夫の弱みを知ってしまった
ルクレティア・ローディエンス。
ローディエンス公爵家の名を与えられた私は、ローディエンス家の当主ユリウス・ローディエンス公爵の妻だ。
帝国一の結婚相手とまで言われたユリウスが、どうして男爵家の次女である私と結婚したいと言い出したのかは、結婚から半年が経った今でも未だに分からない。
帝国中の令嬢たちがユリウスとの結婚を望んだというのに、結局彼は私を選んだ。
社交界で数回顔を合わせた程度の彼が、私にロマンチックなプロポーズをしてくれたときは、本当に嬉しくて、頬を赤らめて喜んだことを覚えている。
しかし今となっては、ユリウスはプロポーズの言葉など忘れてしまっているだろう。
「お帰りなさいませ、公爵様」
静まり返った廊下に、私の声が柔らかく響いた。
普段、公爵が帰宅する際は使用人が一列に並び、出迎えることになっている。そのため私は、予め今日は来ないように使用人たちに伝え、私1人で彼を出迎えた。
普段は彼の出迎えをすることはないし、この時間はいつもならもう眠りについている時間。眠たい目を擦ってまで到底仲睦まじいとは言えない夫に会いに来たのは、理由がある。
――いい加減、こんな生活はもうやめたい。
夫婦だというのにまともに会話もせず、社交界に参加したときは会場にすぐに付いて離れる夫婦がどこにいるというのか。
私達夫婦が社交界でどれだけバカにされているのか、ユリウスは知っているのだろうか。
若くして公爵になったユリウスにはそれすらも耐えられる精神力があるのかもしれないが、私はそうではない。
ユリウスが私以外の女性に夢中なのでは? と、あくまで心配を装い、悪意の言葉をかけてくる夫人たちにも、私は何を言い返すこともできない。
私にだってプライドはある。誰かに見下されるのは、もううんざりなのだ。
しかしこれをユリウスに伝えたところで、気にするなと言われるだけだろう。それどころか、返事も返してくれないかもしれない。
「……ああ」
ユリウスは驚いたように目を見開いた後、小さく返事をした。
そしてすぐにぷいと顔を背けてしまう。
その後は何も言わず、ただ黙ったまま玄関扉の前で立ち尽くしていた。
そして、たまにチラリとこちらの様子を伺ってくる。一体どうして私がここに居るのか気になっているのだろう。
「よろしければ、一緒に夜ご飯を食べませんか?」
「…………」
「ダメでしょうか」
返事が返ってくる気配がなく、やはりダメかと視線を床へ落とす。
せっかく勇気を出してみても、結局これだ。
諦めて部屋に戻ろう。そう思っていたときだった。
「構わない」
かすかだったが、確かに彼の声が届いた。それも、構わないと。私との食事の時間を許してくれると言うのだ。
「ほ、本当ですか? ありがとうございます、公爵様……」
思わず笑みが零れそうになるのを、私はぎゅっと唇を結んで抑えた。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「今日は何をしていた?」
「えっと、今日は…………」
また、その質問。
ユリウスは普段全く口を開かない人なのに、話し始めたかと思えばいつだって私のことを細かく聞いてくる。
自分のことはちっとも教えてくれないくせに、私のことばかり知ろうとする。
これは別に、妻の日常を興味本位で聞く優しい夫の言葉ではない。
ただ単に、自分の所有する公爵家で好き勝手やっていないか。その確認だろう。
お飾り状態だとは言え、私はこの家の公爵夫人だ。この大きな屋敷のように、私も彼の所有物のひとつにすぎない。
きっと、自分が知らないことをされているのが不愉快なのだろう。
彼のことはやっぱり分からない。仮にも夫婦だというのに、私はあなたのことをまるで知らない。
だけど、いつまでもこんなままではいけないことは分かっている。いつまでも周囲の人間にバカにされているままでは、ダメなんだ。
今日こそ彼との距離を……夫との距離を縮めなくてはならない。
