第五十六話 約束
「ぅがぁああああ!!」
背中が燃えるように熱かった。
飛び上がる様に桃と反対側の室内へカワベエは転がっていく。
何が起きたのかと背中に触れたところで、不快な滑りを感じた。
「うげぇ!!」
血だ。
斬られたのだと自覚して、ジクジクと傷口が痛み出す。
荒れた呼吸と心音が血液を送り出す度に、痛みが大きく広がっていくようだ。
「なぁんだ。避けたんね」
「その口調……糞ったれ……!出てきやがれ!!」
「はいはい」
闇の中に、白くぼんやりとしたものが浮かんでいた。
ひらひらと、ゆらゆらと、蝋燭の灯りで弱く薄く照らされるそれは、どこか幻のようだった。
カワベエの目の前に現れたのは、幾つもの帯状の白い布を身に纏った、一人の女。
包帯でも巻くように顔を片目を隠し、顔は良く見えない。
だがよく見れば覆い隠していない方の片目は爛爛とした青い光を灯し、その眼差しには背筋をすっと撫でられたような不快感があった。
脚と呼べるものは見当たらず、身に纏う布が同化するような形で其の儘ゆらりと宙に垂れ下がっている。
特徴的で異質なその姿を、間違えるはずもなかった。
「……一反木綿!!てめえ……」
カワベエに睨みつけられるも意に介さず、宙に浮かぶ人影……一反木綿は煽る様にカワベエの周囲を回遊し始める。
「誰かと思えば、キスケの腰巾着のカワベエでねぇか。生かしておいてやった恩も忘れて、よくもまあ顔を出せたもんだ」
「そりゃあこっちの台詞だぜ……。兄貴を殺したのはてめえって聴いたぜ。そんなお前がよく顔を出せたもんだ……。なんで兄貴を殺した」
「そりゃ決まってるだろう。キスケは負けて捕虜になった。助けるよりも殺して口を封じた方が楽だったからさ」
「てめぇ、それでも仲間かよ……!」
「仲間、か。勘違いしているみたいだがね、同じ陣営にいるから仲間ってわけじゃないんだよ。ただ皆人寿郎様の元に集っただけ。集まるだけじゃ仲間とは呼べない。貢献が必要なのさ。あんたたち新入りは大した貢献もしていなかった」
「兄貴は、俺らは一生懸命やってた!それがなんで!」
「だから、勘違いするなって言ってんじゃろ。それじゃ足りんの。一生懸命やるのなんて当たり前。なにか価値を見せてくれなきゃあ、認められない」
「くっ!」
ちぐはぐな口調ながら鋭く突き刺すような言葉に、カワベエが詰まる。
それは兄貴分も自分も自覚していたことだったからだ。
運よく人寿郎の軍勢の話を耳にして、突然入って来たただの新入り。
だからこそただどんな小さなことでも引き受けた。
兄貴分は礼儀正しいわけじゃないが人当たりは良かったから、皆笑顔で接してくれているように見えた。
新入りなりに、少なくとも兄貴分の事は皆認めてくれていると思っていたのに。
「少なくともあんた達は捕虜の状態から救われる程自分たちの価値を示せなかった。キスケはアンタが足を引っ張ってなきゃそこそこイケただろうけどね」
「――!!」
キスケは歯を割れんばかりに食いしばった。
自覚はしていた。自分がキスケの足枷になってしまっている事は。
なにが弟分だ。
一反木綿の言う通り、ただの足手まといの腰巾着。
自分がいなければ敬愛した兄貴分は失敗などせず、今頃皆に認められていたのか。
「俺は……」
「キスケも馬鹿な兄貴分だよ。出来の悪い弟分なんざさっさと見捨てりゃいいのに、あんたよりはマシだと思ってたけど、やっぱり同類の取るに足らない連中……まさに屁の河童ってところかね」
「てめえ!!ぶっ飛ばす!!」
度重なる兄貴分を愚弄する言葉に対し、カワベエは声を荒げる。
しかし一反木綿はケラケラとその言葉を一笑に付した。
「お前があたしに敵うわけないだろ。寝言は寝て言いな」
