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「覚えてたよ。偶然じゃないのかもな。ネットで調べれば、オレが経営者ってことはすぐ分かるから」
「そっか」
あいつも涼介の話をしたかったのかもしれない。
「不自然なくらい、亮ちゃんの話は出なかった」
「そっか」
昔の傷を抉るのは、勇気がいるもんな。
「そんな大事な話なら、オレ、今呼んでくるよ」
「いいって。待つ」
「結婚決まっても、美咲さん、亮ちゃんの隣に住んでたもんな。ん? え? そんなんバレルじゃん。子供ってっ。美咲さんが亮ちゃんの隣から引っ越したのって、結婚する3か月も前っ」
「会ってたんだ。ずっと」
「そっか」
「結婚する前日まで」
「辛かったな、亮ちゃん」
不覚にも目頭が熱くなる。
一瞬、天国と地獄を同時に味った日々が走馬灯のように頭の中をよぎった。
最後に頭の中に残ったのは、真っ暗なみなとみらいでの夜。微かな月明かりに照らされたあいつの白い肌。
「レッスン終わったら、呼んできてやるから。この部屋使っていいから。ちゃんと話せよ」
「オレが行く。ケン、悪い。帰りは車で送れない」
美咲のハスキーな声は、声量もたっぷりで、生徒の中から浮き上がっていた。
「笑える。これで初心者って?」
オレは目に涙を溜めて笑った。
「わがままだろー? テーブルチャージ取ってた初心者なんて聞いたことねーよ」
ケンは、オレの方を見ないでいてくれた。
サンキュー。今の顔は、ちょっと見せられない。
「歳くっても、声ってそんな、かわんねーなー」
ハスキーボイスは時々甘くなる。油断してるときにしてやられるって感じで、心を持ってかれる。
「まったさ、ビブラートとかつかちゃて。講師泣かせ」
ケンが困ったと溜息をつく。
「相変わらずジャズは好きなんだな」
「ジャズはなー。1回かかると一生モンの病気だからなー」
「特効薬ねーの?」
「あってもいらねーだろ?」
「二階堂さん」
レッスン教室の出口で声をかけた。
殺したいなんて感情はどこへ行ったんだろう。ただ、抱きしめたい。
「あ。先日は留守にしておりました。失礼しました」
美咲は他人行儀にぺこりとお辞儀をした。
喉が震える。
「お時間ありますか?」
「はい」
美咲は、数メートル離れて待っていた他の生徒達の所まで駆け寄って、何か告げている。ランチのキャンセルだろう。
「きゃー、小笠原亮じゃない?」
「誰? それ」
「二階堂さん、上手だから、デビューの話だったりして」
「ないないない。いくつだと思ってんの」
「ちょっと、息子が先日お世話になったのー」
聞こえてるし。
お世話になったのは、むしろ酔い潰されたオレだし。
「お待たせしました」
本当に変わってない。
綺麗なまま。
「大事な話があるんだ」
これだけで、勘がいい美咲は察しがつくだろう。
「うん」
車の助手席に乗せた。
どこで話そうか。食事をするなら個室で話すような内容だ。
「メシまだだろ?」
「うん。まだ」
「どっかで買ってさ、車の中で食べるって、どう?」
「若い人みたい」
くすっと笑うと目が垂れる。
一瞬、胸に痛みが走る。
え?
忘れていた痛み。
ずっとなかった。美咲と離れてから。
ケン御用達のデリのテイクアウトの店で、サンドイッチやドリンクを買った。2人で買い物するだけで、妙に新鮮だ。
「へー、相変わらず照り焼き好きなんだ?」
「うん。そっちだって、オレンジジュース」
「健康的だろ?」
着いたところは、街の片隅のコインパーキング。
「ここでいい? 奥様が男と食事なんてマズいだろ?」
「そっちこそ、芸能人だもんね」
「芸能人に入んないって。俳優やアイドルじゃねーし」
がさごそとサンドイッチを取り出して2人で食べ始める。




