第十三話 後編 失くした光、灯った灯
桃の言葉で、二人の空気が僅かにひりついたのが分かった。
桃自身、正直な話狡いとは思っている。
これまで選択肢を与えられなかった人間を唐突に解放し、鼻先に突然選択肢を突き付けているのだから。
心にも、時間にも余裕が与えられないままこの二人には選択を迫ってしまうことになる。
けれどこのままずっと置いておくわけにもいかないし、その余裕もない。
ならばせめてできる限り、二人がこの道を選んでよかったと思える選択が出来るようにしたい。
「ひとつは国へ帰ること。君たちの出身の国へいく商船に同乗してもらって、その先で自分たちの力で改めて生きていく事。ふたつ目は蘇芳の民となり、蘇芳で暮らし、働くこと。働き口や住居はこちらで斡旋する。恐らくは蘇芳領の軍属になって働いてもらうことになると思う。生活の保障はするが、遠く離れたこの地で働く以上、故郷には簡単に帰れなくなる」
そこまで言って、二人の表情を見る。
その顔に浮かんでいる感情は迷い、戸惑い、恐れ……様々なものが綯交ぜになったものだ。
「……兄ちゃん、此処に住まわしてもらおうよ。国へ帰ってもきっと僕らの居場所はもうない。桃様も、恵比寿様にもお会いしたけどいい人だったよ」
「……ビーマの言う通り、奴隷となった僕らが国に帰っても、もう居場所はないでしょう」
「……かもしれん。俺は国の外に出たことがないけれど、知らないからこそ『そんなことはない』なんて妙な希望を持たせることはできない」
「けれど私は……」
そう呟きながら俯くと、無意識なのか、ハヌマンの手が包帯の撒かれた左目に触れる。
ハヌマンは今、左目を失ったことにどれほどの喪失感を感じているのだろうか。
包帯越しに其の眼窩を見ることはできないが、報告によれば視力はほとんど失われており、回復も難しいだろうというのが医者の見立てだ。
左目に触れた手を下ろし、ハヌマンは俯いたまま不安そうな表情でその様子を窺うビーマの手に自らの手を重ねようとした。
「……っ……」
ハヌマンの表情が僅かにまた曇る。
その理由は恐らく、重ねようとした手を思う様に重ねられなかったからだろう。
桃は片目だけの状態になったことは無いが、距離感も掴みづらいだろうし、目そのものへの負担も大きい筈だ。
何度か距離を確かめるように彷徨ったハヌマンの手が、まるで縋る様にビーマの手に重ねられる。
前世では隻眼で名を馳せた英雄だっているから慣れることはできるのかもしれないが、それでも突然視力を突然奪われるというのは辛いはずだ。
「ひょっとして、その目の事気にしてるのか」
「……はい……」
「……そっか……」
慰めることは出来なかった。
「大丈夫だ。なんとかなる」「いずれ慣れる」そんな言葉をかけるのは簡単だが、それは本人が決めることだ。
なにより彼が求めているのは、きっと同情や同調ではない。
「私は頑丈で、長く多く働けることが取柄の人間です。片目の視力を失った今、お役に立てるのか……」
「そんな……」
兄の様子に言葉を失ったのは、ビーマの方だった。
彼がその先の言葉を見つけられなくなると、ハヌマンが言葉を塞ぐように話を続ける。
「さっきも見ただろう。距離感が上手く掴めないんだ」
「それは……そのうち慣れるんじゃ」
「そうかもしれない。だがそれで桃様達に迷惑をかけてしまうかもしれない。ましてや戦いに出るなら、距離感の不覚が致命的になる」
「けど!いままでセコイの船で色々やってきたんだ、きっとなにかできる!」
「働くという事には責任が伴う。仕事としてやる以上、きっとでは駄目なんだ。ちゃんとできるようにならないといけない。お前だってわかっているだろう」
「それは……」
ビーマが口を噤む。
彼だって分かっているのだ。兄と同じく奴隷として働かされていたからこそ、それこそ痛いほどに。