「抜かせ!俺を生かして置いたこと、後悔させてやらぁ!!」
カワベエが甲羅を手に出現させて、ブーメランのように投擲する。
一反木綿はそれを文字通りその攻撃を鼻で笑いながらひらりと躱すと、そのままカワベエの腕を身体に纏った布を伸ばして捕まえた。
「……ぐっ……」
腕を取られたカワベエも負けじと、転がされぬように布を掴んで綱引きを始める。
「ほれ」
「うぉ!」
しかしその努力もむなしく、一反木綿は自ら伸ばした布をあっさりと切り離した。
カワベエはそのまま後ろにひっくり返るが、転がってどうにか体制を戻す。
其処へ立て続けに、一反木綿が自らの身体から何かを飛ばした。
姿勢を戻したばかりのカワベエはその正体に気が付き躱そうと走ったが、間に合わなかった。
「ぐぅ……!」
一反木綿が飛ばした何かが腕を、足を通り抜ける度に、紙で指先を切った時の様な鋭い痛みが走る。
それが触れたところからパックリと割れて、幾つものあかぎれのような傷口を作っていた。
その何かの正体を察していたカワベエは、そこで回避は諦めて甲羅を出現させて盾にする。
「へぇ、思ったよりも粘るんねぇ。これを防ぐとは、腐っても河童かぁ」
「くそ、鬱陶しい……」
甲羅に防がれ、落ちる白い何か。
一反木綿が飛ばしていたのは、捩じった布だった。
魔力を通して鋭くなった布は、捩じれば槍の穂先のように、そのままでも刃物の様に鋭くなる。
カワベエの手足を切り裂いたのも、この布だった。
(あの野郎、さっきから体の布を使ってる割にはそれが無くなったり少なくなったりする気配がねえ。俺の腕を捕った時なんざ自分の布を躊躇いなく切り離したのに、何処かが短くなった様子もねえ。どういうこった)
どうするべきか。そう考えた時、憎らしくも自分を誘い引き入れようとしている男の、桃の姿がカワベエの脳裏に浮かぶ。
それ自体がなんとも腹立たしいが、癪なことに、桃ならどうするかを考えてしまった。
(一反木綿に勝つには、試すっきゃねえ。なんでもいい、絶対一泡吹かせてやる……)
幾重にも飛ばされる布の刃を、或いは布の穂先を甲羅の盾で捌き続ける。
穂先はどうか防げるが、刃の方は一見ひらひらしているものがすれ違うようにやってくるため避けづらい。
しかも一反木綿の身体から間断なく出続ける布の奔流は、文字通り際限が無かった。
(やっぱおかしいだろ……。あんだけ身体から布出してるのに、あいつの纏ってる布が減る様子は全くねえ……。どういうこった)
「おかしいと、思ってるかい?なんであたしの身体の布が尽きないのか」
(――やべえ!!)
不意に、一反木綿の顔が目の前に現れた。
顔に纏った布で良く見えなかった表情が、今はよくわかる。
あるいはもともとそうだったのか。
獲物を追い詰めた獣のような表情だった。
ひらひらと飛ばされてくる布の刃に紛れて、素早くこちらの懐にやってきたのだと気づいた時には遅かった。
「残念だったね。布を飛ばすも伸ばすも、あたしには制限なんてないのさ。あたしの纏う布は決してなくならない。そしてあたしの本体は切り離して飛ばす布や伸ばした布よりも切れ味がある。あんた詰んでるよ」
避ける間もなかった。逃れる隙は無い。
人の形を保っていた胴体を布上に変化させた一反木綿が、そのままカワベエの頭を囲むように包み始める。
「ぐむっ!」
「このままキスケのように首を刎ねてやろうか、それとも縊り殺すか、首を吊ってやってもいい。元味方の好だ、選びなよ」
一反木綿の身体が、顔だけでなく体にもにぐるりと巻き付く。
――息が出来ない。前が見えない。ジタバタと暴れたことで、カワベエの身体の酸素が一気に消費されていく。
(くそったれ……!!)
