Ep3:聖蘭の空模様
「で、手伝いって何すりゃいいんだ?」
「はい、この資料を……」
ドーン!!!
机が壊れるんじゃないか、というくらいの量の紙が机の上に置かれる。
机は金属ながらも、今すぐにでも壊れてしまいそうな程しなっていて、その積まれた用紙がいかに重いかを物語っている。
時雨はその積まれた用紙の横から、ひょっこりと顔を出した。
「この生徒会室から、職員室へと運ばなければいけないんですよ〜」
「まじかよ……。ていうかよく持ち上げられたな、それを」
その資料というやつは、少なくても一メートル以上積まれていた。
時雨はとても細い腕なのに、よくそれを持ち上げられたと思う。そんな力、どこから出ているのだろうか。
胸?
阿保か俺は。
「実は私、他にやらなきゃいけない事がありまして〜……。申し訳ないんですけど〜……」
時雨は本当に申し訳なさそうに、もじもじしながら俺の顔色を伺い言う。
ニコニコする時雨も可愛いが、親に怒られた子供のような表情をする時雨も、これもまたとても可愛い。
「……分かったよ。これを全部運べばいいんだろ?」
「わっ〜。さすが楓さまです〜」
時雨は俺の右手を両手で掴んで、ぶるんぶるんと大きく上下に動かし、感謝の意を表現してきた。
ゆで卵みたいなスベスベの柔らかい手は、触っただけで天国を味わったような。とても気持ちのいい感触だった。
「このお礼は後でたっぷりとさせてもらいますから、それではよろしくお願いしますね〜」
バタン
時雨は挨拶もそこそこに、いそいそと生徒会室から出ていった。
時雨の言うたっぷりのお礼って何だろう。
ひざ枕から耳かきのスーパーコンボ?
それとも、背中を流してくれるお色気サービス?
それともそれとも……。
「一夜のアバンチュール……」
一夜のアバンチュール……一夜のアバンチュール……一夜のアバンチュール……。
俺の脳内に、エコーがかかる。
一夜のアバンチュール。その単語は俺を俄然やる気にした。
「いよっしゃあー!やったるぜえー!」
今こそ燃え上がれ、俺のソウル!!! 韓国の首都じゃなくて、魂の方のソウル!!!
俺の両腕よ! 今こそその力を解き放たん!!!
いくぞー!!! ぬおぉぉぉー!!!
「あっ! 腰っ!」
机の上に積まれた大量の紙は、魚籠ともしなかった。
それどころか逆に俺の腰を破壊しようと試みてくる。
「何回かに分けるしか無いか……。あっ腰がっ……」
生徒会室と職員室の距離ってかなりあるんだよなぁ……。広すぎる学校ってのも考え物だよねぇ……。
結局俺は、用紙をおよそ三十センチづつ、三回に分けて運ぶことにした。
俺は三つに分けた用紙の内の一つを抱え、生徒会室の扉を開き廊下に出る。
今は昼休み。
ある程度の雲は出てきたものの、今日も清々しい晴天だった。
中庭では可憐なお嬢様達が優雅に食事を楽しみ、その姿には思わずとも目を奪われてしまう。
そしてそんな中、俺は昨日時雨に言われた通り、時雨の手伝いをすべく生徒会室に向かったのだ。
が、その結果がこれ。まさか本当にこき使われるとは思ってもみなかった。
それにしても花音が隣に居ないことが気にかかる。
まあ、とりあえず今は余計な事を考えてないで、さっさと運ぶか。
それにしても、時雨のお礼ねぇ……。
「一夜のアバンチュール……一夜のアバンチュール……一夜のアバンチュール……」
うわっ……。ついに幻聴まで聞こえてきた……。
確かに俺はチェリーボーイだけど、そんな幻聴が聞こえてくる程に欲求不満だとは思って無かった……。
「真琴ちゃんと一夜のアバンチュール……真琴ちゃんと一夜のアバンチュール……」
ま、真琴と……? 時雨とじゃなくてか……?
つーかこの幻聴の声、どこかで聞いた事あるぞ。
「最終的にはパパと一夜のアバンチュ−−」
「仕事しろやぁぁぁー!!!」
ロベカル顔負けのキックじゃーい!!!
