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婚約破棄されたので身を引いたら、 実はずっと想ってくれていた第一王子に溺愛されています

「それでは俺はこれからカミラとのデートがあるので失礼する」

「はい……え?」


 アリシア・ヴァリエ公爵令嬢は、目の前の王太子を見つめた。


(今、殿下の口から何かおかしな言葉が聞こえた気がするわ。日頃の王妃教育の疲れが溜まっているのかしら)


「失礼ですが殿下、今、なんと?」

「ん? 俺はこれからデートがあると言ったのだ」

 そうけろっと言われて、二回聞いても意味を理解するのに、少々の時間がかかった。


(どうやらわたくしは正常のようね。認めるしかない、殿下は今デートに行くとおっしゃった)


「わたくしはルシウス・レオリオン殿下の婚約者ですが? 我が国は一夫多妻制は認めておりません。つまり、殿下は今、婚約者の前で堂々と浮気を宣言したということですわよ?」

「うむ、カミラは美しい!」


(どうやらこの王子はついに下半身で物事を考えるようになったらしいですね。いつか来るとは思っていたけど、まさかこれほどとは思いませんでしたわ)


 王妃教育の賜物、表面的には笑顔を保ったまま、内心で深く息を吐いた。


(カミラ・リッテさん、噂を聞いて警戒はしておりましたけれど)


 アリシアの元へ、彼女から婚約者を奪われたと泣きついてくるご令嬢がどれほどいたことか。



「カミラは本当に可愛くて、守ってやりたくなるんだよ」

 嬉しそうな笑みを浮かべて、殿下は言葉を続ける。


(どうやらわたくしの知る方とはまるで別人のようですね……)


 ある時、とある侯爵家のご令嬢に階段から突き落とされた、と喚いているカミラさんに遭遇した。もちろんその傍らにはご令嬢の婚約者を連れて。


(公爵家であるわたくしが注意しないければ、お相手の貴族としての顔が潰されてしまいますもの。それに……わたくしはカミラさんが一人で階段から滑り落ちたところを見ていましたし……)


 ところが彼女はアリシアの注意にも反抗し、しまいには大声で泣き崩れてしまった。


(保健室に行くよう(すす)めると、突き飛ばされてしまいましたし)


 あの時、受け止めてもらわなければどうなっていたことか。


(彼女は華奢ですが、力はむしろ殿下を守れそうなくらい強かったですけれどね)



「それに彼女の表情は、ころころと変わって面白い。アリシア、お前とはまるで違う」

 やれやれ、と首を振る殿下。


(わたくしのこの笑みは全て殿下のために教えられたものなのですが)


 そもそもこの政略結婚は、ルシウスがアリシアに一目惚れして仕組まれたものだ。それを断るのはいくら公爵家とはいえども、気が引ける。


(それなのに殿下ときたら)


 自分の人生のほとんどを費やしてきたというのに、当の本人は全く気づいていない。そればかりか脂肪だけが取り柄のご令嬢の尻を追いかけるなんて、冗談にしても程がある。


(いえ、ともあれ自分の立場を考えずに、こんなことはいけませんよね)



「殿下、流石にそれはいただけません。せめてわたくしの耳に入らないようにしてくださいませ」


(というか逢引きでさえもう少し気を使うと思うのですが)


 アリシアの言葉に、殿下はみるみると不機嫌な顔になっていく。


「なんだと! それはカミラが気に入らないと嫉妬しているのか!?」


(あぁもう何を言っているんだこの人は)


「いえそういうわけでは」

「もういい!」

 ガタッと立ち上がり、殿下は愛しのカミラさんの元へと姿を消した。アリシアは視線を落とし、冷めてしまった紅茶に口をつける。


(浮気する殿下が国王候補とかこの国はもう終わりに近いんじゃありませんか。この様子だと皆様にバレるのも時間の問題な気がしますし……)



 ◇◇

「あ、殿下〜〜」

「ん、カミラは可愛いなぁ」

 数日後、中庭で目にした光景にアリシアは驚きを隠せなかった。といっても側から見れば瞳孔がわずかに開いたのに過ぎないのだが。


(あの人たちは一体何を考えていらっしゃるのでしょうか?)


