別人の下女
今年も大盛況であった星蘭祭から一夜明け、城内は通常の風景に戻った。
朝早くから清掃に勤しむ召使たち、あくびを噛み殺しながら定位置に着く兵士、書類の束を抱えて部屋を往復する文官たち。
昨夜羽目を外し過ぎて二日酔いで頭を抱えている者や、祭りの売れ残りの小物を安値で取引する者など、ちらほらとその余韻を垣間見ることもあるが、それ以外の人々は概ね普段通りの仕事についていた。
――否、全く『普段通り』でない男がここに一人。
「……陛下。いくら時計を見ても時間は経ちませんよ。」
「分かっている。」
「なら、目線をこちらに戻して下さい。この書類はなるべく早く財務に渡さなければいけませんし、こちらは…」
「ああ…」
「……。」
相槌を打ちつつも、掛け時計から目を離さない国王を見下し、ユインはため息をついた。
―今朝からずっと、ヴィルフリートはこんな調子である。
自身の執務室で政務に精を出していると思いきや、ふとした瞬間に時計を見上げどこか落胆した表情をする。またはぼうっと虚空を見つめ、落ち着かない様子で机を叩く。
いつもは淡々と仕事をこなす王とは似ても似つかぬ、誰がどう見ても心ここに有らずといった姿に、他の者も動揺を隠せない。
王に一体何かあったのか、と想像を膨らませ、不躾な噂がそこかしこで飛び交った。
―まあ、確かにこの人にしては非常に珍しい理由ではあるが、な。
しばらく無言で王を見つめていたユインは、ぼそりと呟いた。
「件の下女ならもう後宮に入ったそうですよ。」
「…そうか。」
途端に顔を緩めるヴィルフリート。
その表情も平静の彼とはかけ離れていて―例えるならば、そう、まるで恋する乙女のようだ。
…いや、23歳の男、しかも国で最も気高い存在であるはずの王が恥じらう乙女って。
自分で想像していて背筋がうすら寒くなったユインは、取り繕うように再度声をかけた。
「陛下。今夜、後宮に―彼女の部屋に渡るのでしょう?」
「当然だろう。」
「ならばそうそわそわしなくても。焦ってもあの下女は逃げませんよ。」
「ああ、その通りだ。…だが、」
「だが?」
急に歯切れが悪くなった王を不審そうに覗きこむ側近。
見ると彼はどうにも複雑そうな、渋い顔をしていた。
「…いや、なんでもない。」
しかし、ユインが口を開く前にヴィルフリートはそう言って話を終わらせ、机上に転がっていた羽ペンを握る。
それきり、ひとことも話さずに黙々と仕事をこなす主を、ユインは首をひねりながら見守っていた。
**********
夜も遅い時刻。
月明りが照らす中、ヴィルフリートは長い回廊を速足で歩いていた。
目指す先は勿論、数ヶ月ぶりに足を踏み入れる後宮。
注意力散漫だったせいか思ったよりも仕事を片付けるのに手間取り、こんな時間になってしまった、と彼は内心で舌を打った。
―下女エイミィは本日の昼に予定通り後宮入りをした、との報告を受けた。
そして今も王―ヴィルフリートの訪れを待っていることだろう。
ユインの言う通り、最早彼女に逃げ場はなく、会うことを阻む者もいない。
だが何の心配もない、もう彼女は自分のものだ、と言い聞かせるも、何故かヴィルフリートは逸る心を止められなかった。
――嫌な予感がする。
ヴィルフリートは顔を険しくした。
エイミィが最後に見せた、あの台詞…そして寂しそうな表情が何か引っかかる。
自分のこの目で、彼女を確認するまで安心できない。
後に続く護衛たちが息せき切らしているのに関わらず、ヴィルフリートはさらに足を前に突き出した。
「…まあ、これはこれは。お久しぶりですね、陛下。」
ヴィルフリートが後宮の入り口をくぐると、中から老婆が顔を出した。
すっと王の手前で綺麗な礼をとった彼女は、後宮全域を取り仕切る女官長である。
すでに齢六十を超える老齢ではあるものの、しゃんと伸びた背筋とにこやかに笑うその表情に当代の絶世の美女であったと言われる面影が少し見られる。
ヴィルフリートは彼女と対峙するや否や、少し気まずげに顔を逸らした。
―何と言ってもこれまで徹底的に後宮を避けていた故、彼がここに来るのは数ヶ月ぶりだ。
女性のその瞳が今まで何故来なかったのか、令嬢たちのご機嫌をとるのがどれだけ大変だったかお分かりで?と言外に語っているようで、どうにも直視できなかった。
『ようこそお越し下さいました』との常套句がやけに嫌味たらしく聞こえたのは気のせいではないだろう…。
ヴィルフリートはごほん、と咳払いをひとつすると、女官長に尋ねた。
「…エイミィの部屋は。」
「ああ、本日入った下女の…失礼、エイミィ様のお部屋ですね。」
「そうだ。」
こちらは一刻を争っているというのに、とやたら勿体ぶった口調で話す老婆に少しイライラしながら先を促すヴィルフリート。そして、
「この廊下をずっと渡った先の、東向きのお部屋でございます。今、ご案内を…」
「結構だ。自分で向かう。」
場所を聞き出すと護衛に見送りは不要、と告げ、すぐに身を翻した。
その背を眺めながら老婆は不可解とばかりに眉をひそめる。
「陛下…。あのような小娘のどこが良いのかしらね。」