「パパは楓なら何時でもオッケーだからねー!」
キラーン
俺の一蹴りで、親父は再び星になった。
親父と一夜のアバンチュール……。
その光景を想像してみると、テンションが下がったどころか吐き気もしてきた。
……とっとと運ばないと昼休みが終わっちゃうな。
そう俺は気持ちを切り替え、再び職員室に向かって歩き出した。
廊下を歩いていると、不意にカエデが俺の肩から下りる。
そして俺の体をするすると伝い、積み上がっている紙の中からてっぺんにあった一枚をくわえた。
紙をくわえたカエデは、積まれた紙の上から廊下へと飛び降り、そのまま俺と並ぶようにして歩き出した。
「お前も運んでくれるのか?」
「ニャン」
畜生は嫌いだが、こいつだったらまあ悪くないかな。俺は何と無くそんな気持ちになってきた。
大事な資料を汚す訳にもいかない為、俺はカエデに用紙を返すよう言う。返してもらったそれは元の場所に戻した。
紙を返したカエデは再び俺の肩に乗り、俺の肩を温める。
「あー!やっと見つけたー!」
ん?
廊下を歩く俺の後方からから、煩い声が聞こえてくる。
「ん、つばさか」
「やっほ……きゃぁぁぁー!」
ベースが無いのに、見事なヘッドスライディング。
「どうして何も無いのにコケるんだよ」
「えへへ……」
振り向いた先に居たのは天堂つばさ。俺とカエデを巡り会わせた張本人だった。
つばさは照れ笑いをしながら制服に付いた埃を手で払う。
「カエデ〜」
ニコニコしながら肩上のカエデを撫で、カエデも気持ち良さそうに目を細める。
「ねえ、楓君」
「俺か?」
「うん。私の知ってる楓君はキミしかいないよっ」
肩の上という身近な場所に居る訳だが……。
「君を付けたら俺なんだな?」
「うん」
よし、やっと理解した。
「で、何だ?」
「えへへ〜。じ、つ、は、ね」
つばさニヤニヤしながり言い、そして手を上着のポケットに突っ込む。
しかし、ポケットに手を突っ込んだ瞬間つばさの手は止まり、みるみる内に顔から血の気が引いていく。
そう、それはまるでもうすぐで小便が漏れそうな人の様に。
つばさはポケット内に入れた手をもぞもぞ動かし、そして最終的にはポケットの中を覗いた。
「あはっ、あはははは〜」
そしてつばさは意味も無く愛想笑いを浮かべる。
そう、それは小便が漏れそうな状態で、友人から話し掛けられた時の様に。
「あははは〜。実はね、楓君」
「ああ。どうしたんださっきから様子がおかしいが……」
つばさはえー、あー、と言いながら、何とかその先の言葉を出そうとする。
「だから何だよ」
「えっと……ね、私、買ってきたの……」
「買ってきた?何をだ?」
そういえば俺を見つけた時も、探してた。みたいな事を言っていた気がする。だとすると、つばさは俺の為に何かを買ってきたって事か。
それならどうして……。
「はい。今、巷で噂の潰れクリームパン」
そう言ってつばさがポケットから出したのは、俺が昨日潰してしまったクリームパンと同じ、『ふんわりやわらかカスタードクリームパン』だった。
しかも当時の状態がうまーく再現されている。
「おい、潰れたクリームパンなんて聞いた事ないぞ」
「あれ、おかしいなー? 一年生はこの噂で持ち切りなんだけどなー? 二年生って流行に鈍感なんだねー」
などと、所々声を裏返しながら言う。
と、一年生らしき少女が俺達の横を通り掛かった。とても大人しそうに見える少女だ。
俺はその少女に真偽を確かめることにした。
「そこの君」
「はい……?」
「潰れクリームパンってのを知ってるか?」
「潰れ……クリームパン……ですか……?」
「そう。これだよ」
少女はとてもか細い声で返事をしてきて、俺の予想通り、物静かそうな印象を受けた。
そうして俺はそのブツを少女に見せる。
「うわー。マジキモいんですけどー」
性格が……変わった?
