訪問者
『御来客』は側室たちが外の人間と面会をするために設置された、面会室なる所で待っている――
そう伝令役の少女から告げられたマルグリットは、長い回廊を歩きながら首をひねっていた。
マルグリットは後宮に来てから、ルビアとエイミィ以外の人物と交流を持ったことがない。
日々『なりかわり』で下女として仕事に励んでいたものだから、本来の自分の交友関係を広げる努力は全くと言っていいほどしてこなかった。
近くに住む知り合いや友人もいないはずだが、来客とは一体誰なのだろう?
そう疑問に思いながら、通された部屋に入ろうとドアノブに手をかけた瞬間。
マルグリットはハッとし、手を止めた。
――もしかして、『マルグリット』である時の『エイミィ』のお友達だったりして。
「…マルグリット様?どうされました?」
「……あ、い、いえ!別になんでもありませんわ!」
扉の前でいきなり挙動を止めた令嬢に、案内役の侍女が訝しげな顔を作る。
マルグリットは慌ててそう答えたが、内心、冷や汗をだらだらとかいていた。
そうだ、何故この可能性を思いつかなかったのだろう。
ルビアはエイミィが他の側室たちといいお友達だ、と言っていたじゃないか。
ということは……
令嬢はだんだんと青ざめていく。
―ヤバい。相手は『私』と仲良しなのかもしれないけど、私にはその人の名前すら分からない!
『私』との関係は?側室の一人なの?爵位は?よく話す話題は?
あと、声!外見はそっくりでも、仲の良い相手なら声で見破られるかもしれない!
エイミィはどんな声だったかしら?高めだった?それとも低かった?…駄目だ。エイミィがどのような声をしていたのか思い出せない…!
ああ、なんてこと!せっかくルビアから逃げ出せたのに、ここにさらなる障害が!
思わぬ『なりかわり』存続の危機に、マルグリットは完全なるパニックに陥っていた。
そうして立ち尽くしたまま一向に部屋に入ろうとしない彼女を見て、侍女たちは『大丈夫かしら、この人…』と心配し始める。
「さあ、マルグリット様。どうぞ中へ」
「……。」
ひきつった笑みの侍女たちからそう急かされ、いよいよ逃げ場がなくなってきた侯爵令嬢。
―が、
一瞬の後、意を決したように侍女たちの方を振り返った。
「…ごめんなさい。えーと、そう!ここに来て急に体調が悪くなったみたいだわ!部屋に戻らせていただきます!」
「え?…あ、マルグリット様!?」
結局、マルグリットが選択した道は『敵前逃亡』という何ともカッコのつかないものだった。
呆気に取られる召使たちには目もくれず、マルグリットは回廊を駆け戻る。
体調悪い癖に足、速っ!とか叫ぶ声が後ろで聞こえるが、今のマルグリットに気にしている余裕は無い。
ただただ自分の部屋に戻ろうと邪魔なスカートをたくし上げ、ヒールを鳴らしながら走り――
「―やれやれ。相変わらずお転婆だね、マリーは。」
―と、後ろから飛んできた声に、マルグリットはぴたりと足を止めた。
『マリー』。
この愛称で彼女を呼ぶ人物は、一人しか知らない。
マルグリットはゆっくりと振り返った。
「…お、お兄様?」
「久しぶり。元気だったかい?」
いつの間にか扉の前に立っていた訪問者――ウェリントン次期侯爵は、そう言ってにっこりと笑った。
フロリアン・ヨーゼフ・ウェリントン。
ウェリントン家長男にして次期後継者、そしてマルグリットの兄である彼は、優雅に用意された紅茶を一口飲んだ。
テーブルをはさんで向かいに座るマルグリットも、カップを傾ける。
…ただし、紅茶は当分飲む気がしない彼女のカップに入っているのは、柑橘類をしぼって作られた果実水だった。
「…それで、何の用なの。お兄様。」
マルグリットは一息ついて、目の前にいる兄に尋ねた。
『なりかわり』とは関係のなさそうな訪問者にほっと安心したものの、
今度は領地から遠く離れた王宮に、兄がはるばるやって来た目的は何なのか、と別の疑問が頭に浮かぶ。
彼は24歳という若さながら、すでに領主としての仕事をいくらか任されている多忙の身である。
後宮の面会室で油を売っている暇はあるのだろうか、とマルグリットは訝しんだ。
「はは、可愛い妹に会うのに理由がいるのかい?」
「はぐらかさないで。お仕事、忙しいんでしょう?王宮に来る暇なんて…」
「大丈夫、父上に任せてきているから。…むしろ、早く行って様子を見てこいって、うるさくてね。」
フロリアンは苦笑した。
ウェリントン侯爵が末の娘に対してかなりの親ばかであるのは周知の事実である。
今まで実家から出したことのない箱入り娘が後宮で上手くやっているのか、夜も眠れぬほど心配しているのだ。
