場合、信濃川や赤川などの川、八丁沖と言う大きな沼、朝日山、榎峠等がお城を囲み、その役目を果たしていた。
長岡城は自然に守られ、自然と共に生きてきた。
お城は内からも外からも自然に囲まれた、私達の自慢のお城だった。
春になると、悠久山にある『蒼紫神社』や朝日山、鋸山に藩士や町の人々が出向き、皆で桜や白色や紫色の雪割草などの花を愛でた。
夏になると、お城のお濠に浮かぶ沢山の蓮が淡い紅色の花を咲かせた。
蓮の花とお城を映す水もきらきらと輝いていて、とても美しかった。
秋になると、お城の周りの深い緑色の松の木が生い茂り、父上がよく松ぼっくりを拾って来てくれた。
多くの花が咲き、水が綺麗で、とても美しい所だった。
私達はそれらを見る事により、四季の移り変わりや美しさ、時の流れを感じていた。
ただ、冬はとても厳しい所だった。
長岡は、豪雪地帯。
春夏秋は短く、冬は長く寒い。
そして、沢山の雪が降り積もる。
だから、冬は『箕』『藁靴』『管笠』『橇』などが欠かせなかった。
『箕』とは、茅などを編んで作った雨具の一つ。マントのように肩に羽織って使う。
『藁靴』とは、藁で編んだ靴の事。雪ん子が履いている。
『管笠』とは、雨や雪などを防ぐ為に被る帽子のようなもの。
『橇』とは、雪の上を歩く時に深い雪に足が埋まらないようにする為の道具。草鞋の下などに履く。『スノーシュー』のようなもの。
そして、町には『雁木』がある。
これも雪国独特のもので、歩く人の為の雪よけの屋根の事 (アーケードのようなもの)である。
雪国には、雪国独特の道具が沢山あった。
私達は美しい自然と共に、厳しい自然とも生きてきた。
この長岡を治めていたお殿さんは、『譜代大名』牧野様。
関ヶ原の戦い以前に徳川家康公に仕えていた方々を『譜代大名(比較的江戸から近い場所に国を持ち、幕府の要職に就けた)』、以後に仕えた方々を『外様大名(江戸から遠く離れている場所に国を持ち、幕府の要職には就けなかった)』と言う。
因みに、江戸幕府『初代将軍』徳川家康公のご子孫の方々『尾張(愛知)』『紀州(和歌山)』『水戸(茨城)』家を『御三家』、『八代将軍』徳川吉宗公の子孫の方々『清水』『田安』『一橋』家を『御三卿』と言う。
江戸に近い場所に住む『譜代大名』は、『参勤交代(各大名の妻子を江戸に住まわせ(ほとんど人質として)、各藩の藩主に一年おきに江戸と自分の藩を行き来させる事によって、各藩の軍事力低下を図った幕府の政策である。しかし、後は儀礼的なものになっていた)』での財政負担が少なくて済んだ。
定期的に自分の国から江戸へ行くには多額のお金が掛かるので、自藩が江戸に近ければその分お金が掛からなかった。
だからと言って、お金が貯まると言う訳でもなかった。
『譜代大名』は幕府の要職、例えば『老中』や『京都所司代』など政に関わる役職に就く事になる。
幕府の中枢を司る一見華々しい役職に見えるが、そうでも無い。
仕事で掛かるお金は、自分達で払わなければならなかった。
だから幕府の要職に就けても、各藩は財政難であった(そのせいで、賄賂が横行した。賄賂を差し出す方は、自分の藩が優遇される為に上の方に賄賂を渡す。賄賂を受け取る方も、自分の藩の財政難を防ぐ為に賄賂を貰う。利害一致の結果、それがまかり通っていた。でも、それは現在も昔もさほど変わりは無いと思う)。
一方薩摩藩(鹿児島)や長州藩(山口)などの『外様大名』は江戸から遠い場所に自藩があったので、『参勤交代』の際は多額のお金が掛かった。
その上、幕府の要職にも就けなった。
『外様大名』は関ヶ原の恨みを晴らそうと、幕府転覆を図る可能性があったからだ。
幕府は、『譜代大名』も『外様大名』も財政的にも政治的にもそれぞれ圧力を掛け、反旗を翻す事を難しくさせていた。
これらは、幕府を守る為によく考えられた制度だった。
だからこそ、徳川の時代が長く続いたのだろう。
まとめると
牧野のお殿さんは、関ヶ原の戦い以前から徳川幕府に仕える『譜代大名』で、江戸からそう遠くない場所(新潟)に藩があり、幕府の要職にも就く事は出来るが、それ程金持ちでは無い小さな越後長岡藩を治めるお殿さんである。
