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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第八章 もちろん愛はあったさ 二

 築地に開いた門前にいたのは、鮮やかな紫紺の衣と袴をまとい、頭巾の根元を深紅の紐で結わえたカジャール系の武官だった。髭の気配の感じられない滑らかな膚からして年頃は二十一、二といったところか。またしてもなんとなく見覚えがある気がするのは、単に同じカジャール系だからだろうか?

 若者のほうは月牙を見るとちょっと愕いた顔をした。

「当代どの、か?」

「そうだ。そちらは王宮の兵衛どのだな。訊いていいなら教えてくれ。何が起っているんだ?」

 月牙は自分でも不思議なほど落ち着いた心地で訊ねていた。

 王宮で変事に遭遇するなどもちろん生まれて始めてだが、これまでに積んできた地道な訓練のおかげで、こと、刀をとる事態に関しては、何をどうすればいいか必ず分かるはずだという不思議な自信があった。

 兵衛は意外そうな顔で月牙を見やってから、軽く頷いて踵を返した。

「主上が至急にとお召しだ。馳せながらお話しする。ついでおいでになれなかったら後ろから引き留めてくれ」



 王宮兵衛の雅称は「宮の(はせ)()」だ。若い武官はその名にふさわしい俊足で築地のあいだを駆けながら、さして息も乱さずに説明を始めた。

「我ら王宮兵衛の一隊が、つい先ほど、御史台の延尉に率いられて新梨花宮へ赴こうとしたのだ」

「法安徳の捕縛のためか?」

「捕縛ではなくお召しだ」

「赴こうとしたということは、赴けなかったのか?」

「ああ。ご存じのとおり、新梨花宮はかつての右の馬場の敷地内にある。この宮からは内北橋を渡ればじかに赴けるのだが、あちらの橋詰の門櫓を、竜騎兵の南蛮隊が押さえていたのだ」

「南蛮隊? そんなものがあるのか!」

 月牙は思わず問い返した。

「ご存じないのか?」と、前を駆ける兵衛が意外そうに応じる。「法安徳は正后さまの身辺を確実に守るためと称して、南蛮人や香波人や法狼機との混血の輩ばかりを集めて側仕えの一隊をこしらえているのだ」

 兵衛がそこで言葉を切り、忌々しそうに続ける。

「頭領はあの赤毛のサルヒ女らしい」

「宋麗明?」

「ああ」

「その南蛮隊は、勅命だと伝えても門を開かなかったの?」

「南蛮人だからな、ろくに言葉が通じないのだ。延尉は内北橋を諦め、昇陽門から城隍廟広場に出て、洛中側の門から入ろうとした。しかし、門を出たところで暴徒に取り巻かれてしまった」

「暴徒?」

 前を行く背を追って路を右手に曲がりながら問い返したとき、向かい側に御史台の四脚門が見えた。

 


