つまりそういうこと
僕にはぎゅっと抱きしめてくれる人が必要だった。抱きしめてくれないまでも、伸ばした手を握り返してくれる熱を持った手が。
足元に大きな大きな黒い穴があって、僕はその中心で浮いているんだ。何が支えになってるかなんて、全く分からなくて、それがいつ切れるかも分からない。一秒後とか、一週間後とか、十年後とか、とにかくいつ落ちたって不思議でもなんでもないんだ。むしろ、落下が始まっていないことの方が”おかしい”ってくらい。
このどうしようもない気持ちの悪さを拭いさりたかった。喉が詰まったままのような、息苦しさから解放されたかった。当然の欲求だと思う。一体何を詰まらせたのか。とにかく苦しいんだから。
だから、僕は助かるために。いや、そんなことくらいでは助かれないだろうけど、とにかくこの不快さから解放されたくて手を伸ばしたんだ。だけど、僕の手は払われてしまって宙ぶらりんだ。強く打たれたものだから、手の甲がじんじんと痛みを訴えてる。見なくても赤くなってるって分かるんだ。だって、凄く痛いんだもの。
何が悪かったんだろうなんて、言うまでもなく”僕”が”触れようとした”ってことなのは明白なんだけど、理解が頭で止まっちゃって、心が全然追いつけなかった。もし心に形なんてものがあったなら、右往左往しちゃってぜんぜん落ち着いてくれない様子が、僕の胸に透けて見えてたと思う。
とりあえず、”ごめんなさい”なんて謝ってみたけれど、自分ではどうしてそんなことを言ってしまったのか分からなかった。傲慢な言い分かもしれないけど、そんな風に僕の手を打ち払う必要は無かったんじゃないかって。
だって僕は、寒かっただけなんだ。足元から変な臭いのする風がビュービュー吹きあげてくるものだから、足なんてキンキンに冷えてしまって痛いくらいなんだ。もう指先の方は凍ってしまっているかもしれない。本当のところは凍ってなんかいないんだろうけど、心情的にはそんな感じなんだ。もっと違う例えかたをするなら、自分と自分以外との境界線がぐにゃりと揺れて、ぐちゃぐちゃに混ぜられた挙句にどんどん均一にされちゃうような感覚とでもいえばいいかな。
ともかく、熱を持った”誰か”に触れる必要がその時の僕にはあったんだ。そうでもしないと、この震えはどうにも止んでくれそうになかったんだ。
でも、そんな僕なりの目論見は外れてしまって、結局震えは余計に酷くなった。ブワッと背中とかに噴出した脂汗が一瞬でヒュッと冷えて、ねっとりとした不快感が服と皮膚との間でうまれちゃって。ただでさえめげそうな気分に拍車をかけるんだ。
ともかく見っとも無い顔を見せたくなくて、慌てて部屋を飛び出したんだけれど、きっと見えてしまっていたと思う。僕の一等情けない顔が。だって表情をいちいち取り繕ってる暇なんてないくらい、衝撃的なことだったんだもの。それに”誰か”なんてそんなことをいったんだけど、全然知らない人になんて流石の僕でも触れようなんて思わない。少しは勝算があったんだ。きっと僕の気持ちを汲んで手を握り返してくれるだろうなんて、そんな下心が。まぁ、そんなの打ち砕かれちゃったけど。
部屋から飛び出して後ろ手に扉を閉めて、やっぱり僕はブラックホール”もどき”の上に立っていた。
もういっそのこと、一思いに吸いこんでくれよっなんて考えちゃうのは、とくべつ僕が弱いからってことだけじゃないはずだ。でもそんなささやかな願いなんて聞き入れちゃくれなくて。どうやら焦らすのが好きみたい。
きっとさ、落ちることに変わりは無いんだ。でもさ、何時落ちるか分からない状況って、ほんとにすっごく怖いことなんだ。落ちてしまえば、もうどうしようもないって諦めもつくんだけど、そうじゃないと、もしかして助かるんじゃないかなんて思っちゃったりして。”希望”っていうものはほんとに性質が悪いと思う。だって誰だって助かりたいじゃないか。みんな同じだ。それはだけは間違いないと思う。
