なりかわり開始
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「~♪」
朝早く、柔らかな日が差し込むテラスを横切り、安い革靴を鳴らす女がひとり。
マルグリットは上機嫌で広い広い大理石の廊下を歩いていた。
身につけているのは白いブラウスに濃紺のスカート、その上にひざ丈までのエプロンを合わせた下女の制服だ。長い黒髪はまとめて赤毛の鬘の中に入れている。
今の彼女は、『貴族のマルグリット嬢』ではなく、『下女のエイミィ』。
―そう。下女になりかわるため、マルグリットは早速下女の制服に身を包み、エイミィがいつも作業をしている仕事場へと向かう途中なのである。
――うまくいったわ。
高揚している気分はそのままに、マルグリットはにんまりと笑った。
時はさかのぼり昨夜、マルグリットの自室内。
侍女のルビアは主からこんこんと『下女なりかわり計画』の完璧さ、下調べの入念性を説明された。
そしてついにははあ、と息を吐き出す。
「…分かりました。そこまで言うなら、ルビアは止めません。」
「そう!ありがとう、ルビア。」
マルグリットはぱん、と手を叩き満面の笑みを浮かべる。
ようやく侍女から『下女』になる許可が出たのだ、数日間の苦労が報われた気がした。
「しかし、いくつか守って頂きたいことがございます。…聞き入れてくださいますよね?」
「…はい。」
―が、悦に入っていると侍女から凍てつくような視線が送られ、
さらに半分脅すような強い口調の言葉に、ぞくりと背筋が粟立つ。
…まあ、最初からそう簡単にお許しが出るとは思っていなかった。
マルグリットは素直に頷いた。
「まず、夕方には絶対にこの部屋に戻ってくること。下女の仕事…特に朝から働いている者の雑務は大体鐘5つには終わります。…そうですよね?」
「あ、はい!私もそうです…」
「―だ、そうなので。仕事が終われば速やかに後宮に戻り、元のマルグリット様として夕食はここでとるようにしてくださいませ。料理人への言い訳が大変なので。」
「分かったわ。」
マルグリットは二つ返事で承知した。このくらいは予想通りだ。
むしろ寝所まで他の下女とともにしていては、いずれどこか違和感が出るだろうと思っていたからちょうどいい。
主の様子をうかがったルビアは、では、とまた口を開いた。
「次に、私が下女の仕事を危険と判断した場合は、即刻やめてもらいます。大きなお怪我などをなさった場合は、問答無用で『なりかわり』は終了です。」
「え!そんな!」
マルグリットは途端に声を上げる。
怪我をするな、とは。
昔から引っかき傷や擦り傷は毎日のように負っていた彼女にはまた無茶な要望だ。
それをおそらく一番よく知っている侍女は、難しい顔を作るマルグリットに対し、すました顔で続ける。
「当然ですわ。大切なお嬢様を危険な目に遭わせるわけには参りません。…その際はウェリントン家にも手紙を書きますので、そのおつもりで。」
「うう…ハイ。」
――こんなこと、心配性のお父様に知られたら、絶対に家に連れ戻されてしまうわ。
できるだけ無茶はしないで、怪我には十分に注意しないと、とマルグリットは心のうちで思った。
「では、最後に――これは質問なのですが…本当に、やめるおつもりはありませんか?」
ルビアはマルグリットの手をそっと握った。
走り始めたら止まらない性格であるのは分かっている。その趣味嗜好が真っ当なものでないことも知っている。
しかし、今回の『お遊び』はあまりにも危険だし、侍女としては容認しがたい。
彼女の意図と意志を確認したかった。
「…部屋にいるのが退屈だというのなら、王宮図書館やホール等に赴くことができますし、なんでしたら数日間、私と立場を交換してもかまいません。…どうしても、『下女』でなければならないのですか?」
「ええ。そうよ。」
しかし、マルグリットはきっぱりと言い放った。
彼女の宝石のような緑の瞳に射抜かれ、侍女は息をのむ。
マルグリットは、顔立ちは平凡であるのに関わらず時折はっとするような美しい表情を見せるのだ。
「この城の生活を支えているのは国王でも大臣でも…ましてや私のような後宮の一員でもない、召使の皆さんでしょう?
でも私は実際に彼女らがどんな仕事をしているのか全く知らない。
そうして何も知らないまま、いつしか生粋の貴族たちのように下女を身分の低いものとして見下してしまうなんて私は絶対したくないのよ。」
侍女はハッとする。
毅然とした態度でそう告げるマルグリットは、真剣な色を瞳に宿していた。
そしてただのお遊びでなく、理由あって『下女』になりたいという強い意志もうかがえた。
「―大体、私は楽で安定した暮らしなんか求めていないわ。毎日新鮮な驚きがあって、明日をわくわくして迎えられるような…そんな変化のある日常が欲しいの。」
―まあ、こちらが本音なのだが。
マルグリットは内心で舌を出しつつ、聡明な侍女をどうにかして説得するようできるだけ賢そうな表情を作る。
そして――
「――そこまで言うのなら、どうぞ、お嬢様のお好きなようになさってください。…それで、下女の制服は用意してあるのですか?」
「もちろん!」
待ちに待ったそのときが訪れ、マルグリットは満面の笑みを作ったのだった。
「しかし、広いわねぇ、このお城は……」
回想を止め、『下女』は歩きながらきょろきょろと視線を散らす。
国王の住む王城ともなると、敷地はとてつもなく広い。とにかく広い。
百もの部屋が分割された塔の中にあり、その中をせかせかと掃除する使用人たちの姿が見える。
―ああ、私も今からその一員だったわね。
下女はくすりと笑みをこぼした。
いや、しかし――
マルグリットはぐるりと周りを見回した。
この、天井の壁画から大理石の石柱の隅々まで、一切手を抜かれることのない洗練されたデザインは本当に素晴らしい。
あまり芸術に詳しくないマルグリットも、これを見れただけでも外に出た甲斐があったわ、と感動していた。
少し歩いては立ち止まりそこかしこを覗く女を、周囲の人たちは城に来たばかりの田舎者、とでも思っているだろうが、そんなことはマルグリットには関係ない。
心ゆくまで城の作りを観察していった。
「ああ、ここね。」
王城見学を満喫したマルグリットがぴたりと足を止めた先は、女官長室。
ここには城で働く召使たちの総指揮を取っている女官長がいて、本日の持ち場と仕事の割り振りを決めるのだ。
エイミィは確か洗濯が主な仕事と言っていたから、今日も大量の洗濯物を洗うことから始まるのだろうか……
マルグリットはふっと口元に三日月を描いた。
―さあ、初仕事だわ。気合いをいれていかないと!
期待と興味に満ち溢れた緑の瞳を爛々と輝かせ、『下女』はドアをノックした。