ラブラブなおしどり夫婦とまではいかなくとも、ちゃんと目を見て話ができるくらいに。友人のように相談をし合い、助け合える関係にくらいなれたなら……。
「その酒が気に入ったのか」
考え事をしながらグラスに注がれたシャンパンを見下ろしていた私に、彼が尋ねる。
視線を上げると、ユリウスはまっすぐこちらを見ていた。
急なことでどうすればいいのか分からず、取りあえず頷いておく。
「ならばもっと酒を持ってこさせよう。執事のシルバーが酒に詳しかったはずだから、何か好きなものがあれば言えばいい」
「あ……ありがとうございます……」
本当は間が気まずくて、必死に飲んでいただけだったんだけど……。
まあ、別に嫌いなわけでもないし、口に合ったのは本当なのだから嘘をついているわけでもない。
すぐにグラスに視線を戻して、6杯目となるシャンパンをごくりと飲み込した。
それにしても、いつもは私を避けているくせにいざ話すと優しくしてくるのは何なのだろうか。
本当に、訳が分からない人だ。
「また今日も刺繍をしていたのか?」
「……えっ?」
グラスを口に運ぼうとしていた手が、ピタリと止まる。
彼の言う通り、近頃は刺繍ばかりしている。特に用事がない間は、ずっと刺繍に没頭するほどハマっているのも事実。
「私、あなたに刺繍を始めたことを言っていませんよね」
だけど、私はその話を一度だってあなたにしたことが無い。
「…………」
ユリウスの眉がわずかに動き、その顔が微かに強張った。明らかに“しまった”という顔をしている。
「……まさかあの護衛騎士から聞いたんですか?」
公爵家に嫁いできてから、私に仕えてくれている赤髪の騎士さん。
彼は元々、ユリウスの側近だったと聞いたことがある。つまり、あの青年の主人はユリウスであって、私ではない。
彼を通じ、いくらでも私の行動は把握できるのだ。
「知りたいことがあるなら、直接聞いてくださったらいいじゃないですか」
膝の上に置いていたナフキンを、無意識のうちにグシャリと握りしめる。
「あなたはいつも私のことを監視しようとするくせに、あなたは私に何も教えてくださりませんよね」
こんなことを言ってはいけない。そう、頭では分かっているつもりだった。けれど、もう止められない。
お酒のせいか、怒りのせいか。
どうしてこんなにも苦しいのか、分からない。
ユリウスは私をただ見つめたまま、まるで言葉を失ったように黙り込んでいた。
滅多に表情を変えない彼の顔が、今だけはどこか青ざめて見えた。
「……どうして泣いているんだ」
やっと出たユリウスの声は掠れていて、私の胸をギュっと苦しめた。
「泣いてなどいません」
咄嗟に顔を伏せ、袖で目元をこする。しかし頬を伝う熱い雫を隠しきることは出来なかった。
別に護衛騎士を通して私の生活を監視されていたことに腹が立っているわけではない。そんなことは初めから分かっていたことだ。
だけど食事中だと言うのに一度も目を合わせてくれない夫を前に、必死に関係を良くしようと頑張る自分が情けなくて、涙が出てきた。
私は二人で食事をするために勇気を出してあなたに声をかけたのに。
結婚前、社交界で挨拶をした際に一言似合っていると褒めてくれた淡い水色のドレスを選んだのに。
今日だけのことでは無い。パーティーに行けばエスコートはしてくれるものの、会場に着いた途端にどこかへ行ってしまうし。
「自分で……あなたが自分で、私を選んだくせに」
帝国中の令嬢たちが、公爵・ユリウスの妻になりたがった。
私の姉だって、妹たちだって、あなたの妻になりたがっていた。愛想が良い姉妹たちを可愛がり、愛想の悪い私を蔑ろにしていた両親は、公爵家との縁をなんとか持ちたくて、必死に求婚書を送っていた。
だけど結局、ユリウスは私を選んでくれた。
昔、パーティーであなたに出会ってからというもの。私はずっとあなたの虜だった。
だからあなたからのプロポーズは私にとって、嬉しくてたまらないものだったの。ロマンティックで、キラキラと輝いていて。それはもうなんとも幸せだった。
「そんなに私がお嫌いなのですか?」
