第三章 壺を割ったら謝れよ 一
三日後――
早朝、月牙は居室の方二丈で身支度に勤しんでいた。
筒袖の白い上衣と幅の狭い藍染めの袴。黒革の札をつづった短い胴甲。男髷に黒繻子の布を被せ、黒い革製の靴を履く。傍で麗明が籐の梱に荷づくりをしている。
「悪いね、婢みたいな雑用を頼んで」
「かまわないよ。誰も皆忙しそうだからな」
麗明は衣をたたむ手を止めないまま答え、梱に顔を向けたまま独り言のように続けた。
「判官様はだいぶお急ぎのようだが、道中人探しをする時間はあるだろうか?」
月牙も箙を背負う手を止めないまま呟いた。
「噂を集めることくらいはできるだろうさ」
麗明は今も翠玉の身を案じ続けているのだ。
「さて、これで支度が済んだ。ありがとう麗明。兵庫の鍵を頼むよ」
「任せてくれ。頭領が無事戻るまで肌身離さず持っているからな」
鍵の受け渡しを済ませると、いよいよ出立という気分になった。
内密に発てと命じられているため、橘庭の督への挨拶は昨夜内々で済ませている。梱を抱えて庭へ出ると、橘の木の下に繋がれた栗毛馬の背に桂花と小蓮がせっせと荷を括りつけているところだった。
桂花はいつもの官服だが、小蓮は月牙と同じ男装である。耳元に紅梅の造花を飾った紅梅殿の女儒が二人と、青鈍色の裳衣をまとって編み笠を手にしたつつましやかな寡婦みたいな旅装の雪衣が傍で眺めている。
「判官様。お待たせしてすまない」
敢えて堅苦しく声をかけるなり目を瞠り、愉快そうに声を立てて笑う。
「なんと柘榴庭か! 凛々しいいでたちだ。海都までの護衛、よろしく頼んだぞ」
「承った」
月牙が頭を低めると、雪衣の後ろの女儒たちも揃ってお辞儀を返してきた。
「二人とも朝からご苦労様。朝餉の支度もあるだろうし、見送りはここまででいいからね」
「はい」
「じゃ月、そろそろ発とうか。身なりからしてそっちの子が同行するんだよね。名前はなんていうの?」
「孫小蓮です」
「そうか。よろしく小蓮。私は主計判官の趙雪衣だよ」
雪衣が気さくに名乗りながら笠を被ったとき、女儒の一人が驚きの声をあげた。
「あれ、督?」
「え?」
雪衣が傘を外して庭の入り口を見やる。すると、花びらさながらの薄く淡い紅色の裳衣姿の華奢な婦人が木戸を入ってくるところだった。
年のころは五十前後か、光沢のない黒髪を二つの環に結って大小無数の赤い絹の造花を飾っている。
よく見れば花はみな紅梅を象っているようだ。
月牙ははっとした。
薄紅の装束と紅梅の髪飾りとくれば、この方は主計所の督だ。
「紅梅殿様?」
呼ぶなり婦人はパッとほほを赤らめ、はにかんだように顔を伏せてしまった。仕草だけはうら若い箱入り娘のようだ。
「督、いかがなされました?」
雪衣が柔らかな声音で話しかける。壊れやすい何かにそっと触れるような、幼い子どもをいたわるような声だ。婦人は細く長い首をかしげて答えた。
「なにって、もちろんお前を見送りにきたのだよ」
婦人の声はか細く震えがちだった。相手が今にも怒り出すのではないかと常に怯えているような、か弱く脆弱な美しい――かつてはおそらく美しかったのだろう生き物特有の媚びを含んでいた。
月牙は嫌悪を感じた。公文所たる白梅殿と主計所たる紅梅殿。北院で最も格式の高い二殿の官服が、実務的な女官としては過ぎるほど華美なのは、国王の寵愛を受けた身分の低い女儒が特例として督や次官に任じられることがあるからだ。
今の紅梅殿の督はまさしくその例である。生まれ持っての才覚もなければ、血のにじむ研鑽をする気概もない、ただ美しかっただけの女だ。そういう女が齢をとってなおかつての美しさに縋りつくさまを見るのが月牙は嫌いだった。
女儒二人も督をさして重んじていないらしく、傍に来られても頭を低めようともしない。それを叱る気概がないところも苛立たしい。
「雪衣や、早く帰っておいで。お前がいないと困ると皆が言うからね」
紅梅殿の督が首を傾げて言う。
「ええ督。必ず」
雪衣が優しい声で答えた。
慈しみと侮りが分かちがたくまじりあった声だった。
三人分の梱を満載した馬に人の乗る余地はない。
南大路を徒歩で進んで開いたままの外砦門を出ると、目の前に幅三丈の石畳の道が伸びている。
早朝とはいえ町場はとっくに目覚め始めていた、路傍の水路では洗濯女が早くも布を踏み始めているし、朝餉のための粥の屋台があちこちに現れているし、天秤棒をかけた卵売りや青物売りも客を呼ばわりながら路上をうろついている。門から馬が進み出ると、一斉に視線が集まってくるのが分かった。
「うわあ、本当の外だね! 朝からずいぶん賑やかだ」
雪衣が笠の縁をずらして左右を見回しながら感嘆する。興奮のためか上気した頬とキラキラと輝く目がいっそ可愛らしいほどだ。
雑務でたびたび他行する外宮の武芸妓官と違って、内宮務めの雪衣は、後宮に入ってこの方一度として外砦門を出たことがなかったのかもしれない。そう考えると雪衣もなかなかの箱入りだ。
――北院きっての俊才と名高い雪のことだ。もちろん務めは果たせるんだろうが、道中の些事への采配は私が頼りだろう。
そう思うと胸が弾んだ。
道をまっすぐ南へ進んで辻へ出たところで、月牙が右手に折れて東橋へ向かおうとすると、雪衣がいきなり袖を引っ張ってきた。
「ちょっと月、どこ行くの?」
「どこって、洛北の舟着き場だよ?」
告げるなり雪衣は目を瞠った。
「なんで舟? 洛東河津までは立派な河津道があるじゃないか」
「そりゃあるけどさ、舟を雇って玲江を下ったほうがはるかに速いし楽なんだよ。馬のことなら心配ない。馬借に預ければ宮まで返してもらえるから」
「そんなことは分かっているよ」と、雪衣は不機嫌に答え、妙に芝居がかった調子で腕を拡げてみせた。「しかしね月、こんなすばらしい初夏の陽気に、あまたの古歌に謡われた京洛随一の美景たるかの河津道を歩かないなんであまりにも無風流だよ! 私は断然歩きたいね。たった六里なんだし!」
「分かった、分かったよ歩くんだね」
辻には人目が多い。
仕方なく承諾して道をそのまま南へと進む。喧騒が背後へ遠ざかったあたりで、雪衣が低く静かな声で囁いてきた。
「いいか柘榴庭、肝に銘じろ」
「なんでしょう判官様」
「桃果殿様の名誉に関わることだから大きな声じゃ言えないけどね、我々に余分の路銀はない。歩ける道は歩く」
「承った」
月牙は悄然と応じた。