 我がリナベル学院の中庭で、ルシウスとカミラは一つのベンチに座っていた。カミラが手作りしてきたクッキーを、二人で仲睦まじげに食べている。


(……わたくしが作ったケーキ、殿下は毒の心配を危惧して食べてくださらなかったのに)


 それがどうだ。

 いまや顔をデレッデレにゆがめながらアーンと大きな口を開けている様である。


(殿下のためにしたことは、全て無意味だったのかしら)


 無論アリシアとて殿下を最初から嫌っているわけではない。

 様々な邂逅を経て、今の評価に辿り着いたのに過ぎない。

 それに、乙女であれば誰しもが()()()を夢見るものである。


「なんて破廉恥(ハレンチ)な! アリシア、あんな女のこと、気にすることないわ」


 眉をひそめ、アリシアに声をかけるマリン・バラレスト。

 彼女はアリシアの古くからの親友だった。


「ありがとうマリン。けどね、違うの、最近思うところがあって……」

「どうして? あのポンコツ王子のせいだったら一発殴ってこようかしら?」


 笑顔で首を傾げるマリン。そのただならぬ様子にアリシアは首を振った。


「いえ、そうではなくて。……最近、なぜわたくしが殿下のために尽くす必要があるのか、分からなくなってしまうの」


(もう、わたくしが殿下を気にかける必要はあるのかしら)


 ため息を吐きながらそう答えると、驚いた顔をしてマリンは固まった。

 けれど次の瞬間、笑顔でアリシアに抱きついた。


「ようやくわかってくれたのね! アリシアにあんなポンコツ能無し王子、似合わないわ。女に蹴られて死んじゃえばいいのよ!」


(何故だか冗談に聞こえないのだけれど……)


 思うところはあるけれど、その暖かさに目を閉じる。マリンはずっと昔から、アリシアのことを心配してくれていた。それがどれほど支えになっていたことか。


「ありがとう、マリン」

「何のことよ? それよりお昼、食べられる場所を探しましょう? ここではろくに食事もできないわ」

 そう言って彼女は校舎の方へと歩き出した。アリシアは頷きながら、ちらりと奥を眺める。


(七年の間で数えるほどしか殿下と食事はしなかったわね)


 ふと、その時カミラとアリシアの視線が交じった。

 カミラはアリシアを見て、嫌な笑顔を浮かべる。そしてそのまま殿下へと腕を回し、その唇を重ねた。


(!?)


 カミラは自慢するように、そして得意気にアリシアに視線を送った。


「アリシア?」

 ついてこない彼女を心配して、マリンが足を止める。


( マリンが今この場面を見たら殴り込みに行くに違いないわ!)


 バラレスト家は武術、剣術に秀でた公爵家であり、マリンはそこの娘である。そんな彼女の実力を知るアリシアは、急いで彼女の元へと向かった。


「な、何でもありませんわ! 行きましょう!」

「そうね、屋上にでも行こうかしら」


 アリシアは慌ててマリンの背中を押して、校舎の中へと入っていく。辺りには冷えた視線だけが残っていた。



 ◇◇

(ん?)


 授業終わり、机の中から出てきた見覚えのないアクセサリーに、アリシアは心の中で首を傾げた。


(誰かの忘れ物かしら? ついでに届けに行きましょうか)


「アリシア、生徒会の仕事頑張ってね!」

「えぇ、ありがとう」


 鞄にそのアクセサリーを一緒にしまい、アリシアは夕暮れの廊下を歩き始めた。


(さて、これからどうしましょう。殿下とカミラさんのことが国王に伝わったら、相当お怒りになるはずですわよね。というか問答無用で王族追放されてしまいそうですもの。そしたら第一王子が次期国王になるのは十中八九確実でしょうね)


 角を曲がり、騒がしい昇降口を通り過ぎようとした時だった。



「アリシア!」

 鋭い声に、周りのざわめきがぴたりとやむ。顔を挙げたアリシアの目に、男女の姿が映った。


「うぅっ、ひどいですアリシア様ぁ」

 殿下に半ば泣きついているカミラ。けれど、その口角は上がっていた。


(嘘泣き……? それにしても一体何の用かしら)


 周りの生徒はざわざわとその様子を眺めている。修羅場、と言う声も聞こえてきた。

 それも気にせず、殿下は軽蔑した表情でアリシアを睨む。


「お前、カミラの形見のペンダントを盗んだそうだな!」

「うっ、ひっぐひぐ」

「……はい? 何をおっしゃっているのか意味が分かりません」


(突然何を言い出すの?)