「は……? どうして突然そのようなことを言うんだ」
「私はお飾り妻として嫁いできたわけではありません。私は、私はただ、幸せになりたかっただけなのに……!」
膝の上に置いていたナフキンを手に取ると、ぐしゃぐしゃと丸めて彼の顔に勢いよく投げつける。
「あっ、ごめ……!」
感情のままに投げつけたそれは、丁度ユリウスの顔に命中してしまった。
避けられるとばかり思っていたのに、まさか当たってしまうだなんて。
ユリウスは微動だにせず、ただ黙ってナフキンを取ると静かにテーブルの上へ戻した。
「ルクレティア」
その一言だけが、いつもの低い声で響いた。
――やばい。怒らせてしまったかもしれない。
椅子を引いて勢いよく立ち上がり、スカートの裾を翻すとそのままユリウスに背を向けて歩き出す。
これ以上情けない自分を見せる前に、早くここを去りたかった。
「ついてこないでください!」
すぐ後ろで椅子の脚が引きずられる音がし、ユリウスも私に続いて立ち上がった。
「ルクレティア」
「あっちに行ってください!」
「待ってく……」
「ついてきたら離婚しますから!」
「なっ、」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を、手の甲で拭う。
すれ違う使用人たちの視線が痛い。
ああ、きっとまたバカにされてしまう。
男爵家の生まれの私が、身の程知らずにも公爵家の夫人なんかになろうとしたから。夢見がちな馬鹿な女と陰口を叩かれたって、文句は言えない。
ドレスの裾を握りしめ、私は自室へと駆けていった。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「やはり公爵様に一言お伝えしてから行かれた方がいいのではありませんか?」
「…………」
そして翌朝。私は早朝に部屋を出た。
もう何度目なのかも思い出せないくらいしつこく声をかけてくる護衛騎士に、私は返事をせず、ただ視線だけを遠くへ落とした。
「夫人、私のような一介の騎士が言うのもですが、公爵様は夫人のことをとても心配されています。けして言うなと言われましたが、昨夜も一睡もできないほど悩まれておりました」
「そう」
それが嘘だということは、私が一番よく知っている。
ユリウスが私のことで夜も眠れぬほど悩むなんて、それこそありえない。
眠れなかったのは、こっちの方だ。
「夫人、どうか……」
「貴方は今日留守番です。これ以上はついてこないでください」
「なっ、いけません夫人! 私はいつ何時貴女様の元を離れないようにと命を受けております! 護衛もなしで公爵夫人を出かけさせることなど出来ません!」
「護衛なら他の騎士の方に頼んであります」
「あ、あんまりです夫人……」
忠義と誠意をもって仕えてくれる者に対して、冷たい言葉を投げてしまうことに、罪悪感が沸かないわけではない。
だけど彼を連れて行ったら、きっとユリウスに細かい部分まで報告されるだろう。
今は、ユリウスの話は聞きたくない。
馬車の扉が開く音がして、私は何も言わずに足を踏み入れた。
今だけは、ただ遠くへ行きたかった。
あの人の存在から目を背けたくて仕方なかった。
「相変わらず愛らしい子ね、元気にしていた? ルクレティア」
「はい。エレニカ様」
私が訪れたのはエレニカ・ローディエンス様の元。彼女はユリウスの母親であり、私の義母にあたる女性だ。
昔から何かと私を気にかけてくれてくださるひとだ。
「ユリウスはあなたにひどいことはしてない?」
「公爵様にはとてもよくしていただいています」
「……公爵様、ね」
エレニカ様は少し考えこむような素振りを見せた後、頬杖をついてニッコリと微笑んだ。
「律儀な貴女が、急に私の元にやってきたということは、何か悩みでもあるのかしら?」
「えっ」
私が反応すると、エレニカ様はすぐに目を細め、微笑みながら言った。
「ふふ、その顔は当たりということね? さては、ユリウスと夫婦喧嘩でもしたのかしら」