長岡藩の石高は七万四千石(石高とは、武士の所領からの収入や俸禄を表す時に使われる単位の事。一石は、大人一人が一年間で食べるお米の量。大まかに言うと石高が高い藩はお金持ちで、沢山の家来を養う事も出来、大きく、栄えていたと言える。加賀藩(石川)などがそうで、石高は百万石とも言われていた。加賀藩では『足軽』も長屋ではなく、一軒家に住んでいたそうだ。そう言った大藩と比べると、長岡藩はとってもこじんまりとした藩だった)。
ただ長岡藩は小藩ではあったけれど、学問に対する意欲は並々ならないものがあり、多くの優秀な人物を輩出した。
また藩校『崇徳館』では身分の高下を問わず、実力のある人物を育て、藩政に携わる仕事に抜擢した(藩校は藩士を教育する為の学校だったので、庶民は入学出来なかった。庶民には、代わりに『寺子屋』があった)。
『軍事総督』河井継之助様、米百俵の小林虎三郎様、『上席家老』山本帯刀様、長岡藩再興に尽力した川島億次郎様、『藩医』小山良運様、河井継之助様に並ぶ秀才・鵜殿団次郎様、花輪求馬様、三間市之進様。
学問が如何に重要であるかを示してくれた素晴らしい多くの人材を、長岡藩は育ててきた。
この『人材育成』が、『戊辰戦争』『長岡空襲』『中越地震』からの『復興の基礎』となった。
『国を作るのは人であり、人を作るのは国であり、人を作るのは人である』
長岡藩の藩風の基礎となったものに、『牛久保の壁書』とそれを基につくられた『侍の恥辱十七カ条(後に一カ条増え、十八カ条になった)』と言うものがある。
関ヶ原の戦い以前、牧野様とその家臣団は三河(愛知)の『牛久保』に住んでいた(そのせいか、長岡には『三河なまり』が残っている。例えば『殿様』ではなく、『殿さん』と言うなど)。
その三河以来の家風を守る為に掲げられた武士の心構えが『牛久保の壁書』『侍の恥辱十七カ条』である。
『牛久保の壁書』
一、常在戦場の四文字
一、弓矢御法という事
一、礼儀廉恥という事
一、武家の礼儀作法
一、貧は侍の常という事
一、士の風俗方外聞に係るという事
一、百姓に似るとも、町人に似るなという事
一、進退ならぬという事
一、鼻は欠くとも、義理は欠くなという事
一、腰は立たずとも、一分は立てよという事
一、武士の義理、士の一分を立てよという事
一、士の魂は清水で洗えという事
一、士の魂は陰ひなた無きものという事
一、士の切目、折目という事
一、何事にも根本という事
一、日陰奉公という事
一、荷ない奉公という事
一、親類は親しみ、朋友は交わり、朋輩中は付き合うという事、
また一町の交わり、他町の付き合いという事
長岡の侍は皆これらを念頭に置いて、常に生活していた。
特に『常在戦場』は、長岡藩士の信条でもあった。
【常に戦場に在るという心構え】で日々を過ごす為、藩士は座布団にも座らなかった(戦場では、座布団が無いからと言う理由で)。
また私は見た事はなかったけれど、城内の藩士が出仕する部屋にも『常在戦場』をはじめとした『侍の恥辱十七カ条』が掲示されてあった。
ただこの信条が、長岡藩を不器用で真っ直ぐな悲劇の藩へと導いたと言えるのかもしれない。
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突然ですが、ご紹介が遅れ申し訳ありません。
私は長岡藩士・野口久馬の次女、ゆきと申します。
嘉永五年の睦月に、生まれました。
『初代将軍』徳川家康公が江戸幕府を開かれたのが慶長八年、西暦で言うと1603年で、嘉永五年はそれから249年後の1852年となります。
私が生まれた当時の将軍は、『第十二代将軍』徳川家慶公でした。
私が生まれてから十五年後の慶応三年(1867年)、『第十五代将軍』徳川慶喜公が『大政奉還(朝廷に政権を返す事)』し、265年間続いた江戸幕府は幕を閉じました。
つまり、私が生きた時代は『幕末』と言われている時代になります。
と言う事で、私は既にこの世にはおりません。
私は、世に言う『幽霊』と言うものです。
私が生きた幕末は、大きく変動した時代でした。
嘉永六年(1853年)にペリーが日本に開国を迫って以来、『佐幕(幕府を助ける事)』、『尊皇(天皇を敬う事)』、『攘夷(夷人(当時の日本人にとっては、外国人)を退ける事)』、『開国(鎖国をやめ、他国と国交を結ぶ事)』、『倒幕(幕府を倒す事)』など様々な立場の人達が国を守る為に悩み、苦しみ、憎み、殺し合い、死んでいきました。
皆が一生懸命、それぞれの命を懸けて生きていた時代でした。
