第三話 後編 魔法
「ピギィ……ッ!?」
不意に足場を失ったように、魔猪は悲鳴を残して水中に沈む。
後に残ったのは大きな質量が沈んだために出来た飛沫と波紋だ。
先ほどの三匹よりも頭の出来がいいのであろうことは幸いだった。
本能だけで動くのならば水面を見て躊躇したかもしれない。
だが魔猪は桃達二人が水面を走ったことで、自分も水面を走ることが可能だと判断したのだろう。
それが逆に仇になったわけのだ。
「お、おおう。凄いなこれ。なにやったんだ?」
「水の魔法だよ。水面を走れるようにしておいて、猪の足元だけそれを解除した。」
「お前いつの間にそんな……」
「水の魔法が得意だって気づいた切っ掛けがこれだからな」
あれは桃がまだ10歳の時だった。
泳げないのに館のため池に落ちてしまったのが切っ掛けだった。
パニックになってしまい桃は溺れ死ぬかと思ったが、幸いそんなに深くなかったこともあって酸素はすぐに確保できた。
しかしなんとか陸に上がろうとしても足元が滑って再び顔から水にダイブしてしまう。
周囲に人もおらず、どうにかせねばと色々考えているうち、水を踏み台にできたらなどと考えてしまった。
そうして現実逃避のような妄想の果て、それができていることに気が付いたのだ。
その時水の中に何かがあるわけではなかった。
本当に水そのものが踏み台になったとしか考えられなかった。
理屈は解らなかったが、ともかく桃はその時、水の中に見えない水の段差を作って、まさに水の上を歩いて難を逃れることができた。
それ以来、水を思い通りに操れることに気が付いた。
水を操り、水弾や水の刃を作って家中で披露して見せた際には、恵比寿は唖然。
幹久はひっくり返り、他の大人たちも「ありえない」と驚きで目を丸くしていたのは桃の記憶へ強烈に刻まれている。
それが魔法だということを聴かされたのはその後。
ただ、その時から自分の魔法がどこか変わっているらしいというのは周囲の雰囲気からも感じていた。
そもそも、ため池から脱出するときに使った力だって、桃からすれば書庫で得た魔法の知識と少し違っていた。
だからひょっとしたらと思いつつも、決定的に結びつけることもなかったのだ。
魔法を使えるようになるには精神的な安定が必要らしく、子供が魔法を使うのは異例だったらしい。
早くても体が子供を作れるように変わり、思春期を過ぎたあたりというのが一般論のようだった。
子供ながらに魔法が使えたのは、成り代わっていることが原因なのだろう。
しかし桃が早くから魔法を使って見せたことに恵比寿は少し難しい顔をして、魔法を使う時は必ず許可の元で使い、しっかり鍛錬するよう強く言い聞かせた。
その様子に、以来桃は力の制御の練習も兼ねて武器の扱いや格闘術の合間に魔法の鍛錬してきたのだ。
精神的な安定を戦闘中も保てるように、肉体的にも精神的にも鍛錬を重ねた。
「へぇー……」
「俺らも一旦陸へ上がろう」
勇魚が恐る恐るつま先で水面をつつくが、水面は波紋を起こすだけで沈む様子はない。
魔猪は沈んだが、たぶん泳いで上がてくるだろう。
彼らは泳ぎが得意で、桃の前世の世界でも瀬戸内海で泳いでいる姿が目撃される程だ。
こちらの猪も基本的に同じなら、泳ぎはそこそこ得意なはず。
あいかわらず水の上という状況に慣れないのか、桃は恐る恐るといった様子の勇魚の手を引いて陸に上がった。
すると同じようなタイミングで少し離れた岸に魔猪が上がってくるのが見えた。