夫婦喧嘩と言われれば、あれは夫婦喧嘩になるのかもしれない。現に私たちは夫婦なのだから。
しかし本当の所、私と彼は夫婦と言うよりも、ただ結婚という名の契約を結んだ相手との関係だ。
「まあ、そんなところです……」
私は俯きながら答えると、エレニカ様は輝くような笑みを浮かべた。
「やっぱり。いつかこんな日が来ると思ってたのよ~」
「あ、あはは……」
「それでそれで? ユリウスは何をやらかしたっていうの?」
エレニカ様は前々から、私とユリウスが仲睦まじい夫婦だと勘違いしているところがある。
参ったな。笑顔で夫の愚痴を話しに来た愛らしい嫁として演じるべきだろうか。
「貴女にプレゼントをあげるわ」
「……プレゼントですか?」
「ええ、そうよ。とっておきのプレゼント」
そう言うと、エレ二カ様は私に向かって1枚の写真を手渡した。
「これは……」
手にした写真を見て、私は息を呑んだ。それは、可愛らしい女の子が写った一枚の写真だった。その女の子は、まるで天使のように純粋で、笑顔がとても輝いている。
しかし、その子には見覚えがあった。いや、ありすぎた。
流れるようなハニーブロンドの髪。宝石みたいに煌めく碧眼の少女……ではなく、少年。
「ユリウス?」
間違いない。私の夫だ。
「私昔から女の子がどうしても欲しかったのよ。だけどユリウスは男の子だし、産む前に買った女の子のドレスは処分しようと思ったの。だけどね、そしたらなんと超絶美形な息子に成長しちゃったんだから驚きよね~」
エレニカ様は頬に手を添えて、「流石私の子!」と、楽しそうに話している。
この写真のユリウスは4,5歳くらいだろうか。
お茶目でちょっと突飛な人だと思ってはいたけれど、まさか女の子用のドレスを息子に着せていたとは。
小さな花飾りのついたフリルのドレスに身を包み、ほっぺを少し赤らめながらも満面の笑みを浮かべている。
「かわいいでしょ? もうほんっとにかわいいんだから私の子」
「確かに、かわいいです、すごく……」
普段のユリウスからは想像できないほど、子供らしい無邪気な表情をしている。彼が私の前で見せることは決してないだろう、自然な笑み。
「この写真はユリウスの1番の弱点なのよ」
「弱点? この写真が……」
思わず聞き返すと、エレニカ様は得意げに頷いた。
「そうよ。……まあ、これをどう使うかは貴女次第だけどね♡」
そう言って、いたずらげにウィンクをしたエレニカ様に、私は「ありがとうございます」と小さく返事をした。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「……なにをしているんですか?」
「お、お帰り、ルクレティア」
玄関の扉を開くと、そこにはどこかの部屋に入るわけでも移動をするわけでもなく、中途半端な位置に立っているユリウスが居た。
まさか私を出迎えに? ………いいや、そんなはずがないか。
「少し話をしないか」
使用人たちの視線が気になったのか、ユリウスはそう言うと私の手を引いて歩き始めた。
拒む間もなく、私は彼に連れられて書斎へと足を踏み入れる。
「今日はどこへ行っていたんだ」
「……あなたに関係ありますか?」
先に拒んだのはそちらだろうと、少し冷たく返してみる。
するとユリウスは顔を強張らし、少しだけ眉を下げた。
「俺がどれだけ君を心配し……いや、違う、こんなことを言いたかったわけではないんだ」
深く息をつく彼の顔は、いつになく苦しげに見えた。
結婚してから半年間。出会ってからはもう何年になるか。
ここまで感情をあらわにした彼の顔は、初めて見た。
「……すまなかった」
その言葉は、あまりにも突然だった。
「君を傷つけてしまっているとは、少しも思わなかったんだ」
何に対してあなたは謝っているのか。
謝るのは、私の方なのに。
てっきり昨日のことについて説教でもするかと思っていたら、まさかあなたが私に謝るなんて。
「公爵様」
私は懐から先ほどエレニカ様に頂いた幼少期ユリウスの女装写真を取り出すと、彼に見せつける。