幸せで、楽しくて、一人じゃなくて。なんてもうほんと夢の世界とか、妄想の世界とか、幻のたぐいなんだろうけど。やっぱり温かい所が心地いいに決まってる。自分に役割があって、まぁそれなりに”誰か”とか”世間”とかの役に立てて、自分の意味なんて見失わないとか。それでいて自分のテリトリーなんて確保出来ちゃったりしたら、なんてそんな素敵なこと。
何度も言うけど、ほんとに”希望”って性質が悪いよね。
思いっきり泣きたい気分なんだけど、目より胃の方が不満を訴えてきちゃって、そんな暇もないんだ。急いでトイレに駆け込んで、便座に縋った。熱を持った”人”は僕の手を払っちゃうんだけど、冷たい陶器の便座君は僕を拒絶なんてしなかった。胃の腑から突き上げてくる猛烈な吐き気は、何度も何度も僕をえずかせるんだけど、出てくるものなんて胃液くらいのものだった。それでも体は僕の意思なんてお構いなく、なんだかよくわからない物を吐き出そうと頑張るんだ。そんなことをずっと繰り返してたらすっかり疲れちゃって、汚いって分かっていても冷たい便器に頬を乗せちゃった。
もう頭が重くて首とか背中の筋肉だけじゃとても支えてられなくなったんだ。可笑しいよね。僕の頭は軽いはずなのに、酷く重たいんだ。つんと鼻を突く臭いがして笑えた。だって僕は嗅覚がすっごく鈍いんだ。それなのに酸っぱい臭いが分かるんだもの。なんでこんな時にはしっかり機能するんだって、怒りを通り越しちゃって笑いが出たんだと思う。だからいっそのこと腹がよじれちゃうまで笑っちゃおうかな、なんてちょっと考えたんだけど、やっぱりそんな気力はちょびっとも残ってなくて、しばらくそのまま衛生的だなんてとても言えやしない便器に頭を預けてた。
するとちかちかする頭の中に、学校の”ちんけ”な椅子が浮かんだんだ。あの薄っぺらな板と、鉄パイプみたいなので出来たほんと”ちんけ”ってしか表現しようのないあの椅子が。次にそいつの背もたれに引っかけられた汚い雑巾の画が浮かぶんだ。ちゃんと絞ってなくて、どぶ色の水がぽたぽた垂れてるんだ。気づかないまま座ったら、もう大惨事だ。それがすっごく鮮明に頭のスクリーンに映し出されてる。僕はしずくが落ちるのをすぐ隣で見てるんだ。どけてあげなきゃなんて思いながら、それでも動かないんだ。
そしたらやっと遅れて涙が出だして、少しすると鼻が詰まって、酸素を求めてしゃくりあげなくちゃならなくなった。喉にも鼻にも、空気が通る場所があんまりなかったんだ。もともと喉にはいつもよく分からない物が詰まっていたし、鼻は鼻炎気味だったんだ。
誰か親切な人が背なかでも撫でてくれたなら、たぶん今より少しは気分がマシになれるのに、そんな手の持ち主はどこにもいやしなかった。どんなテンポで息を吸ったり吐いたりしていたのかすっかり忘れちゃって、視界が真っ白になって僕の意識はどっかに飛んで行こうとした。でもなかなかそうはならないんだ。気を失えればいいのに、もうちょっとの所で踏みとどまってしまう。どうでもいい。どうにでもなれ。そう思っても、絶対僕に投げ出させちゃくれないんだ。感覚はしっかり僕の内側にあって、必至でシグナルを送ってくる。苦しいだとか、寒いだとか、それだけじゃなくて、喉の痛みとか、硬い床に放り出してる足の痺れとか、目なんかだんだん痒くなってきちゃった。
それなのに残念だけど、僕には解決するすべがまるでないんだ。労わってあげられるような手段を持ってないんだ。自分の体とか、心だとか。勿論僕のなんだから愛着も執着もあるけど、構ってあげられないくらいだるいんだ。体中の筋肉なんて全部溶けちゃったんじゃないかってくらい。立ちあがってこんな臭くて不潔な場所から脱出して、布団の中にもぐり込みたいって気持ちは大いにあるんだけど、でもちっとも動かない。頭の中じゃ、もう百遍は布団の中にもぐり込んでる。布団は多分この世で一等僕を拒絶しない場所だもの。本当はそこに行って体を休めたい。でももうちょっと時間が必要だったんだ。溶けちゃったあちこちの筋肉が、もう一度頑張るぞって思ってくれるまで。
