月夜(前)
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その日、国民は皆浮足立っていた。
街中に飾り付けられた星に月、藍色の美しい衣。
広場には様々な料理を売る露店が立ち並び、傍らには語り部より話される星座の物語を聞く子どもたちがいる。
薄い膜のランタンに火を灯し、わいわいと歌い踊る若者たちや静かに月を眺めながら酒を飲み交わす者たちの姿も見られる。
――本日は、リートルードの伝統的な祭り、『星蘭祭』である。
この国に古より伝わる星月の神に敬意を示し、国をあげてそれを祀る一年に一度の行事。
零れ落ちそうなほど星がちりばめられた夏の夜空を見上げ、聖なる星月を眺めるというのがこの祭りの主な趣旨で、時々流れる流れ星に願いをこめると叶うと言われている。
本日に限っては、国民すべてに休暇が与えられ、皆『星蘭祭』に参加するよう促される。
―もちろん、王城で働く下女も、例外なくそのひとりであった。
「……ふう。」
ため息とともに、マルグリットは赤毛をかきあげた。
現在、彼女がいるのは城内にある小さな池の傍である。
下女として働いていた時期に偶然発見した場所で、静かであまり人が来ない故、ひとりになるにはとてもよい所だとマルグリットは度々訪れていた。
周囲に人気はなく、ひっそりとしている。
耳をすませてみてもかすかに鳴く虫の音しか聞こえない。
おそらく、皆城下町に降りて祭りを楽しんでいるのだろう。
本物のエイミィも、今城下町に降りている。
親に後宮入りを報告するついでに祭りに参加すると言っていたから――
マルグリットは、ふと池の近くに芝生の上に座り込んだ。
エプロンに藍色のスカート。数ヶ月のうちに慣れ親しんだ制服が視界の端に揺れる。
―この制服とも、今夜でお別れね。
マルグリットはどこか寂しそうに微笑んだ。
―ついにエイミィの後宮入りを止めることはできなかった。
本人が強く希望し、マルグリットの方も効果的な説得方法を見出すことができなかったからだ。
何を言っても『妬みは見苦しい』だの『今更寵愛が惜しくなったのか』などと詰られ、全く話を聞いてくれなかった。
もし、陛下に『エイミィ』の正体が知られたら、どのようになるか分からないのと言うのに――
そんな、最悪の事態のことを考えると、とても胸が痛い。
エイミィはマルグリットの計画に協力してくれた下女だ。
危害を加えたくないし、守ってあげたいと思う。彼女ではなく全てはマルグリットが悪いのだから。
そのために、もういっそ、『なりかわり』を明かしてしまえばいい、と思いもした。
バレる前に自白してしまった方が罪はいくらか軽くなるし、ただ下女の仕事をしてみたかっただけだ、と主張できる。
『なりかわり』の協力者、下女のエイミィについても何度も懇願すれば見逃してもらえるかもしれない。
だが問題は現在の状況だ。
毒殺未遂の件で怪しい行動をとったマルグリットは、最悪、疑いをかけられ処刑されるかもしれない。
そうしたら実家の家族はどう思うだろうか?
また、その後ウェリントン家は次々と他の貴族からの非難を受けるだろう。
愚かなことをした娘をもつ侯爵一家、と風評被害を受けるのは目に見えていた。
―どの道を選んでも、自分以外の人を傷つけることになる。八方塞がりの状態。
そんな中、マルグリットは結局何もできなかった。
自分の行動はいつも何らかの事件を引き起こす。
そう考えると怖くなり一歩も動けなくなってしまうのだ。
ただ、静かにエイミィが『なりかわり』中のマルグリットだと気付かれないことを願うばかりだった。
――私も、もう何もしない。もう大人しくしているから。
マルグリットは祈るように、両手を合わせた。
「……。」
静かに目を開いたマルグリットは、何気なく合わせた自分の両の掌を見た。
毎日冷たい水に手を浸して洗濯していたからか、その手はひどく傷つき、赤くなっている。
指先には皺が寄り、所々に皸も見られる。
どこをどう見ても『何不自由ない貴族の令嬢』とは思えないほど醜い手。
なりかわりが終わるのなら、しばらくは手袋をつけて隠しておかなければな、とマルグリットは苦笑した。
―下女の仕事は確かに辛かった。
洗濯や掃除、食事の支度の手伝いに、花の水やり。
