捜索途中
廊下に誰もいないのを確認し、自室の部屋をそっと抜け出したマルグリットは駆け足で後宮を出た。
とりあえず兄たちの消えた中庭に向かおうと、曲がり角を曲がり、右へ左へと速足で進んで行く。
王宮内のあらゆる場所の死角・人目につきにくい抜け道は、下女であった頃あちこちに動き回ったおかげで全て頭の中に入っている。
下女に扮したマルグリットは、迷いなく真っ直ぐに中庭を目指した。
――今のマルグリットは『エイミィ』ではなかった。
下女の制服を身につけてはいるが、赤毛の鬘はしていない。代わりに自前の黒髪を高い位置で結び、おさげにしていた。
最後までどうすべきか迷ったが、万が一エイミィの傍仕えの者や本人と鉢合わせになった時、言い訳のしようがないと思い、己の髪を下女らしく結っておくだけにとどまった。
まだ日は高い。この時間帯だと外に出て働いている下女が多いので、偽下女が一人こっそり紛れ込んでいても気付かれにくいだろう。
…まあ、下女の姿で仕事もせず王宮内をうろつくのは少々危険ではある故、短時間でケリをつける必要はあるのだが。
とにかく、『マルグリット』のことを知る者、もしくは下女・侍女他、召使全般の人員配置をすべて把握している女官長にでも出会わなければ自分の変装は見破られないはず――
「(なのに、なんでこんな所にいるのよ、あの人は……!)」
回廊を爆走している途中、嫌な予感を肌で感じたマルグリットは咄嗟に物陰に隠れた。
べたっと壁に背をつけ視線を前に送ると、そこには確かに下女時代に自分を散々こき使って下さった女官長様の姿が。
よりによって中庭へ続く回廊の途中で出くわすとは、なんと運の悪いことか。
マルグリットは心の中でちいっと舌を打った。
しばらくぶ厚い壁を背にして隠れ、数メートル先にいる彼女の様子を伺ったが、女官長が場所を変える様子はなかった。
傍らに立っている兵士に何やら熱心に話しかけるばかり。
――ああ、こうしている間にも犯人が、お兄様がどこかに行ってしまう!!
マルグリットはやきもきしながら唇をかんだ。
だが今ここで出ていって、彼女に見つかりでもしたら一発でアウトだ。
ここは女官長が動くのを待つよりも、潔く道を変えるのが得策か…いや、もう一本の道は確か工事が始まったばかりだった。ならば図書室を通り抜けて裏口から行くのが近いだろうか。それとも。
頭の中の地図を読みながらああでもない、こうでもないと悩むマルグリット。
「おい、そこの。」
と、突然背後から聞こえた声に下女は飛び上がった。
思わず大声をあげそうだった――が、すんでの所で飲み込んだマルグリット。
どくどくと激しく音を鳴らして主張する心臓を手で押さえる。
前にもこんなことがあったような、と不思議な既視感を覚えつつも、呼びかけを無視するわけにもいかないので、恐る恐る後ろを振り返った。
誰だろう、知り合いでなければいいのだけれど、と祈りながら。
「お前だ、そこの下女。」
「…あ、はい。」
幸いなことに、声をかけてきたのは見知らぬ男性であった。
マルグリットはほっと息をもらし、男性を見上げる。
歳は四十代半ばほど。やや細身の体に真っ白なブラウスとベルベット生地の外套をまとい、金のカフスボタンで手首を飾っているのがちらりと見える。
目を細めこちらを不快そうに見下したり、たっぷりとたくわえた髭をいじる様はいかにも自尊心が高そうである。
身なりや言葉遣いから察するに貴族―それもかなり爵位の高い男性のようだ。
マルグリットは慌てて居住まいを正し、頭を下げた。
「も、申し訳ございません。何か御用でしょうか!」
「…こんな所でこそこそと何をしている。まだ勤務時間帯であろう?」
「!!」
と、問いかけられた途端、目を見開き喉の奥で息を飲む下女。
―しまった、こんな風に呼びとめられた時の対策を考えていなかった!