 アリシアは困惑した顔を浮かべる。その表情にルシウスは言葉を詰まらせたものの、直ぐに吐き出すように言い捨てた。


「はっ、つ、罪を認めない気か! ではお前の鞄を開けてみろ!」

「はい」

 躊躇(ためら)いなく鞄を開けたアリシアの目に入ったのは、忘れ物として届けようとしていたアクセサリーだった。金の光を受けて輝くそれを目にして、カミラが悲鳴を上げる。


「あたしのかたみぃのペンダントォッ!!」

「なっ、これは」

 そう言いかけたアリシアの口が止まる。殿下のそばに張り付いたカミラが、勝利の笑みを浮かべていたからだ。


(もしかしてこれは、わざとカミラさんが?)


 動揺したアリシアに、勝ち誇ったように告げるルシウス。


「もはや言い逃れはできないぞ、アリシア! 貴様が盗人だいうことはな!」

「違います、これは忘れ物で」


 言いかけたアリシアの言葉を遮り、ルシウスはキッと彼女を睨む。


「見苦しいぞ、アリシア! 言い訳は無駄だ。人の物を盗むなどと、そこまでカミラが気に入らなかったのか!」

「あぁ殿下、あまり責めないでください……あたしは気にしてないんです」

「でも、カミラ」

「いいんです、あたしは気にしていないんですから!」


 そう言って切なそうに笑うカミラ。


(気にしてないって、それは貴方が仕組んだことだからでしょう! とは言っても……)


 カミラの下手くそな芝居に、観客に戸惑った雰囲気が流れる。


(わたくしの無実を証明する証拠は一つもない。このままだと濡れ衣を着せかねないわ……!)



「ちょっといいですか?」

 そんな気まずい空気を破ったのは、誰かの声だった。


「随分と騒ぎになっているけれど、これはどういうことですか?」


 黒縁メガネに重たい前髪。リナベル学院の生徒会長が立っていた。


「ど、どうもこうもないッ、俺の婚約者がカミラのペンダントを盗んだんだ!」

 自分より背の高い会長に気圧されたのか、やや小声で殿下が声を上げる。


「そうです、あたしのペンダントを……」

「わたくしはそんなことしておりませんわ」


 アリシアはカミラに言葉を被せる。その表情には変化がないものの、瞳には確固たる意志があった。

 その様子を見て、会長は手を叩く。


「……ではペンダントの記憶を覗いてみましょうか」

「ペンダントの?」

「記憶ッゥ!?」

 アリシアとカミラの声が被る。その声に会長は頷いた。


「そういう呪文がありますので。ではカミラ嬢、ペンダントを渡していただきますか?」


(確かに、それならわたくしの無実が証明されるはず。さすがは会長ですわ)


 王妃教育の一環として生徒会書記を担っているアリシアは、その凄さを見にしみて実感していた。


(あの見た目で敬遠されているようですけれど、とても優秀な方ですのよね。さて、それでカミラさんはどう動くのでしょうか)


 カミラはペンダントを握りしめたまま、動かなかった。その両手は細かく震えている。


「カミラ?」

「カミラさん、それを渡していただけますか?」

 二人の問いかけにも答えず、蒼白な顔で呼吸を繰り返すカミラ。その唇が微かに動いたような気がした。


「……渡さない」


 その瞳が、思い詰めたようにつぶられた。

 次の瞬間、ゆっくりと彼女の手から落ちたペンダントは、床への衝撃で粉々に砕け散った。


「!」

「カミラ!?」


 殿下の叫び声に肩を震わすカミラ。


「あ、ご、ごめんなさいっ! 落としちゃいました!」


 申し訳なさそうに手を合わせるカミラ。

 けれど、その顔は驚きに染まった。


「な、なんで……」

 アリシアは床に膝をつき、ひとつひとつ、割れたペンダントの破片を拾い集めていた。


「……形見、なんでしょう。直せるかもしれないわ」


(確かに、彼女は罪を被せようとしました。けれど結果的に彼女の形見を壊すきっかけとなったのは、わたくしですもの)


