執務室にて、会話
ようやく王様登場。
――国王、ヴィルフリート・マーヴィン・フレアベルは
自身の執務室に置かれてあるウォルナット製の大きな机に肘をつき、息をついた。
父王から譲り受けた、精巧かつ頑丈に作られたこの机。
当人もいたく気に入っているが、その上にどんと積まれた未決済の書類の山はいただけない。
片付かない案件がまだこんなにあるのか、とため息もつきたくなるというものだ。
「―少しはお休みになられてはいかがですか。」
傍らでそう声をかけるのは、王の側近であるユイン。
金髪碧眼、そしてすらりとした長身が特徴的な、王の秘書兼護衛を務める青年である。
若くして(二十代半ばの王よりはいくつか年上だが)名誉な重役を仰せつかった彼だが、その役目にふさわしい非常に優秀な人材である、とヴィルフリートも重宝している。
王は彼の方をちらりと見、しかしすぐにまた目の前の書類に目を落とした。
「…そうもいかない。セーレ地方の定期報告書と今月の納税報告のまとめ…あと最近工事の始まった水路の進捗具合も調べねば…」
「ですが、陛下がお身体を壊しては元も子もありません。適度な休息も必要ですよ。」
ポットからお茶を注ぎ、カップを置くユイン。
気遣いの感じられる言動にヴィルフリートも顔を上げてユインと目を合わせる。
彼は茶器を置き、にこりと笑った。
「なので、たまには後宮に顔を出してみては?」
すると王は露骨に嫌そうな顔を作った。
「…ユイン。お前、それが言いたかっただけだろう。」
「ええ。」
悪びれもなくさらりといい放つ側近に、またため息をつきたくなる。
――後宮。
それは彼が即位してからずっと逃げ続けて来た場所であった。
彼が即位するにあたって人員が総入れ替えとなった、リートルード王宮内にある後宮。
リートルードは基本的に一夫一婦制だが、国王は正室の他、何人もの側室や愛人を持つことが可能である。
よって家臣たちは自慢の愛娘や隣国から招いた美姫、地方に住む可憐な美少女など、あらゆる趣味嗜好タイプの美女をそこに取りそろえたのだが…王はなかなか立ち寄ろうとしない。
―実は、未だ後宮内にお手付きとなった側室はいなかった。
それどころか、王には気に入りの愛妾もお雇いの娼婦もいない。
果ては、王は男色か、などという嫌な噂も立つ始末。
いや、決してそういう趣味なわけではないのだが…
ヴィルフリートは長い銀髪をたらし、少々行儀悪く頬杖をついた。
「いい…というか、後宮などいっそなくしてしまえばどうだ?」
「何をおっしゃいます。」
「とんだ税金の無駄遣いと思わないか。贅沢ばかりする女どもを幾人も囲う施設など…しかも何の役目もないのに。」
「それは陛下のお足が向かないからですよ。彼女たちも可哀そうに。」
…ああ言えばこう言う。
王の優秀な側近はいつも的確に言葉を返す。
その率直な態度は仕事をしているときは大変頼りになるのだが―今回はいささか耳が痛い。
王は苛立った気分のまま、
「…どうも苦手なんだ。ああいった連中の相手は……」
―と、本音をぽろりとこぼした。
むせかえるような濃い香水の匂い、豊満な肉体を惜しげもなくさらし、誘ってくる態度、媚を売るような甘い声色……
女性の武器をここぞとばかりに使ってくる貴婦人たち。
昔から女性に苦労したことがなく、むしろ積極的に言い寄られ迫られていたヴィルフリートは、そういった女性に辟易していた。
硬派で真面目なきらいのある彼には、元々そのような超肉食系美女たちは『合わない』のだ。
だから、後宮のような魔窟(そこまで言うか)には足が向かないのも当然。
最近では、初めて後宮入りした側室との顔合わせすら、何かと理由をつけて拒み、そのまま放置している。
――無論、彼自身もこのままではいけないと思っては、いる。
国王となった今、妃を迎えること、さらに世継ぎを作ることは大切だし、王の責務でもある。
しかし自分はまだ位を頂いたばかりで、歳も若い。ぶっちゃけ子など十年先でも大丈夫だ、と思っている。
それに――彼はできれば自分が心から愛した女性と子を為したい、と考えていた。
父と母のような…打算と策略のみで結ばれた関係ではなく、ただ単純で純粋でささやかな『愛』で結ばれた妻と。いつか、と。
…まあ、実はこれ、『好きな人と結ばれたい♡』という乙女思想そのままであるのだが…本人は気付いていないようだ。残念ながら。
国王の考えていることを感じ取った側近は、『まったく、この人は…』とばかりに眉をひそめた。
