第三十四話 夜襲
「オヒョヒョヒョ、吉祥も恵比寿も噂程大したことは無いのう」
月明りと篝火が薄く灯りを灯す陣の中、機嫌よさげに鼠顔の男が笑う。
口元を扇で隠してくつくつと喉を鳴らして笑うさまは、正真正銘、領主と蘇芳の軍に対する嘲りから出るものだった。
「鉄鼠様、砦正面を攻撃している歓吉様より、突撃のご下知をいただきたいとの使者が」
「阿呆!彼奴らが何度降伏の書状を送り付けてきたと思うておる!既に相手に戦意は無し、攻めるよりもこのままじわじわと包囲を固めるがよいに決まっておろう!」
鉄鼠の判断はある意味では正しくはあった。
勝ちの決まった戦であれば、味方の被害を最小限に抑えつつ、相手を圧迫し続けることで音を上げさせるのはある種の正解だろう。
兵たちの間でも既に相手方に戦意は無いと広まっていて、こちらにもその士気の低さが影響を与えている。
ともすれば、無理に攻めるのは愚策。
それすら分からぬ愚か者が人寿郎に取り立てられてた男だというのは、なんとも嘆かわしい。
しかしそれが仕組まれているとすれば、話は別である。
かといって、城の戦力は鉄鼠の想定を超えていた。
ここで急ぎ突撃の下知を下したとして、それはそれで味方の大損害は避けられない。
そういった意味では、味方の被害をなるべく出さずに瑠璃領主を殺害するという鉄鼠の戦略目標は、既に詰みかけていた。
「突撃などもってのほかじゃ。使者なんぞ突っぱねてしまえぃ!」
「はっ!」
「やる気も無いのに無理に動かずとも、相手が勝手に消耗してくれるわ。明日以降も引き続き包囲できるよう、兵を休ませよ」
最後の機会に鉄鼠が取った選択は、引き続いての包囲。
兵たちの心は既に緩み切っている。
今更効果の乏しい警戒を行うよりも、まだ明日の為に休ませるほうが得策だという判断だった。
「ふぅ、しかし待つばかりというのも退屈じゃの。おい、そこのお前」
「は、はいぃ!」
気が緩んでいるのは兵だけではない。
総大将である妖怪、鉄鼠も同じだった。
後ろ手に手を組んでそろりと立ち上がり、右往左往し始めた鉄鼠は、落ち着かない様子で口をもごもごとさせ始める。
「蘇芳の領主は既に瑠璃領主を見限り、撤退の準備を始めている」
「瑠璃領主の元にいる鬼は既に戦いに飽き、裏へ引っ込んでいった」
「矢車城の兵達は既に疲れ果てており、戦う力や士気も無い。防戦に手いっぱいである」
聞こえてくるのは、そんな類の兵達の噂話ばかりだ。
休めと言っているのにもかかわらず休まない兵達に若干苛立ちを感じるも、鉄鼠はそれを仕方が無いと心の中で一蹴する。
この軍はそもそもが寄せ集めだ。
主だって人寿郎を慕う兵は、あまり余裕がない。
奪った瑠璃城の守備へ回す程しかいなかった。
故にここにいる兵達の中で人寿郎の兵と言えるもの達は最低限。
その殆どは金で集めたか、周辺の村々から無理やり徴兵したか、或いは他所からの借り物かだった。
このだらけ切った状態になってしまうのも、正直無理もない話ではある。
そうしてしばらくうろうろした後、その内我慢が聞かなくなったのか、少しばかり気まずそうな顔で傍を通りがかった兵に声をかけた。
鉄鼠は総大将だ。そんな存在に話しかけらえるなど本来はあまりない。
声をかけられた一兵卒は、緊張した面持ちで鉄鼠の声に応えた。
気が抜けて猫背になっていた背が、びくっとはねて背筋に物差しを通したようにまっすぐな物に変わる。
「酒と紙を持って来い、此処にわしが持ってきた高級紙じゃ。じっと待つというのも気が散ってしようがないわ」
「酒と紙……なにかお書きになるのであれば、筆もお持ちしましょうか」
「阿呆!筆なんぞ走らせたら折角の高級紙を齧った時の質が落ちるじゃろうが!!鼠と言うのはな、なんぞや齧っておらんと落ち着かんのじゃ!一般常識じゃ!おぼえとけい!」
「は。はいぃい」
鼠の生態を一般常識と言われてもと呼びつけられた兵は内心思ったが、反論すれば自分が紙の代わりに齧られかねない。
びくりと肩を震わせた兵士は慌てて鉄鼠に酒と紙を渡すと、すごすごと引き下がっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時は夜明け前。
もう少し待てば太陽が顔を出すか出さぬかという頃合い。
月明りと星明りだけが闇を照らすなか、僅かな篝火を頼りに蘇芳の兵達は陣の中に整列していた。
兵達は皆一様に鎧兜を脱ぎ、腕には白い布を巻いている。
夜の闇の中僅かな灯に照らされて、兵達の目や腕に巻いた白い布がぼんやりと浮き上がって見える。
「……父上、各隊準備が整いました」