「ッ!」

「アッおい、カミラ!」

 殿下は逃げ出したカミラさんの後を追う。二人の足音が遠く離れていった。


「皆さん、今日のことは会長の名に免じて、何も見なかったことにお願いします」

 会長の言葉に、一斉に観客は散っていった。


「会長、助けていただきありがとうございました」

 破片を拾いながら、アリシアは静かに声を上げた。


「礼を言われるようなことはしてないよ。それに実は『物の記憶を覗く魔法』なんて、でたらめに過ぎないからね」

 よっ、とアリシアの隣でかけらを拾い始める会長。


「え、!?」

(あの土壇場であんな嘘を思いついたってことですわよね? 会長の頭を今度覗いてみたいですわ)


「それに、あの会長まで拾っていただかなくても……」

「ん? 君はやめろって言っても、どうせ拾うのをやめないだろう?」

 会長はからかうように軽口をたたく。


(う、図星ですわ)

 それから欠片を拾い集めている間、二人の間には沈黙が流れていた。


「よし、これで終わりですわ!」

 最後の破片を拾い終え、アリシアは満足そうにため息をついた。


「ん、貸してごらん?」

 言われるがままに会長の手にかけらを乗せる。その手から溢れた光が、みるみるうちに美しいペンダントへと変わっていった。


「わ、凄いですわ!」

「そう言っていただけて、光栄ですよ」

 微笑みを返した会長は、ふとアリシアの手に目を止める。


「……その手」


 そう言われて手を見ると、右の指から血が出ているのが見えた。


「少し切ってしまったみたいですね。でも平気ですわ血も少ししかーー」

 そう言いかけたアリシアは、言葉を止めた。


 会長がその指を持ち上げ、口に含んだから。


(ふぇ? え? いや落ち着きなさいアリシア、会長がわたくしの手を、指を、例え舐めていたとしても、いや落ち着けないですわよ!)


「い、いきなりなんですの!?」

 もう片方の手で指を隠したアリシアに、会長は面白そうに笑い声を上げる。


「東洋のおまじないだよ。唾をつければ早く治るんだってさ」

「はぁ!? そんなわけないですわ!」

「そうかな? あ、今日はアリシアの仕事ないから帰っていいよ。じゃあこのペンダント届けてくるから、また明日、アリシア」


 そう言い残して、ひらりと手を振り、会長は廊下の奥へ消えていった。


(本日の会長は様子がおかしいですわ。けれど……仕事がないのはありがたいです。いろいろと……考えなければいけないことがありますから)


 アリシアは迎えの元へと歩いていった。




 ◇◇

「俺はアリシア・ヴァリエとの婚約を解消する!」

 ビシッと指さされた人差し指は綺麗に自分の方へと向いている。彼の横にはもちろん、胸元をセクシーに開け、フリルを纏ったカミラ・リッテが立っていた。


 創国を記念して開かれたお祝いの場は、その一言で静まり返った。ただ一人、アリシアを除いて。


(ついに、ようやくこの日が来ましたわ。まぁエスコートされなかった時点で何となく察してはいましたけれど)


 婚約者以外の者をエスコートし、さらにはファーストダンスもカミラと踊り、少し酒も入っていた殿下は勢いのまま日頃から考えていた鬱憤を吐き出したのだ。もちろんこちらとしては長年待ち望んでいた夢の瞬間なのだが。


 溢れてくる喜びに歓喜しながら、アリシアは満面の笑顔で頷いた。


「はい、承諾いたしました」

「まぁ、そこまでお前が泣き叫ぶなら……うん?」


 どうやら殿下は一瞬にして酔いを覚ますことに成功したらしい。

 一方アリシアは、にこにこと笑みを浮かべていた。


(あぁ、もう全てがさいっこうですわ! こんなに微笑むことができるなんて、いつぶりのことでしょう! それよりも、あの殿下のお顔! 握りつぶされたニワトリのような顔をしておりますわ! わたくしの態度を全く予想できていなかったようですね)