「ならば陛下の好みに合う女性を探しましょうか?この広い王国各地を探せば、一人はいるはずですよ。」
「好みの女性…な。」
「はい。どういったご令嬢がお好きで?容貌は?性格は?ああ、ご趣味なども。」
ずい、と顔を近づけ、ここぞとばかりに質問を連ねるユイン。
自身の仕える陛下に全く女の影がないことを、彼も心配しているのだ。
ヴィルフリートは迫る側近に若干引きながらしばし思考し、答えた。
「いや別に…特に好みなどはないが。」
「ないことはないでしょう。何でもいいから仰ってください。家臣たちが喜び勇んで国中を探してきますよ。」
「…だから、ないと言っているだろう。」
そこでユインはハッとしたように目を見開いた。
「陛下…もしかしてもう、心に決められた女性がいるのですか?」
「馬鹿なことを言うな…」
「いえ、分かりませんよ。出会いなどどこに転がっているか予想もつかないものです。」
「…と言っても……」
「ほら、会ってみたいとか、話してみたいとかそんなお方がいるのでは?」
「しつこい!そんな女、いないと――」
いい加減にうんざりしてきたヴィルフリートは声をあげた。
―が、そのとき、
ふと脳裏にある少女の姿がよぎり、声を飲み込む。
突然言葉を切った王に、ユインは怪訝そうな顔をした。
「…陛下?どうされました?」
「いや、なんでもない。」
慌ててかぶりを振り、取り繕う。
小うるさいユインに目を付けられると厄介だ。
王は平然としたそぶりで傍に置いてあるティーカップを傾けた。
「…とにかくこれ以上後宮に人を増やす必要はない。この話は終わりだ、ユイン。」
側近が何か言う前に、ぴしゃりとはねつけるヴィルフリート。
ユインは納得のいかない様子だったが、頑固な主の態度にそれ以上の言及を諦め、一旦部屋を退室した。
その様子を横目にヴィルフリートはやれやれ、とばかりに肩を落とす。
―そして、同時に。
先程思い浮かんだ女――先日、外の中庭で見た女のことを思い出した。
いつものように執務室で政務を行っていたときのことだった。
ふと窓の外を覗くと、くしゃくしゃな赤毛の女―制服を着ていたことから、多分下女だろう―が熱心に芝生を掃き、掃除をしているのが見えた。
ヴィルフリートは精の出ることだ、と何とはなしにそちらに目を向けていた。
するとしばらくしてその女は突然顔を上げ、噴水に近寄っていった。
そしてきょろきょろと素早く辺りを見回し、周囲に誰もいないのを確認したら、ぐっと背を伸ばして噴水の水瓶の中を覗いたのだ。
―何をしているんだ?あの下女は。
ヴィルフリートは奇怪な行動を取る下女を興味深く思い、椅子から身を乗り出して彼女を見た。
ちょうどユインや他の者は出払っていった時間だったので、彼を咎める者もいなかったのだ。
心おきなく外の風景を覗くことができた。
――見下した先の下女は、恍惚とした表情になり、嬉しそうに顔をほころばせていた。
それを見てヴィルフリートもその中には何があるのか、と気になった。
同時にくるくるとよく表情の変わる女だな、とも思った。
覚えず頬が緩み、目が離せなくなった。
そのまましばらくその体勢を保っていた下女――だが、
「あ」
次の瞬間、爪先立ちの足が地面を離れ、派手に水の中に飛び込んだ。
ばしゃっと水しぶきが舞い、辺りの鳥もあわただしく飛び去る。
あまりのことに、思わずヴィルフリート自身も声を出してしまった。
―赤毛の女は頭から水に突っ込んだことで、全身ずぶぬれになっていた。
濃紺の制服は水を吸ってさらに濃い色に変色しているし、彼女の赤毛もしぼんで水滴をしたたらせている。
その時の彼女の呆然とした顔といったら。
『鳩が豆鉄砲を食らった』…とはああいった表情のことを言うのだろうか。
下女のあの、なんとも形容しがたい顔が忘れられない。
我に返って恥ずかしそうに噴水を出て、きょろきょろと周囲を見渡す仕草もまた、小動物のようで可笑しかった。
その後、着替えてきたらしい例の下女と偶然目を合わせたが――彼女は綺麗な緑色の瞳を見開き、ぽかんと口を開けていた。
――お前は、どれだけ間抜け面を見せれば気が済むのか。
他の者たちの手前、表情には出さなかったが、吹き出しそうになるのを必死でこらえたのを覚えている。
…全く、つくづく面白い下女だ。
ヴィルフリートはくく、と喉を鳴らして笑った。
「あの女なら…会ってみたい気はする。」
ぽつり、と呟いた言葉は誰の耳にも聞こえることなく、彼の心の内にのみ響いた。