下女になる条件!
「え?今何と……」
急な発言に、侍女はあっけにとられたように目をぱちぱちと瞬かせる。
危うく手を滑らせてトレイを落とす所だった、と慌てて銀のお盆を持ち直した。
「だから、私、今日から下女になるのよ。日中、部屋を空けるからよろしくねルビア!」
「ちょ、ちょっと待って下さい、お嬢様っ!」
「何よ。」
今にも部屋を飛び出しそうな主を、侍女は慌てて引きとめる。
マルグリットは黒髪を揺らしてルビアを振り返った。
「何故、そんな急に……しかも下女になりたいなど…」
マルグリットの毎度の奇行には驚かされてばかりだが、今回の申し出が最も意味不明である。
今度は何を言い出すのだこの人は、とルビアはしどろもどろになりながらもマルグリットに発言の意図を問うた。
「あら、その通りの意味よ。私にはこんな退屈な生活、まっぴらゴメンだわ。だから空いた時間にたんけ……いえ、働きたいのよ。」
「『探険』、ですか…」
マルグリットは舌を出して、あら、分かった?とばかりにおどけた表情を作る。
その造作もまた、『貴族の淑女』とは言い難く――ルビアは深いため息を吐いた。
―また、お嬢様の悪い癖だわ。
昔から、マルグリットは興味があることにはとことん突き進むタイプだった。
しかもその『興味』はおよそ貴族の令嬢の趣味とはかけ離れたことばかりに向けられるのだ。
例えば、街娘に扮して商店街を歩きまわり、物価の高騰だの流行りの商品だのの調査に赴いたり、庭に生えている珍しい野草を見つけては図鑑を引っ張り出して種類や効能を調べ、挙句独学で薬を作ったり。
一度毒草を誤って口にし、高熱を出して死の間際まで行かれた時には卒倒するかと思った。
―いえ、旦那様は本当に失神したのだっけ。
その後けろっと回復したのはいいが、あれは非常に心臓に悪い出来事だった。
ルビアは遠い目をしながらマルグリットの幼き日のことを思い返す。
―しかし、それが許されるのも幼少期まで。
今のマルグリットは後宮入りも果たした、立派な貴族なのだ。
そんな自分勝手で子供じみた我儘が通るわけがない。
ルビアは深呼吸をして心を落ち着かせ、再びマルグリットに向き合った。
「お嬢様、いけません。」
「何、反対なの。ルビアは?」
「当然です。部屋に籠っているのが退屈なのは分かりますが、どうしてお嬢様がよりにもよって下女になんて。」
「いいじゃないの。
…まあ、下女が側室になりすますのは問題だけどね、私みたいな数合わせの、他のお姫様がたの競争相手にすらならない、ただいるだけの女が暇つぶしに下女になるなら問題ないでしょ?」
「いえ、あの…そうじゃなくて……。」
――お嬢様、ご自身の立場認識がヒドすぎます。
これを聞いたら旦那様が号泣するな、とルビアは内心で嘆息した。そして少し考えまた口を開く。
「そもそも…知っていますか、下女はいわゆる下働き。平民の娘がなる職業なんですよ?」
「知ってるわ、そんなこと。」
―下女とは、
女性の召使一般のことを指すが、後宮つきの侍女や女官と違い召使としての地位は最下位であり、様々な雑務をまかされる。
王宮内あらゆる場所の掃除、整頓、シーツやタオルなどの洗濯を基本とし、人々の食事の準備、庭の草むしり、厩舎の馬のえさやりなど仕事の範囲は幅広い。
また、城下に出て貴族のお使いをこなしたりするのも下女という立場の者たちである。
そんな過酷な労働を要求される下女として王城で働く者たちは、平民出で身分が低いのが一般的。
よって下賤な者の集まりとして貴族から嘲笑されることもしばしばある。
―つまり、下女となって働く、とは心身ともに相当なリスクを背負うのだ。
そうでなくても、何故わざわざ何不自由ない側室から下女になりたいなどと言うのか、ルビアには理解不能だった。