「そ、そうか。急にキモい物を見せて悪かったな」
「いえ……。では……」
少女は別れを告げ、そして再び廊下を歩き出していった。
「ごめんね、楓君。パン潰しちゃって……」
「いや、気にすんなよ。気持ちだけでも嬉しいから」
俺はニコッと笑いかけながらつばさの頭にポンッ、と手を置いた。
人差し指の先っぽが大きなリボンに触れる。
大きなリボン……。
同じ色、同じ大きさ……。
それは例え体が成長しても、変わる事のない……。
彼女の証……。
「まっ、とにかくありがとうな」
「ううん。結局潰しちゃったりして……ごめんね、楓君」
「いや、その気持ちだけで嬉しいって言ったろ?」
「うん。ありがとう」
つばさはようやく、何の陰りも無い笑顔になってくれた。
そして俺は手に持っている潰れクリームパンを、上着のポケットに仕舞った。
「じゃっ、俺仕事があるから」
「うん、頑張ってね」
俺達は笑顔で挨拶しながら分かれた。
四階の生徒会室と一階の職員室を行ったり来たりするのには、本当に参ってしまった。
久しぶりに力仕事をした為に、悲鳴をあげる全身。腕も勿論そうなのだが、特に腰が悲鳴をあげている。
「ギャオー……」
「神凪さん、御乱心ですか……?」
それは放課後になっても治らず、この程度の力仕事でここまで動けなくなるとは思わなかった。
まあ、それは当たり前と言えば当たり前かと思う。高校に入ってから運動をしてこなかった俺に対する警告みたいな物だろう。
とか言って気を紛らわせるものの、体のあちこちがミシミシと軋んでしまっていて、歩くのもやっとの体だ。
図書委員は座るのが仕事。それが唯一の救いだった。
「綺麗な夕焼けですね……」
咲蘭が貸出、返却カウンターの席から窓の外を眺め、言う。
俺もそれにつられて窓の外を見た。
その窓からは噴水広場。その広場の中心にある噴水が左斜め前に有り、そしてそこから視点を少し右に移すと校門が見える。
俺は立ち上がって窓の側まで行き、それを開けた。
春の風が優しく吹く。
オレンジの光に照らされた噴水はキラキラと輝き、水同士がぶつかる音とその光景が相重なる。
なんだか自分一人、違う世界に招待されかのような感覚を覚えてしまう。
「時雨……?」
噴水に向かって歩く時雨が、校門の左に見える噴水の、さらに左の視界に入ってきた。
今俺が居る図書室の左側にある昇降口。時雨はそこから出てきて噴水に向かって歩くと、その前で立ち止まった。
誰かを待っているのだろうか。それ以前に、花音はどこに行ったんだろうか……。
様々な疑問が俺の脳を掻き回す。そんな時咲蘭が立ち上がり、俺の隣に並んだ。そして彼女は俺と同じ方向を眺める。
「生徒会長ですね……」
「ああ。それにしても、何をやってるんだろうな」
花音でも待っているんだろうか。迎えの車を待っているのだろうか。校門の方向を向いたままの時雨の表情は見えない。
「多分、副会長を待っているのではないでしょうか……」
「副会長を?」
花音、もしくは迎えを待っていると予想していた俺は、咲蘭に思わず聞き返してしまった。
しかし副会長を待つなんて、生徒会の仕事をやる為に待っている。とかだろうか。
いや、それなら噴水前で待ち合わせするってのは不自然……じゃないか。
「会長と副会長は付き合っているそうですから……」
「ふ〜ん。カップルなんだ」
「って、えぇぇぇぇー!!!」
商店街にまで届くかのような叫び声が、学園内にこだまする。
「知らなかったのですか……?」
「あ、ああ。驚き桃の木だ」
咲蘭はさも知ってて当然のように言ってきた。
でも確かに、知ってて当然なのかもしれない……。
あの時雨が誰かと付き合うという時点で話題になる事間違いなしなのに、その相手が会長を補佐する、副会長なのだから。話題性は充分すぎる程有る。
「何で知らなかったんだろうね、俺は」
「あまり、他人に興味が湧かないからではないでしょうか……」
「ぐう……」
