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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第七章 ついに最後の謎解きを 四

「太太、こちらでお待ちください」

 可愛らしい侍女が母屋の裏手の離れのような棟に導いてくれる。


 すぐに運ばれてきた茉莉花茶を啜っていたとき、むせかえるほど濃厚な麝香の匂いとともに、鮮やかな深紅の裳衣をまとった女が入ってきた。

 年頃は銀児より少し上か。昼だというのに濃く紅白粉を塗り、豊かすぎるほど豊かな黒髪を背に解き流している。この宿で一番売れっ子の官妓だ――と、一目で分かる装いである。きっともう二、三年で盛りはおしまいになるのだろうが。


 ――そういうところは私たちと同じだね。


 銀児は内心で微苦笑した。

 女は胡乱そうな顔で銀児を眺め回した。

「太太、あんた何しにきたの? どこであたしの娘の名前なんか知ったのさ」

「どこってそりゃ、あなた自身があちこちに吹聴したのでしょ? 捜されているって聞いたから、夫と水杯で別れて西岡からはるばる来たっていうのにずいぶんなご挨拶ですね!」

「え?」

 女が目を見開く。「じゃ、あんたが蘇銀児さま? 西岡から来た()たちが噂していた、とってもご親切でめっぽう腕が立つっていう、あの武芸妓官あがりの太太なの?」

「今もめっぽう腕が立つかまでは分かりませんけどね。私が蘇銀児ですよ。月牙とは――当代の柘榴庭とは同時期に庭に入って二年も一緒に寝起きした仲です」

「嘘みたい。あんたどう見てもそのへんにいそうな普通の太太なのに」

 牡丹が床に片膝を立てて座りながら意外そうに言う。銀児は苦笑した。「武芸妓官の大半は、宮を退いたらごくごく普通の妻女になりますよ。あなたの娘さんだってそうなるかもしれません」

「あの跳ねっ返りのちびが? それはないよ。あの子は客に来る男が大っ嫌いで、いつも泥団子なんかぶつけていたんだから」

 牡丹は喉を鳴らして嗤い、やおらがばりを頭をさげて、額を床にこすりつけた。

「銀児さま、お願いだよ。もし死罪なんてことになっちまったら、殺される前にあの子を助けてやって。あたしがあの子を手放したのは縛り首にさせるためじゃないんだ。あの子はきっと父親の家で虐め抜かれてあたしを怨んでいるんだろうけどさ――」

 と、牡丹が肩をふるわせる。

「七つのとき、あの子はすごく喜んで媽祖大祭の行列を見ていたんだ。きっとものすごく頑張って本物の妓官さまになったんだ。それがたったの十四で殺されちまうなんてあんまりだよ! ねえ、お願いだよ銀児さま。あの子を――小蓮を助けてやって!」

「頭をあげてください牡丹さん」と、銀児は静かな怒りをたたえた顔で答えた。

「頼まれなくたって助けますとも。柘榴の妓官は姉妹です。あの忌々しい法狼機女なんかのために、大事な姉妹を殺されてなるものですか」

 床に膝をついて牡丹を助け起こしながら、銀児は見えない敵を睨みつけるように唇をゆがめて虚空を睨んだ。



 ――月牙。大丈夫だよ。もしも死罪なんてことになったら、護送行列を襲撃して必ず逃がしてあげるからね。



 翌朝である。

 月牙は朝から見知らぬ湯殿で、顔も名前も知らない三人の婢に全身をごしごしと洗い立てられていた。

 それが御史台の獄舎の習慣なのか、婢たちは喪服みたいな白装束で、小さく結った髷にも白い頭巾を被せ、顔の下半分を真っ白な布で覆っている。

「いよいよ今日がお裁きなの?」

 訊ねてみても何も言わない。

 ここ三日間身の回りの世話をしている婢たちの誰一人うんともすんともいわないあたり、この徹底した無言も、やはり獄舎の習慣なのだろう。


 ――まさか舌を抜かれているわけじゃないよね?


 血生臭い予感に背筋が寒くなる。

 婢たちは無言のまま月牙を洗いきると、ザバっと乱暴に桶の湯をかけ、目の粗い白麻の布で大雑把に乾かしてから、右手首をつかんで隣室まで引いていった。


 方二丈の半分ほどの窓のない板の間である。

 真ん中に籐の衣装櫃があり、右手の壁際に鏡台が据えてある。台の上には髪油の壺や貝紅や刷毛や、真鍮製の水差しなどが並んでいる。

 柘植の櫛のそばに思いがけないものがあった。


 赤い薄い紗で作られた一対の柘榴の造花だ。


 婢の視線に促されて櫃の蓋をあげれば、白い袷の筒袖と濃い藍色のくくり袴、黒糸で菱紋を刺繍した緋色の帯が収められていた。一番下には黒テンの毛皮で裏打ちをした黒い袖無しまである。

 外宮妓官の頭領の秋冬の正装である。

「身支度をしろってこと?」

 訊ねると婢の一人が頷いた。

 月牙は奇妙な感慨に駆られながら着替えた。


 ――正直なところ、この服をまた生きて着られるとは思わなかったなあ。


 着替えがすむと今度は髪だ。

 鏡台の前に膝を立てて座り、柘植の櫛を油に浸して、まだ湿り気を残した髪を丁寧に梳いていく。そうしていると無性に麗明のことが思い出された。



 編み髪を結い上げて耳の上に一対の造花を飾る。

 割った欠片を武器にされることを警戒しているのか、化粧のための小皿や壺はすべてが真鍮製だった。


 ――そこまで警戒しなくたって、陶器の破片ひとつじゃ、私一人だって到底逃げ切れないだろうに……


 そこまで考えてからはっと気づく。

 双樹下の御史台は五位以上の官位を有する高級官吏を裁くための組織だ。ことにこの湯殿などは女官向けに設えられているようだし、警戒しているのは逃走ではなく自害のほうなのだろう。


 ――そっちはますます心配ない。言いたいことも言わないまま死んでなるもんか。


 冷たく光る真鍮の皿に白粉を溶いて刷毛を浸す。

 冷たい刷毛を膚に滑らせ、余分な色を柔らかい紙で拭き取ってから、貝紅を溶いて細筆で唇に紅を刺す。

 そうして静かに化粧をしていると、心が穏やかな水面のように凪いでくるのが分かった。

 眉を整えていつもの化粧を終えたあとで、月牙は一瞬迷ってから、眦にも細筆を走らせて花びらのような模様を描いた。

 ずっと昔に教わったアガール氏族の戦化粧だ。

「さて、これで済んだよ。沓の支度はあるの?」

 顔を向けると婢たちがかすかに息を飲むのが分かった。


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