夫人も家の使用人たちも皆、彼の方が倒れやしないか、と戦々恐々である。
―いや、いくら心配だからって貴重な睡眠時間を削らなくても…
マルグリットは呆れかえった。
「大げさね…。手紙だって毎週送っているじゃないの。」
「ああ、『今日はお日様の光を浴びながらお友達とお茶会をしました。』とかね。」
「…抜粋しなくていいわ。」
「あんな一行作文で父さんが満足するわけないだろう?というか逆に『手紙にも書けないほど辛いことがあるのか…!』とか言って嘆いてるよ。」
「じゃあ、私にどうしろって言うの…」
マルグリットがそう言うと、フロリアンは長い指を組んで彼女と視線を合わせた。
「僕に報告してくれたらいいよ。…どうだい、最近は?」
薄く微笑みながら言われた兄のその一言に、ぎくりとするマルグリット。
もしやこれは、本気で手紙の内容を怪しまれているのではないか。
――そう、きっとお父様がお兄様を視察にまわしたんだわ!
私のことだから、何か騒ぎを起こしてないかって(実際は予想的中だけど)!!
まずい、何とか『なりかわり』だけは隠し通さないと――!
「最近って言っても…本当に手紙に書いてある以上のことはないんだけど。」
「本当に?」
「ええ。後宮での生活なんて単調なものだから。」
心の乱れを出さないように努力しつつ、令嬢は平坦な声でそう答えた。
ここ数ヶ月、実際に『後宮での生活』をしているのはエイミィで、中々楽しんでいると言っていたが、
マルグリットにしてみれば側室としての生活など、単調でつまらないものに他ならない。
「たまに友達とお茶を飲んだり庭を散策するのは楽しいんだけど…基本的にずっと部屋に閉じこもりっぱなし。退屈ったら。」
「ふっ、マリーらしい意見だな。成る程、つまらない、か。」
「そうよ。」
マルグリットは『予想外れだ』と言わんばかりに、大げさ気にため息すらついて見せた。
元々器用なマルグリットは、意識さえしていれば表情を取り繕ったり、冷静なフリをするのは得意なのである。
「……ああ、そういえば。聞いた話なんだけど、昨日国王陛下の紅茶に毒が混入していたんだって?」
「―っ!!」
――が、それは意識していればの話。
突然、兄から世間話のようにふられた言葉に、マルグリットは思わず持っていたカップを落としてしまった。
柔らかなカーペットの上に落ちたためカップは割れなかったが、中身はそのままびしゃっとドレスにかかり、ぽたぽたと水滴を垂らす。
妹が愕然とした表情でドレスを濡らしているのを見て、フロリアンは慌ててハンカチーフを取り出す。
「…大丈夫?マリー」
「お兄様…何でそれを知ってるの?」
水が滴り落ちるのにも構わず、マルグリットはフロリアンに質問した。
フロリアンはいきなり顔色を変えた妹に疑問を抱きつつ、答える。
「知ってるも何も、今王宮内はこの噂で持ち切りだよ。…その反応を見ると、真実だったのかな?」
「…!え、ええ。そうね、おそらく。」
ハッと我に返り、『私も人から聞いたの』と言葉を続けたマルグリット。
――当事者です、なんて口が裂けても言えない。
さらに毒見をした本人だなんて、墓場まで持っていかなければならない秘密。
一瞬、本気でばれたかと思ったが、フロリアンはただ話の種に『噂話』を提供しただけだったようだ。
マルグリットは心中で大きく安堵の息を吐いた。
照れ笑いをしながら、フロリアンからもらったハンカチで濡れた箇所を拭く。
しかし、そんな噂になっているとは知らなかった。
ここに来て間もない兄が知っているのだ、『噂』は王宮中に知れ渡っているだろう。
…ひょっとすると、すでにエイミィに被害が及んでいるのかもしれない。
質問攻めにあったりしていなければいいが…。
マルグリットがエイミィの無事を案じていると、フロリアンは興味深いね、と笑った。
「へえ、マリーが聞いたのはどんな話だった?」
「え、ええと、…ごめんなさい、詳しいことは何も。その日は使用人たちも大騒ぎで…」
「なんだ、父上にいい土産話ができると思ったのに。
…じゃあ、これは知ってるかい?なんでも陛下が紅茶を口にする前に、とっても勇敢な下女が毒見をした、とかいう話だけど。」
「――っ!」
もうやめて、とマルグリットは耳を塞ぎたくなった。
王宮内で出回る噂話と言えば普通、どこそこの男爵の浮気疑惑とか、とある騎士の失敗談とか、王宮内に伝わる秘密のジンクスとか。根も葉もない、ふわふわとした話題ばかり。
――それが何故、この時だけそんな詳細なウワサが出回ってるのよ!?