変な話だけど、自分だっていうのに”ままならない”んだ。ほんとにちっとも言うことを聞いてくれやしない。別に難しいことをやれって言ってるんじゃないんだよ。宙返りしろだとか、テレパシーを飛ばせだとか、そんな絶対に無理なことを言ってるつもりはこれっぽっちもないんだ。今だったら、立ちあがれ、なんてそれくらいのごくごく単純な命令。あとは乾きはじめてかぴかぴになりそうな口元とか、故障したんじゃないかってくらいぼろぼろ零れてる涙を拭えとか、その程度の簡単なもの。
なのにやっぱり駄目なんだよね。
さっき僕の手を払った手の持ち主とか、例えばあちこちの世界を動きまわってる無数の人達とか、そんなものは僕から遠くて、まぁ”ままならない”ことも分かるんだ。一人一人意思なんてものを持ってて、楽しいこととか、嫌なこととかあって、みんなとっても忙しいんだと思う。僕はたいして干渉出来ないんだ。
自分のことで手一杯ってこと。やっぱりどうしたって自分のことを優先しちゃうんだ。”人”なんてみんなそんなもの。”もしかして”なんて期待しちゃうと結局泣きを見ることになっちゃう。たとえ、相手にそんなつもりがこれっぽっちもなかったとしても、裏切られた、だなんて一方的に傷ついちゃうんだ。人間ってほんと勝手なものなんだとつくづく思うよ。
さっきの僕みたいにほんとに辛いって時に情けなく縋ったりして、助けてってお願いすることは出来るんだけど。けどさ、どうするかはやっぱりその人が決めることに変わりなくて。皆それぞれ何かを考えながら歩いてるんだろうし、まぁどこだか分からないけど、きっと辿り着かなきゃいけない場所とかがそれぞれあるんだと思う。恋人の傍だったり、家族の待ってる家なんか。まぁ色々。だから自分以外のことが後回しになっちゃうのも、しかたのないことだよね。立ち止まってる暇って、意外とないんだよ。
そんなことをつらつらと考えていたら、流れっぱなしになっていた涙がやっと途切れた。いいかげん水分を出しつくしてもいい頃だろって思ってたから、丁度よかった。これを機にこの牢獄みたいな場から退出しようって、気合いを入れて四肢に力を入れた。
でも中途半端な格好で、僕はその動作を中断せざるを得なかった。すさまじい眩暈の嵐が頭の中で吹き荒れて、自分がどうなってるか見失ったんだ。立ちあがろうとした途中だと思うんだけど、体の感覚が吹っ飛んで行っちゃって、捕まえなきゃいけなかった。上とか下とか右とか左とか、ともかくぐちゃぐちゃになって、どっちにどれがあったら正しいのか分からなくなった。まぁようするに前後不覚ってやつになったんだ。もしかしたらブラックホール”もどき”にもう少しで落ちかけてたのかもしれない。
酷い頭痛がした。頭の大きさが三倍くらいになってるんじゃないかってくらい。耳元でどくどく鼓動の音がする。たぶん頭蓋骨に這いまわってる小さい血管とか、はっきり浮き上がってたんじゃないかな。辛いんだけど、僕は嵐に絶えなくちゃならなかった。だから飛んで行った感覚がそろりと返って来るまで、じっと待ってたんだ。
どれくらい待ってたかな。随分長い間だったような気がするんだけど、時計なんて持ってないし、ほんとのところはよく分からないんだ。とにかく、しばらくしたら逃げてった感覚を捕まえてた。いつの間にかぎゅっと瞑っていた目を開いたら、中途半端に腰を浮かせて壁に体をぐったり預けてるんだ。足なんて変に縺れてる。額から汗がだらだら流れてた。滝のような汗って多分このことだと思う。
満身創痍っていうのかな。このまま、また便座君のお世話になろうかな、なんて思ってしまう。僕って意志が弱いんだ。やる気が出ても続かない。詳しく言うと、やろうって時に殴られちゃうんだ。だから、もういいやってなる。他の人もそうだと思うんだけど。ここぞって時に限って、邪魔が入るよね。でも今回は流石に僕も折れなかった。なんとか立ち上がって、壁伝いに自分の部屋に辿り着いたんだ。目標の布団はもう目の前だった。後ろ手に襖を閉めて、散らかった部屋の中をふらふらしながら進んだ。
