侯爵令嬢、王宮にあがる
ここは、リートルード王国。
すでに数千年の歴史を有する格式高い大国であり、領土も大陸の半分ほどを占める。
広い国土を持てば様々な問題も生まれるが、建国当時から守られてきた国王による王政で、国民は戦争やいさかいのない平和で豊かな暮らしを約束されていた。
数年前に国王が代替わりした現在もそれは変わらない。
見渡す限りの大地、順調な外交、潤沢な国庫。
リートルードは誰の目にも魅力的な国に見えたし、四季折々に様々な花が咲き乱れる美しい国と隣国からも評判である。
リートルードの民は、国を支える正しく賢い我らが国王を、心の底から敬愛していた。
だが、若き王にはまだ子供はおらず、正妃もいない。
よって平和な国民の関心はもっぱら国王の妃、そして世継ぎに向けられ、国中からもしくは国の外から、幾人もの美しい娘たちが後宮に呼ばれていた。
―その内の一人として、此度晴れて後宮に召し上げられることになったマルグリット・セシーリア・ウェリントン侯爵令嬢。
彼女の後宮入りが決定したと聞いた家族は、もろ手を挙げて喜んだ。
だが両親や兄妹、屋敷の者皆が待ち望んでいたその当日、彼女は物憂げな顔で身支度を整えていた。
「…つまるところ、私には後宮なんて向いてないと思うの。」
はあ、と息をつく令嬢は長い黒髪を侍女に梳かされているところだった。
きらきらと光る明るい緑の眼に憂鬱が浮かぶ。
「まあ、お嬢様。そんなことを言って。陛下のお膝元になるのは大変名誉なことじゃありませんか。」
「そうだけど……」
侍女のルビアになだめられて、口をとがらせるマルグリット。
そう、後宮に入ることは一貴族として一人の女として、とても誉れ高いことである。
側室の一人として後宮内でおつとめをし、余暇は優雅に過ごし…さらに見事国王の目に留まれば正妃になれるかもしれないのだ。
なんともオイシイ……もとい、乙女心をくすぐるシチュエーションに間違いないのだが。
「でも、窮屈そうじゃない。日がな一日部屋にこもっていたら退屈で死んじゃいそう。」
―が、彼女はそんなものに興味はなかった。
貴族でありながら商売や農業に興味を持ち、幼い頃は市井を駆け回っているのが好きだったマルグリット。
実を言うと、貴族にさえ生まれていなければ唯一の取り柄でもあるハープの腕を活かして旅の吟遊詩人になるか、酒場の女主人などになって荒くれどもの相手をしたいとまで思っていた。
―それが、齢16にして側室に、そして後宮という名の檻に閉じ込められることになるなんて――
なんとも気が重い。少女は再度ため息をついた。
「お嬢様、そんなめったなことは仰ってはいけません。旦那様がまた嘆かれます。」
「……そうね。」
丁寧に結いあげられた自身の黒髪を弄びながら、マルグリットは侍女の方を見た。
少し明るめの茶髪が印象的なルビアは、マルグリットがまだ幼い頃からずっと世話係として仕えてきた女性である。
マルグリットより少し年上のルビアは、冷静沈着に物事を見極め、時に気の置けない友人として、時に頼れるお姉さんとしてずっと支えてきてくれた。
父親から侍女を一人だけ連れて行ってよいと言われた時も、真っ先にあげたのは彼女の名前だった。
しかしマルグリットが信頼をおく彼女にも、マルグリットの性分はどうにも理解しがたいらしく、どんなに理想を語っても苦笑を返されるばかりだった。
―だから、余計に面白くない。
賛同者がいない理想論を語ったって、つまらないのだ。
「さあ、支度が出来ましたよ。」
「…分かったわ、行きましょうか。」
―とはいえ、今更両親が心待ちにしている後宮入りを拒否することなどできはしない。
マルグリットはいつもより着飾っている自身の腰を上げ、部屋を後にした。
「マルグリット……!ついに、この日がやってきたな!こんな喜ばしいことはないだろう!!」
―玄関から光のさしこむ門まで歩き、豪奢な馬車の前。
男泣きでマルグリットを抱きしめてきたのは、当代ウェリントン侯爵である彼女の父親だ。
普段は冷静な領主を演じているのだが、実際は家族を愛するどちらかというと情熱的な男だ。
マルグリットは傍に控える母親と兄と目を合わせ、互いに苦笑いを浮かべた。そして、
「ええそうですね、お父様。私もこの日を心待ちにしておりました。」
そんな心にもないことをさらりと言い放つ。