―と、またしてもマルグリットが微妙な表情を作っているのに気付き、フロリアンは彼女の顔を覗きこんだ。
「…何だ、もしかしてその下女と知り合いなのかい?」
「い…いいえ。それは知らなかったから驚いただけ。すごい下女もいたものね…。」
「本当だね。…でも僕はすごく危ない真似だと思うよ。」
「…そうね。」
「しかも国王陛下の目の前でカップを投げ出すなんて、いくら緊急時とはいえ許されない行いだ。」
「……そ、そうね。」
「さらに下女は、その後すぐに逃げ帰ったそうじゃないか?怪しすぎる。僕はその下女こそ犯人と関わりがあるんじゃないかと思うな。」
「………。」
「ねえ、マリー。そう思わないか?」
「……ハイ。」
――うう、やめて!もう私にその目を向けないで!悪かった、私が悪かったから!!
真実を知らないとは言え、実の兄にそこまでコテンパンにけなされると傷つく。
マルグリットの精神は彼の無自覚攻撃によりボロボロだった。
一方、フロリアンの方はどうも先程から妹の様子がおかしいと思い、どこか悪いところでもあるんじゃないか、と心配そうに尋ねた。
「…マルグリット、本当に大丈夫かい?さっきから顔色が悪いけど…。やはりここは着替えに戻った方がいいな。濡れたままだと風邪をひくかもしれない。」
「そ、そうね。うん、部屋に戻った方がいいわ!」
とりあえずこの居たたまれない空気を変えたいマルグリットは兄からの提案に飛びついた。フロリアンもにこりと笑い、
「じゃあ部屋まで送るよ。僕もそろそろお暇するから。」
そう言ってソファから身を起こした。
「え?もう行かれるの?」
「ああ、元々王宮にちょっと用があってね。マリーには悪いけど、ここに来たのはそのついで。」
「ちょっと、それなら私の方を後回しにすればよかったじゃない!ほら、早く行って!」
「はは、手厳しいな。」
飄々と笑うフロリアンを押しながら、マルグリットは面会室の扉を開け廊下に出た。
侯爵令嬢の自室へと続く長い回廊を歩く間、フロリアンとマルグリットの間に、会話はほぼない。
マルグリットの方に話をする元気がなかったせいか、ひとことふたことで会話が途切れてしまう。
そうしている内に、マルグリット・ウェリントン侯爵令嬢の部屋にたどり着いた。
マルグリットがほっと息をついて扉を開けようとすると、フロリアンが彼女の耳元に口を寄せた。
「じゃあね、マルグリット。……お転婆もほどほどにね。」
そう囁いた兄はそのまま颯爽と廊下を歩き、姿を消した。
そして、呆然と扉の前に立ちすくむマルグリット(本日二度目)。
しばらくすると、内側から扉が開き侍女のルビアが顔を出した。
「あらお嬢様、どうなさったんです?こんな所で…。あ、そういえばフロリアン様がお見えになったと聞きましたが、どちらに?」
「もう退出なさったわ…。なんでも、用事があるらしくて。」
「あら、そうなのですか。せっかく美味しいお茶菓子をお持ちしたのに…って、お嬢様?大丈夫ですか!?」
「ルビア、ごめん…もう今日は休む……」
マルグリットはふらりと自身の体をルビアにもたれさせ、そう力なく呟いた。
『……お転婆はほどほどにね。』
――最後にそう言い残した兄は、きっと気付いている。
私がこの王宮で何か『お転婆』をしていると。そして、早く辞めないと父に『土産話』を報告すると――!
ただでさえ追いつめられた状況なのに、思わぬ伏兵の登場にどっと疲れたマルグリット。
宣言通り、自室に着くなり寝台に倒れ込み、そのまま深い眠りについたのだった。