酸素が薄くなっていった所為か、カワベエの頭が、意識がぼやけていく。
――カワベエ。
なんだ。誰かに呼ばれているのか。
――カワベエ、よく聴け。
(兄貴……?)
これは走馬灯だろうか。だとすれば自分は死ぬのか。
(あーあ、最後は裏切り者として死ぬのか)
構わない。腰巾着の自分には似合いの最後だ。桃は……まあ、小憎たらしいあの男ならなんとかするだろう。
――カワベエ。
(兄貴、悪いな。俺はやっぱあんた無しじゃなんも出来ない駄目な奴だ。一反木綿の奴の言う通り、取るに足らない、屁の河童だ)
――カワベエ。
(そんな何度も呼ぶなよ。すぐそっち行くからよ。説教はその後で……)
――思い出せ、里を出た時の、俺の言葉を。
(里を……出た時……)
ああ、あれはもう百年ほど前だったか。
九千坊様の里を出た直ぐ後の事だ。
カワベエはキスケに、本当に残らなくて良かったのかと何度も問いかけていた。
それこそ、しつこいと言われるくらいには。
「カワベエ、お前さ、生きるってどういう事だと思う」
「なんだよ突然。そりゃあ……なんだろうな」
「俺も正直分からん」
「はぁ?」
「人間の信仰がなけりゃ、俺達は存在を保てない。俺達は人間よりも力があるのに、不安定な存在だ」
「……まあ、そうだな」
カワベエに背を向けたまま、キスケは自分にも言い聞かせるように話し続ける。
その視線の先は何処を剥いているのか、どこか彷徨っているようで、カワベエの目にはそんなキスケの様子が珍しく弱弱しく映った。
「……俺達の命は、他の存在に依存し過ぎている。でも、俺達はそういう存在として生み出された。それは変えようのない事実だ」
「だから、信仰を集めるために里を出たんだろう」
「そうだ。だからこれだけは約束だ」
「約束?」
「ああ。どんな手段を使ってでも、恐れに縋ってでも生きるぞ。信仰を得て、俺達は俺達の存在を保ち続ける。何方かが死んでも、絶対に」
「俺には、無理だよ。兄貴がいなくなったら何もできる自信がねえ」
カワベエは肩を落とす。元来カワベエは自信のない男であった。
いつも里では兄貴分のキスケの後ろを付いて回り、自分からは行動を起こせない。
そんなカワベエは腰巾着だのと揶揄されていた。
「そうでもないさ」
「なにを……」
「お前は、俺からすりゃ出来が悪い奴だ。お前自身も自分が弱いってのを分かってる」
「そうだよ。だからできるわけ……」
「だが、それがいい。それがいいんだ。自分のできない事を自覚しているお前は、それを補える俺を慕うようになった。ヤバい時はそうやって力を借りればいいんだ。お前は不要な誇りを捨てて、その選択肢を取れる奴だ。独りよがりよりずっといい」
「そりゃ、俺が他人任せってだけだろ。俺は一人じゃ何も出来ねえ。どうすりゃいいのか分からなくなる」
「確かにそうだ。でもな、俺だって本当はそうなんだ」
「兄貴が?」
「そうだ。そもそも俺たちの存在自体が何より証明してるんだ。信仰や誰かの願いや想いが無けりゃ、力を失ってやがて消えていく俺達が。誰かの信仰に、存在に縋って、俺達は初めて価値とやるべきことを得られるんだ。俺だって一人きりじゃ消えていくだけだ。いや、そもそも誰だって一人じゃなんも出来ねえ。九仙坊さまだってそうなんだから」
「なら猶更だろ!兄貴自身がそう思って自覚してるなら、兄貴だって誰かに縋れるだろ!」