しかし感極まっているウェリントン侯爵は彼女の心のうちなど全く気付かず、さらに声を上げた。
「ああ、そうだろうとも!だが、心配だ。お前はまだ16になったばかりだというのに後宮入りなど……早すぎたのではないか?」
「大丈夫ですわ。マルグリットは王宮でも立派にやっていけますよ。」
「そうだよ、父上。少しは落ち着きなって。今生の別れでもあるまいし。」
侯爵夫人である母と、次期侯爵となる兄は父をなだめる。
流石に家族と言うべきか、彼らにとっては侯爵の扱いなどお手の物だ。
侯爵はようやく愛娘の身体を離し、豪快に鼻をすすった。
「わ、分かっておる…!しかし一度後宮に入れば、家族といえどなかなか面通りは敵わないのだぞ。別れを惜しむくらい……」
「あなたが別れをいつまでも惜しんでいたら、日が傾いてしまいますわ。…さ、マルグリット。この人はいいから早く馬車に乗りなさい。」
「!」
妻にスパッと断ち切られ、侯爵は打ちひしがれる。
彼の背後にはガーンと効果音がつけられるだろう―そんな表情をしていた。
言いつけ通りさっさと馬車に乗ったマルグリットは、中から相変わらずな父母の姿を見、ふと笑みをこぼす。
―流石、お母様。お見事ね。
―当然よ。伊達に何十年も付き添ってきたわけではないわ。
母娘は視線でそんな会話をすると、さらに目を合わせて笑った。
「さあ、マリー。時間だよ。」
普段の呼び名で呼ぶ兄の声が耳に届く。
マルグリットは自分と同じ黒髪を流した背の高い青年を見下した。
茶色の瞳と自身の緑の瞳が交差し、見つめ合う。温厚でいつも優しいこの兄とももう会えないのだと思うと、少しさびしく思った。
「はい、お兄様。それでは行って参りますね。」
「着いたら手紙を書いて送ってくれ。それと、辛くなったらいつでも帰ってきていいんだよ。」
「まあ、お兄様ったら。心配性ね。」
マルグリットはくすりと笑って彼女の兄を揶揄する。
まるで幼子に言い聞かせるような口調をいささか不満に思ったものの、いかにもその彼らしい気遣いはとても嬉しく、素直に分かりました、と答えた。
―そのうちに、静かに馬車は動きだす。
馬が蹄を鳴らして進み、がたんと音を立てて車輪が回り始めた。
「マルグリット、元気でね。」
にこりと笑顔を返す兄と母。それと、泣き笑いのような表情を浮かべる父。
たたずんで手を振っている家族がだんだんと遠くなっていくのを見て、マルグリットはどこか物憂げにため息をついた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。このルビアがついておりますから。」
「……うん。」
そんな彼女の様子を見て、王宮での生活を憂いているのだろうと解釈した侍女は、なだめるように優しい声をかける。
瞳をちらちらと揺らしながら外を見つめるマルグリットの両手をきゅっと握った。
「王宮はとても広く、美しい場所と聞きました。きっとすぐに住み慣れることでしょう。国王陛下もまだ若く聡明であると皆言っております。優しいお方にちがいありませんわ。」
向かいに座るルビアがそう諭すのを聞き、マルグリットもそうね、と答える。
が、彼女は侍女の思惑とは全く別のことを考えていた。
――王宮か…少しは面白いことがあればいいのだけれど。
後宮にあがるという緊張感は皆無、それどころか観光にでも赴くかのような心持ちであったことは、もちろん彼女自身の他は誰も知らなかった。
かくして、マルグリット・セシーリア・ウェリントン嬢を乗せた馬車は王城へと向かったのであった。
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「…やっぱり、退屈だわ。」
――後宮入りを果たして三日目の午後。
マルグリットはあまり上品とはいえない格好で椅子に腰かけて、うなだれるように呟いた。
椅子に施された精巧な鳥の模様をなぞりながら頬杖をつく。
初日に案内してもらったこの自室も初めこそ装飾や家財道具の豪華さに目を輝かせたものの、今ではそれも慣れてしまい何の感動もない。
―後宮での生活は、彼女の予想していた通り退屈なものだった。
ここにきてやったことといえば、日がな一日部屋にこもって手芸だの読書だのをしただけ。
そして、今も。
午後三時のティータイムの紅茶はもう飲み干してしまったし、持ってきた本は読みつくしてしまった。
さて、次は何をしよう、と考えても選択肢は限られている。