身体に付着した泥の鎧は、遠目にはある程度落ちているように見えた。
ずぶ濡れになった挙句泳がされて幾らか泥が落ちたからか、先ほどよりも威圧感を感じない。
「これで泥もある程度落ちたはずだ。武器も通るかも」
「よっしゃ。こいつを奴頭に叩き込んでやる」
「おれは大きな隙が出来たら魔法で攻撃してみる」
追いかけられていない状態で、ようやく二人の視界に魔猪の身体全てが収まる。
勇魚を超える体高であったことは解っていたが、頭1つ2つ超えるどころではなさそうだった。
大型のトラックか、市バスくらいの存在感はある。
あれほどの巨体に怯まず、腰に下げた予備の斧を手に取りながら意気込む勇魚が桃には頼もしかった。
一方の魔猪はぶるぶると犬のように体を震わせて水滴を飛ばすと、先ほどとは打って変わってすぐに攻撃行動には映らずに此方の様子を窺っていた。
いくら泳げたとしても、陸上の生き物がいきなりそこそこ深い水に落とされたのは堪えたらしい。
なにかまた企んでいる可能性はある。
しかし勢いの失せたこの機を逃す手はない。
「おぉぉりゃ!!」
勇魚が腰から斧を振りぬき、魔猪に突貫するとその側頭部に思い切り斧を叩きつける。
魔猪は牙で追い払おうとするも、斧が側頭部に深く食い込んで出血させたことで僅かに怯んだ。
やはり一撃では大きな傷は与えられない。
だがその僅かな隙を突いて、勇魚はもう一度斧を振りかぶる。
今度は目を狙って一撃。
一際大きな悲鳴と共に、魔猪がよろめく。
「……っ!!」
大きく体制を崩した魔猪に対して、すかさず桃も剣鉈を抜いて逆側の側頭部、目に向けて振り下ろす。
二度目の大きな悲鳴が上がり、魔猪は怒りに任せて暴れまわった。
これで視界は奪った。
巨体に踏みつぶされないように暴れまわる魔猪の身体を潜り抜けて、今度は首に向けて剣鉈を振り下ろす。
鈍い音と感触。流石に固い。
最も、剣鉈は解体の用途に使うことが多いから弾かれるのは想定内だ。
先ほど槍で攻撃したときのような泥の鎧がなくとも、幾重にも重なった筋肉と太い首の骨は容易に武器を弾いてしまう。
勇魚も同様に眉間へ斧を振り下ろしたが、こちらは分厚い頭蓋骨に弾き落されてしまったようだ。
そうこうして居うるうちに魔猪も多少パニック状態から解放されたのか、一旦距離をとった桃と勇魚に向けて突進の準備を始めた。
鼻をしきりに動かし、匂いを探っているあたり完全に視界は潰せているようだ。
「させるかぁ!!」
勇魚が叫び、突進の準備に入った魔猪へ再び突貫した。
その声に反応して魔猪も突進を開始する。
「ぬぅぅぅううおおお!!」
しかし勇魚の方が早かった。
勇魚は即座に槍を地面に突き立てて両手の自由を確保すると、まだ走り始めの魔猪の牙を掴んで突進を受け止める。
そしてそのまま雄たけびを上げて、力いっぱい魔猪の巨体を押しとどめた。
「まだ勢いがついてないなら、避けるまでもねえ!!」
目に見えて勇魚の足腰に力が入るのが分かった。
再度雄たけびを上げながら、魔猪の牙を掴んだまま上体を捻る。
魔猪も負けじと押し込もうとするが、それは次第に崩されまいと抵抗する姿勢に変わっていった。
それでもかまわず勇魚はゆさぶりをかけ続ける。
「ふんっ!!」
そして何度目か。
互いの力を比較するかのような応酬の末に、とうとう均衡は崩れた。
大きな土埃と音を伴い、魔猪が地面に叩きつけられる。
まさか自分が負けるとは思っていなかったのか、あるいは頭でも打ったのか、魔猪の動きが再び止まった。
(チャンス!)
