第七十五話 白昼の夢
「お待ち下さいお父様!そのなさり様は余りに……!」
女の声が聞こえる。
何処か懐かしい、馴染みのある声だった。
「ならぬ。国の命に背けば余計な争いを産む。それに人寿郎の存在も、何れ家督争いの火種となるやもしれん。儂とて心苦しいが、これが最善の方法なのだ」
「しかし……!!お父様!」
冷徹な男の言葉に、尚も食い下がる声。
男は自分の名を呼んでいた。
なにか、記憶の底で引っかかっている。
「諄い!これは既に決まった事。吉祥よ。貴様も次期当主ならば飲み込め!」
「そんな……」
場面が移り変わる。
目の前には小刀。
四方に切り取った布の上で、私は正座していた。
傍らには父が刀を構え、正面には申し訳なさげに目を伏せる妹……否、姉上がいた。
「人寿郎、葛葉の人間として、当主の一族としてのせめてもの役割だ。全うせよ」
「はい、父上」
存在を隠されてきた自分が、葛葉の人間としての役割をはじめて与えられたことは、喜ばしい。
そう思うべきだ。
少なくとも自分はそう思っているはずだ。
憐憫、同情、哀傷。
周囲の表情は誰も彼もがその類のもので、けっして自分が役割を全うする瞬間を望んでいるようには見えなかった。
そんな顔をしないでほしかった。
自分が抱いている『喜ぶべきだ』というごまかしの感情が否定されてしまうから。
或いは、覚悟が足りないだけなのか。
(ああ、怖い。いやだ。死にたくない)
――それでも。
葛葉の人間として与えられた最初で最後の役割を。
父の期待を。
人寿郎は否と言えなかった。
(ああ、なんと情けない……。やはり私がこんなだから……)
意志に反して、体は無情にも動いてしまう。
幾らかの躊躇いの後、人寿郎を最後に突き動かしたのは、己に対する投げやりで卑屈な感情だった。
抜き放った小刀で腹を突く。
一瞬の抵抗があって、刃が腹に滑り込んだ瞬間、灼熱感と苦痛が絶え間ない波のように押し寄せてきた。
(――――っっ!!)
歯を食いしばり声を抑える。
せめて最後は父の子として、与えられた命を全うせんとばかりに突き刺した刃を進め、せり上がってくる吐き気と涙を必死でこらえた。
それに代わる様に止めどなく溢れる脂汗と、腹から溢れる血が座り込んだ場所を濡らしていく。
「――すまぬ、息子よ」
早くこの苦痛を終わらせて欲しい。
頭にそんな気持ちが過った頃、父の謝罪の言葉と介錯の為に刃を振り下ろす風切り音だけが、鮮明に耳に届いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――っ!!」
身体が大きく跳ねる。
まるで下から突き上げられたように跳び起きた人寿郎が、荒くなっていた息を整える。
ヒュウと喉が鳴る。
酷く肺が痛み、喉が渇く。
(――夢、か……)
そこで漸く、人寿郎は自分が居眠りをしていたことに気が付いた。
前の戦の敗走の際、酷く痛めつけられた事が効いているのだろうか。
あの時は確かに死ぬほどの重傷を負って数日眠っていたらしいのだが、相変わらず記憶が曖昧だ。
死ぬような思いをしたときはいつもそうだ。
確かに記憶にはあるのだが、何処かそれが絵空事の出来事のようで現実感がなかった。
ともすれば、又聞きした別の人間の記憶であるかのような妙な感覚があった。
目が覚めた時目の前にいた母が言うには、自分は重傷を負いながらも母の力で持ち直したという。
昔からその力とやらによく救われていた気がするのだが、その記憶もどこか煙に巻かれたように曖昧で、自分の事であるという感じがしない。
母の力で敵将によって撃ち抜かれたという傷は綺麗に塞がり、人寿郎本人から見てもまるで新品のような、傷の無い体に回復していた。
あの敗走以来、不意に眠りこけて悪夢を見ることが多くなってきた。
自分は生きているはずなのに、父の命で腹を切らされる夢。
父はもういないというのに。
自分は生きているというのに。
まるで魂に直接刻まれているように、抜け落ちた自分の記憶に入り込んでくるような、真に迫った夢だった。
「人寿郎?酷く魘されていたようですが、大丈夫ですか?」
気遣う様に人寿郎へ語り掛けてきたのは、母である築山であった。
酷く魘されていたという人寿郎を案じるように、幼子をあやす様な眼差しで人寿郎の手を撫でていた。
「母上……。いえ、少しばかり悪い夢を見ておりました」
「まあ、可哀想に……。どのような夢だったのか、母に聞かせてはくれませんか?」
夢の内容を聴こうとしてきた母に人寿郎は、『あまり母上に聴かせられるような内容では……』と渋ったものの、結局は押し切られる。
