第六十八話 姑獲鳥の叫泣
桃が桜花と再度対峙する少し前、勇魚とハヌマンは姑獲鳥の攻撃の数々を捌きつつも、苦戦を強いられていた。
「くそっ」
肩で息をしながら、勇魚は正面の姑獲鳥に向かって槍を構える。
突き刺すような勇魚の視線を、姑獲鳥は静かに受け止めていた。
姑獲鳥はやはり懐に何かを抱いているのか、片方の翼は常に何かを抱え込むように着物の懐を支えている。
その為か、翼があるにも関わらず姑獲鳥が戦いの中で空を飛ぶことは無かった。
それでも跳躍力が人間離れしているのか、一度彼女が足に力を込めて地面を蹴れば羽搏かずとも、姑獲鳥は容易に空高く跳びあがる。
空高く跳んだ姑獲鳥はそれこそ空を舞うように軽やかな動きを見せ、上への警戒を怠った瞬間、空中からの攻撃をお見舞いされることになる。
投げつけられる羽根の先は鋭く尖っていて、その威力は周囲の兵士の死体を纏う鎧ごと容易く貫き、深々と突き刺さる。
人の身体を貫通するほどの威力とまではいかないものの、数が数なので十分脅威だった。
だが問題はそこではない。
問題は此方の攻撃が届かない事だ。
近づこうとすれば姑獲鳥は巧みに攻撃を躱し、確実に距離を取ってくる。
相手だけが思う通りに動き、此方は一方的に動かされているような状況だ。
それはハヌマンも同じようで、飛んでくる羽根を残らず叩き落しながらも姑獲鳥に対する上手い攻撃手段を見いだせずにいた。
弓でも持ってくれば違ったかもしれないが、それはそれで当てられるかの保障も無い。
幸いなのは、相手の隙自体は存在するという事だった。
片翼でなにかを抱きながら戦っている事もそうだが、勇魚からすればどうにも姑獲鳥が目の前の戦いよりも、懐の何かを庇う事を優先しているように思えてならなかった。
さらにもうひとつ、羽根による攻撃をある程度続けた後には、再び羽根が生える為の時間が必要らしい。
加えて流石に羽根も無限ではないのか、その必要時間が徐々に伸びていき、翼自体も少しずつ小さくなってきている様子だった。
そして代わりに足の蹴爪を使った攻撃が増えてきている。
その蹴爪の攻撃の瞬間を狙って、少しずつだが勇魚とハヌマンも攻撃に転じる事が出来ていた。
ただ一つ、足りないのは決定打なのだ。
「ハヌマン!何か手は無いか!」
互いに背を向けた状態で放たれた勇魚の言葉に、ハヌマンもまた振り返らずに「無い事も無いですが」と短く答えた。
桃はハヌマンの力の方が狛よりも相性が良さそうだと言っていた。
その見込みを信じるのであれば、突破の糸口はハヌマンにあるかもしれない。
「どうすればいい」
「時間を稼いでいただきたく。まだ魔法に慣れていないので、集中が必要なのです」
「わかった」
そう言って、ハヌマンは地面に三節棍を突き立てて目を閉じた。
勇魚もまた、ハヌマンへ攻撃が向かわぬように槍を取り回す速さを上げる。
姑獲鳥の攻撃に対し、勇魚はあらゆる手段と槍の構えをもって対応していく。
ハヌマンが攻撃の準備のために手を止めたことで防ぎきれない攻撃は出ている。
それでもハヌマンは無傷のまま、勇魚もかすり傷程度しか負っていない。
姑獲鳥の羽根と蹴爪の雨が激しさを増していた中、防御のみに意識を割く事で勇魚は攻撃を凌いでいく。
その嵐のような槍撃の壁の中で、ハヌマンはひたすらに目を閉じて気持ちを鎮めていった。
「随分と耐えるのですね。あなた達に母を攻撃する手段など無いでしょうに」
「そう思うんなら降りて来てくれると助かるんだけどな。その羽根も無限じゃないだろうに」
姑獲鳥の翼腕は、戦い始めた頃よりも少しだけ小さくなっている。
最初はハヌマンや勇魚を丸っと覆いつくす程の影を落としていた彼女の身体は、あきらかに二回りは小さかった。
「おもったよりもよく観察しているのですね、確かに、母の羽根は無限ではありません」
「じゃあどうするよ。このままじゃ決着も付かないぜ」
「確かに、早くあなた方を仕留めて、残りの追手を叩かねばなりません。しかし母の羽根では仕留め切るのは難しそうというのも事実。ここは他の手段を取らせてもらいます」
淡々とした口調で、勇魚達の周りを跳ねまわっていた姑獲鳥は、そのまま獲物を狩る様に勇魚達へと蹴爪での襲撃を始める。
(ぐおっ……!?)
