第十話 後編 血煙溶ける闇の中で
潜入は打ち合わせ当日の未明だった。
今回は水中からの奇襲であり、慣れない海中からの襲撃だ。決して手を抜くことはできない。
周囲は墨を溶かしたように暗い海水に覆われていて、夜陰に浮かぶ小船の位置はそれらが灯す灯りと乙の力が頼りだ。
それは彼女の中でもっとも強く流れる魔物の血が船の位置を特定するのに一役買っている為だ。
その魔物は人魚。水と風のマナを操る彼女らは船乗りたちに信仰されている魔物のひとつであり、その力を持って空気や水を振動させ、特殊な音を操る。
人と関わることも多く、恋物語や実際に夫婦になった話なども耳にする魔物だ。
そんな人魚の力に修練を重ね、乙は様々なパターンの音を自在に作り、活用する。
今回はその力を利用し、音を操る魔物達の特性でもある様々な音域や音波を感じ取る性質をもってソナーのような役割を担っている。
一方の桃は潜入の為、全員を水中から船の近くへ運ぶ役割だ。
これは以前魔猪を倒した時にやってみせた水面を走る魔法の応用だった。
「話には聞いていたが、すごいな。どうやっているんだ?」
感心したように周囲を眺める海達の周囲に、まるで海水が意思をもっているように球状に空間を作っている。
その光景はまるで昔話で聖人が海を割ったという光景か、凝った水族館の様でもあった。
「水の状態を固定してるんだ。液体の水を個体のように決まった形で固定する」
「なるほど、それでこんな空間が……」
「船まで登るのもその応用だ。空間を維持しつつ足元に板状に形作った水を階段状に固定して足場を作る。相手の船が多少深さのある場所や沖に停まってても、消耗を最小限に小船の下まで歩いて水中から奇襲をかけられる」
「まさに今回の任務におあつらえ向きの魔法ってわけだ」
桃たちの足元にあるのはまさに話した通りの水の階段。
水の中に出来た空間へ螺旋状に組み上げたそれを昇りながら、継ぎ足すように段を追加していく。
程なくして間近に水面が迫ると、乙殿の力で小船の状況を探りながら揺らめく水面と船底を睨み、奇襲の機を窺う。
乙の合図はすぐに訪れた。
桃が作った空気のある空間から海へ突入し、そのまま上昇してイルカのように小船に飛び出したのは二人、エイジとフカマルだ。
続いて船底がいくらか大きく揺れて、それが治ると代わりに男が三人少し離れた水中に落ちてきた。
月明りの差し込む水中においては視認することも難しいが、僅かな光源に照らされた水の中、海に落とされた男たちから血煙が上がるのが見える。
「全員死んでるなありゃ」
「ですね」
海と乙がぽつりと呟く。
わかりづらいが、落ちてきた三人のうち二人は喉に穴を穿たれ、残る一人は体のあちこちがあらぬ方向に曲がっている。
僅かに息があったとしてもあれでは溺れ死ぬだろう。
「俺らも上がろう」
「了解」
小船の上に上がり、先に上がった二人と合流する。
エイジもフカマルも怪我などを負った様子はない。
小船に上がった桃達は標的の船の傍まで漕ぎつけると、そのまま鉤縄を甲板の柵に引っ掛けて昇っていく。
(潜入と聴いていたから想定はしていたが、まるで忍者だ)
あながち間違いではないだろう、と桃は縄に手をかけながら先を行く浦島衆の手際の良さに感心する。
浦島衆。
蘇芳領に二つ存在する隠密方の片割れであり、より奇襲や破壊工作に特化した部隊。
構成員の多くは普段市井の人々の中に紛れて情報収集を行っており、有事にはこうして各地で構成員が集まって任務をこなす。
どこが敵になるのか分からないこの時世の中で、そういった情報戦が行える組織は非常に重要だ。
彼らの活躍による余計な戦闘の回避や数的不利の逆転劇などは、桃も子供の頃からから聴かされていた。
現在頭領を務めている海も年齢こそ若いが、その実績をもって頭領に抜擢された男であり、その実力は保証されている。
当然、彼らからすればこんな鉤縄を昇るなど朝飯前である。
(……早っ……)
作戦上声は出せないが、それでも桃は心の中で叫びたかった。
門外漢の自分を置いて次々と登り切らないで欲しい、と。
結局頑張って上り切った時には全員がスタンバイしている状態で、何なら既に見張りが片付けられていた。
(……これ、俺必要だったかなぁ……)
今更ながら覚えた不安をその背中にぶつけつつ、桃も海に付いて行って持ち場に向かう。
夜の闇に溶ける海面は空との境界を曖昧にさせ、月明りと星がなければそのまま闇に飲み込まれるような錯覚を覚えるだろう。
自分が今いる場所が海だと分かる要素は、緩やかな波の立てる音と揺れだけ。
空からの灯りと船の上に灯されたランプの灯りを頼りに、遮蔽物に隠れつつ桃たちは船の中へ繋がる扉の前に立った。
見張りの目を搔い潜って潜入した船内は、思ったよりも質素な印象を受けた。
一番大きな船室を中心としてその周囲をコの字型に囲む廊下は存外広く、遮蔽物は少ない。
身を隠せそうなのは、甲板へ出すために仮置きされているであろう荷物と、規則正しく配置された樽の影くらいのものだ。
