令嬢として
ちくちくちくちく。
刺繍針が抜けては入り、入っては抜け、白い布地に色を足していく。
目にも止まらぬスピードで刺繍を進めているのに関わらず、針子がその刺し位置を間違えることはなく糸がほつれるなんてこともない。
美しい花の模様が着々と完成していくのを横目に、ルビアはおずおずと声をかけた。
「……あの、お嬢様?」
「あら、なあにルビア。今刺繍の途中だから、用なら後でもいいかしら。」
「いえ、その…」
手を忙しく動かしているマルグリットは侍女の方を振り向かずに言った。
それきり無言で刺繍を進める彼女に、ルビアはため息をつく。
―エイミィが後宮入りしてしばらくが経った。
入れ替えに再び後宮に戻ってきたマルグリットは、今までのお転婆ぶりが嘘のように自室で大人しくしていた。
お茶をたしなみ、肌の手入れに気をつかい、『令嬢』らしい趣味に没頭する。
今は特に刺繍にはまっているようで、すでに何枚ものハンカチに装飾を施していた。
――以前はつまらないだの外に出たいだのと、不満をもらしていらっしゃったのに。
ルビアはその様子をただ心配そうに見守っていた。『なりかわり』に懲り、ようやく侯爵令嬢らしく振舞うようになってくれたのは喜ばしいことであるが――今度はどうにも落ち着かない。
どこか無理をしているような、彼女らしくない気がして。
そして、ルビアは気付いていた。
マルグリットが何か隠し事をしていることも。
読書、香水選び、編み物、裁縫、そしてハープの演奏。
マルグリットはどれも真剣に、熱心に取り組んでいるものの、ふと手を止めぼうっと窓の外を見つめている時がある。上の空でなにやら考え事をしているマルグリットの横顔をもう幾度も見た。
おそらく、エイミィとのなりかわりが終わるとき何かあったのだ。
それがどのような出来事であったのか、侍女には分からない。
マルグリットが何か悩みを抱えていることは明白だったが、それを問いただすのも憚れるほど彼女は切なそうな表情をしていた。
「……では、失礼します。御用があればお申し付けください。」
「ええ。」
だが、結局ルビアは一礼して部屋を退室することにした。
本人が言いたくないのであれば、自分からお話してくれるのを待つしかない。
それが侍女としての――いつもの自分の役割なのだから、と。
パタン、と扉が閉まる音を聞き、マルグリットはふと手を止める。そして深いため息をついた。
――やっぱり、心配させてるわよね。
マルグリットとて、今の自分が『らしくない』ことは分かっている。そしてそのことでルビアが動揺していることも。
だが、自分は変わると決めたのだ。
それがどんなに不自然であろうと自分を背くことであろうと、以前の『マルグリット』はきれいさっぱり捨て去り、優雅で退屈な『令嬢』としての役割を演じることをあの夜、誓った。
あの、月が綺麗な祭りの夜に。
そこで、マルグリットは唐突に思い出した。
あの夜、ハープを弾いているときに偶然に国王陛下が現れたこと、そして彼に抱かれ、プロポーズを――
「――っ!!」
途端に顔面の体温が急上昇し、顔を赤らめるマルグリット。
回想を振り切るように持っていた布を放り投げ、地団太を踏んだ。
―なりかわりが終わり自分の部屋に戻ってきたときからずっと、折に触れあのことを思い出してしまう。間近で見た陛下の綺麗な顔や色っぽい息遣いまで鮮明に脳内に映し出される。
家族以外の男性にあのように抱きしめられたのは、初めてだった。
情熱的に言葉をかけられるのも、妻にと望まれることも、手にキスされるのも―すべてが初体験だったマルグリットはそれを思い返すたびにどうしようもなく恥ずかしくなる。
そして、心臓がドキドキと鼓動して収まらなかった。
「……陛下。」
ぽつり、と呟いてみてももちろん返事などなく。聞こえるのは楽しげに歌う小鳥の囀りのみ。はあ、とマルグリットはため息をついた。
マルグリットは自分の想いをどこに持っていけばいいか分からず、ただただ持て余していた。
このような経験はしたことがない。
ただひとりの人ばかり思い返し、その度に居てもたってもいられなくなるなんて。
これも普段の自分『らしくない』行動のせいか、それとも――
―と、そこでマルグリットは考えるのを止めた。否、断ち切った、というのが正しいか。
ハッと我に返った彼女は、ぶんぶんと頭をふり溢れ出そうになった感情を散らす。
「馬鹿ね、私ったら…」
マルグリットは自嘲した。
自分とエイミィの『なりかわり』を誰かに知られる訳にはいかない。
よって本物のエイミィが後宮に入り、自分は元通り側室として後宮で隠遁生活を送る必要があった。
今後は陛下と顔を合わせないよう、部屋に隠れているしかないのだ。
―二度と会えないのに、今更こんな感情を抱いて何になると言うのか。
それに本物のエイミィも今頃きっと上手くやっているだろう。