「どうし……なっ、何故君がそれを!」
焦ったように私の手から写真を奪い取ろうとするユリウスの手を避ける。
「やめてください。これは私がエレニカ様にいただいたものです」
「なっ……」
「これを返して欲しければ、私のお願いを聞いて欲しいです」
「願い? ……まさか離婚か?」
ユリウスの声が一瞬にして低くなる。私を睨みつけるその目は、何を考えているのか分からない。
「はい? いや、違いますけど……」
なんでそこで離婚になるんですか、と呆れ混じりに言いかけた私にユリウスは間髪入れずに告げる。
「君の願いはそんな写真が無くともなんだって叶えてやるつもりだ。だが、君が俺の元から離れていくものはダメだ」
普段の彼とはまるで違う必死な声色に、私は思わず言葉を失った。
私があなたの元から離れていくのがダメですって? 先に離れていったのは、あなたの方じゃない。
「あなたは私を避けるくせに、私はあなたから離れてはいけないんですか?」
「……そうだ」
少し間が開いた後、ユリウスは静かに頷いた。
自分は良いのに、私はダメだなんて、そんな都合の良い話があるだろうか。
『夫人ったらまた一人でいらっしゃるわよ』
『公爵様はどこへ?』
『本命の女性の元へ行っているのでは?』
『まあ、既婚者とはいえ公爵様を狙っているレディーは少なくありませんからね……』
耳にした声が、頭の中でこだまする。
パーティー会場の隅でひとり。
私がどんな思いで、あなたが迎えに来てくれるのを待っていたか。
どれだけ惨めな気持ちを隠して笑っていたか。
どれだけ何でもないふりをしながら、あなたの姿を探していたか。
それを、あなたは少しも知らないくせに……。
「ふざけないでよ!」
感情が込み上げ、手が反射的に動いた。
ユリウスに壁ドンをする形で、本棚をドンッと叩く。
静まり返った空間に、想像以上の大きな音が響いた。
数冊の本が棚から飛び出して、床にバサバサと落ちる。
「あっ、本が……」
その瞬間、怒りの熱が一気に冷め、我に返った。
ここは公爵専用の書斎だ。恐らく貴重な蔵書たちを雑に扱うことはできないと、私はすぐさましゃがみ込み、慌てて本を拾おうとする。
「ま、待てルクレティア!」
「……これは一体……」
拾い上げた、3冊の本。
大きく、ラブリーなフォントで書かれたタイトルが目に入った。
『妻に愛されるための100選♡』
『妻に頼りにされる夫になる方法♡』
『いい夫になるためには♡』
重々しい雰囲気が漂う公爵家の書斎には、どこからどう見ても場違いなほどポップで、乙女チックなその表紙。
これは一体なんなのか。
視線を上げる。
そこには両手で顔を覆い、耳まで真っ赤に染めていたユリウスの姿があった。
「……妻に、愛される?」
「頼むから口に出すのはやめてくれ……」
じんわりと、嫌な汗が流れるのを感じた。
まさかとは思った。いや、まさかと思いたかった。
「まさか……私以外にも妻を迎えられるつもりなんですか?」
「は?」
勢いよく顔を上げたかと思えば、信じられないとでも言いたげな顔でこちらを見るユリウス。
「だって、こんな本を読まれているってことは誰かのために準備をされているんでしょ? 私との結婚生活が上手くいかなかったから、今度は前もって……」
「そんなはずがないだろ! 俺が自分の妻にしたいのは、この世に君だけだ!」
私の肩を勢いよく掴み、真剣な顔で叫ぶユリウス。
彼から私に触れて、ここまで見つめ合ってくれるのはプロポーズの時以来だろうか。
「……わたしだけ?」
「当たり前だ!」
「……それじゃああなたは、私に愛されたかったんですか?」
私の問いかけに、ユリウスは口を噤む 。そのうえ頬を赤くして、困ったように眉を寄せた。
彼が返事をしないことには、もう慣れている。
けれど、こんな表情をする彼は初めて見た。
いや、そもそも私は彼の顔をこんなにもじっくり見たことがあっただろうか。
思い返せばいつも、ユリウスは私を前にするといつも顔を背けていた。
