第六十九話 天泣の子守唄
――ああ、私はまた子を失うのか。
蘇芳の将の攻撃で我が子を懐から取り落した時、視界が酷くぐらついた。
手を伸ばしたとしても間に合わない。
まるで土塊を撒くように、ぼろぼろと幼い我が子は崩れて落ちていく。
急ぎ地上に降り立って無惨に割れた我が子の頭蓋を抱えても、我が子は応えない。
既に、我が子は居ない。
もう既に、我が子の身体は骨となり、血も肉も魂もそこには無い。
抱きかかえていたその骸を地に晒して、嫌というほど突きつけられてしまう。
認めたくなかった事実を。
嗚咽が叫びとなり、喉を割くように湧き続ける。
肌身離さず抱え守ってきた亡骸が砕けた。
これではあの方に蘇らせてもらうことが出来なくなる。
私とこの子を繋ぐ物が砕けた。
私は二度も子を殺してしまった。
憎悪と悲哀、絶望と失意。
あるのはあらゆる負の感情のみ。
血を吐くような痛みと苦しみがあって、目の前が真っ暗になった。
もう何も考えられない。
もう何も。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(……そうか。あの妖怪、子供を亡くしたのか)
様変わりした己の姿に目もくれずに、相も変わらず泣き叫び続ける姑獲鳥を見て勇魚は過去の記憶を思い返していた。
あれは二年ほど前だったか。
父に連れられて、領内で土砂崩れの起きた地域へ救援に行った時だ。
まだ当時は、早く戦に出られるようにと訓練場で槍を振るっているような時期で、勇魚は初陣に出る時を今か今かと心待ちにしながら己を磨いていた。
領内の兵達とも渡り合えるようになり、それなりに槍を振るう姿が様になって来た辺りで、勇魚は桃と共に父に呼び出された。
いよいよ初陣に出られるのかと鼻息荒く父の元に参じた勇魚だったが、行ってみれば内容は災害地域への救援。
大切な仕事だと理解しつつも父の口から告げられた言葉は期待とは違ったもので、内心がっかりしたものだ。
領内で土砂崩れが起きていたことは聞いていたし今にして思えば想像できそうなものだが、当時の自分は今以上に考えの至らない奴だった。
なにより領民の命と生活よりも己の功名心に目が行っていたのだから、救いようがない。
ともかく、そんなわけで勇魚は桃と一緒に土砂崩れが起きた村を訪ねた。
そこで勇魚は自分の考えの浅はかさを思い知らされた。
見た事も無いような大量の土砂と、木と石くれが沢山の家を押し潰していた。
村は勇魚も桃も初めて訪ねた場所だったが、それでも同じような規模の他の集落を訪ねる機会は何度もあった。
それがあっさりと壊滅状態になっていた。
人の生活とはかくも脆く崩れ去る物なのかと絶句した。
昔から父や幹久の話で、そういったこともあるのだと理解しているつもりだったが、実際に壊滅状態の村を見て言葉が出なかった。
自分と同じように言葉を失くして唖然としていた桃も同じだったと思う。
多くの人手と時間をかけながら土砂を掘り起こして、土砂に飲み込まれた村人達を引っ張り出したが、ほとんどが手遅れだった。
そんな中、どうにか見つけることが出来た骸を無事だった場所に並べていた折、勇魚は子供の躯の前で両手で顔を覆い肩を震わせる女を見つけた。
声をかけてみれば、女はこの子供の母親だという。
人目も憚らず声を上げて泣く女を見て、勇魚は酷く胸を締め付けられた。
母親の前に横たわる泥に塗れた活発そうな顔立ちの幼い少年の亡骸は、泥に塗れてボロボロだった。
子供特有の柔らかそうな細い腕はあらぬ方向に痛々しく曲がり、生き埋めになった後も暫くもがいていたのか爪は所々割れている。
この土砂崩れが起きる前まで、彼は遊び、両親に甘えて、笑顔を浮かべていたのだろう。
それを突然あっさりと奪われた喪失感は如何程のものか。
まだ親になったことのない勇魚には、その悲しみや辛さを想像できても推し量ることが出来ない。
声をかけたくても、自分にあの母親の悲しみの何が理解できるのか。
それを考える事すら烏滸がましい気がして、勇魚はただただ拳を強く握りこむしかできなかった。
「勇魚、桃。あの母親の姿を目に焼き付けておけ」
「父上」
「俺達上に立つ人間が間違えれば、ああやって泣く奴らを増やすことになる。戦や災害、病を完全に無くすことはできんが、俺達は治める立場の人間として、奴らを守らなきゃならねえ」
「治める立場の人間として……」
「そうだ。今後お前たちが兵を率いるようになれば、声ひとつで連中は命を賭けるだろう。戦でなくとも判断ひとつで多くの命の行方を左右することもある。だからあの母親の姿を絶対に忘れるな」
その時の父の言葉とあの母親の姿は、今でも一言一句違わずに心の中に焼き付いている。
姑獲鳥の嘆く様は、あの時子供の骸の前で嘆く母親とよく似ていた。
なによりあの時、空から零れ落ち、転がって砕けた髑髏を見れば自ずと答えは出る。