こうして希望的観測に縋りつこうとしているのは、兄を想い、自分たちの行く先を憂う故だろう。
「確かに、働いてもらう以上はきっちりやってもらわなきゃいけない。片目の視力を失って不自由が出てくるのは理解する。けどだからといって特別扱いの上で働いたとして、更に居心地が悪くなるだけだろう」
桃自身にも覚えがある。
二重も半ばを過ぎたあたりから、心臓の不調が顕著になった。
元々人並みに体を動かすことが難しい体だった。
激しいスポーツなどもっての外で、趣味と言えば家の中でやれることに限られた。
学業に励めば熱を出し、仕事をそれなりに覚えて頼られるようになったかと思えば身体を壊して休職。
肝心な時に役に立たない、そんな事が繰り返し起これば信頼を積み上げていくのは難しい。
だからこそ、この身体に成り代わった事を桃は複雑に感じていた。
己の身体の間の悪さに腹を立てながら、それでもと食らいついてきた。
けれどまた体を壊して休むのであろうと、任せてもらえる仕事も少なくなっていく。
少しでも健康的であろうと身体作りの為に軽い運動をすることすらも、心臓がすぐに音を上げてしまう。
心臓の持病が悪化して、あるいは感染症の流行で休職しなければならなくなった時。
自分の命を守るための当然の行動で、悪いことをしているわけではない、認められた行為だとしても。
組織の一員でありながら普通の人と同じように仕事が出来ない。
それは仕方がないとされた時の周囲の目が怖かったし、後ろめたさや申し訳なさを感じてしまう自分がいた。
(勝手に自分がそう感じてしまっているだけだとしても、やっぱきついんだよな……)
堂々としていればいいという人もいた。正当な行動なのだからそんな空気を感じても図太くしていれば良いと。
実際にそうだとは思う。けれど実際にそう思えるかは、人によって違う。
少なくとも桃はそうじゃなかったし、ハヌマンもこうして会話を交わす限りではそうではなさそうだ。
寧ろ彼は桃以上にそう言ったことへ敏感な性質かもしれない。
隻眼だから、保護した兄弟だからと普通と同じようにできない事ばかりに目を瞑れば、後ろめたさで辛くなってしまうだろう。
お互いに言葉を探すように黙りこくって、部屋の中が静寂に支配される。
僅かな衣擦れの音が、外で風に揺れる樹木の葉の音が聞こえるなかで、先に口を開いたのは桃だった。
「ともかく、今の状態じゃ何をどこまでやれるかもわからないだろう。自分たちで生きていくにしろ此処で生きていくにしろ、それが分からなけりゃどうにもならない。だからまあ、試用期間ってことでさ、少し俺の仕事を手伝ってくれないかな」
「試用期間……ですか?」
「そ。俺と試しに働いてみて、それで決めてみればいい。うちは人手不足気味だから色々仕事はあるし、近々丁度手が欲しい仕事もある予定なんだ。」
「しかし……」
「別に同情で誘っているわけじゃない。さっきビーマに言っていた仕事に対する姿勢、丈夫な体、評価すべき点は会話の中に色々あった。そのビーマも、あの奴隷船から逃げてきた体力と足がある。素直な子だし、若いから伸びしろもありそうだしな。勿論、無理だと思ったり、俺の事を信用できないと思ったのならいつでもやめてもらって構わない。」
「……期待を裏切ってしまうかもしれませんよ?」
そう言って、これまで俯きがちだったハヌマンの目がようやくはっきりとこちらを捉えた。
その目には先ほどのような、どこか諦めたような陰りはない。
暗闇の中に灯った灯りを見つけたように、不安の中に一筋の期待を見出した目だ。
「それを決めるのは雇う側……俺や御館様だよ」
桃はそう言って、はにかみながら手を差し出す。
それを握り返してきたハヌマンの手は一回り大きく、温かかった。