どれも今まで生きてきた中で経験したことのない『仕事』ばかりで、最初は大いに戸惑い失敗もしてしまった。
女官長に酷く叱られたり、同僚から嫌味を言われた時もあった。
その度に、何故こんな失敗をしてしまうんだと自分を責め、涙を堪えた。
次回はもう少し上手くやれるはず、と何回も試行錯誤を繰り返した。
そのうちに仕事のコツも掴め、段々王宮内の移動範囲が広がり、まかされる仕事も増えた。
自分の仕事が認められて、マルグリットは嬉しかった。
初めて給金を受け取った時など、使わないで一生大事にしまっておこうかと考えたほどだ。
――貴族のお嬢様の気まぐれに、付き合ってあげたんですよ。
エイミィは冷たい目でそう言った。
その時はショックだったが、よくよく考えれば確かにその通りだとマルグリットは思った。
自分は貴族で、幼い頃から優しい家族に囲まれ、大事に育てられてきた。
飢えや失業に喘ぐ、なんてこともない。
彼女から見れば、今回の『なりかわり』はまさしく我侭なお嬢様の道楽だろう。
あまつさえ、下女になったのは陛下に会って誘惑するためだったのだろう、と誤解までされてしまった。
―だが、誰が何と言おうと、マルグリットは下女となり働けたことをとても喜ばしく思っていた。
王宮内を自由に歩き回り色々なものを見るのも楽しかったが、それ以上に『労働』が人に何をもたらすのかを知ることができた。
労働は人間が人間であるための証だ。
働くことでお金を得て、暮らしを豊かにする。
人類の長い営みの中で数少ない、変わることのない価値観。
だが、逆に言えば、それをしないことには人は『生きていない』。
それは人間ではなくただの飾り人形も同じだ。だから――
大人しく飾られている人形ではなく人間として誰かに必要とされ働く。
短い間とはいえ、それを体験できたのは僥倖であったと。
マルグリットは自分の知らない新たな世界の中で、はじめて自分という存在を見出せた気さえしていた。
―どうせ、誰にも理解されないだろうけど。
ゆらゆらと水面に映る自身の姿を眺めるマルグリット。
ばしゃりと赤い手を浸してその像を歪めた。
―いいのだ。
誰かに理解されようなんて思っていないし、きっとこんなことを考える自分は『間違っていた』。
多くの人に迷惑をかけ、事件を引き起こしてしまったのは、すべて自分のことしか考えていなかった自分のせい。
決められた道に背いて自由を求めてしまった、罰だ。
身勝手で、我儘で、危険なことばかりするお転婆な貴族の令嬢。
この『なりかわり』は――そんな『子供』だったマルグリットの最後の悪あがきだったのだろう。
大人になどなりたくないと、駄々をこねていたようなものだと、今なら、そう思える。
だが、そんな『子供』とはもうお別れだ。
これからは、『分別のある貴族の大人』として生きていかねばなるまい。
マルグリットは空に浮かぶ月を見上げ、ふっと笑みをもらした。
「…綺麗な月。こんな夜はハープを弾きたくなるのよね。」
そう呟いた令嬢はいそいそと竪琴を用意した。
せっかくエイミィが承諾してくれた最後の『なりかわり』だ。
難しい問題は置いといて、外の世界を思い切り楽しんでおかないと。
マルグリットはすうっと深呼吸をすると、指先を動かし、旋律を奏で始めた。
回廊を歩くヴィルフリートはすこぶる不機嫌だった。
『星蘭祭』に参加するのは国王として毎年の義務だが、あまり派手な行事が好きではない彼はいつも乗り気ではない。また、今年は殊更に酷かった。
祭りの席に着くや否や、次の側室候補だ、酌をする女だ、などと言って女性をあてがわれたのだ。
胸を押し付けてくる者や饒舌に知識を披露する者、さらには他の女と言い争いを始める者と、皆猛獣のように自身の寵愛を求めているのが感じられた。
体調が悪い、と理由をこじつけ早々に宴を抜け出してきたのはそのせいだ。
一人で夜空を見上げ月を愛でている方がよほど祭りの趣旨に合っているのではないか、とヴィルフリートは自嘲した。
「……ん?」
ふいに王はぴたりと足を止めた。前方の茂みの奥から音色が聞こえたのだ。
奏でられる美しい旋律にしばし聞き惚れるヴィルフリート。
…これはハープか?城内に見張りの兵以外にまだ残っている者がいたとは。
誰が演奏しているのだろう、と興味の惹かれた彼は音のする方へと歩き出した。