それは数多の偽りを口にして周囲を転がしてきた女官長には珍しく、本心から出た言葉であった。
数分後、急くように大股で回廊を抜けた先に、ようやくエイミィの部屋を見つけたヴィルフリート。扉の前に立ち、数回ノックをして本人の在室を確認した後、ためらいなくドアノブに手をかけた。
―白を基調としたその部屋に入った途端、整えられたばかりの家具のにおいと生花の香りが彼の鼻腔をくすぐった。
そして、次に目に入ったのは中央に置かれたテーブルに手を置き、椅子に座っている一人の少女。
ヴィルフリートは一歩踏み出しどこか祈るような気持ちで少女に問いかけた。
「――陛下。」
すると、それに答えるように少女は振り返り微笑んだ。
普段の質素な下女の制服とは似ても似つかぬ豪奢なドレスに袖を通し、髪を複雑な形に結っているものの、確かに彼の記憶の中の下女のエイミィに相違なかった。
王はその顔を見て、安堵の息をついた。
「…エイミィ。」
「はい、陛下。」
言いながら、ヴィルフリートは少女に駆け寄り自身の腕の中におさめた。
エイミィも顔を赤らめながらも嬉しそうに笑う。
温かな体温を感じながら、自分は今まで何を心配していたのか、と嘲笑した。
――ほら、彼女はちゃんとこの腕の中にいる。嫌な予感などただの気のせいだ。
王はくすっと笑みを漏らし、赤毛を撫でた。
「こんな遅くになってすまなかったな。何か不自由はないか?」
「いえ、何ひとつありませんわ。もう本当に夢のようで…」
「言ったであろう、私は本気だと。」
「ふふ、そうですね。」
そんなたわいもない会話をしながら、二人は顔を突き合わせ笑いあった。
―元より、後宮に入ったばかりのエイミィを今夜どうこうするつもりはない。
ヴィルフリートは部屋付きの侍女に茶を淹れさせ、彼女との会話を楽しむことにした。
エイミィは、初めこそ慣れない服装や部屋の空気に戸惑っていたのか、返答も当たり障りのない無難なものしか返さなかったが、次第に普段通りの饒舌ぶりを発揮しはじめた。
……『普段通り』?
だがそう心の内で自問した時、ヴィルフリートはふと違和感を覚えた。
この、目の前で笑っているエイミィは普段のエイミィとは何か違う、と。
まず初めに感じた違和感は彼女の態度だ。
後宮に入ったことで心境の変化があったのか、はたまたヴィルフリートに対する愛情が芽生えたのか分からないが、エイミィは彼に必要以上にくっつきたがった。
今も話しながらヴィルフリートの腕にしなだれかかっている。
愛しい女がこうして触れてくるのは嬉しい。…嬉しいはずだ。
だが、彼の記憶の中のエイミィがこういった行動をするとは到底思えなかった。
また、彼女の発言にも引っかかる点がある。
声色や口調は間違いなくヴィルフリートの知るエイミィのものであったが、所々見られる他人を見下し優越感に酔っているような物言いは、どうにも彼の癇に障った。
まるで――そう。
今までのエイミィとは別人のような……
そこでヴィルフリートはハッとした。
そして、なんてことを考えているんだ、と頭を振った。
しかし一度気付いた疑惑はすぐに晴れるものでなく、ざわざわと、嫌な胸騒ぎは大きくなるばかりだった。
「…陛下?いかがなさいました?」
「!…い、いや…」
と、エイミィがこちらを覗きこんでいるのに気付き、慌てて居住まいを正すヴィルフリート。
その様子が可笑しかったのか、エイミィはくすりと笑った。
その表情を見て、この娘はやはり自分の知る下女に間違いないだろう、と思った。
どこからどう見てもこの『エイミィ』は、自分が会ったいつも仕事に一生懸命な『下女エイミィ』に違いなかったし、これほど彼女に似ている人物などいるはずがない。
ヴィルフリートはふう、と息を吐きだした。
「…すまない。少し、政務の疲れが出ているようだ。」
「まあ、それはいけませんわ!早くお休みになってください。」
「ああ、そうだな。」
慌てて立ち上がり侍女に指示を出すエイミィを見守るヴィルフリート。
すると、ふいに彼女のほっそりとした指先が目に入った。
昨夜も握った、白くて、細い手。
ヴィルフリートは反射的にその手を取り―
――触った瞬間、どくりと心臓が音を立てた。
滑らかでつややかなそれは傷一つなく、丁寧に手入れされていた。
「え?陛下?ど、どうされたのですか?」
「……この手は、どうした?」
「えっ?手、ですか?…ああ、傷はお医者様に言って治療してもらったのです。洗濯でボロボロになったみっともない手など、陛下にはとても見せられませんから。」
――違う!
それを聞いた途端、ヴィルフリートはカッと目を見開いた。
そして無意識の内に掴んだ手を払っていた。
「きゃっ!?」
強い力で突き飛ばされ、バランスを崩し床に倒れるエイミィ。
信じられない、といった風な面持ちで王を見上げた。
「へ、陛下!?」
「――お前は、」
蒼い瞳を細め冷たい視線を向ける。
――違う、こいつは。
「お前は、私の知るエイミィではない。」
王はそう吐き捨てると身を翻し、そのまま乱暴に扉を開けて部屋を後にした。