そしたら、蹴躓いちゃって。脇腹を強かに打ちつけた。物が散乱しててデコボコしてるような場所に倒れたもんだから、すっごく痛いよね。もうほんと、痛くて息ができないの。下手についた手首なんて捻っちゃって、ぶるぶる震えてる。起き上がろうとするんだけど、死にかけの虫みたいにもぞもぞやってるくらいしかできなかった。障害物に変貌した自分が集めたはずの物を、少しずつどけて進むんだ。そしてそのまま布団の海にダイブする。ふかふかでもなく、いい匂いなんてしないけど、僕の体を受け止めてくれるいいやつ。そいつに包まって、冷え切った手とか足を擦り合わせて熱をうもうと頑張るんだ。
そうやってると少しだけ、安心できた。
包まれるって、癒し効果があるんだ。それが綺麗なんて言えないような布団だったとしてもだよ。少なくとも僕にとってはそう。最初から手なんて伸ばさないで、大人しく布団の中でぬくぬくやってればよかったって思ったね。
そしてそのまま僕は眠りにつく。じつは僕って寝つきがよくない方なんだけど、そんな時は想像の世界に逃げ込むんだ。自分で創った世界で大冒険したりさ。その世界じゃ、僕はかっこよくって強いんだ。当たり前だけどね。だってせっかく好きなように出来るんだもの。わざわざ弱くてかっこ悪い自分なんて考えないよ。それで、大抵はいろんな奴が僕の傍に居るんだ。そんでもって必要とされたりする。誰だって”あなたが必要だ”とか言われたら嬉しいよね。自分の代わりが居ないってことは、とっても魅力的なんだ。
しばらくそうやってたら、少しずつうとうととしてきた。まどろんでる時って心地いいよね。僕は好きだ。しっかり眠ってしまったら、夢の中での大冒険もちっとも覚えていられないんだもの。夢と現の挟間だったら、僕は生き生きとしていられるんだ。こんな”痩せっぽっち”でも”チビ”でもなくって。肌だってこんな見るからに不健康な白じゃなくて、ちょっと日に焼けた健康そうなやつで。まさしく楽しく生きてますって感じ。
でもそこにはいつまでもいられなくて、追い出されちゃう。現実か、深い夢の中に。
今回は後者で、でも夢の中に落ちていくほんの一瞬、僕が転んでかき回しちゃった所に懐かしいやつが目に入ったんだ。まさかそんな所にあっただなんて思ってなくて。結構な不意打ちだった。随分昔に無くした物だったんだ。
でもそれって、きっと僕の足の下にあるんだよね。つまり、ブラックホール”もどき”の中にってことなんだけど。だから多分、それを掴めるのはきっと穴に落ち込んだ時なんだ。その時の僕には見えてたんだけど、寝て起きたらそれは確実にどこにも無くなってるんだよ。
懐かしい想いとか、謝罪の気持ちとか、ぶつけどころのない怒りとか、言葉では言い表せないくらいのいろいろな感情が一気に胸から噴き出して、叫び出したい気持ちに駆られて、でもそうはしなかった。かなり思い入れのあるものだったんだよ。いい意味でも、悪い意味でもね。でも、ほんとにすっかり疲れ切っちゃってて、僕はなんの抵抗もしないままに、その”ビックウェーブ”に乗って夢の世界に真っ逆さまに落ちていった。
つまりさ。今回もブラックホール”もどき”には落ちれなかったんだけど、”予行練習”くらいにはなったんじゃないかな。ほんと、どうやって僕を”ここ”に繋ぎ止めたままにしているんだろうって、常々不思議に思ってるんだけど。でもまぁ、急ぐこともないのかもしれない。
だって、いずれその時はくるんだから。それまではびくびく怖がりながらでも、日々を消耗していくしかないんだよ。
ほんと、僕って甘ったれてる。
もう起きたくない、なんていいながらも、”希望”につられてまた目を覚ましちゃうんだからさ。