異世界への店内
カラン…
喫茶店「異世界へ」の扉を開けると、小さな鐘音とコーヒーの香りが彼とペットの犬を出迎えた。
数秒其処に立ち続け、店内の様子をうかがう。
ちらりと見られても特に反応はない。本当にペット同伴OKらしい。ついでに犬嫌いもいないようだ。有り難い。
彼はホッとして席を探した。
奥のテーブルが空いてる。そこに座った。
サングラスをかけたマスターがお冷やを持ってきてくれた。彼にはコップで、椅子に座る彼の足元に座る犬にはお皿で。なかなかのサービスだ。
コーヒーを頼む。
マスターはお辞儀をして、カウンター内へ戻って行った。ピンと伸びた背筋、姿勢の良さに少しだけ憧れの気持ちが湧いた。
「…?」
お冷やの隣に紙と鉛筆があった。
どうやらアンケートらしい。
店名の由来か、マスターの趣味か…
…書くも書かずもご自由に。…
冒頭分のその下に。
…もしも異世界へ行けるとしたら…
そう書かれてあった。
コーヒーを待つ間の暇つぶしにはいいかもしれない。
マスターを見ると本格的な手付きと道具で準備をし始めていた。楽しみだ。
…名前は?…
そうだなぁ…
…。
特に何も思い浮かばない。名前を縮めて書けばいいだろう。
…種族、その特徴は?…
種族…特徴…?
人間なら白人黒人。犬なら犬名か、特技だろうか。
狩が得意とか、穴掘りが得意とか。
種族は、まぁ、うん。…よくわからん。人間でいいか。
特徴、ねぇ…
…。
犬を見下ろし、その頭を撫でてから書き込んだ。なかなか「異世界的」でいいと思う。
…今、貴方が持つ物の中で唯一、持って行けるとしたら何を、それにどんな加護を付けますか?…
…加護?
犬の散歩で大事な物など持ち歩かない。携帯電話も置いてきた。
あるのは小銭入れと犬の散歩の必要品だけだ。
「…ん?」
そういえば小さな娘に言われて買ったのがあった。
安物の、小さなビーズの入った小瓶。
いろいろな種類いろいろな色、歪な形も混じっている。
ちまちま糸にビーズを通し、楽しんでいた姿を思い出した。
うん、コレにしよう。実際に異世界に行く訳でも、持って行く訳でもない。
書くのは、自由。
家に帰ったらコレは娘の物だ。
加護は…
わからん。
いろいろ入ってるから「いろいろ」でいいか。
その後いくつかの問いに答えた。
頼んだコーヒーを飲み、会計をする。
「楽しかったです」
「それは良かった」
アンケートをお金と一緒に手渡す。
マスターは渋い声と笑顔で受け取った。
彼が店を出た後…
マスターはコーヒーとペット用の皿を片付け、皿の隣に置いてあったアンケートを回収した。
数日後…
その場所に行って見ると、そこにあったのはビルの壁だった。
さらに数日が過ぎ、そんな不思議な事が思い出となり、
数年が過ぎ、愛犬が老衰、穏やかに眠る様に死んだ。
十数年後…
娘が嫁ぎ、孫が生まれた。
数十年後…
…妻が先立つ。
そして…
「うん、楽しかった」
平凡ながら、悲しい事も辛い事もあった。
老後の体の衰えは辛かったし、ひとりの夜は寂しかった。
でも、
確かに、
…あぁ…
自分は幸せだったなぁ
君は、
向こうで待っていてくれているだろうか。