ぐうの音は出たものの、何も言い返すことが出来ない。
言われてみれば、思い当たる節があった。
咲蘭の事だってそう。ザマス斉藤は、あたかも全員が咲蘭を理事長の娘と知っているかのように言った。しかし、俺は知らなかった。
「でも、興味を持った物に対してはとことん興味を持つ人だと思います……」
「そ、そうか?」
褒められているのかどうかは分からないが、なんだか嬉しくなる。俺は単純なのだろうか。
そして咲蘭は窓の淵に手を添える。
「真琴さんと接する神凪さんを見ていたらそう思いました……」
「真琴と?」
「はい、何となく……」
「何となくか……」
でも、言われてみればそうかもしれない。俺達はまるで磁石の様に、いつも一緒に過ごしてきた。
俺が真琴の側に居るようになったのはいつからだったか……。
所々しか浮かび上がらない俺の幼稚園生活。そこに真琴も、ちらほらと出演している気がする。
確証は無い。幼稚園時代の話だ。そんな鮮明に覚えている筈が無い。
「俺、嬉しかったんだよ」
「何がです……?」
真琴の事を考えていると、急に頭に浮かんできた。
「真琴がいい人と付き合ってくれてさ」
咲蘭は返事も何もせずに、じっと黙って俺の話を聞こうとしてくれている。
「娘を送り出した父親みたいだなって、慎吾に言われた」
「そうですね……」
「本当に嬉しかったんだよ。真琴がいい女の子だって認められた気がしてさ」
だからなのかもしれない。
有頂天になって、周りが見えてなかったのかもしれない。
「だからついやっちゃったんだよ……。どうしても許せなかったんだよ……。周りの事も気にならないくらい許せなかったんだよ……」
腹が立ったから殴ったんだろう。
その通りだ。
こんな暴力を振るう生徒は退学にしろ。
ああ、俺があんたらの立場なら絶対にそう言うよ。
理事長、何故退学処分を下さないのですか。
そりゃそう言われるだろうよ、理事長さん。
だから、これだけはどうしても聞いておきたかった事がある。
「どうして俺を残すように言った?」
俺とお前は一度も話したことが無いどころか、対面した事も無い。見ず知らずの他人を、どうして庇うような真似をしたんだ。
「私も神凪さんと同じなのかもしれません……」
娘に言われて。
これは理事長がこぼした一言、失言だ。
他の人は聞いていなかったかもしれないが、俺の耳にはちゃんと聞こえていた。
「親バカでしょう……?」
「……そうだな。稀に見ない親バカだぞ、それは」
でもそのお陰で俺は色々な人と出会えたし、世の中とは、意外にも都合よくいくものだなと感じた。
「神凪さん、あれ……」
と、咲蘭が噴水の方を指差し言う。俺はその先を見てみた。
「あれが副会長か」
咲蘭が指差した先には、身長百八十センチはゆうに越えるであろう、とてもスマートな男が、時雨の正面に立って話していた。
校門側を見ているので、その男の顔は分からない。
「成績優秀、美男子、剣道全国優勝……。家は鳳仙院グループ以上の財閥です……」
「そりゃすごいな」
飛鳥のグループがどれ程の物か分からないから比べようが無いが、多分相当巨大な財閥なのだろう。
「理想的な男女……」
「そうだな。時雨程の美人に−−」
釣り合う男はそれくらいなもんだろ。そう言おうとした。
しかし咲蘭がそれを遮るようにして言ってきた。
「には見えないです……」
「えっ?」
聞き間違いだろうか。
俺の言葉を遮るようにして言った咲蘭の言葉はまた予想外で。俺は先程の様に聞き返してしまった。
「……いえ、気にしないで下さい……」
咲蘭は言いながら窓を離れ、再び例の席に座った。
俺は咲蘭の言った意味が気になったが、聞くのを躊躇ってしまう。
とても今の意味が気になる。
これもやはり、俺が時雨に興味を持ち始めているからなのだろうか。
止めとこう。
今の俺が聞いていい様な事じゃない。何と無くそんな気がした。
ロベカル:ブラジル代表の有名なサッカー選手、ロベルトカルロス選手の事です。