第六章 昨日の友は今日の敵? 五
月牙の予想に反して使者は桂花だった。
――なぜ麗明は来ないのだろう?
月牙は胸の奥がチリっとするような嫌な予感を覚えた。
桂花は疲れ切っているようだった。
いつもしかりながらよく面倒をみている相手である同房の小蓮が呼び、頭領の月牙が呼んだというのに跳ね起きる気配がない。
「眠ってしまったか。無理もない。駅ごとに馬だけを替えて、海南道六〇里を独りで駆け通してきたらしい」
駅長が感嘆と憐憫の入り混じった声で言う。
「可哀そうに、手の皮がすっかり剥けてしまいましてねえ」と、白衣の老女が傷ましげに言い添える。「駅長さまがお呼びになるまで休むようにと進めても、判官様か頭領に報せるまではと頑として休まなかったのです。それが今しがた、判官様の御名乗りが聞こえてきた途端に、こくりと眠り込んだと思うと」
「けなげなものだ。ようやく安堵したのだろうな。気の毒だが起こしてやれ」
「はい駅長さま」
老女が桂花ににじり寄ると、優しい手つきで肩を撫でながら囁いた。「妓官どの、妓官どの、お起きなさい。紅梅殿の判官様がお見えですよ?」
「ん――」
背中の白い羽根が微かに慄く。
次の瞬間、桂花ががばりと顔をあげ、怯えた獣のような仕草で左右を見回した。無意識なのか刀の柄に伸ばされた手に真新しい白い包帯が巻いてある。月牙は堂内に漂う微かな薬臭さを感じた。源は白衣の老女のようだ。
――駅長どのは桂花のために薬師を呼んでくれたらしい。
そう思うなり心が温かくなった。
「桂花、落ち着け」
床に膝をついて顔を覗き込みながら言う。
「私だ。判官様はご無事だ。小蓮もね。よくここまで一人で駆けてきたな」
「判官様――」
桂花が瞬きをしながらおぼつかない声で呼ぶ。「紅梅殿の判官様は?」
「ここだよ柘榴の妓官」と、雪衣が苦笑ぎみに応える。「あまり見えないかもしれないが、私が主計判官の趙雪衣だ。そなたの名は?」
「外砦門警衛の外宮妓官の周桂花と申します」
「では周桂花、まず初めに訊きたい。公の駅馬を使えたということは、そなたをここに寄越したのは桃果殿様ご自身か?」
「はい。判官様をお救いすべく使いを出してくれるよう紅梅殿様が嘆願なさり、桃果殿様がお入れになったと聞きました」
「そうか。督がか――」
雪衣が泣くとも笑うともつかない表情を浮かべた。
「では、私を救うべく伝えにきたその報せとは何だ?」
桂花がちらりと駅長を見やる。雪衣は眉をあげた。
「その報せはあくまでも宮の外には秘めよと? 私に報せたあとにも?」
「いえ、初めに必ず判官様に、かなわなければ頭領に報せろとだけ」
「ならかまわない。話しなさい。京で何が起こっている?」
「ではご報告いたします。七日前、海南節度使が王旗を賜り、竜騎兵一五〇に加えて蘭江以北の諸道徒歩兵八五〇を道々召しつつ海都へと発進いたしました」
桂花は覚えたての古歌でも諳んじるようにそこまで一息に告げた。
燈火の届かない暗がりで誰かがヒッと喉を鳴らした。
見れば、白衣の老薬師が、ありありと怯えた表情を浮かべて桂花を凝視しているのだった。小蓮も零れんばかりに目を瞠っている。
「判官様、竜騎兵って、あの?」
「小蓮、黙っていろ」
月牙は小声で咎めた。
駅長はといえば落ち着いた顔で、肥えた指を二重顎に添えて何やら思案している。雪衣も繊手を顎に当てて同じような表情を浮かべていたが、ややあって平静な口調で訊ねた。
「諸道歩兵八五〇を招集となると――駅長、最大限急いで何日くらいかかります?」
「少なくとも五日はかかるでしょうな」
「諸道歩兵の進軍速度は一日六里でしたっけ?」
「規定通りならば」
「では、到着は最速であと八日ですか――」
「いや、でも待って雪」と、月牙は思わず素で口を挟んだ。「さっき城壁上から禁色らしき色が見えたでしょう? あの高さからそんなに遠くは実は見えないよ。地の涯ては案外近いんだ。あれはせいぜい三里先〈約12㎞〉だよ」
「え、三里?」雪衣がうろたえた声をあげる。「じゃ、もうすぐそこまで来ているってこと? なんで? 早すぎない?」
「判官、落ち着かれよ」と、駅長が苦笑する。「おそらくは騎兵の一部が先発隊として発っていたのであろう。一〇〇〇兵士をいきなり宿営させる支度はどこの宿駅でも出来兼ねるからの。じきにこの駅にも先ぶれが来るだろう。しかし若い妓官よ、そもそもなぜ禁軍がこの海都へ向かっているのだ?」
駅長が微かな苛立ちを滲ませた声で訊ねる。
途端、桂花が顔を歪めた。
「――租界を攻めるためだそうです」
「租界?」
月牙は思わず問い返した。
駅長も雪衣も呆気にとられている。
「租界とは、この海都に六年前から築かれているリュザンベール人の――正后様のご同胞たる法狼機の居住区のことか?」
「はい駅長さま」
「理由は、そこに我々が――正后様毒殺未遂の疑いをかけられた逃亡女官三人が匿われているため?」
「――はい判官様」
桂花が応えてうなだれた。真新しい包帯を巻いた掌をきつく拳に握る。老薬師が心配そうに眉をよせる。
「しかし、租界には領事裁判権がある」と、駅長が忌々しそうに言う。「リュザンベール人の誰かがこの国の罪人を租界に匿った場合、まずは領事に通達して引き渡しを求めるのはこの六年で慣例になっている。王宮は勿論知っているだろうが、あの小さな租界の背後には南香波の総領事館が、さらに背後にははるかに西方の大国、リュザンベール王国そのものが控えているのだから」
「聞いた話ですが、主上に租界を攻めよと奏上したのは、竜騎兵の師範を務める法狼機人だったのだそうです。その師範は、今の領事は売国奴で、初めから逃亡女官三人と共謀していたのだと――」