あれだけ演技の上手い子だ、陛下を騙しつつ優雅に日々を送っているに違いない。
『なりかわり』中の特訓によってか、彼女は随分と綺麗になったし、言葉づかいや仕草も令嬢のそれらしくなっていた。同じ容姿や体型ならば陛下だって本物のエイミィの方を気に入るだろう。
その間私は――ただ令嬢として、静かにここで過ごしていればいい。
外に出てうっかりエイミィや他の者に出くわしてもマズイので、外出する気もない。
ここで、お役目が終わるのを待つだけ。
そう、これが唯一の正しい道。
私に課された、私の役目。
―もう、あの夜のことは忘れよう。
そう決心も新たに、マルグリットは刺繍の途中であった布を拾い直し、再び針を手に取った。
**********
「―ルビア?何を見ているの?」
ようやく『側室』生活にも慣れてきた、とある昼下がりの午後。
読書に勤しんでいたマルグリットはふと視線をあげ、侍女に問いかけた。
侍女は何やら真剣な顔で一通の手紙を読んでいたが、主の声とともに慌てて顔を上げた。
「っあ、いえ…別に大したものでは…」
「大したものでなければ、何故そんなに深刻そうな顔をしているの?」
マルグリットの指摘にうっと声を詰まらせるルビア。だがすぐに居住まいを正し、返答した。
「…故郷からの手紙です。」
「そう?何が書いてあったの?」
「ただの現状報告ですよ。…さて、お嬢様。お茶のおかわりは如何ですか?」
「………。」
無言でルビアを見つめていたマルグリットだったが、しばらくの後に『じゃあ頂くわ』と呟いた。
ではお淹れしますね、と侍女は何食わぬ顔でポケットに手紙を入れ、ティーポットを持ち上げる。
だが、ポットの口がティーカップの淵につく一瞬の隙をつき、マルグリットはさっとポケットから手紙を抜きとった。
完全に油断していたルビアはまんまとマルグリットに手紙を奪われたのに気付き、驚きに目を見開く。
「あ!お、お嬢様!?」
「そんな顔をしておいて、ただの手紙のわけがないでしょう?いいから見せなさいな。」
「お転婆はもうしないと…」
「これはお転婆じゃないわ。必要な行動よ。」
詭弁を言いながら、マルグリットは封を開け中の手紙を覗き見た。
何が書いてあるのか少しの期待を胸に、文字の羅列を目で追い―しばらくして、今度はマルグリットの瞳が大きく見開かれた。
「…ルビア、これ。」
「………。」
気まずげに目を逸らす侍女に、マルグリットは厳しい視線を送る。
―その手紙には、ルビアの母が病に倒れた旨が書かれていた。
「ルビア、「私は行きません。」
マルグリットが声をかけると同時に、ルビアは否定の言葉を口にした。
手紙の内容を知ったマルグリットが、次に何を言いだすのか容易に予想できた。
だから知らせたくなかったというのに、とルビアは唇を噛む。
「行かないって…そんな、どうして?貴女のお母様が危篤なのよ!?」
「母は昔から病気がちな人でした。恐らく今回も少し体調を崩しただけですよ。」
「それでも、行くべきよ。こうやって手紙が送られているってことは、今のお母様には貴女が必要だってこと。そうでしょう?」
「っですが!お嬢様を一人残していくわけには参りません!」
ルビアは声を荒げた。
普段、冷静沈着な彼女には珍しい乱れようであったが、そうせずにはいられなかった。
故郷の母の容体は確かに気になるが、今の状態のマルグリットを放って後宮を出るなんてできない。
よくも悪くも『不安定』な今の彼女から目を離すなど。
万が一自分がいない間にマルグリットに何かあればどうするのだ、とルビアは強く思った。
だがマルグリットはそんな彼女の手を取り、にっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫よ。」
「お嬢様…」
「それにルビア、ウェリントン家に来てからろくにご実家に帰っていないでしょう?いい機会だからゆっくりしていらっしゃい。」
「しかし…!」
「ルビア、聞いて。」
マルグリットの厳しい口調に、ルビアはぐっと言葉を飲み込む。
緑の瞳が静かに侍女を見つめ、諫める。そしてしばらくして、マルグリットはまた口を開いた。
「…もしお母様が重い病にかかって苦しんでいらしたらどうするの?最悪の事態にでもなっていたら?貴女、今行かなかったらきっと、後悔するわ。」
「………。」
「私の方は心配しなくてもいいわ。留守の間は大人しく部屋に籠っているから。」
「で、でも身の回りのお世話は…」
「…なら、後宮付きの侍女を数人、この部屋に回してもらうわ。それならいいでしょう?」
―だから、お行きなさい。
マルグリットが強くそう言うと、ルビアは黙って俯いた。
そして、
「――はい、では行って参ります。」
かすれた涙声でそう返した。
―数日後、マルグリット・セシーリア・ウェリントン侯爵令嬢の傍仕えの侍女が、彼女の故郷に向けて出立した。




