第五話 後編 河童襲来
「姫様!」
突然浮き上がった凰姫の手を、桃が何とか掴む。
そしてその下半身を見て桃はぎょっと目を見開いた。
凰姫は浮き上がったわけではない、下半身ごと壁に埋まっていた。
(いや……何かいる……!)
埋まって沈みこもうとする凰姫の身体と壁の境目、丁度鳩尾の位置。
そこに巻き付いているのは滑る様な見た目のなにか。
一見すれば蛞蝓のようにも見えたそれは、水掻きの付いた腕だった。
苔のような色味の不気味な腕は凰姫の腹部にがっしりと纏わりついて、離す様子はない。
凰姫の腕を掴んでこれ以上強く引っ張っても、腕は外れないどころか痛い思いをさせるだけだろう。
「こンの!!」
桃が左手の指輪にマナを集め、小さな水の刃を作って切りつける。
「ぎゃ!」
壁の中から甲高い悲鳴が上がった。
即座に腕が引っ込んで、凰姫を壁から何とか引きはがすことに成功する。
「怪我は!?」
「私は大丈夫……桃!後ろ!!」
壁から引きはがした勢いで一緒に倒れ込んだ凰姫に怪我はない様子で、桃もその事実に少し安堵する。
しかし倒れ込んだ衝撃から姿勢を直した凰姫が直後、血の気の引いた顔で悲鳴を上げた。
「え!?ぐあっ……」
咄嗟に立ち上がろうとしたところでわき腹を蹴り飛ばされた。
そのまま転がされて壁に背を打ち付け、咳込む。
「くそっ」
蹴られたわき腹を抑えながら悪態を付くがそんな場合ではないと、桃は傷む胸も構わず無理やり空気を吸い込み息を整える。
蹴り飛ばしてきた相手の姿を確認しようと先ほどの場所を見たが、既に姿はない。
(どこに行った……?)
桃が周囲を見回しても先ほどのような怪しい影も、敵意もない。
騒がしくなったのを聞きつけたのか、近くの店から何人かが顔を除かせて目を丸くしていた。
凰姫は桃の方を気にしながらも、いつでも走れるように着物の裾を破って同じように周囲を警戒している。
先ほどの襲撃を考えれば敵の狙いは凰姫か。桃の頭に敵の襲撃理由の候補がいくつか浮かぶ。
なんにせよ、凰姫自身がすぐに逃げられるようにしてくれたのはありがたい。
桃が思考を駆け巡らせながら周囲を観察すると、凰姫の足元がずぶずぶと底なし沼のように緩んでいくのが見えた。
「姫様!下だ!」
その声に驚いた凰姫が走ろうと足に力を込めたのが分かった。
しかしもう遅かった。堅かった筈の石畳は沼地のようにずぶずぶと凰姫の足を捉え、沈めていく。
凰姫の足元にはよくよく見れば先ほどの不気味な腕。
また何者かが彼女を引きずり込もうとしている。
「桃!」
「姫様!下手に動かないで!」
駆けだして引き上げなければ。
そう思って走り出そうとして、走れなかった。
そのまま前のめりに転んで、桃は小さくうめき声をあげる。
(足を掴まれた!?)
慌てて桃が足元を見ると服の上から足を掴んでいるのは先ほどと同じような不気味な腕。
違うのは凰姫の足を掴む腕が苔むしたような色なのに対し、此方は毒々しい赤であること。
足を掴む腕を自由な方の足で蹴って外そうとするが、なかなか離さない。
「この!離せ!!」
凰姫の手前避けたかったがもうそうはいっていられない。
足を掴んでくる腕を切断する他ないと判断した桃が魔力を使って【水刃輪】を形成し、腕を斬りつけようとしたところで、今度はそれを察知したように手が離れた。
「今離すなよ!掴んでろよ!」
悪態を付きながら凰姫の元に駆け寄ろうとしたところで、再度桃の目の前の石畳がぐずぐずと崩れ始める。
駆け寄ろうとした足を慌てて止めると、とうとう襲撃者が沼から姿を現した。
腕は毒々しい赤。指の間には水掻きが見える。
沼のようになった石畳へ手を付き這い上がってくるその姿は、上半身裸で、胸や腹は露わになっていた。
否、露わのようになっている胸や腹の盛り上がった筋肉は、そういう形の腹甲のようだ。
不気味な色の手足は改めて見ればゴム質の肌に覆われているが、頭や腹甲を含めた胴体の色は黄色人種の肌の色に近い。
股間に当たる部分は褌のような黒い布が下がっていて、額から頭頂部を剃った月代の頭。
後ろ髪は長く、蓑のように背中を隠していた。
嘴はない上に背中はよく見えない。
しかし細かなイメージの違いはあるものの、その見た目は桃に前世の世界で昔話に出てくる化け物を想像させた。
「河童ァ!?」
「大人しく捕まっておけばいいものを……手間取らせやがって……」
そういえば聴いたことがある。
魔物が信仰を得られず、マナに還る事を拒絶して零落することがあると。
そんな彼らを異世界から渡来した言葉でこう呼ぶのだ。
妖怪と。
その襲撃者は悪態を付きながら此方を睨みつけた。
その値踏みするような視線に不快感を覚えながら、桃も反論する。
「随分な言い草だな。そっちこそ目的はなんだ?何者だ?」
「言うと思ったか?だがまぁ、そうだな……出てこいカワベエ」
その声に合わせるように赤い河童の後ろの地面が再度沼上に変わって、よく似た色違いの姿が現れた。
苔色の腕に切り傷がある。最初に襲撃してきた奴だろう。
その腕の中には気を失った凰姫が抱かれていた。
やはり複数いたのかと桃は内心舌打ちをする。
凰姫を救いたいが、奇妙な技を使う上に複数相手は分が悪い。
何より今は武器がない。
「言うかバーカァ!!知りたきゃ西海岸の大洞窟に来い!俺の腕斬りやがってバーカ!」
カワベエと言われた男が桃に唾を飛ばして捲し立てる。
「まあそういう事だ。知りたければ大洞窟に一人で来い。早く来ないと可愛い姫様が腑抜けになるぜ」
それだけ言って、河童たちの足元が再度沼に変っていく。
「待てこら!」
「やなこった。喰らえ馬鹿!」
叫んだものの待てと言われて待つ相手ではない。
悪態と共にカワベエと呼ばれていた河童が何かを投げる。
緑色の細長い、少しイボの付いた見た目の野菜だった。
(きゅうり!?)
なぜきゅうりなんて投げたのか。桃が疑問と同時に足を止めた瞬間、投げ込まれたきゅうりが火花を上げて爆発した。
「うわ!?」
「かーっかっかっかっか!ペッペッペッペ」
その爆発から桃は思わず顔を背ける。
そこまで威力はないが派手に散った火花と煙で視界が塞がれ、腹立たしい煽る様な笑い声と唾を飛ばす音が響いた。
桃は煙の中何とか目を凝らすが何も見えず、晴れたころには不気味な静寂だけが残っていた。
「……姫様……!」
誰もいなくなった空間に静かに言葉だけがこぼれる。
あれほど強く感じていた日差しは感じられない。
零れた言葉は誰に聞かれることもなく、薄暗い雲に覆われ始めた空へと吸い込まれていった。空へと吸い込まれていった。