「ほぉえ? 今、アリシアはなんと?」

「ですから承諾致しました。今この瞬間から貴方とわたくしは赤の他人ですので、アリシア嬢とお呼びください、殿下」


 酸欠状態の魚のように間抜けに口をパクパクとさせるルシウス殿下。


「なっ、何を言っている? ちが、お前は俺が好きなんだろう?」

「殿下こそ何を言っていらっしゃるのか分かりかねますが。一体どこからそんなでたらめな噂が出てきたのです? 気味が悪いですわ?」

 そう言うと、傷ついたように全身を震わせる殿下。


(? もっと言ってくるかと思っていましたが、案外おとなしいですね?)


 そんな殿下を見て、カミラはニヤニヤしながら腕を絡める。


「殿下、あたしがいるじゃないですか!」

「……っさい」

「え?」

「うるさい!」

 そう言ってルシウスはその手を振り払った。


「キャッ!」


 手を振り払われ、床に尻もちをつくカミラ。


(え、ちょ、殿下どうしたのですか? その方は貴方の最愛の女性ですことよ?)


 肩を震わし、殿下は怒りのままに声を張り上げた。


「誰が貴様なんぞに興味があると思っている! 平民の分際で! 俺はただ、アリシアの嫉妬した顔が見たくて付き合ってやっていただけだ!」


 その声が宮殿にこだまし、また耳へと入ってくる。


(アリシアの嫉妬した顔が見たくて? ……は? 殿下は悪魔に魂を喰われてしまったのでしょうか?)


 それが心配になって殿下を見ると、顔を真っ赤にした殿下がこちらをうかがっていた。


 その様子に、自然と言葉が出てくる。


「殿下は……わたくしのことが好きなのですか?」

「あぁ……あまりにもアリシアが冷たいから、嫉妬させようと考えただけだ。しかし俺は、変わらずアリシアを愛している!」


 こちらに手を伸ばし、笑顔を浮かべる殿下。

 反射的に顔が引き攣りそうになるのをこらえ、大きく息を吸った。


「殿下」

「あぁ、なんだ」


 俺の胸に飛び込んで今すぐマイスウィートエンジェルを疑わない、純粋無垢な顔で殿下は答える。

 だからわたくしも負けないくらいの笑顔で言う。


「嫌です!」

「ぇ?」

「拒否します」

「な」

「お断りさせていただきます!」

「……ぁ」

 もはや空いた口が塞がらんと言わんばかりに、伸ばされた手が下ろされた。


(殿下のこの絶対的な自信はどこからくるのかしら)


「なぜ、だ、アリシアは俺のことを……」


 九十を過ぎたお爺様のような声に、アリシアは眉をひそめる。


「何故、と言われましてもそもそもわたくしは殿下を好いてはおりません。幼少期から親元を離れ、血の滲むような努力をして、あなたのために知識をつけ、あなたのためにダンスを習い、あなたのために表情管理をさせられ、ようやくわたくしはあなたの婚約者としての資格が得られるのです。そんなもの、誰が好き好んで受け入れると思いますか?」


 返事は返ってこない。


「殿下の良いところは、と聞かれると、面白いほどに答えるのに困ってしまいます。あなたの悪いところはそれはもう星の数ほど見てきましたし、もう見たくもありません。殿下と出会って十五年間、わたくしは殿下のことを一度も好きになったことはありません。今までわたくしは殿下のためと思ってきましたが……もう疲れてしまいました。わたくしはもう、あなたのワガママには付き合いきれません」


 そこで一息を吸う。


「そして分かってしまいました」


(これだけは、十五年間ずっっと我慢し続けていたことだから!)