徳川幕府は『鎖国(キリスト教による支配を逃れる為、人身売買を防ぐ為、一部の外国以外との交流を断った政策。それにより、日本独自の文化が生まれました)』をしていながらも、オランダなどの一部の国とは国交を開いており、様々な情報を得ていました。
世界の事を、列強の驚異を、幕府は良く知っていました。
外国と日本の軍事力には歴然とした差があり、日本が外国と戦っても勝ち目が無い事を知っていました。
だから幕府は先ず『開国』をして外国の力を知り、それらを自分達のものにして国力を高め、列強に対抗出来る力を付ける事を考えました。
『富国強兵策』です。
ただ、もし『開国』するとなれば諸藩の軍備も増強しなければなりません。
諸藩の力が強くなれば、幕府転覆を狙う藩が現れる可能性もありました。
しかし、たとえ諸藩の脅威に晒される事になったとしても、幕府は『開国』をしなければなりませんでした。
幕府は、国を守らなければならなかったからです。
国は幕府の物ではなく、国を守る為に幕府が存在していたからです。
けれど、『尊皇攘夷』の急先鋒であった長州藩はそういった幕府の対応を弱腰と考え、外国人や幕府の人間を殺戮し、外国船を攻撃し、『開国』を血を流して阻止しようとしました。
長州藩は長州藩なりの、国を思っての行動だったのかもしれません。
しかし、私にはその行動があまりにも過激で、自己本位だったのではないかと思われてならないのです。
幕府は過激な長州藩の行動を止める為、長州征伐を実行しますが失敗に終わりました。
幕府の権威、軍事力、財力全てが弱まっている事が露呈すると言う結果となりました。
時代は、長州藩へと流れて行きました。
そんな時、土佐藩(高知)・脱藩郷士の坂本龍馬は国を一つにする為に、不仲だった長州藩と元々幕府寄りであった薩摩藩を結び付けました。
長州藩も薩摩藩も幕府を倒して自分達が政権を握ると言う利害が一致し、また関ヶ原の恨み(関ヶ原の戦いでは、長州藩・薩摩藩は『豊臣方』)と言う共通の憎しみから同盟を結びました。
両藩は岩倉具視などのお金儲けと自身の権力奪取を目論む公家を利用し、裏工作をして朝廷を支配しました。
長州藩・薩摩藩は朝廷の力を借りながら、内乱を起こして幕府転覆を目論みました。
『将軍』徳川慶喜公は一触即発の事態を回避する為、日本人同士が争わない為に大政を奉還し、徳川家は『将軍』から『藩主』となりました。
内乱は避けられたかに見えましたが、長州藩・薩摩藩にとってそれは喜ぶべきものではありませんでした。
『徳川家を亡ぼさない限り、自分達が権力を完全に握る事が出来ない』
長州藩・薩摩藩は、何としてでも戦をしなければなりませんでした。
どんな汚い手を使っても、戦を始める『大義名分』が必要でした。
そして、とうとうその時が来ました。
『御用党事件(江戸で、『御用党』と名乗る浪人達が商家を襲う事件が多発しました。彼らの潜伏場所が三田にある薩摩藩邸だと知った庄内藩士達は、薩摩藩邸に大砲を撃ち込みました。それが、長州藩・薩摩藩の幕府を倒す『大義名分』となりました)』に端を発した戦が、慶応四年(1868年)一月一日、京都『鳥羽・伏見』において勃発しました。
『旧幕府軍(旧幕府軍や奥羽越列藩同盟に加盟した藩、長州藩・薩摩藩の卑怯な行いに憤りを感じた人々)』と『新政府軍(長州藩、薩摩藩、自藩の為に幕府を裏切った藩)』の戦。
『戊辰戦争』の始まりでした。
この時代の激しい流れの中に、越後の小藩・長岡藩は巻き込まれて行きました。
どちらの軍に付くか立場を明らかにしていなかった長岡藩は、他の藩と同様に『旧幕府軍』からも『新政府軍』からも参戦要請を受けました。
しかし、長岡藩は戦に参加するつもりはありませんでした。
どちらにも、付くつもりはありませんでした。
内乱により疲弊する日本を、諸外国が虎視眈々と狙っている事を知っていたからです。
もし傷ついた日本が外国に侵略されてしまったら、日本は清(中国)のようになってしまう。
内乱を、早く終結させなければならない。
『国を、亡ぼす訳にはいかない』
長岡藩士・河井継之助様は、長岡藩をスイスのような中立国にしようと考えました。
長岡藩が敵対する両者の仲介をし、戦ではなく、話し合いで和解させ、皆で力を合わせて外国から日本を守るべきだと考えました。
しかし、それは失敗に終わりました。
長岡藩は、選ばなければなりませんでした。
『『旧幕府軍』に付くか、『新政府軍』に付くか』