キスケの背中にカワベエは叫ぶ。
それを受けて尚、振り返らないままカワベエは首を横に振った。
「俺はいざっていう時、人間に縋り切れねえ。自分よりも弱い存在に、素直に自分を預けられねえんだ。本当は遠慮する事なんざないのにな。今まで助けてきた分、お互い様なんだから」
キスケは少しだけ振り向くと自嘲するように薄く笑う。
カワベエはその言葉を受け止めきれずにすこしだけ呆然として、ただその表情を眺める事しかできなかった。
「兄貴……」
「まあ、心配すんな。お前を一人にはさせねえよ。俺がお前より先に死ぬことは無いだろうからな。それでも万が一、お前が一人になっちまったら……その時は、お前を頼ってくれるような奴を、お前を仲間の一員として迎え入れようって奴を逃さないことだ」
「……裏切られたら……?」
「そん時は屁でも引っ掛けて俺達の得意技で逃げてやりゃいい。裏切りもお互い様だからな。だが信頼できると思ったなら、そこに留まれ。きっとそれがお前の生きる道になる」
(――ああ、そうだ。くそったれ忘れてた。やっぱ俺ぁ駄目な奴だな……)
そうだ、すっかり忘れてしまっていた。
約束していたじゃないか。
カワベエの身体から、力が抜ける。
(兄貴、今初めてあんたの事を糞ったれだと思ってるよ。何が約束だ。俺に面倒押し付けて勝手に先に逝きやがって)
「……?死ぬ前に気を失ったか?」
身体に、顔に巻き付いていた一反木綿の拘束が、少しだけ揺らいだ。
「……くそったれ、捕まえたぜ」
「なっ!!」
ずぶん、と突然にカワベエの足元が沈む。
「くっ……!!お前、いつの間にキスケの技を……!」
「おいおい俺がこの力を使えないなんて誰が行ったよ?確かに俺はこの力を使えることを言わなかったが、勝手に使えないと勘違いしていたのはお前たちの方だぜ?」
「この……っ!屁理屈を!!」
巻き付いていた一反木綿も共に、底なし沼のようになった地面へ沈んでいく。
一反木綿は巻き付いていた身体を放して離れようとしたが、カワベエはその体を掴んで離さなかった。
「飛ばしたり伸ばしたりする布は無限でもよ、本体が泥水を吸って重くなっちゃぁ自慢の切れ味や動きは鈍るんじゃねえか?それに、流石に本体は切り捨てられねえよなぁ!?」
「貴様!?」
「その顔、当たりだな。そのまま泥塗れになってもらうぜ!」
一反木綿を逃さぬように身体を半分ほど鎮めたところで、カワベエは一反木綿を掴んだまま、泥濘と化した床の上を泳ぎ始める。
泥水の中を進むたびに、一反木綿の身体は泥にまみれて重たくなっていく。
「離せ!この腰巾着が!!どうせ半端にしか潜れない分際で!!」
「ぅるせい!勝手に決めんじゃねえ!!」
一反木綿が、掴まれた状態で腕の布を伸ばしてカワベエを切り刻む。
その切れ味は泥にまみれたことで鈍っていたが、それでも尚カワベエの身体には無数の切り傷が出来ていく。
血が流れるのも構わず、それでもカワベエは力強く一反木綿の身体を掴み続けた。
「誰が離すかよ!絶対にこの手だけは!あいつの所に行くまではな!」
「離せぇ!!」
一反木綿が腕の布を捩じって槍状に構えカワベエを貫く。
それらは肩口と腕を貫通したが、それでもカワベエは歯を食いしばったまま、ギラギラとした眼差しで只管に前進していった。
向かうは今、自分の味方となっている男の元だ。