 殿下の目を見て、はっきりと告げる。


「わたくしは殿下のことがだいっきらいなのです!」


(勿論、自分の辛さを全部殿下のせいにするのは間違いかもしれない。けれど。殿下がもっとわたくしを見てくれていたら。気にかけてくれていたら。愛してくれていたら。こんなことには、ならなかったのかもしれませんね)


「ですので、もう殿下と過ごす可能性はありません。皆無です。そして殿下がわたくしを好いていても、わたくしには、もう……」


 ある男性の顔が浮かび上がり、慌てて首を振るアリシア。


 最後に、殿下を見つめる。その顔は呆然としており、内容を理解しているのかも危ぶまれる。それでもアリシアは、声を張り上げた。


「それではさようなら、殿下。今までありがとうございました」


 アリシアはそう言い終わると、深く一礼をした。


(言いたいことが全て言えて、とてもスッキリしましたわ。この浮かれた気分のまま風に乗って、どこまでも飛んでいってしまいたい)


 彼女の目から涙が一滴垂れたことを、彼女自身でさえ気づいていない。




 その時、鋭い音がした。

 顔を上げたアリシアが見たのは、肩で大きく息をするカミラと、頬を抑える殿下の姿だった。


「最っ低! 殿下は、あたしの気持ちを踏みにじっていたのね! あたしは……もちろん最初は……でも今は、今はあなたのことを本気で愛していたのに!!」


(か、カミラさんが!? ででで殿下を殴りましたわ!)


 ルシウスは頬を抑える。そして、彼女と目を合わせ、泣きそうな顔で言葉を絞り出す。


「っす、まない……」


 その言葉に、カミラの目からは涙が溢れ出す。少しの間、殿下を睨んだ後、彼女は飛び出して行った。


(カミラさん……本当に殿下を愛していらしたのね……というか殿下って最低ですわ。わたくしを嫉妬させる? ためとはいえ他の女性を弄ぶようなことをするなんて)




「そこまでだ、ルシウス」

 ノロノロと顔を挙げたルシウスは、国王アントニオの顔を捉えた。


「お前の話は後で聞かせてもらう、が、まずお前は、アリシア嬢に言うことがあるのではないか?」


(え、わたくしに?)


「……は、い、父上」


 ゆっくりとこちらに向かってくる殿下。その膝がカクンと折れ、気がつけばルシウスは頭を床につけていた。


「……今、まで……す、すまなかった、アリシア……」


 絞り出されたような声が、アリシアの胸を多少なりとも締め付けた。


「許して欲しい、とは言わない。本当に、きみのっ、気持ちをっ……!」


 必死に泣き声を抑えた、押し殺した声が響いた。


(……殿下……)



 アリシアは、知っている。

 十五年も一緒に過ごしてきたのだから。

 彼の長所も短所も、強さも弱さも、趣味も嗜好も、そして性格も。


 そして彼もまた、アリシアのことをよく知っている。



「……殿下、顔を、上げてください」


 アリシアはそう、ゆっくりと息を吐いた。


「わたくしも、殿下のことを大嫌いなどと言ってしまい、申し訳ありませんでした。せめて嫌いに留めておくべきでした……」

「っぉい」

 殿下が涙に濡れた目でアリシアを見つめる。



 そう。アリシアは知っている。彼がただ、大きな冠を背負わされた、小さな子供に過ぎないということも。


(殿下を……許したくなんかありませんわ。けれど……)



「……いつか殿下と、お友達になれたら良いですわね」

「っ、本当か!?」

「えぇ、まあ友達くらいなら構わないですわよ?」

「おしっ!」


 心底嬉しそうに、彼は眉根を寄せて微笑んだ。

 相手に心を許した、少年のような笑顔。


 その笑い方が好きだったというのを、彼は知っているのだろうか。


「では殿下……いえ、ルシウス殿下。失礼させて頂きますわ」


 アリシアはドレスを持ちあげ、綺麗なお辞儀をした。




 ◇◇

 その後国王の一言で何事もなかったかのように祭典は再開された。


 表面上は穏やかになった会場の片隅で、シャンパンを傾け、アリシアは深いため息をついた。


(さっきのでもう50人はいきましたわ……)