そして、決断しました。
『二百年以上も大きな戦も無く、この国が平和を維持してこられたのは、幕府が国を良く治めていたからである。
今こそ、幕府への恩を返す時だ』
『『新政府軍』には、正義が無い。
彼らの作った政府は、いずれ国を亡ぼす』
長岡藩は『奥羽越列藩同盟』に加盟し、『旧幕府軍』と共に戦う決意をしました。
慶応四年五月三日、『旧幕府軍』に付いた長岡藩を、長州藩を中心とした『新政府軍』が攻めて来ました。
『北越戊辰戦争』の始まりでした。
長岡藩は多くの死者を出し、町も城も焼かれました。
それでも、良く戦いました。
長岡藩は日本に三門しかなかった機関銃『ガトリング砲』を二門(残り一門は、薩摩藩が所有)、アームストロング砲やスナイドル銃等の最新兵器を購入し、西洋兵制を取り入れていました。
『新政府軍』によりお城を一度奪われるも、奪還すると言う快挙も遂げました。
しかし人や物資の不足、裏切りにより再び長岡城は落城しました。
長岡藩兵は苦悶の中、『八十里越』をして会津へ向かいました。
その途中、軍事総督であった河井継之助様も左足に負った銃傷により会津塩沢で死去しました。
その後、長岡藩は会津での戦いを経て九月二十五日、とうとう降伏しました。
長岡藩降伏後、他藩も次々と降伏するも、榎本武揚様を中心とした『旧幕府軍』は箱館で政権を樹立し、最後の戦いに挑みました。
『箱館戦争』です。
しかし圧倒的な軍事力の違いと人材不足、主力の軍艦『開陽丸』喪失により、『旧幕府軍』は戦い続ける事が不可能になりました。
明治二年(1869年)五月十八日、箱館政権の降伏と言う形で、約一年半続いた『戊辰戦争』は終結しました。
戊辰戦争後、長州藩や薩摩藩は新政府・『明治政府』として政を牛耳り、当初の自分達の思想であった『攘夷』とは真逆の政策、『西洋文明を取り入れる』と言う幕府が行おうとしていた『開国』を行いました。
『明治政府』は自分達が『近代化』を成し遂げたと声高に言うけれど、それは『先人達の遺産』をただ単に利用したに過ぎないのです。
そしてその『遺産』を利用すると同時に、自分達を助けてくれた『遺産』を『無』にしました。
西洋文化に急いで追い付こうと、『明治政府』は『廃仏毀釈』を行い、多くのお寺や大切な仏像、建物を壊しました。
『桜』も、不経済なものとして伐採しました。
『先人』が残してくれた『遺産』が、『思い』が、『明治政府』によって沢山奪われました。
戦に負けた『旧幕府軍』は『賊軍出身者』として不当な扱いをされ、多くの人々が無念の中死にました。
私からすれば、幕府を終わらせた『戊辰戦争』とは、単なる『下剋上』に過ぎません。
もし彼らが平和な日本を作り上げてくれたならば、死んでいった人達も救われたのかもしれません。
しかし、彼らは『戊辰戦争』から何も学ばなかったのです。
戦の悲惨さも、悲しみも。
得るものよりも、失うものの方が遥かに多い事も。
金と権力にまみれ、失ったものは二度と取り戻す事が出来ない事を忘れてしまった。
彼らは、死んでいった人達の死を『無』にしたのです。
『薩の海軍 長の陸軍』と言われるように、軍部のほとんどは薩摩藩・長州藩出身者が牛耳りました。
その流れが、昭和の戦争にも影響を及ぼしました。
広島と長崎に原爆が投下され、戦争が終結するまで、そしてその後も、多くの人々が苦悶しながら生き、死んでいきました。
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これからお話する事は、あくまで私、野口ゆきの見た歴史です。
薄れた記憶の為、多少不確かな部分もあり、当時の情報も錯綜し、尚且つ少なかったので、聞いていておかしなところもあるかもしれません。
特に『戊辰戦争』に関しては、不愉快に感じる部分があるかと思います。
しかし、それは私が長岡の人間であり、どうしても偏った見方しか出来ないからと思ってお許し下さい。
『新政府軍』を恨んでいないかと言われれば、嘘になります。
『戊辰戦争』を始めた『新政府軍』の中にも、本当に国を憂えて、国を救おうとした人達も沢山いた事は知っています。
しかし、生まれ育った故郷を焼き、多くの人々を殺し、苦しめた『新政府軍』を受け入れる事は難しいのです。
私は、ただ、話したいだけです。
この話に少しでも興味を持って頂き、記憶に留めて頂ければとても嬉しいです。