第六章 昨日の友は今日の敵? 七
官吏二人の化かし合い――もとい話し合いの結果、租界への使者には桂花をやることになった。
「逃亡女官三人を匿っているっているのが租界を攻撃する理由なんだとしたら、我々の誰かが本当にいたら大変だものね」
「大橋門の門楼まで九龍に案内させよう。して判官、そちらの情報だが――」
駅長がそう切り出したとき、翡翠色の扉が外から叩かれ、九龍のややこわばった声が聞こえた。
「駅長、火急の用件です」
「入れ」
「失礼いたします」
扉がわずかに開いて九龍の長身が滑り込んでくる。冷静に見えるが相当焦っているらしく、背をかがめ損ねて扉の枠に額をぶつけていた。
「落ち着け九龍。どうした。いよいよ先発隊が着いたか?」
「はい。おそらくは。大橋門警備の校尉が門前に参っております。祈祷のお時間であれ今すぐ報告をと」
「わかった。すぐ向かう。――九龍、私が出たあとで、お前は河津門側から入って使者を租界へ連れて行け」
「承りました」
「薬師よ、儂が呼ぶまで判官たちを悲田院に匿っておいてくれんか?」
「お引き受けいたしましょう」
老薬師が張り詰めた声で答える。駅長は短く頷いてから、布袋腹を揺らしてえっちらおっちらと外へ出て行った。本人としては走っているつもりらしい。
「桂花は私と服を替えて。籠に箙と刀を隠して洗濯女のふりをするんだ」
「はい判官さま」
「それから領事に伝えて。いざというときの証拠として返信を大切に保管しろって。そのまま伝えればたぶん意味はわかると思う」
「承りました」
雪衣と桂花が口早に言葉を交わしながら着替える。
九龍は律儀に道祖神像とだけ向き合っている。
服を脱いだ桂花の内股が摩擦傷で真っ赤になっていた。
籠に箙を隠す手に真新しい包帯が巻かれている。
桂花が籠を持ち上げて外へ出ようとしたとき、月牙は思わず呼んだ。
「桂花――」
「?」
「命令だ。租界についたら休め。休んで何か食べろ」
一息に言うなり、桂花がきょとんと瞬きをし、不意に顔をゆがめて囁いた。
「頭領、あとひとつ伝えたいことが」
「なんだ?」
「――麗明さまは新梨花宮にいる。頭領たちが発ってすぐに召されて、追捕されてからは、新しい柘榴の頭領を名乗っている」
桂花は潜めた声で言った。
月牙は呆然とした。
「嘘だ。まさか、麗明がそんな」
「――私も、何度も来いと呼ばれた」
「それは、きっと何か事情が――」
そこまで口にしたとき、堂の外から九龍が鋭い声で呼んだ。
「使者どの、急ぐぞ!」
「すぐにいきます」
桂花が答えるなり顔を背けて階を駆け下りてしまう。
二つの足音が遠ざかったあとにも月牙は茫然としていた。
天が砕けて頭の上に降り注いできたような気がしていた。
――麗明が。そんな、まさか。
「――月」
気がつくと背後に雪衣が立っていた。
「麗明というのは、柘榴庭の次官の宋麗明どの?」
「ああ」
「あの次官は、橘庭の監督と同系の宋氏なの?」
「ああ」
月牙はどうにか平静を装って答えた。
「どちらも嶺北の宋氏で、我ら蕎や杜のアガール氏族と並ぶ平原のカジャールの雄族、サルヒ氏族の氏族長筋だ。嶺北宋氏が橘庭の督を務めている代にアガール系が柘榴庭の頭領になったことを、サルヒ系はほとんど誰も喜んでいないだろう。私に対しては、はじめからかなりの悪感情を抱いているはずだ。ほら、例のあのろくでもない前歴もあるしね?」
できりかぎり気楽な口調で告げようとしたのに、自分でもありありと声が強ばっているのが分かった。
背後から雪衣が静かに訊ねてくる。
「近衛には、サルヒ系が多いの?」
「たぶんね。アガールよりは。――橘庭の督は、カジャール系の諸家が望める最高位の官職のひとつだ。宋金蝉さまが数十年来その地位にいる以上、サルヒはアガールより遙かに京に縁故を得やすかったはずだから」
月牙はつとめて淡々と説明した。
堂内で息を潜めていた小蓮が、こらえかねたようにすすり泣き始めた。
「さ、いきますよ、お若い妓官どの。判官様は被布でお顔もお身も隠してくださいな」
名前も知らない薬師が柔らかな声で促してくれる。
宿駅内の救貧施設である悲田院へ向かう道々、小蓮が小声で訊ねてきた。
「ねえ頭領、麗明さま、きっと私たちを助けるために何かなさっているんですよね?」
「ああ。きっとそうだ」
月牙はそう答えてやった。
そうは言いながらも、月牙自身は麗明と敵対することは十分にありえると思っていた。
一族の期待を負う重みは月牙自身がよく知っている。
四年前、頭領を決める試合を終えた日の夜、井戸端で傷ついた獣のように体を丸めて慟哭していた麗明の姿も知っている。
――いいさ麗明。お前がその気なら戦ってやる。何度でも正面から、戦って打ち負かしてやる。
そう思うとぞくぞくするような震えが全身に襲ってきた。
「頭領――」
小蓮が怯えたように呼んだが、それ以上は何も言わなかった。
当人に自覚はなかったが、月牙はそのとき口元にうっすらとした笑みを浮かべていたのだ。
いよいよ初めての狩りに出る若い猛獣の笑みを――