槍で受け止めた勇魚だったが、受け止める度に、地面を削って勇魚の身体が徐々に下がっていく。
異常なまでの跳躍から繰り出される襲撃は一度の跳躍で何度も振るわれ、槍で受け止める度に絶大な負荷が勇魚にかかった。
空を自在に飛ばずとも、あの跳躍だけで十二分に高さと威力を稼げるのだと、勇魚は攻撃を歯をくいしばって耐えた。
(くそっ、長くは持たねえ!ハヌマン、まだか!?)
感じるのは空気の流れ。
先ほどから明らかにハヌマンの周囲に集まり始めて、風の渦のようになっている。
ちらりとハヌマンを見れば、彼を中心に地面の小さなごみや砂粒が舞い上がっていた。
その様はなにか見えないものを従えているようで、攻撃を受け止めている最中にもかかわらず勇魚は一瞬目を奪われた。
「――。」
ハヌマンの目が、ゆっくりと開かれる。
その目にはどこか翡翠のような色の輝きを湛えていて、姑獲鳥はその様子に思わず距離を取った。
「勇魚様!!もう大丈夫です、ありがとうございます」
「来たか!」
「――!何をするつもりかは分かりませんが、させませんよ」
姑獲鳥の心の内に、あのまま距離を詰めて蹴爪を浴びせるべきであったと後悔が過る。
何か来るのは間違いない。
それでもと、突如防御の構えを解いた勇魚と、なにかを仕掛けようと棍を回転させ始めたハヌマンに、姑獲鳥は跳躍してこれまでで一番の物量と密度の羽根を飛ばした。
勇魚の目には鋭い羽根先が鈍く光を帯びて、まるで針山が迫るようにその光景が映っていた。
だが、勇魚は逃げない。
代わりと言わんばかりに前に出たのは、ハヌマンだった。
【仙猿大風車!!】
(これは……!風魔法!!)
突如巻き起こるのは竜巻。
混の回転によって巻き起こった風は渦を巻き、姑獲鳥の飛ばした羽根の壁を容赦なく飲み込んでいく。
「ぐぁ……!」
風に巻き込まれる形で、羽根は風の渦の流れに乗って他でもない姑獲鳥自身を襲う。
その内の一本が、姑獲鳥の翼腕を捕らえた。
同時にいくつかの羽根が彼女の着物を切り裂いて、姑獲鳥が懐に抱えていた者が地面へと落ちていく。
「あれは……!」
それは勇魚やハヌマンも過去に何度か目にしたものだった。
落ちていくのは小さな小さな布の塊。
赤子を包む、所謂お包みだった。
落下の最中に外れたその布から現れたのは、小さな小さな髑髏。
ボロボロと欠けるようにバラバラになっていく無数の骨を、勇魚もハヌマンも、姑獲鳥自身も唖然として眺めていた。
「ああ……あぁ……、ああぁぁぁ!!!」
その中で、一番早く動いたのは姑獲鳥だった。
勇魚とハヌマンには目もくれず、ばらばらと落ちていく骨の破片を追う様に落下していく。
姑獲鳥はそのまま抱えていた亡骸が落ちた地面をじっと見つめ、バラバラになった骨を抱えて肩を震わせ始める。
そして空を仰いだかと思うと、この世のものとは思えぬ叫び声を上げながら徐々にその姿を変え始めた。
「あ……ああぁ――――!!!」
「うっ!?」
「ぐあっ」
勇魚とハヌマンは、とてつもない音量と不快な響きに思わず耳を塞いた。
ありとあらゆる人間と動物の泣き叫ぶ声を合わせたような音だった。
なんとか姑獲鳥の方向に目をやれば、その体から羽毛が次々と生え始めていくのが見えた。
やがてその全容が現れ、人の形に近かった姑獲鳥の、本当の姿が現れる。
大きな爛爛とした目と、子供であれば丸呑みできそうなほど大きな嘴。
四つに分かれた翼の内二つは自らを抱きかかえるように、鋭かった蹴爪はその威容を増し、全身は暗緑色の羽毛で包まれている。
大化鳥と化した姑獲鳥はまるで子を失い嘆く親のように泣き叫び、周囲にその異様な声を響かせていた。
(――耳が……!馬鹿になりそうだ……!)
