第八章 もちろん愛はあったさ 四
チーク材の逆茂木に囲まれた新梨花宮の門前には人がひしめき合っていた。
殆どが市井の者のようだが、マスケットを担った下級武官も所々に混じっている。
彼らは熱に浮かされたように、
「法狼機女を殺せ!」
と、叫んでいるのだった。
逆茂木の真ん中にしつらえられた歩廊に、法狼機風の軍服をまとった竜騎兵の将校とおぼしき男たちが七人並んで、熱狂する群衆に銃口を向けている。
月牙は駆けながら持ち前の鋭い視力で竜騎兵たちの顔かたちを見てとった。
カジャール系が二人と双樹下系が五人。
見たところリュザンベール人やタゴール人はいないようだ。
――よし。これならいける。
月牙は腹を決めた。
いよいよ最初の大ばくちだ。
「――竜騎兵、竜騎兵、王宮からの使いだ! 開門せよ、開門せよ――!」
呼ばわりながら馬を進めるうちに視線が集まってくる。
「お、おい、あの箙――」
「当代さまか?」
少しずつざわめきが大きくなる。
人垣が二つに分かれる。
――今だ。
――私が私である証――
――武芸に秀でる妓官の頭領である証をその目に見せてやる!
月牙は歩廊の真下まで一気に駆けると、馬の背に立ち上がり、膝をぐっと折り曲げるなり、渾身の力を込めて歩廊へと跳躍した。
「だれか馬を頼む!」
叫びながら腕を伸ばして歩廊の手すりをつかみ、懸垂の要領で体を持ち上げ、手すりの上に両足をつくなり歩廊へと飛び降りる。
「おおおお――――!」
群衆が歓喜と驚愕の入り交じった声をあげる。
「すげえ、みたか今の?!」
「武芸妓官さまだ! 芝居で見るよりずっとすごい! 本物の武芸妓官さまだよ!」
「そうだ! 私が武芸妓官だ!」
叫びがてら脚を回して、右手に立った竜騎兵の手元からマスケットを蹴り落とし、はっしとつかんで銃口を真上へと向ける。
「みな聞け! 私はこれからこの宮に巣くうよこしまな法狼機を捕らえに向かう! そなたらは橋を護れ! 洛中に入る三橋を確実に守っていろ! ――わが氏族アガールのものたち! サルヒに手柄を独占させるな! お前たちが指揮を執るんだ!」
途端に随所からうれしげな声が返る。
「当代さま、どうかお任せあれ!」
「おいみな我らに続け!」
「右京の者は北大橋だ! 左京は南大橋!」
「嶺西の衆は西大橋を護れ!」
マスケットを担った下級武官たちが、いかにも熟練の武官らしい手際のよさで群衆を率いていく。
しばらくすると歩廊の前には殆ど誰もいなくなってしまった。
白馬は後からやってきた紫英が捕まえていた。
そばに栗毛馬に騎乗した延尉もいる。
「御史台の方々、いらせられよ! 竜騎兵、見ての通り、我々は勅使だ。目的はあくまでも法安徳の捕縛。それ以上の他意はない。案じず開門せよ」
先ほど奪ったマスケットを差し出しながら告げると、カジャール系の竜騎兵は戸惑いと感嘆の入り交じった表情で月牙を見つめながら答えた。
「あ、ああ。承った」
歩廊をまっすぐ左手に進めば門櫓に突き当たる。まだ新しい木製のはしごを下りると、開いた門の内側に白馬が待っていた。もちろん引き手の紫英も一緒だ。
「どうぞアガールの姫御よ」
「かたじけないゲレルトの若子よ」
互いにわざと古雅な口調で挨拶をしあってから、目を見合わせてくすりと笑う。後から入ってきた栗毛馬の背から、延尉が妙にしみじみとした声をかけてきた。
「いやお見事。たいした手際だ。熱狂する暴徒を鎮めるには分散させるにしくはない」
「お褒めにあずかって光栄です」
「何というか、御身は、わりあい普通の将なのだな。歌うとか舞うとか物語るとか、そういうやり方で鎮めるのかと思っていた」
「武辺一辺倒の妓官の頭領になにを仰るやら! 我々が日々鍛錬しているのは弓馬と刀ですよ」と、月牙は白馬の背に戻りながら肩をすくめた。「将というお言葉は光栄です。まだ二十名の部下しか束ねたことのない身としては」
「御身はまだお若い。おいおい精進なされよ」
延尉は年長の同業者らしい気安げな口調で言った。