その隙に、桃が再び指輪を通して周囲のマナから魔法を作り出す。
先ほどの【鉄砲雨】は人を殺し、大木に穴を空けるくらいの威力はあるはずなのだが、それでもこの巨体にとっては虻や蜂に刺された程度のものだろう。
もっと威力のある技が必要だ。
武器は破壊された。保険に持ってきた武器も効き目が薄い。
(そういえば、水はカッターにもなるんだったな)
前世にもたしかウォーターカッターなんてものがあったな、と桃は記憶を手繰る。
高い圧力をかけた水で金属も切断するあれだ。
漫画やゲームでも、刃物のように水で何かを切断する描写があった。
自分のかつての妄想と想像力を頼りに、桃は魔力を込めた水を形作っていく。
再び横倒しになった身体を起こそうとする魔猪を勇魚が再び抑え込む。
「やれ!桃!」
「恩に着る!」
狙うのは勇魚を巻き込まず、肉質の柔らかいであろう腹部。
形成したのは丸鋸のような水の刃。
薄い円盤状に形作られたその水は、圧力と速さを備えた水の刃だ。
それが幾重にも重なって、水流となって円形に流れている。
名づけるなら【水刃輪】と言ったところか。
昔夢中になっていた特撮ヒーローが似たような技を使っていた。
テレビの中のヒーローは投げていたけれど、桃にはまだそんな技術はない。
「だから直接叩き込む!!」
むき出しになった下腹部。拳ごと【水刃輪】を突き込むと、返り血が降りかかるのも構わずそのまま胸にかけて振り抜く。
先ほどまでと違った肉を断つ手応えがあって、まるで違った感触が拳から体に纏わりつく。
臓物ごと断ち切った。今度こそ致命傷のはずだ。
大量の血を吹き出した魔猪はその体を魚のように大きく二度跳ねさせると、そのまま力尽きた。
「「や、やった……」」
ほんの少し間をおいて、緊張が解けて二人して腰を抜かした。
先に戦った三匹だけならまだしも、こんな大物を相手にするなんて思わなかった。
「けど、やっぱ桃はスゲーよ。もうあんなに魔法を使いこなしてるんだ。父上もきっと大喜びだぜ」
「だといいな」
「いいや、大喜びだね。お前の事いっつも気にかけてるからな。ちょっと妬けるぜ」
「けどなんだかんだ勇魚の事頼りにしてるんだよ。気にかけてくれてる俺に同行させたんだから」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
事実勇魚や幹久がいてくれて本当に助かったと桃は胸を撫でおろす。
幹久の警告を無視して逸れてしまった挙句また失敗しましたでは申し訳が立たない。
気の抜けたやり取りをしつつも勇魚に礼を言って一息つくと、僅かにに差し込んでいた日差しが突然陰った。
「爺様。もう終わりました……よ……」
座り込んでいる自分の背後に幹久が追いついたのだと思って桃は声をかけたが、違うと察して息を飲んだ。
勇魚が先ほどとはうって変わった緊迫した表情で固まっていた。
上からぽたぽたと垂れてくる雫が、自分が腰を下ろしている草花を赤く染める。
血だ。
そこまで認識して、後ろを見上げるように振り返った。
「……嘘だろおい……」
日差しを遮っていたのは、致命傷を与えて倒したと思っていた魔猪だった。
傷だらけの体を引きずりながらも盲目のはずの頭を向けてこちらを見下ろし、相変わらず敵意を向けている様子だ。
魔獣というのはここまでタフになるものなのか……。
逃げるか、躱すか。
それもこの姿勢この状態で間に合うか。
武器は先ほども効かなかった。
魔法……これも間に合う保証はない。
それでも反射的に体を動かそうとしたその時、空気を切り裂く音と共に風を纏った矢が魔猪の眉間を捉えた。
いや、捉えたという表現は生ぬるい。
矢は最初の三匹以上に頑強で巨大な体を貫き、眉間から向こう側が覗けるほどの大穴を開けている。
そして今度こそ、力なくその体が崩れ落ちた。
こんな芸当ができる人物を、自分は一人しか知らない。
「爺様だ……」
その声に応えるように弓を携えた老爺が藪の中から現れる。
山の中を駆け回ったのか鎧のあちこちに草花の種や破片を付けた幹久は、それでも息一つ乱していなかった。