仕方なく、「あまり気持ちのいい内容ではありませんよ」と前置きしたうえでぽつぽつと人寿郎は言葉を紡ぎ始めた。
「父上に、腹を切らされる夢を見たのです。それが妙に真に迫っていて」
その言葉に、今度は母の顔色が変わるのを人寿郎は目の当たりにした。
化粧で白く塗られた肌からさらに血の気が引いて、更に青白くなる。
ヒュっと喉から何か言葉を零しかけて、それを無理やり飲み込んだ様子の築山は「そうですか」と一言悲しそうに目を伏せた。
「大丈夫です。貴方は母が必ず守ります。もうその夢のようには絶対にさせませんからね……母がいれば、貴方が死ぬことは無いのですから……」
「母上……私は……」
そうして築山は、人寿郎を抱きしめる。
自分こそが母を守らねばと、人寿郎は言葉を返そうとして留まった。
築山が泣いているのが分かったからだ。
何故泣いているのか、人寿郎には分からなかった。
分からなかったが、自分をきつく抱きしめる母のか細い腕が痛々しくて、人寿郎は暫くその抱擁を黙って受け止める他無かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「親子の別れは済んだのか」
自らを案じる母親を制し、人寿郎はそれまで休んでいた部屋を発つ。
そんな彼に声をかけてきたのは、桜花だった。
「ああ。済まない、時間を取らせた」
「構わない。会えなくなってからでは、遅いからな」
「随分とはっきり言ってくれるんだな。まあ、その通りになるんだろうが」
自嘲するように笑って、人寿郎は目を伏せる。
桜花の言う通り、もはや負けは見えている。
この戦で、恐らく自分は死ぬだろう。
それでもいい。
「”誰もがその存在を迫害されず、いかなる人妖も受け入れられて暮らせる世を”などという綺麗事の理想に付き合ってくれた者達の為にも、私は戦わねば」
「……だが、もうその殆どは居なくなった。誰もが死ぬか、捕虜にされた」
「それでも、私を信じて戦ってくれたものに報いる為、意志を示さなければならない」
「死ねば意思を示せると?」
僅かに桜花の眉が顰められた。
その口調は真意を問う、というよりもその言葉に対しての正気を問うような、責めるような感情が込められている。
「本気さ。少なくとも、私が戦った理由を誰かに刻みつけることは出来る。生きた証を誰かに残すことは」
「同意できんな。死に様で生きた証や意志を残せるなど妄想だ」
桜花から出た言葉に、人寿郎は一瞬意外そうな顔を浮べる。
馬鹿な事をと一蹴されるかと思っていた。
否定された以上その想像はある意味では正しかったのかもしれないが、彼女の表情にはどこか、痛々しいものを見るような哀れみを感じられた。
(――いや、弱い癖に口だけは達者な私を、いっそ哀れに感じているだけだろう)
桜花はただの客将のような物だ。
人寿郎を哀れむ理由など彼女には無いのだから。
「――人寿郎様!!」
突然かかった声に、人寿郎は伏せていた顔を上げる。
息を切らせてかけてくるのは、歓吉だった。
「歓吉、足の怪我はもういいのか」
「築山様のお力をいただいたおかげで、この通りピンピンしております!っと、人寿郎様、急ぎ交戦の準備を」
「その様子は……姉上の軍が来たか」
「……はい。これまでのような牽制の軍ではなく、本隊のようです」
「ありがとう。――歓吉、この戦は負ける。賢いお前なら理解しているだろう。私を捨て、投降した方が……」
「そんなことを仰らないでくだせぇ!儂は、人寿郎様に取り立ててもらった身!立身出世の恩はこの命で!」
珍しく話を食い気味に遮った歓吉に、人寿郎は目を丸くした。
人寿郎からすれば歓吉が話を遮り、あまつさえ拒否したことなどこれまで一度たりともなかった。
面食らった様子の人寿郎に歓吉は「ご、ご無礼を申しました」と冷静さを取り戻す。
「皆も儂と同じく一丸となり、命を賭す覚悟で城の守りを固めております。どうか、戦闘のご下知を」
「わかった。私は、やはり、人の運には恵まれているようだ」
呟いた声は、歓吉には届いていないだろう。
でもそれでいい。
この声が届いてしまうのは、すこしだけ恥ずかしいから。
それでいい。
決死で戦ってくれている部下たちの様子を、命を賭けて戦うなどという言葉を嬉しいなど、とても言えたものではない。
主たるもの、部下を守らねばならないというのに。
「母上、どうやら私は、当主の器ではないようだ」
呟いた声は、誰の耳にも届くことなく冷たい廊下に吸い込まれていった。