「えっ!あ、あのその…」
「怪しげな動きをしていたようだが…向こうになにかあるのか?」
「え!あっ!」
しどろもどろに応対していたマルグリットの制止も間に合わず、ひょいと首を曲げて壁の向こうを見る男性。
そしてああ、と声をあげた。
「あれは女官長ではないか。…成る程、さてはお前、仕事をさぼっていたな?」
「あっ、えーっと……そ、そうです、すみません。」
やや不愉快な内容だが、他にここで立ち止まっていた理由が思いつかないのでマルグリットは貴族の男性の言い分に便乗させてもらうこととした。
…本当はそんなこと、したことないんだから!と内心でぶすくれながら。
下女がしゅん、とうなだれるフリをすると紳士はニヤリと口角をつり上げた。
「下女の分際で仕事を放棄するとは、な…」
「す、すみません、しばらく休憩していただけなのです!すぐ戻りますから…!」
これ以上、事を荒立てられてはたまらない。
また誰かが『下女』を目撃してしまうかもしれないのだ。
マルグリットは慌ててスカートを翻し、その場を離れようとした。
「いや、待て。」
「えっ?」
―が、それは叶わず、男性に腕を取られてしまう。男性はそのまま下女を引き寄せ、細い顎に手をあてた。
その早技に目を丸くし固まるマルグリット。まんまと壁に押し付けられてしまった。
「ほお、よく見ると中々可愛い顔をしているではないか。」
「お、お離しください…!」
―距離が、近い。
互いの息がかかる程の近さでしげしげと自分を覗く男性に、ぞくりと悪寒が走る。
なんとか顔を逸らし、近づいてくる体を押しのけようとするが下女と紳士の体格差は歴然だ。
易々と自由にしていた方の手まで取られてしまった。
途端、マルグリットは顔をさっと青ざめさせる。
「お前はどこの者だ?名はなんと言う?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、さらに詰め寄る貴族男性。
マルグリットもさすがにこの男がどういった意味で自分に言い寄っているのかを理解した。
しかし、こういう時にどう対処していいのか分からない。
全く身動きが取れない上に、今の自分は身分の低い下女だ。貴族の男性の戯れを見ても、誰も助けてはくれないだろう。
見知らぬ男性から抑え込まれるのがこんなに怖いなんて、と知らず知らずのうちに体が震えだす。
――こんなことをしている場合じゃないのに!!
だが、いくら心の中で祈っていても現状を変える手立てはない。
いよいよ男との距離が近づき、マルグリットはもう駄目だとぎゅっと目を瞑った。
その時だった。
「――何をしていらっしゃるんです?デュレイ公爵。」
「!!」
天辺から声が降って来た。
―正確に言えば覆いかぶさっている男の後ろから、声がかかったのだ。
『デュレイ公爵』と呼ばれた御仁は途端に不機嫌そうに眉をひそめ、振り返った。
「…取り込み中だ。放っておけ、エイリオス。」
「おや、それは申し訳ございません。ですが少し、お耳に入れて頂きたいことがございまして。」
「急ぎの用か?」
「はい、できれば今すぐに。」
「…ふん。」
忌々しげに舌を打ち、貴族の男はあっさりと黒髪の下女から離れた。
そして背後の『エイリオス』と声をひそめて二言三言言葉を交わす。最早、マルグリットをどうこうする気はないようだ。
それを見て、マルグリットは助かった、と脱力していた。
反面、『エイリオス』とは何のことだろうと疑問に思う。
エイリオスという名前に聞き覚えはない。だが、その人物は誰なのかマルグリットにはすぐに分かった。
何故ならば―男性の影になって姿は見えないが―聞こえてきた男性の声は紛れもなく探していた兄、フロリアンのものであったから。
どうやら、この貴族の男と兄は知り合いであるらしいが―どうして兄は偽名を名乗っているのか?とマルグリットは疑問に思う。
先程の口ぶりからいって、兄は自身がウェリントン侯爵家の者ということを伏せて身分を偽っているようだ。だが、何のために?
また新たな疑問が浮上し、いよいよフロリアンのことが疑わしくなってくる。
兄は王宮で一体何をしているのだろうか。まさか本当に王に毒を盛った犯人とつながっているとか?
何か情報を拾えないか、とマルグリットは二人が小声で話す内容を聞き取ろうと努力したが、聞き耳を立てる前に紳士はさっと立ちあがった。
「――詳しい話は奥でいたしましょう。ここでは人目につきます。」
「ああ、分かった。」
話を切った両人は下女の存在を気にすることなく、王宮の奥へ向かって歩き出した。
エイリオス――フロリアンもマルグリットの存在には気付かなかったようだ。
こちらには一瞥もくれなかった。
千載一遇のチャンスだ、ここで兄たちを逃すわけにはいかない、とマルグリットも慌てて壁から離れて立とうとした。
「(……あ、あれ?)」
―が、マルグリットはぺたん、とその場に座り込んでしまった。
後を追わなければと頭では考えているのに、足に全く力が入らないのだ。
そして一瞬遅れて自分の体ががくがくと震えているのに気付く。
どうやら、思ったよりも先程の出来事に恐怖を感じていたようだ。自分の体はそのことを雄弁に語っていた。
全身の震えが増し、マルグリットはぎゅっと自分の体を抱きしめた。
―気持ち悪かった。
下劣な笑みも、ぎゅっと力を入れて握られた手首も、下心しか感じられない言動も。
雄の醜悪な感情が自分に向かってくるのが分かり、はじめて男性が怖いと思った。
兄が声をかけてくれなければ今頃自分はどうなっていたか。考えただけでも震えが止まらない。
気を抜けば先程の出来事が脳裏にありありと蘇ってきそうだ。
マルグリットはぶんぶんと頭を振った。
そして足を曲げて三角座りをすると廊下の壁に背を預けて俯いた。
「ちょっと休憩すれば、治まるわ…」
そうぽつりとひとりごちたマルグリット。
実際、彼女はしばらく立ち上がることすらできなかった。