―要するに、彼女は暇であった。
そして、肝心の国王との関係はというと――まだ、ない。…というか、会ったこともない。
実は王の政務が忙しいとのことで、初日に顔を合わせられなかったのだ。
そして、それきり全く音沙汰がない。今日も今日とて自室にこもり暇つぶしを探すばかり。
しかし――それも当然だろう。
まだ若く美丈夫であるという噂の国王には、すでに十を超す側室たちが後宮に存在する。
いずれも、家臣や隣国の王が躍起になってあつめた美しい令嬢ばかりだ。
マルグリットもそのうちの一人なわけだが……はっきり言うと、人数合わせのようなもの。
王妃となるのに十分たる爵位こそあれ、容姿も体型もまるで平凡、器量も特に優れているわけでない彼女は、まさしく『普通』の令嬢。
むしろ華やかな後宮内では霞むくらいの薄い存在だ。
また、王の渡りを待って自分を磨いたり目をかけてもらおうと媚を売ったりするのが得意ではない彼女は、周囲にろくなアピールもしていないためさらに存在感をなくしていた。
―マルグリットは、自分が王に見初められることなど万にひとつもあり得ないだろうと確信していた。
もちろんマルグリットだって一人の女の子だ、巷で流行りの恋愛小説のような王子様との恋だって夢に描いたことはある。
だがそれはあくまでも物語の中の話であって、いざその立場に自分を置き換えてみると、いまいちピンとこない。子ども、と言われてしまえばそれまでだが、ああいうのは物語の中の人物が演じるからこそ意味があるのであって自分には遠い世界のことのように思っていた。
そして、実際に後宮入りした今でもそう。
やはり国王は遠いおとぎ話の存在に過ぎなかった。
「だから言ったのよね。向いてないって……」
ぶつぶつと愚痴のようにこぼすマルグリット。
『側室』として部屋に閉じこもって読書をしたり刺繍をしたり…また、茶会を開いて優雅な昼下がりを過ごすなどどうにも性に合わない。
――これなら実家の庭で珍しい野草を探したり、お兄様と一緒に遠乗りに出た方がよっぽど楽しいわ。
もっとも、それが叶うわけがないということくらい、彼女も重々承知だ。
だが、ここで退屈を殺せる方法が見当たらないのだからイライラしても当然だろう。
マルグリットはぶすくれたまま、硝子越しに外の景色を見た。
窓から見える王城は広く、たくさんの部屋があり様々な人が行き交っている。
後宮の隅に位置するマルグリットの部屋からはすべては見渡せないが、広い中庭とその向こうの城壁の様子をうかがうことはできた。
――城壁に沿うように配置されているのは警備の兵ね。先程から全然動かないけれど、どこを見ているのかしら。交代を今か今かと待ち望んでいるのかしら。
――今、中庭の横を通り過ぎたのは庭師の方よね。この城には十か所以上も庭園や薬草園があると聞いたけれど、私はまだどこも探索していないわ。後で案内してもらいたいわね。
王宮に来て、三日。―まだ三日。
とてつもない広さを誇る城内には知らないことが多く、それがまた――わくわくする。
好奇心旺盛で珍しいものが大好きなマルグリットはそれを見るとうずうずして興奮が抑えられなかった。
――そうだ、ここにもまだまだ面白そうなものはたくさんある。
例えば中央の広場に湧きあがる噴水の上に散らばる花弁の色とか、高くそびえる北の塔に住む住人のこととか、行商に来た異国の商人の売り物は何か、とか。
そう考えるともう、マルグリットは居ても立っても居られない。
王からの寵愛など最初から期待していない。
おそらく期日まで後宮で何事もなく過ごし、さっさと家に帰されることとなるだろう。
だが、それまでは―――
せっかく城に入ったのに、部屋に籠りきりでは面白くない。王宮内隅々まで歩きまわって、探険したいと思った。
しかし、『側室』という身分がそれを邪魔する。
ただ今のマルグリットは何の力も持たない後宮のにぎやかし担当だが、仮にも一国の王の側室。
後宮内はともかく城の内部をむやみに歩き回ることは禁じられているのだ。
どうにかして自由に歩けないものかしら、とマルグリットはあごに手を当てて考え、そして―――
「お嬢様、失礼します。本日のお茶はいかが――」
「…決めたわ、ルビア。」
「はい?」
「私、この王城の下女として働くわ!」
マルグリットは茶器を下げに来た自身の侍女にそう高らかに宣言した。