第六章 昨日の友は今日の敵? 六
「あああああ、もう! またも湧いたか法安徳!」
桂花の切々とした語りを遮って雪衣が咆哮した。
「ボウフラかよ本当に全く! 濁り水がありゃどこにでも湧くな! シャルダン領事が売国奴? どの口でそれを言うんだあの横領犯が!」
目が血走っている。
たまりにたまった鬱憤がとうとう爆発したらしい。
駅長がびくりと扉を見る。
月牙は狼狽した。
「雪、雪、落ち着いて。気持ちはわかるけどさすがにちょっと煩い。私たち一応身を潜めているんだからさ」
どうどうどう、と暴れ馬を宥めるように後ろから肩を抱く。雪衣が怒りのためなのか目元を潤ませて見上げてくる。
「だってさ月、もう嫌になっちゃうよ。何を捜しても何処へ逃げても最後には必ず法安徳で行き詰まるんだ」
「雪衣様、それってもうその法安徳がすべての黒幕なんじゃないですか?」
「いやいやいやいや孫小蓮。それはちょっと短絡的だよ。ここまでくると私も正直そうじゃないかって思いたいんだけどね。横領以外の犯行もやつの仕業だって決めつける理由は、今のところたぶんない――」
雪衣が座椅子代わりみたいに月牙の胸に後頭部をもたせかけたまま熟考を始める。真剣に考え込むほど体勢が日向の猫みたいになるのは雪衣のいつもの癖だ。
すぐ顔の下にあるほこりまみれのぼさぼさ髪が急に痛ましくなって指で梳いてやっていると、駅長が細い目を限界まで見張って凝視しているのに気付いた。月牙は苦笑した。たしかにこの姿勢は、一応は公の席では寛ぎすぎである。
「駅長さま、どうもお目汚しを。判官も疲れているのです。ご無礼は重々承知ながら、どうか今しばしお見過ごしください」
「いやなに、構わんが」と、駅長はなぜかぽっと頬を上気させた。「月、といったか? 今更なのだが、そなた結局何者なのだ? 妓官たちともずいぶん親しいようだが」
「は?」
月牙は混乱した。
雪衣もきょとんとしている。
「えっと、月が何者かって聞いています?」
「ああ、まあ。うむ」
駅長が目を逸らしながらもごもごという。
「あいや、咎めているわけではないぞ? 儂とて木石ではない。宮を追われて辛苦する判官をここまで守り支えてきたのであろう? 昨日今日の仲ではあるまい」
「ええまあ。それなりに」
「九年来の付き合いですね」
「ならば猶更いうことはない。もう少しちっとこう、人目を憚るべきだとは思うが」
「はあ」
小蓮がウグっと喉を鳴らすなり、桂花が頭を拳で軽く小突いた。「おい笑うな小蓮」
「だって桂花姉さん」
「……実際のところ、頭領と判官様はどういう関係なんだ?」
桂花が小蓮の耳元でこそこそっと訊ねる。
「どうってそりゃ、頭領と判官様でしょ?」
小蓮もこそこそ答える。
子犬と子猫がじゃれているようでようでウチの子たいそう可愛いな――と、月牙は現実逃避のように思った。
「あ――頭領? 頭領というと? まさかその、世に言う柘榴庭の?」
駅長が混乱しきった顔で訊ねてくる。
「まさしく世に言うそれです。今までなんだと思っていたんです?」と、雪衣があきれ果てたように言う。
「というか、頭領が頭領じゃなかったら、頭領はどこにいると思っていたんですか?」
桂花が頭領を連呼する。そういえば桂花今まで一度も呼んでくれてなかったんだな、と月牙は悲しくなった。
「あ、箙! 箙背負いましょうよ!」
がくりと肩を落としてしまった月牙を元気づけようと思ったのか、小蓮が籠に満載された衣類の下から箙と刀を引っ張り出してくれた。うん。これこそ妓官の魂だ。もはやこっちが本体なのかもしれない。
漠然とした脱力感に襲われながらも、月牙は大事な本体を身に帯びながら名乗った。
「申し遅れましたが、わたくしが外砦門の外宮妓官の頭領を拝命するものです」
「すると、そなたがあの蕎月牙? 北塞の蕎氏の?」
「――ええ」
あの、という表現に月牙は引っかかりを覚えた。小蓮が素直に感心している。「うわあ、頭領ほんとに有名なんですねえ」
「当たり前だ。頭領だぞ」と、桂花が誇らしげに言う。
駅長はつくづくと月牙を眺め、驚きと関心の入り交じった声を漏らした。
「いやはや、噂はあてにならんのう。そなたがあの蕎月牙か」
あの、という口ぶりに独特の響きがあった。
瞬間、月牙は背筋がすっと寒くなるのを感じた。
――この官吏は知っているのだ。私が妓官になる前のことを。
「月、聞き流せ」
すっかり落ち着きを取り戻した様子の雪衣が低くささやくと、月牙の腕からするりと抜けだしながら切り返した。
「駅長、北塞の蕎氏の誉れたる我らの柘榴庭についてどのような噂を?」
「いやなに、たいしたことではない」駅長は口を濁し、改めて雪衣に訊ねた。
「ところで判官、先ほどから口にのぼっている法安徳なるもの、竜騎兵のマスケット師範を務めるアルマン・ル・フェーヴル大尉の双樹下名で相違ないか?」
さすがに国際湾港都市海都の官吏だけあって、駅長のリュザンベール名の発音は月牙には聞き取りづらいほど流暢だった。
「ええ」
「その師範が横領を?」
駅長がいきなり短刀で懐に斬りこむように訊ねる。
雪衣は一瞬口籠もってから、腹を決めた顔でうなずいた。
「ええ。――これ以上の詳細をお聞きになりたければ、ひとつお約束を」
「何かの?」
「組織ごとの秘密主義は大抵公益を損ないます。法安徳に関わる事件について、海都宿駅が今時点で知り得ている情報すべてを租界の領事にも知らせやってください」
「もちろん構わん」
「ご一族の名誉にかけて誓います?」
「誓おうとも。とはいえ、我々のほうは今のところまだ何も――」
駅長はそこまで口にしてから、将棋の一手を打ち間違えてしまったような顔をした。
「つまり、法安徳の奏上で禁軍がこの海都へ発進しているという情報を知らせてやれと?」
「誓いを守ってくださるなら、そういうことになりますね」
雪衣が涼しい顔で答えた。