「さて竜騎兵たちよ――」と、延尉が門の内に居並ぶ法狼機風の装束のマスケット兵たちを見回す。
「そなたらずいぶん少ないの! 何人が北へ出ている?」
「二〇〇人です」
「では、今この宮にいるのは?」
「すべてで一〇〇のみです」
「では、呼べる者をすべて呼べ。勅により法安徳、あるいはアルマン・ル・フェーヴルを御史台に召す故」
「は!」
指揮官とおぼしき一人が恭しく応じるなり、馬に乗り、左手の馬場の向こうの兵舎へと馳せていった。
やがて集った竜騎兵の半分を伴って右手へ進むと、まだ植えたばかりのような梨の並木の向こうに、海都租界の領事館を囲んでいた柵とよく似た鉄製の柵が伸びていた。柵の内は狭い前庭で、すぐ先に法狼機風の白い館が建っている。
建物は二階建てで、横に長く伸び、屋根が鮮やかな碧い瓦で葺かれていた。一階にも二階にもずらりと白い柱が並んで、正門とおぼしき真ん中が庭へ向けて四角く突き出している。その上が平たく広い四角い露台になっているようだ。
「あれがパレ・ド・ラ・レーヌです」
竜騎兵の指揮官が延尉に告げる。
「法安徳はあの館に?」
「ええ。おそらくは」
「正后様も?」
「ええ」
「――では宋麗明は?」と、月牙が思わず訊ねると、カジャール系に見える竜騎兵はぐしゃりと顔をゆがめた。
「あれはいつも法安徳のいるところにおります」
あれ、という言葉の響きに月牙は聞き覚えを感じた。
――あの北塞の蕎月牙、義理の息子を誑かした野蛮な北夷女。
男たちがそう誹るとき、必ず口にする響きだ。
――まさか、麗明は……
そこまで考えかけてから、月牙は必死で自分の思いつきを頭から追い払った。
――まさかそんなはずはない。あの麗明が、公金横領なんていうせせこましい罪に手を染めるつまらない法狼機男なんかと懇ろになるはずがない。そんな理由で私たちを裏切るはずがない。
「当代どの――」
背後から紫英が囁いてくる。
「裏切り者のサルヒ女になど、いつまでも心をおかけなさるな。同族の竜騎兵さえも軽蔑の目で見ているようではありませんか」
黙れゲレルトの若造、と月牙は心の中でだけ言い返した。
お前に麗明の何が分かる。
男に何が分かる――
「柘榴庭どの。進みますぞ」
延尉が揺るぎない声で促し、竜騎兵に命じて鉄柵の扉を開けさせると、悠々とした並足で館へと進んでいった。
月牙は慌てて続いた。
「法安徳よ! 王勅によって参った! ただちに武具を下ろし御史台へ上がられよ!」
延尉が門前で三度呼ばわっても、露台の下の黒い扉はピクリとも動かなかった。
「応えはなし、か。――よし皆、扉を破れ!」
「は!」
徒歩で従う白装束の武官たちが、慣れた様子で二人組になり、勢いをつけて扉に体当たりをする。
柵の外で待機する竜騎兵の指揮官が、馬上から後ろを顧みながら命じる。
「援護するぞ、構え筒だ!」
「はい!」
皆がそれぞれ自分の役割を果たしているようだ。
月牙は白馬の背でぼーっとしていたが、不意に妓官らしいところを見せてやりたくなった。
「紫英どの、またちょっと馬を頼みますよ」
「え?」
戸惑う若者を尻目に、再び馬上に立ち上がり、勢いをつけて露台へと跳躍する。
「延尉、またも抜け駆けを失礼! わたくしは上から参ります!」
スタッと手すりの上に降り立つなり、露台へと飛び降り、柱のあいだの華奢な扉を回し蹴り一発で破る。
「おおおおお!」
下からまたしても驚きの声があがった。
「ではお先に!」
月牙は一声言い置いて建物の中に入った。
「何というか――」
白馬を捕まえながら紫英が呟いた。
「身軽ですねえ」
「ああ」
延尉があきれ顔で応じる。
「身軽だな」
「鶴のように優美なお姿をして、意外と蹴りがお強いのですね」
「脚が長いからな」
「長いと強いのですか?」
「ああ。はるか南方にはキリンという生き物がおるときく。とても優美な動物だが、脚が長いからとても強いのだそうだ」
「そうなのですか」
会話はそこで終わった。