耳を塞いで尚、その声は鼓膜を揺さぶり続ける。
まるで人の恐怖の根元に訴えかけるような呪詛の如き響きは、衝撃波となって姑獲鳥の周囲に落ちている石を粉々に砕き、その周囲には近寄れそうもない。
なにより、近づくほどに勇魚とハヌマンの脚は無意識に竦んでしまう。
頭では脚を前に出そうとしているのに、身体がそれを拒んでいる。
まるで見えない腕に足を捕まれているようだった。
「くっそ……!頭が痛てぇ……!ハヌマン、大丈夫か」
「なんとか……しかしこれは……」
鼓膜に叩き付け続けられる姑獲鳥の叫びは、耳を通り越して頭に割れんばかりの痛みを与えてくる。
勇魚程喋るのに難儀していないあたりハヌマンは勇魚と比べて幾分かマシのようだが、それでも徐々に彼の身体から力が抜けていくのが分かった。
次第に立っていられなくなり跪くように倒れる二人に目もくれず、姑獲鳥は叫び声を上げ続ける。
(気を失いそうだ……、それに何か、身体が異様に熱い……)
勇魚が這いずる様に姑獲鳥に近づいていくたびに、割れんばかりの頭の痛みは酷くなっていく。
空気の震えの中で、身体がバラバラになりそうだった。
その中でなぜか、勇魚はだんだんと体に熱が籠っていくような感覚を感じていた。
酷くなっていく頭痛の一方で、この身体から感じる熱さは不思議と不快ではない。
その熱に焚きつけられるように、胸に火をくべられたかのように勇魚はギラリとした目で姑獲鳥を睨み続ける。
(あいつだって、桃だってこの戦で貢献したんだ……!俺だって……)
勇魚は知らない。
身体に熱が燈ったのと同じ頃、桃が桜花と対峙していたことを。
桃がその身に、新たな力を纏おうとしていたことを。
心臓が早鐘を打つ。
全身をめぐる血液が、まるで沸騰するような熱さだった。
いつの間にか、その熱さに姑獲鳥の叫び声が意識の外に追いやられていく。
姑獲鳥は相変わらず空を仰ぎ泣き喚いているようだったが、その声が意識の外に追いやられたことで徐々に勇魚の身体は動くようになっていた。
ハヌマンも同じようで、二人は武器を支えに立ち上がる。
ひどい頭痛によって頭が揺さぶられていたようにふらついていた身体が、徐々にその芯を取り戻していく。
そして体を駆け巡る熱にも慣れ始めた頃、唐突に大気が震えて空が薄暗くなった。
(なんだ……?なにか……)
体中に雷でも駆け回った様な感覚があった。
それに伴い感じるのは、大きく魔力が動く感覚。
空は、姑獲鳥の時のように上空からなにかが飛来してきた影で暗くなったわけでは無い。
見上げれば晴れていた筈の空には分厚い雲が垂れこめ、今にも雨が降り出しそうな空模様になっている。
その分厚い雲に、勇魚とハヌマンは、なぜかよく知った顔を連想する。
「ハヌマン、大丈夫か」
「ええ。しかしどうしてでしょう。体が熱い……でも、姑獲鳥の叫びがなぜか少し楽になりました」
「俺もだ。というかこの感覚は……」
「桃様、ですよね」
「ああ」
間違いない。
感じたことも無いほどに強い魔力だが、なぜか二人には理解できた。
体中を巡る己の血が熱くなるのは、身体に流れる血がそれを教えているのだという感覚があった。
それだけじゃない。
(……俺の中にも、今まで感じなかった魔力を感じる。自分の血の中に眠る何かも明確に)
「……ハヌマン、すこし姑獲鳥と周囲の様子を見張ってくれ」
勇魚の唐突な頼みに、ハヌマンは一瞬疑問を顔に浮かべた。
しかし勇魚の、静かで酷く落ち着いた表情を見て、ハヌマンは何も聞かずに「わかりました」と答えて武器を構える。
姑獲鳥を視界に捉えたまま、勇魚は己の内側へと意識を向けた。
変わらず叫び続ける姑獲鳥の声の中で、徐々に自身の心臓の音が明確になっていく。
その音のさらに内側に感じるのは。水の中の音と何かの鳴き声。
聞いたことのないこの声を何故か自分は知っている。
(――鯨……?)
それは声とも、音とも取れる響きだった。
ただ勇魚の中でそれを意識した途端、徐々に己の中にぼんやりと燈った魔力が明確に形を持っていくのが分かった。
――ああそうだ、この感覚だ。
水中で揺れるなにかを掴むような感覚が、勇魚の中に走る。
その瞬間、卵の殻を潰したように中の魔力があふれ、勇魚の身体を包んだ。
手の平から、頭に、身体に、つま先や武器に至るまで勇魚から溢れた魔力がその全身を隠して、やがて海を割る様にその姿を現す。
背から腰に掛けて大きく羽織のように伸びた尾鰭。
周囲には無数のマナで作られた魚影が浮かび、その手にある槍は魔力によるものか、三叉の銛のような形に変化している。
体は視認できる程の分厚い魔力の壁で覆われており、その体躯もひと回り大きくなっているように見えた。
「勇魚様……その姿は……」
「ああ。なんで今まで出来なかったのが突然って思うが、やっと掴めた。きっと桃のあの大きな魔力が、呼び水になってくれたんだ……」
勇魚はゆっくりと目を開く。
その変化に驚くハヌマンを他所に、勇魚は確信めいた口調で続けた。
「これが、俺が血の中に濃く受け継いだ……魔物の力だ」




