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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第二章 にっくき法狼機女 五

翌日は朝から主計次官の立ち合いで兵庫の品を西院へ移す作業が始まった。ひと段落するとその夜からもう橘庭へ移れと命じられる。内宮からも多少の宿下がりがあったため房が空いているらしい。月牙は久々に麗明と二人で同じ方二丈を使うことになった。


「なあ頭領、私たちは明日から何を護るのかな?」

「内宮南門を外砦門の代わりに警備するらしいよ。あの門は小さいから、四人でもどうにかなるだろう」

「そうか。さみしいな」

 麗明が髪を梳きながらぽつりと言った。「梨花殿様がいずれお戻りになったら、何もかもまた元のように戻るんだろうか」

「麗明は戻って欲しいの?」

「あの方に? それはむろん」

 麗明は当たり前のように応えた。「われらは柘榴の妓官だもの。天が落ち、地が裂け、大河が北へと流れようと、桃梨を護るものだもの。守るべきお方の一方が宮の内にいらせられないのは、やはりさみしいよ」

「そうか」

 月牙はそうとしか答えられなかった。


 麗明は月牙と同じくカジャール系の名族たる宋氏の出で、今の橘庭の督である宋金蝉とも近しい血縁にある。柘榴庭に入ったのも月牙よりかなり早く、飛燕が退いたあとで頭領を決めるときには月牙と最後に一騎打ちを――文字通り本当の一騎打ちをした仲だ。武芸の腕では一歩月牙に劣るものの、目下の者からよく慕われる穏やかな気質の麗明は、決して口にしないながら、いつも自分の姿を恥じているところがあった。

 漏れ訊いた噂では、麗明の母親は風変わりな姿の西域人で、双樹下では極めて珍しい栗色の髪や、雀斑の目立つ明るい色の膚は、その血統のためなのだという。麗明があの法狼機女を――当代の正后様を今もって敬慕するのは、もしかしたらあのお姿に自分と同じ血統を感じているためなのかもしれない。

 

 ――私だって何も異邦人だから正后様を厭っているわけじゃない。主上があの方お一人を伴侶となさると宣言したのも詮方ないと受け入れる。ただ戻って欲しいんだ。またこの宮に戻って、私たちの暮らしが昔通りに立ちゆくようにして欲しいだけなんだ。


 眠りに落ちながら月牙はそう思った。

 月牙は今の務めを天職だと思っている。宋氏と並ぶカジャール系の名族である蕎氏の出ならば、柘榴庭の頭領を数年勤め上げればすぐに橘庭に入れる。長生きさえしていればいずれは督にもなれるだろう。

しかし、月牙は自分の実力を証立てるべく、宋金蝉の後継ぎとして最年少の督になりたいと野心を燃やしている。それこそが月牙の人生の最終目標だった。そのためにこそ、桃梨花宮には昔のまま存続して貰わなければならなかった。


「……なあ頭領」

 暗がりのなかで麗明が囁いた。

「もしかしたら私は身勝手なのかな。梨花殿様はこの宮にいらせられるのがお辛いから出ていかれたのに、それでもお戻りになって欲しいと願ってしまうなんて」

「――いや、当然だろう。柘榴の妓官なんだから」

 月牙はぎこちない口調で答えた。

 身勝手?

 とんでもない。

 麗明は――私たちは少しも身勝手などではない。

 勝手なのはあの女のほうだ。

 あのよそ者の法狼機女が、私たちの穏やかな生活をめちゃめちゃにしてしまったのだ。



 三日後である。

 月牙が内宮南門の警備を終えて橘庭へ戻ると、顔なじみの女儒が眉を吊り上げて待ち受けていた。

「柘榴庭どの、桃果殿からのお召しじゃ! お使者には督が正殿で茶菓を振舞っていらせられる故、お早うお着換えなされ!」

「え、桃果殿?」

 そんな馬鹿なと月牙は思った。内宮東院桃果殿は王太后の居殿だ。なぜそんな雲の上からじかのお召しがあるのだ? 

 考える間もなく平服を引きはがされ、全身を濡れ布巾で磨かれた挙句、麗明に情け容赦なく髪を梳かれて編んで巻き付けられる。


 できる限り手早く化粧をすませて方二丈を出ると、庭先に明るい翠の裳裾と白い上衣をまとって黒髪を二つの環の形に結った十三、四に見える女官がいた。結い髪の根元を飾るのは桃の実を象った珊瑚の簪。桃果殿の女儒だ。

「おお、そなたが当代の柘榴庭か? 近くで見ても美しいなあ。去年の献上の儀式で舞を見たぞ。実に見事であった」

 女儒は馬の毛並みでも褒めるように褒めた。

 桃果殿に仕える内侍はみな先代や先々代の貴妃である。下働きの女儒でさえ、外宮の頭領より遥かに高位だ。月牙は頭を低めた。

「勿体のうございます」

「今年は秋の舞はないのか?」

「さてどうなりましょうか。ところで、急ぎのお召しだったのでは?」

「ああそうだった。ついてまいれ」


 玉石を敷いた路をまっすぐ東へ進んで右手へ折れれば、すぐ先に桃果門が見える。顔見知りの内宮妓官が左右を護る門を抜ければ、その先は別世界だった。

 目の前に眩い白砂の中庭が広がり、正面の御殿の前に、庭の名の由来である桃の大樹が枝を拡げている。

 薄桃色の果実のたわわに実った果樹の陰を抜け、黒木の廊からじかに下る三段の階の前で片膝をつき、頭を低めたまま呼ばわる。

「申し桃果殿の方々。お召しに従い柘榴庭より参上いたしました」

 待っていると頭の上を微かな衣擦れの音が近づいてくるのが分かった。

「おお来たか柘榴庭。あがれ。桃果殿様がお待ちだ」

 階の上から高く権高な声が告げ、月牙が上がるのを待たずに奥へと戻ってゆく。濃い紅色の裳裾が揺れるたびに白檀の薫りがした。

 足の影が映るほど磨き抜かれた黒木の廊を延々と歩いた先は広々とした板の間だった。

 正面に濃紅色の垂れ幕を絞った天蓋付きの床几がある。そこに喪服のような白い裳衣をまとった貴女が腰掛けていた。

「桃果殿様、柘榴庭よりお召しの者を伴って参りました」

「ご苦労」

 貴女が鷹揚にねぎらう。なんとこの方が桃果殿様だったかと月牙はひそかに驚愕した。

 これほど間近に王太后を目にするのは、月牙には初めての経験である。

 年頃は四十の半ばほどか、小太りで厳つい顔をしている。

「柘榴庭よ――」

 王太后が突然切りだした。

「そなた、内密に海都へ行け。紅梅殿の判官の護衛としてな」


 命令はそれだけだった。

 月牙は理由を訪ねようとも思わなかった。

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