「よし、上等だ。勇魚は俺と共に来い。一寸は兵を一千預ける。矢車城の桃達と合流して東側の陣にあたれ。幹久は本陣の守りと、必要なら撤退の合図を頼む」
「「ははっ」」
「俺達の兵力はこれで良いのか?」
勇魚が疑問をぶつけたのは、兵数の少なさだった。
恵比寿が夜襲へ連れて行こうとする兵力が合わせても一千程。
これからふたつの陣へ攻撃するには、兵力不足ではないかと感じたためだ。
気を揉む勇魚をよそに、恵比寿は「こんだけいりゃあ十分だ」とさして心配する様子も無く言ってのける。
恵比寿は良く知っていたのだ。
望月衆や浦島衆の工作や偽の降伏を装った事で、どれほど敵陣を脆くしているのかを。
そして敵が、一度士気が崩壊すれば立て直せなくなる寄せ集めの相手だという事も。
「望月衆や浦島衆の情報によると奴らは寄せ集めだ。逃げる兵については負わなくていいが、向かってくる連中は思い切りやっちまえ」
(父上の戦、初めて見る……)
勇魚にとって、父恵比寿の戦いを見るのは初めての事だった。
足を患っている恵比寿は普段前線に出ることは無い。
だが勇魚は父が臆病風故に前線に出ないのではないことを良く知っている。
恵比寿が前線に向かうためには、兵達が担ぐ輿に乗る必要があるからだ。
直接出向かないのは蘇芳の大黒柱だからというのもあるし、恵比寿が出ることで輿を担がせ、守る事に兵を割くというのを嫌っての事でもある。
しかし、蘇芳にそれを手間ととらえる者はいない。
最も狙われる父の傍、最も危険な位置で槍を振るう。
たとえ敵に囲まれようと、その覚悟に揺るぎは無い。
たとえ一度輿を担げば、無防備になってしまうとしても。
兵達にとっては自らが慕う領主の足となり、時に傍で槍を振るうことが何よりの誉であった。
そして彼らが主君のためにと奮戦するがゆえに、父も奮起する。
兵達を死なせまいとその身の丈をゆうに超える大槍を自在に振るい、近づかれれば太刀で切り伏せ、矢を叩き落す。
敵兵がひしめく中で誰よりも命を狙われながらそれらを受け止め蹴散らす様は、激浪の中に悠然と構える巖のようであったという。
その姿は兵達にとって、どれほど頼もしかったことだろう。
そんな父の姿を見て、周囲の兵達は更に血を滾らせるのだ。
父が直接出向いた戦は常勝で、その体には一切の逃げ傷が無い。
片足を患うという枷がありながら、あらゆる死線を潜り抜けたその背は、語らずとも感じられる凄みがあった。
実際に戦場を共にして、肌で理解できる。
蘇芳領主、恵比寿という存在がどれほどまでに偉大なものなのか。
まだ合図は出ない。
それでも感じられるのは、たしかな戦いの息遣いだ。
ほんの少し注視すれば、今まさに戦う父の姿が幻の如く目に映るように感じられた。
それほどまでに勇魚の前に立つ背は、正真正銘『白鯨』の異名を恣にした歴戦の勇士の背中だったのだ。
陣幕の前には兵が二人。
望月衆に寄れば相手のどの陣もほとんどの兵が最低限の見張りを頼りに寝入ってしまったという。
策がばれればすべてが水の泡。それでも兵達は歩みを止めない。
鎧兜を脱いで、音が立ちにくいこともあるが、それ以上に望月衆や浦島衆が事前に施した工作がここに来て効いているのだ。
(……あいつら、あくびしてやがる)
見張りの兵は僅か。しかしそれにも関わらず、見張りの兵もが欠伸をして、船を漕いでいるような始末であった。
徹底的な情報工作の結果として、彼らの頭からは戦うことなど当に離れてしまっているのだ。
こちらの兵達にもう戦意など無いと、本気でそう思わされているのだろう。
こちらの策が生み出した結果とはいえ、情報工作と事前の根回しだけでここまで相手の士気は下がるのかと勇魚は驚嘆した。
距離は既に僅か。既に射程内か。
歩いて鎧が擦れる音は、脱いだことで立たない。
あるのはただ篝火の僅かな炎の音と、草を踏む僅かな足音、兵達の息遣いだけ。
注意深く見れば発見できるであろう距離だというのに、気が付かないのは相手の兵の壊滅的な油断故だろう。
勇魚が目測でそう図り始めたとき、間を置かずして合図が上がる気配を感じた。
目の前には敵陣のひとつ、城を正面から攻め立てていた軍勢だ。
先頭に立った恵比寿が軍配を持った片手を静かに上げると、そのまま大きく振り下ろして号令をかけた。
「さあ、お前ら。存分に吼えろ!!」
「おおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!!!」
恵比寿の号令から間髪入れずに轟いたのは、兵達の大号令。
兵達はさながら一匹の巨鯨の如く、敵陣を飲み込まんと一斉に突撃を敢行した。