「主上、お召しの者を伴って参りました!」

 門をくぐりながら兵衛が呼ばわる。

 国王は階の下にいた。槙炎卿を頭にした高官たちが数人と、白装束の武官たちの一隊が付き従っている。


「柘榴庭!」


 国王は月牙の姿をみとめるなり駆け寄ってきた。

 激怒のためなのか色白の細面が真っ赤に紅潮している。

「どういうことだ! 暴徒どもはそなたの名を呼んでいるというではないか!」


「主上、お心をお鎮めなされ」と、御史大夫が宥める。「叛徒が誰の名を叫ぼうと、それだけで叫ばれた官の咎とはいえません。まずは現状を知らせてやらねば」

 国王は忌々しげに御史大夫を睨みつけたが、じきに大きく息をつくと、肩を落としてかすれた声で命じた。

「紫英、話してやれ」

「は」

 若い兵衛――名は紫英というらしい――が、慣れた様子で頭を低めてから、月牙へと向き直った。


「昇陽門を出た我々が暴徒に取り巻かれた――というところまではお話ししたな?」

「ああ。その暴徒というのが、私の――この柘榴庭の名を?」

「そうだ。あの連中は朝からずっと城隍廟広場で、判官様を放免せよ、当代さまを解き放てと騒ぎ続けていたらしい。酒や串焼き肉を売る露店まで並んでいた」

 ああなるほどと月牙は思った。王宮の裏手に回って様々な差し入れを届けてくれた人々だ。

 そこまで気づいてあれ? と思う。

「我々の放免を望んでいたのなら、放免されたのになぜ暴徒になど?」

 訊ねると紫英は顔をゆがめ、ちらっと主上を見やってから応えた。

「連中は放免の知らせを聞くと大喜びした。そして今度は叫び始めたんだ。亡国の法狼機女を殺せと」


「あああああ――――!」

 ふいにひび割れた大声が上がった。

 見れば、国王が両手で顔を覆い、禁色の袴に包まれた両膝を地面について、曇り空を仰いで大声で慟哭しているのだった。

「ジュヌヴィエーヴ、ジュヌヴィエーヴ! あれが何をしたというのだ!? あれほどこの世を怖がっていたのに! あれほど怯えていたのに!」



 吠えるように泣き叫ぶ若い国王を群臣は手もなく遠巻きにしていた。


 やがて泣き声が収まったところで、意外にも若い兵衛が歩み寄り、まるで親しい兄弟みたいに国王に手を差し伸べた。

「主上、ご案じ召されるな。新梨花宮を囲む暴徒が当代柘榴庭の名を呼んでいるなら、当代どのが赴けばきっと鎮められます」

「そうなのか? 鎮められるのか?」

 国王が紫英の肩に縋りながら泣き声交じりに言う。

 紫英は優しい声で応えた。

「無論ですとも。われらカジャールの民にとって、柘榴庭どのというのは誉れの姫君なのです。わたくしはゲレルト氏族に属しますが、同族から柘榴の頭領が出たなら、水清きサヤーの水よりも清いアマラ姫を仰いだように崇拝したはずです。当代どのはアガールの姫、輝かしき暁のウーリントヤです。柘榴庭どのが赴いてご無事の姿さえ見せれば、アガールの者たちは即座に鎮まりますとも」

 若い兵衛の語り口は穏やかで優しかった。

 月牙は不意に思い出した。

 この若者は、あの忘れがたい去年の夏、梨花殿さまが柘榴庭の厩に立てこもられたときに、お渡り橋の王宮側を護っていた少年のような兵衛だ。



 ――兵衛どの、大至急主上をお呼びしてくれ! 梨花殿さまの一大事だ! いらせられねばご自害されかねない! そうお伝えするんだ!


 ――分かった、すぐ呼んでくる!


 兵衛は叫ぶように応えるなり、本当にすぐさま国王を呼んできたのだった。



「柘榴庭――」

 国王が縋り付くように呼んだ。


 月牙は不思議な感覚を覚えた。

 切り離されていた二つの世界がゆっくりと繋がっていくような、怒りと愛と憎しみと、一抹のかすかな憐れみとが、溶け合い、混ざり合ってゆくような、熱く奇妙で胸苦しい感覚だった。


「主上、ご案じ召されるな」

 気がつくとそんな言葉が出ていた。

「カジャール三姫がはじめの誓いを立ててこのかた、我ら柘榴の妓官は、天が落ち、地が裂け、河が北へと流れようとも桃梨を護るものなりと誓い続けております。正后さまはお救い申し上げます。――あのお方が、我らの梨花殿さまであらせられるかぎりは」

「柘榴庭、ああ――」

 国王が感極まったように目を潤ませる。

 

 月牙は内心で苦笑した。

 ――私もどうやら少しばかり雌ギツネっぽくなってきたみたいだなあ。


 身勝手?

 利己的?


 大いに結構。欲しいものは欲しいし嫌なものは嫌だ。

 正后様はもちろんお救いする。

 そして獅子身中のボウフラだか蛭だかを追っ払ったら、再び我らの梨花殿にお戻りいただくのだ。

 言質はもう貰った。

 もちろん、比翼連理のお二方を救ってやりたい真心だって三割くらいはある。

 

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