だからといって、私も避けられてしまうのが怖くて、それ以上追うことは無かった。
「あなたは私のことが好きなんですか?」
「それは……」
喉の奥で掠れた声が、言葉になりきれずに消える。
しかし否定の色はどこにも無い。
「ずっと私を避けていたくせに、私に頼りにされたいと思っていたんですか? こんな本を読んでまで?」
落下時に開かれた本には、小さく折り目や書き込みがあった。
読み込まれたであろう痕のある紙。色のペンでつけられた、丸印や線。
――なんなのよ、それ。私には一言も言わなかったくせに。こんな本を読んでいたなんて、ちっとも知らなかった。
「結婚してから、一度だって私の寝室に来てくださらなかったのに」
思い切って言葉にすると、ユリウスはまるで湯気でも立つかのように真っ赤になって俯いた。
「わ、悪かったと、思ってる。まさか君がそんなことを気にしているとは思わなかったんだ。それに君は僕を嫌っていると思っていたから、そんな男に……ああ、クソっ」
自分のハニーブロンドの髪をかき乱すようにして吐き捨てるその姿に、私は言葉を失う。
私が大切だから、今まで何もして来なかったっていうの? 顔を合わせてくれなかったのは、ただ恥ずかしかったから?
私に触れなかったのは、私を傷つけたくなかったから?
そんな馬鹿な。
でも、今の彼の顔は、どうしようもなく――
「……私を、好きだから……?」
震えるように呟いたその言葉に、ユリウスはぴくりと肩を揺らした。
「そうだ」
その一言が、あまりにも真っ直ぐで。
私は何も言い返すことが出来なかった。
完璧な公爵としての彼は、今やそこには居ない。
代わりにいたのは、ひとりの男――いや、“夫”としての彼だった。
「君のことを傷つけようと思って、避けたわけでは無いんだ。ただ……君を前にすると、どうしても身体が言うことをきかないんだ」
「……だからって、何も言わずに距離を置くなんて勝手ですよ」
責めるような言葉で返したのは、胸の奥の熱がまだ消えていないから。
だけど、どうしようもなく申し訳なさそうな目をしたユリウスを見ていると、怒りの言葉がどんどん弱くなってしまう。
「すべて君の言う通りだ。本当にすまなかった」
目を伏せて、謝罪の言葉を口にするその姿は、やけに素直で拍子抜けするほどだった。
変な感じがする。
怒りでも、悲しみでもない、不思議な感覚。
氷のように冷え切っていたはずの心が、ほんの少しだけ、じんわりと温まっていくような……。
私は今、嬉しいんだ。
彼に謝られたことが特別嬉しい訳では無い。
ユリウスが、私をしっかりと見てくれていること。そして、私も彼をしっかりと見れていることが嬉しいのだ。
お互いに感情をあらわにして、言葉を重ね合って、話し合う。
これじゃあ、本当に夫婦喧嘩みたいじゃない。
私達はちゃんと、夫婦だった。
こんなにも嬉しいことって、この世にないと思うの。
私は足を彼の元へ一歩進め、思い切りユリウスを……夫を、抱きしめた。
「ルクレティア? どうした……?」
ビクッ、と怯えたように肩を跳ねさせるユリウスの体は、想像していたよりもずっとしっかりしていた。
ドクン、ドクンとユリウスの心臓の音が耳元に伝わってくる。
ずっと、こうして彼を抱きしめたかった。
「ごめんなさい」
彼の胸に顔を押さえたまま、小さく呟いた。
「どうして君が謝るんだ。君が謝ることなんて……」
「あなたの気持ちに気づけなくて、ごめんなさい。私もずっと、あなたを避けていてごめんなさい」
自分でも、こんな風に素直な言葉を言える日が来るなんて思わなかった。
「……ルクレティア。君は、こんな情けない俺に愛想をつかしてしまっただろうか」
ユリウスの声は、ひどく弱々しかった。
皇帝ですら彼には無礼を働けないと比喩されるほど力を持つ男が、私に愛想をつかれてしまえば、こんなにも悲しげな顔をしてしまうのか。
その事実はあんまりにも面白くて、嬉しかった。
顔を上げると、ユリウスの青い瞳と目があった。
「……俺は頭が良いと思っていた」
「え」
えっ、なに、急に自慢……?