「ハヌマン、後は俺に任せてくれ」
「……はい、分かりました」
前に立ち振り返らず告げた勇魚の言葉に、ハヌマンは頷く。
有無を言わせないだけの力強さが、そこにはあった。
(姑獲鳥は倒さなきゃならない敵だが……)
五感に魔力を通す。
視覚と聴覚に直感的に感じるのは音の波だ。
今の勇魚は、音の波をそのまま形として認識出来ていた。
勇魚がその音の波から己とハヌマンを守る様に鼻腔と喉から入る空気を震わせると、まるで鯨の歌うような音が、勇魚の身体から発せられた。
震えは壁となって、姑獲鳥の叫びを打ち消していく。
勇魚はその音の壁を持って、姑獲鳥へ一歩一歩確実に近づいて行った。
姑獲鳥は相も変わらず勇魚達の事が目に入っていないようで、今は泣き叫びながら地面を漁って砕けた我が子の亡骸を集めていた。
「姑獲鳥……」
声をかけても、此方に対して反応しないのは変わらない。
子を失った母親の嘆きとは斯くも大きなものなのかと、改めて突きつけられる。
姑獲鳥に至っては亡骸をずっと抱いていたようだから、猶更だろう。
それでも、今は情をかけていられる時ではない。
差し伸べたい手をぐっと堪えて、勇魚は槍の柄を姑獲鳥の背に添えるように当てた。
(感覚で分かる。この力の源を俺は知ってる。俺の血に眠っていた魔物の力は……)
勇魚神。
父から聞いた、自分の名の元にもなった鯨のような魔物の一体。
海の恵みを連れてくるこの魔物は、豊漁や漂着の恵みの象徴として、同時に海の脅威として古くから蘇芳の漁師たちに信仰されていた。
そして漁師たちによれば、彼らのような鯨の姿をした魔物は、音を使うという。
話を聴いた時はピンとこなかったが、自分の血に流れ込んできた力で漸く理解できた。
今の自分は空気の振動を使い、音を使うことが出来る。
音でなにが出来るのか、全て理解することはまだできないが、漁師たちの話から、ひとつだけ出来ることを知っていた。
――曰く。鯨も鯨の魔物も、音で獲物を探し、音で獲物を気絶させることがある。と。
鯨の魔物は空気や水へ振動を自在に与えることで、攻撃や防御に使う。
それこそが、勇魚の血に流れる魔物の性質であった。
息を吸い込み、勇魚の肺に空気が満ちる。
その空気に、魔力が込められていく。
空気。即ち属するのは、風の属性だ。
そして鼻歌でも歌うような感覚で、己の魔力を込めた空気を吐き出すと、その響きは音波となった。
音の響きは槍と共振し、さらに鼓膜を通じて姑獲鳥の身体を内と外から震わせた。
姑獲鳥の脳と内臓に走ったのは、強烈な衝撃。
「――!!」
突然の衝撃に、 姑獲鳥の嘆きがほんの短い間途切れ、そのまま姑獲鳥は前のめりに倒れ込んだ。
赤く腫らした目元に涙を浮かべながら、うわ言のように繰り返される謝罪は我が子に向けた者だろうか。
その姿をどこか痛ましい気持ちで見下ろしながら、勇魚は槍を下ろした。
同時に勇魚を取り巻いていた魔力が霧散し、変わっていた姿が元に戻っていく。
いつの間にか、あれだけ強く感じていた桃の魔力も小さくなっていた。
弱まっているというよりは物理的な規模が小さくなった感じだから、あちらも戦闘が終わったのだろう。
それと同時に、ぽつぽつと顔を小さな水の粒が叩き始める。
「勇魚様、お疲れ様です。申し訳ありません。最後まで戦えず」
「いいさ。今回は俺の力の方が相性良かったってだけだよ。ハヌマン、まだ戦えそうか?」
「……正直、すこし支障がありそうですね」
「そうか。なら無理は出来ないな。俺も正直初めて魔法なんて使ったから、正直疲れちまった」
「桃様を追いかけたいですが……」
「やめておいた方がいいだろうな。この感じだとあっちも終わったようだし、姑獲鳥の身柄も確保しないといけないし、やりたいこともある」
「やりたいこと、ですか?」
「ああ。正直今やるような事じゃないかもしれないが……」
勇魚はその場に屈むと、姑獲鳥が漁っていた地面から小さな骨の欠片をひとつ手に取る。
「もう敵兵もほとんど引いたみたいだし、桃達の方も終わったみたいだからさ、悪いが俺の自己満足に手伝ってくれないか。時間が経ったら見つけるのに苦労しそうだ」
掌に乗せたその欠片を見て、ハヌマンも勇魚のやろうとしている事を察したようだ。
ハヌマンはそんな勇魚の行動を責めるでもなく、微笑んで走り寄る。
「では、私は先に姑獲鳥を本陣へ連行します。その時に手の空いている者を集めてきますよ」
「悪いな。ほんとにただの自己満足なのに」
「今回の戦は皆勇魚様に勇気づけられていたようですから。それくらいは許してくれるでしょう」
「ああ。ありがとうな」
幸いというか、姑獲鳥の子の亡骸は完全に粉々になった訳ではない。
ある程度形が残っている骨の欠片を拾い集めていると雲間から日差しが再び射してくる。
水面が反射するその眩しさに、思わず勇魚は目を細めた。