「ええそうね。大変な仕事でしょうね、冬場も水に手を浸しながら洗い物をしたり、汗だくになりながら隅々を磨きあげたり……」
「そうですよ、彼女らの仕事は非常に大変です。甘く見てはいけません。」
「でも、一番王城内を動きまわれるは彼女たちよ。そうでしょ?」
「……それは、そうでしょうが…」
「だから私は下女になりたいの。大丈夫、もちろん仕事だってちゃんとこなすわ。興味はあるし、根気もある!それに私、手先は結構器用なんだから。」
マルグリットは自信満々にそう言い、胸を張る。
ルビアは彼女のやる気に満ち溢れた緑の瞳を見、ふうと息をつくと冷静な口調で語りだした。
「…問題はそれだけではありません。」
「え?」
「お嬢様、この王城の至る所に配置されている下女は千人にものぼると言われておりますが、誰ひとりとして仕事からあぶれることはありません。何故か分かりますか。」
「…どういうこと?」
「下女たちには毎日一人一人に仕事が割り振られるのです。割り振りは管理者によって厳格に決められていて、平等に仕事を与えられます。しかし、そこに下女が一人増えると割り振りが狂ってしまう。
つまり、仮にお嬢様が下女になりすまして働くとなると、その代わりの下女が一人、仕事を奪われてしまうということになるんですよ。」
「………。」
「しかも『王城の下女』は、一般庶民にとっては給金のよい大きな仕事。こっそりと他の者が紛れ込まないようにチェックされているはずですよ。お嬢様が下女に扮したところで、すぐに見つかってしまうかと。」
「………。」
「それに、お嬢様が日中留守にしておられる間、誰かが部屋を訪ねてきたらどうなさるんです?私もなかなかお引き留めはできませんよ。」
「………。」
次々と積み重ねられるルビアの正論に言い返せず、マルグリットは黙った。
―自分が入れば、他の下女の仕事をとってしまう。
―下女の制服を着たからといって、簡単には中に紛れ込めない。
―部屋を留守にする間、来訪者にばれないように何かする必要がある。
以上のことを考慮して『下女になる』ことをクリアしなければならないのだ。
マルグリットはそのまま顎を抑え、考え込む。
「そうね…私、あまりにも考えなしだったわね……」
「でしょう?」
「やっぱり無理か…」
「ああ、やっと分かってくださいましたか。」
ひとりごとのようにそう言った彼女を見て、侍女はほっと胸をなでおろし主を無事に説得できたことを喜ばしく思った。
毎回お嬢様の暴走を止めるのは自分の役目だったのだ。
今回は大事になる前に気を変えてくれてよかった、とルビアは心のうちで呟いた。
「これに懲りたら、もうそんな馬鹿げたことをおっしゃらないでくださいね。」
「…分かったわ。」
「…さ、お嬢様。本日は何をなさいます?刺繍?それともハープでも演奏なさいますか?」
「ううん、いいわ。ルビアも下がって休んでちょうだい。」
「そうですか、それでは。」
侍女はすっかり安心した様子で茶器をトレイに乗せ、一礼して部屋を去る。
機嫌良く退室したルビアは軽やかな足取りで隣の自室に入っていった。
「………。」
―バタンと真っ白な扉が外から閉められた直後、マルグリットは突然引き出しから羊皮紙と羽ペン、インクつぼを取りだす。
そして机の上に所せましとそれらを並べると、一心不乱に文字を書き連ねていった。
「…そう、盲点だった…あと、王宮に関する知識と地理…それと……」
ブツブツと呟き、羊皮紙に線をなぞっていく。
見る間に文字で真黒になり書くスペースがなくなったところでその羊皮紙を放り、マルグリットは新たに紙を用意してまたペンを走らせる。
そうして床に何枚もの真黒な羊皮紙が積み上がったところで彼女はペンを置き、ぽつりと呟いた。
「…色々と準備がいるわ。やっぱり無理か………まだ。」
……要するに。
彼女は全く懲りていなかったのだった。