第二章 にっくき法狼機女 弐
異世界に迷い込んできてその世界の常識に逆らうイラっとさせられるタイプのヒロインを部屋の備品みたいな「侍女たち」の目から書いてみたかったのです。
双樹下王の正后はその居殿から「梨花殿さま」と呼ばれる。
当代の梨花殿さまを月牙は三度だけ見た。
一度目は、媽祖堂前に呼集されたあの早朝のことだ。
禁色の裙を纏った主上の後ろからおずおずと進み出てきたのは、見たこともないほど鮮やかな碧い胴衣と揃いの裳を纏い、これも見たこともないほど明るい金色の巻き毛を豊かに肩に垂らした十六、七に見える姫君だった。服の地は遠目にも地紋を織りなした厚手の絹だと見て取れたし、耳元には宝玉が輝いているようだ。身形からして貴顕の生まれであることは間違いないようだが、その割には随分とおどおどしていた。
主上は姫の肩を抱き、その場の誰にも分からない言葉でしきりと話しかけていた。
「なんとまあ、主上は宮の外から相思の姫を見出されたのか」
胡文姫が好ましげにつぶやけば、雪衣も目を細めて仰ぎながら微笑した。
「いいねえ。お幸せそうだ」
閨閥政治に関わりない実務的な女官にとっては、正后様がどなたかなどそんなに大した問題ではない。桃果殿には王太后様。梨花殿には正后様。太陽や月が空にあるように、上つ方はただあるべき場所に存在さえしてくれればいい。誰もそれ以上の望みなど抱いていなかった。
二度目は一週間後だ。
主上が梨花殿様にと、美しい月毛の小馬に赤い皮製の鞍を着けて贈ってきたため、橘庭の督に付き添われて厩へとやって来たのだ。
そのときの梨花殿様は、風変りな異国風の装束ではなく、さっぱりした白い裙に短い碧い上着という乗馬装束だった。
近くで見るとそのお姿は本当に変わっていた。
膚が薄紙のように白くて、淡い金色の雀斑が点々と散っている。髪も陽を透かすと白く見えるほどで、目は硝子玉のような青だ。妓官たちが呆然と見つめるなか、梨花殿様はおずおずと小馬に手を伸ばされた。
「これ、私の馬か?」
白い斑の入った小馬の顔に頬を摺り寄せる仕草が何とも愛らしく、初めは不機嫌そのものだった翠玉さえしまいには笑顔で見つめていた。
「たのむ。私の馬」
梨花殿様はそう言って妓官一人一人の手を握っていった。
これには妓官一同誰もが大感激だった。麗明など涙ぐんでいた。
「頭領、当代様は素晴らしい方だなあ! あんなにお優しい正后様はこの世に二人とおるまい!」
そのときは月牙も同感だった。
外宮妓官にじかにお声をかけてくださる貴妃さまなど滅多にいない。
ましてあの方は正后様なのに、頭領以外の妓官にもお声をくださった。
何とお優しくすばらしい正后様だろう。
そう思っていたのだ。
この時期、梨花殿様は熱心に外宮のあちこちの庭をめぐっては、薬師はむろん厨女や針女たちにさえお声をかけていたらしい。その人気はうなぎ上りだった。
そして三度目は夏の末、柘榴の花が散りきって実の膨らみ始めるころだった。
月牙はその昼は体が空いたため、久々に馬でも洗おうかと厩に赴いていた。井戸から水を運んできて、いざまず月毛からと勇み立ったとき、南大路に面した木戸が荒々しく開いたかと思うと、青い絹服の梨花殿様が泣きながら駆け込んできたのだった。
「私出る! ここ出る! 馬出せ! 出る!」
片言で泣き叫びながら、もう濡らしてしまった月毛馬に突進してくる。月牙は慌ててお体を抱きとめてしまった。
「梨花殿様、どうなさったのです? どうか落ち着いて、ゆっくりお話しなさってください!」
月牙が幾ら宥めても梨花殿様は泣くばかりで、そのうちに、何を思ったか月毛馬と一緒に厩に立てこもり、今すぐここに主上を呼べと要求してきた。月牙はその場を麗明に任せて大急ぎで内宮へ走った。