廊下に添うように配置されたランプが船の揺れのたびに灯りを揺らして、潜入した桃達の影を歪める。
壁には何かの呪いの類か奇妙な模様が描かれているが、なにか罠が張ってあるような気配もない。
「兄様、この先の突き当りに三名、うち二名が此方へ向かってきます」
「この階層の見張りは殆ど甲板に出てたってことか……とりあえずその二人を片さなきゃな……。――エイジ」
「了解」
海が僅かに考えを巡らせ、エイジに指示を出す。
エイジはその一言で海の考えを理解したように、天井の梁の上に跳びあがった。
海もまた、エイジに続いて梁の上に飛び乗る。
梁の上に跳びあがった二人を残して、桃たちは少し戻ったところに仮置きして積んである荷箱の影に身を隠す。
「来ました」
乙が囁く。
廊下の奥に目を凝らすと、向こうから人影が二人分やってくるのが見えた。
よく日に焼けた髭面の二人の男だ。
一人は灯りを手にしており、もう一人はその後ろをついて歩いている。
顔の周りに生えた無精髭と酒に枯れた品の無い笑い声、会話の内容から奴隷商の配下の者だと見当が付いた。
やがて警戒する様子もなく酔った様子の二人の男がエイジの待機する梁の下を通ると、すかさずエイジが飛び降りて後ろの一人の首に簪を突き刺す。
「うぐっ……」
視線の先、先導する男の手にある灯りで照らされて、金属製の簪が鈍く輝きを放つ。
口元を手で押さえられた男は、驚愕に目を見開いたまま呻き声をあげる。
鋭く研がれた簪はまるで薄手の布に針を刺すように抵抗なく首筋に滑り込み、頚椎の隙間を通って喉笛まで貫通していく。
「エイジの得意な殺し方です。あの簪の中にはエイやタコから抽出した毒も入っていて、刺した時の衝撃で注入されるようになってます」
「殺意しかないじゃん……」
乙の淡々とした解説に、桃は若干の戦慄を覚えながら経過を見守る。
背後で上がった不審な呻き声と、先ほどまで横を歩いていた仲間の姿が無くなったのを流石に不信感を抱いたのだろう。
もう一人の男が振り返った。
流石にすぐ後ろで僅かでも呻き声が上がれば、誰だって何かあったのかと後ろを見る。
「な、なんだてめ……っ」
エイジの姿に気が付いた男は思わず叫ぼうとしたようだが、彼が声をあげることは叶わなかった。
「あれは……」
「兄様の釣・り・ですね」
首筋に巻かれた細い糸が、男の首を絞めている。
「げぅ……ッ……」
男の口からヒュウと僅かに息が漏れ、みるみるうちに顔が鬱血していくのが分かる。
撒きついた釣り糸は細いながらも大の男一人を容易に吊るし上げている。
「よく切れないな」
「アラクネと呼ばれる蜘蛛の魔物から貰った特殊な糸な上に、それを更に秘伝の薬で補強してありますので」
「成程……だが西の方の魔物じゃなかったか」
「浦島衆は代々各地に出向いていますし、場合によっては各地の土着の魔物と交渉して情報や素材を得ることもありますから」
「アラクネもそのひとつってことか」
「はい。彼らの作り出す糸は少し束ねただけで牛車で双方から引っ張っても切れない程に強靭ですから」
そんな会話の最中でも、海はきっちりと仕事を済ませていた。
手元の糸をキュッときつく締めあげると同時、男の首に糸の先についていた大きな釣り針が突き刺さる。
返しの付いた釣り針が抜けるはずもなく、男は更に目を見開いたように見えた。
同時に完全に首が締まり、男の息の根が止まる。
それを確認して海が釣り糸を手元の操作だけで動かすと、首筋に引っかかった太い釣り針は男の動脈を引っ掛けてその勢いで断ち切ってしまった。
「その強靭な糸を普通に切ってるんですが」
「兄様ですから、たぶんなにか細工しているんでしょう」
「そっかー」
桃と乙の疑問を他所に、釣り針と糸はまるで意思を持っているかのようにほどけて海の振り上げた釣り竿へと戻っていく。
本当に生きているようだ。
「うわぁ……」
もう首は締まって死んでいただろうに容赦がない。
周囲にまき散らされる血がかからないように気を付けながら降りてきた海の元へ行くと、いつの間にか回り込んできていたらしいフカマルも姿を現す。
その肩には男が一人担がれていたが、その男も四肢のあちこちがあらぬ方向に曲がって折りたたまれていた。
「これ、ほんとに俺必要だった……?」
前世で見ていたエンタメ時代劇のような鮮やかな早業を改めて見せつけられて、桃の口から思わず言葉がこぼれる。
それを聴いた海は褒められたと感じたのか、にこやかに笑ってその背中を激励するように叩いた。
「当たり前だ。お前がいなきゃ此処までスムーズに近づけなかったよ。それにお前の出番はもう少し後だから慌てるな。とりあえずこの階層はあとはだけだな。錨を下ろしていた船が流れることもなし。さっさと片付けて先を急ごう」
腰に手を当てた海が桃達に目を配りながら確認するように告げる。
その言葉を聴いて頷いた桃達は、一路下層へと向かった。