「勉学も、戦術も、政治も、何だって人よりできた。感情を表に出さずに正しい判断ができる。それが自分の強みだと思っていた」
「……はい」
突然のことに、どう返事をすればいいのか分からない。ユリウスが勉学に長けていることくらい、周知の事実だというのに。
「だが、それはどうやら違ったらしい」
ユリウスは私を抱きしめ返すと、私の耳元で深い溜息を吐いた。
「あ……」
こんなにも距離が近くなったのは初めてで、夫婦だというのに恥ずかしくてたまらない。
彼の呼吸が、私の首筋をかすめる。緊張と嬉しさが同時に胸に押し寄せる。
「君の考えていることが、俺には何も分からないんだ。どうすれば君を傷つけずに済むのか、分からない……すまない、君を幸せにすると誓ったのに」
不器用で、優しくて、どこまでも真面目な人。
私はふと、かつての光景を思い出した。
『愛している。必ず幸せにするから、俺と結婚してくれ』
片膝をつき、震える手で指輪を差し出したユリウスの姿を。
「……傷つけても良いですよ。私は、あなたに傷つけられたいです」
私の言葉にユリウスは信じられないとでも言いたげな顔でこちらを見た。
「夫婦とは、そういうものではありませんか」
「……俺は嫌だ」
「どうして?」
「君が大切なんだ」
その言葉は真っ直ぐで、ずるいくらいに誠実だった。
「私もあなたが大切です」
気づかぬうちに涙が流れていたのか、ユリウスは心配げに私を見つめ、優しく目元を拭ってくれる。
涙が頬を伝う感覚は、今までは嫌で仕方なかった。
涙は、自分の惨めさを象徴するものだと考えていたから。
だけど、あなたが拭ってくれる涙ならば、それも不思議と心地よかった。
惨めさではなく、愛しさに触れたような感覚。
ひとりきりで抱えてきたすべてを、ようやく誰かと分かち合えたような、そんな気がした。
「公爵家の当主として、俺は自分の弱みを人に見せてはならないし、作ってはならなかったんだがな」
「え? じゃあこれはなんですか?」
悪戯気に微笑んで、チラリとエレニカ様に貰った女装写真をちらつかせると、彼は困ったように眉を寄せた。
「まあ、それは置いておいて……」
「置いてしまってもいいんですか?」
「…………」
「本当に天使みたいに可愛いですね? 羨ましいです」
あんなにも振り回されてばっかりだった夫が、私の言葉で振り回されている。
その事実だけで、私は一生笑って生きていけるだろう。
ユリウスは大きくため息をつくと、私の頬に手を添えて優しく微笑んだ。
「可愛いのは君の方さ」
なんとも愛おしそうなものを見る目で、彼は私を見つめる。
もしかしてユリウスは、いつもこんな目で私を見ていたのだろうか。彼が目を背けているように、私も彼から目を背けてしまっていたから気づくことができなかっただけで……。
「俺の弱みは、君だけだ」
少しでも面白いと思っていただけましたら、評価の方をお願いします♡⃛ ̖́-