 ダンスの誘いを断るのに疲れたアリシアは、友人の元へ逃げ込んでいた。ご令嬢達は、ようやくあの殿下と婚約破棄を、と嬉しそうに祝福してくれていた。


(殿下の婚約者になる前のお誘いは山のようにあった、とメイドが言ってきたのは本当でしたわ。それにしても……確かに婚約者を決めなければいけませんが、婚約破棄直後は流石に早すぎる気もしますわ。やっぱり王妃教育を受けてたことが、大きいのかしら……)


 シャンパンのおかわりをもらおうと、友人に声をかけ歩き始める。


「そこの綺麗なお嬢さん。俺と踊っていただけますか?」

 後ろからかけられた聞き馴染みのある声に、アリシアはパッと顔を明るくした。


「あれ、会長もーー」

 そう振り返って、アリシアの目の前に立っていたのは、絵だった。絵本の中から飛び出してきたような理想の王子様。


「ひ、人違いかと思いますわ?」

 よそ行きの笑顔を浮かべながら、言葉を返すアリシア。


(め、目が、美しすぎて、直視できませんわ……!)


「ん? ああ、そっか。この姿、見るの初めてだしね」


 そう言って男がくるりと身を翻す。

 次の瞬間、そこに立っていたのは、いつもの見慣れた生徒会長だった。


「とっても格好良かったですわ!」


(ど、どういうことですの? 会長、ですか……?)


 あたふたとした彼女。その珍しい様子に、男は眉根を下げる。


「ありがとう。……お初にお目にかかります。俺はアルバーン・レオリオン。リナベル学院生徒会長にして、レオリオン王国第一王子です」


(っはぁ、確かに……以前殿下に“兄上”として見せていただいた、あの現実離れした美麗な肖像画と、そっくりですわ。ってそうではなくて、つまり、会長は……この方ってこと!?)


「それで」

 アルバーンは少しだけ身を屈め、柔らかく微笑んだ。


「君には、あわよくば、婚約者になってもらえたら嬉しいな、なんて」


(こにゃく、しゃ……? 会長の? あ、いえ第一王子でしたわね、というか唐突に、どうして……わたくしに?)


 困惑した表情を浮かべたアリシアを見て、アルバーンはどこか照れたように眉を下げる。


 次の瞬間、彼はふわりと片膝をついた。そっと取られた手の温もりに、心臓が大きく跳ねる。まっすぐで、逃がさない視線。頬が、熱を持っていくのが分かる。


(……ずるい、ですわ。そんな目で見つめられたら……まるで、わたくしを……)


 絡め取るような、甘く情熱的な瞳。逸らそうとしても、できない。

 アルバーンの顔が、ゆっくりと近づいて、手の甲に、軽く、口づけが落とされる。


「……ん。とりあえず、さ」


 顔を上げて、少し悪戯(いたずら)っぽく笑う。


「踊りましょうか?」


 優しく手を引かれて、抵抗する理由なんて、どこにも見つからなかった。


「あの、かいちょ……殿下?」

「……その呼び方、やめてほしいな」


 首を傾げるアリシアに、アルバーンの声が聞こえる。


「君がヴァイのことを“殿下”って呼ぶ声、思い出すんだ。……正直、嫉妬する」

「……ではアルバーン殿下」

「うーん、それも違う」

「あ……ア……アル?」


(愛称で……い、言ってしまいましたわ!? いえ、これは先を読んだだけですのよ!)


 おそるおそる見上げると、そこには、ひどく優しい眼差しがあった。


「なに、アリシア?」


 その声だけで、胸がきゅっと締めつけられる。


(外見は違おうとも、中身は一緒、ですわ)


「わ、わたくし……その、会長を、あ、アルのことを……お慕い、申しておりますわ」


 耳まで赤くして絞り出した言葉に、アルバーンは息を呑んだ。

 ずっと、待ち望んでいた。この声で、この表情で、この言葉を。


 弟の婚約者として顔を見に行った、その日から。



「……うん、俺も、好きだよ。だから」


 差し出された手。


「アリシア。俺と、踊ってくれますか?」


 その手に、自分の手を重ねながら、アリシアは小さく、幸せそうに笑った。


「もちろん、ですわ」

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