内宮は大騒ぎだった。慌てふためく橘庭の督を捕まえて厩に正后がいる旨を伝えるなり、老女はヘタヘタと坐りこんで両手を組み合わせた。
「おお媽祖よ! 感謝いたします! 月牙、火急じゃ! 今すぐ王宮へ渡って主上をお呼びせい! 梨花殿様の御命の危機じゃと、いらせられねば御自害為さりかねんとお伝えするのじゃ!」
「督、一体何が!?」
「仔細は後じゃ、急げ! 一刻を争う!」
月牙は命じられた通り、内宮東院から王宮へ渡って、そちらの橋詰めを護る兵衛にすぐさま主上をお呼びするようにと頼んだ。
主上はすぐに来た。
「柘榴庭、ジュヌヴィエーヴに何があったのだ!?」
「主上、相判り申さぬ! 厩へお急ぎあれ!」
お渡り橋を疾駆して戻ると内宮は恐慌状態だった。梨花門の前の庭で、明るい翠色の裳裾を拡げた華奢な体躯の貴女が泣きながら主上に取りすがってきた。
「主上、お許しくださいませ、私めは梨花殿様の御心を傷つけるつもりなどは毛頭――」
途端、主上の顔色が変わった。
滑らかな頬にさっと血の色を浮かべたかと思うと、憤怒も露わに貴女の腕を振りほどき、華奢な躰を壁際に叩きつけながら怒鳴った。
「やはりそなたか石楠花殿! この雌狐が、私のジュヌヴィエーヴに何をした!?」
「主上、それはあんまりな――」
貴女が泣き崩れるのを女官たちが支える。月牙は慌てて主上の腕を掴んだ。
「主上、火急でございます! 梨花殿様が厩でお待ちなのですぞ!?」
「あ、ああ、そうだったな、急ぐぞ!」
主上は紅貴妃をそのままにして桃梨門を駆けだしていった。
厩へ着いたときにも、梨花殿様は相変わらず月毛馬の仕切りに立てこもっていた。
〈ジュヌヴィエーヴ!〉
主上が叫ぶとあちらも何やら異国語で叫びかえす。
二人はしばらく叫び合っていたが、じきにまた梨花殿様が泣き崩れると、主上がそろそろと歩み寄り、壊れやすい細工物にでも触れるような手つきで背を撫でた。
〈ジュヌヴィエーヴ。ジュヌヴィエーヴ。信じてくれ。私の伴侶は君だけだ。この世で君一人だけだ〉
後になってその日の騒動の詳細が判明した。
どうも、法狼機生まれの梨花殿様は、後宮に住まう女たちはみな女官だと思っていたようだった。そこで、珍しい茶葉が手に入ったからと挨拶がてらお茶に誘いにきた石楠花殿の紅貴妃に、
「貴方のお仕事はお茶を仕入れることですか?」
と、訊ねたらしい。
京の大貴族の姫君である紅貴妃は内心気を悪くしたものの、正后様は遠方の御生まれであるし、と気を取り直し、友好的な笑顔を拵えながら答えたのだそうだ。
「いいえ梨花殿様。わたしくしも貴方様と同じく主上の妻でございます」
結果、后は真っ青になり、茶器を壁に叩きつけるなり内宮を飛び出していったという顛末であるらしかった。
その騒動をきっかけに、梨花殿様は後宮を出て、王宮の主上の居住区で共に暮らし始めたのだという。月毛馬も一緒に連れていかれてしまった。
三か月後の媽祖祭のとき、主上は久々に桃梨花宮に姿を現した。
そして再び媽祖堂前に女官たちを集めて宣言したのだった。
「聞け百華よ、朕は生涯ただ一人の伴侶しか持たぬと決めた! 后は洛中のパレ・ド・ラ・レーヌに住まう! パレ・ド・ラ・レーヌとは法狼機の言葉で后の宮という意味である! これを新梨花宮と呼んでもよい! この宮は今後は王太后宮とする! 西院の者たちには暇を出す故、いずこへなりと去るがよい!」
宣言の後に慟哭は続かなかった。
皆まだ何を言われているのかよく分からなかったのだ。
主上が引っ込んだ後で、雪衣がぎりぎりと唇を歪めて吐き捨てた。
「おのれあの法狼機女が……っ!」
半年前の出来事である。