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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第六章 昨日の友は今日の敵? 2

 九龍は女官三人を伴って租界の木柵沿いを右手に歩いていった。向かう先は中北門ではないらしい。

 陸門を離れると人通りが途絶えた。前を行く九龍の背に向けて雪衣が小声で訊ねる。

「ところで火長、我々が租界にいるとどうして分かったの?」

「それは――」と、九龍は一瞬口篭もってから答えた。「使者がそう言ったのです」

 その答えが本当か嘘か月牙には分からなかった。


 やややって目の前に高い石壁が現れる。

「外壁?」

「ああ」

 石壁には後からしつらえたと思しき木製の梯子が架かっていた。一番上まで登ることができるようになっている。

「六年前、租界が築かれたときに、宿駅の費用でここから上へ登れるようにしたのだ」と、九龍が説明する。「大橋門まで壁の上を歩いていくのが一番人目につかない」

「うわあ、結構高ですねえ。雪衣さま大丈夫?」

「そうだね。これは落ちたら大ごとだ。一人で登れそう?」

「登れなかったらどうするのさ」

「ああ、そういえば、補修用の石を引き上げる吊り篭があったぞ」

「……」

 吊り篭が不本意だったのか、雪衣は遅々としながらも、なんとか自力で梯子を登り切った。上から九龍が、下から月牙と小蓮が、つかまり立ちを始めた乳幼児を見守る祖父母みたいな面持ちでハラハラ見守っていた。

 外壁の上は幅三丈の河津道ほどの幅があった。外にあたる左手に胸壁が連なっている。

 胸壁のあいだから垣間見えるのは、海都の北側を流れる北小江の水面と、その向こうに茫漠と広がる遠大な低湿地帯だ。ところどころに散らばる黄金色の楕円形は、堤に囲まれた穫り入れ間近の浮田だろう。江のやや先に大橋が架かって、対岸からまっすぐな堤道が伸びだしている。

「海南街道か」雪衣が額に手をかざしながら感慨深げに呟く。「京は北の果てか――」

 つられて目を向ければ、針のようにすぼまる道の先が地と空の境をぼやかす薄青い靄へと呑まれていくのが見えた。


 ――ああ、地の()てが見える……


 月牙はふと北辺の大防壁を思い出した。



 大防壁は月牙の故郷である北塞の市内から馬で半日の距離にあった。

 月牙がその壁を最後に訪れたのは十七の冬、掌の肉刺がつぶれて固くなるほどの鍛錬を一年重ねたあとで、いよいよ妓官の任官試験へと赴く前日のことだった。


 ――月牙、最後に壁を見ていけ。


 そう促したのは刀の師匠を引き受けてくれた兄嫁の母だった。十五の齢から九年間妓官務めをしてから嫁したという師匠は、そのころ五十をいくつか越えたほどだったが、まだまだしゃんと背筋の伸びた凛々しい姿をしていた。

 月牙はその師と連れ立って防壁まで遠駆けをした。


 ――なあ月牙、覚えておけ。京へ上がれば、お前はここにいるとき以上に北夷と蔑まれるだろう。刀を持って戦う蛮族の女、男のなりそこないと。だから覚えておけ。武芸妓官という官職がどのように始まったのかを。



 ――ええ師匠。覚えていますよ。



 故郷のそれとは湿度の異なる江風にほつれ毛を嬲られながら、月牙は十年前に聞いた師匠の昔語りを思い出していた。カジャール系ならだれも知る「三姫誓願」の故事だ。



 ――そもそもの始まりは第四代黎明王の御代、平原のカジャール随一の雄たるアガール氏族の長に美しい姫が生まれたことにさかのぼる。姫の名はウーリントヤ。カジャールの言葉で暁を意味した。

 その頃、北塞はまだなく、カジャールの言葉でサヤーと呼ばれた清江の北の平原に住まう三氏族は、年ごとに京洛に馬を献じるほか、何の支配も受けずに暮らしていた。三氏族にはそれぞれ美しい姫がいた。サルヒのオドヴァルとゲレルトのアマラ、そしてアガールのウーリントヤだ。

 長じてのち三姫はともに馬を駆り、白い羽根の箙を背に負って、サヤー川の渓間でともに狩りをするようになった。

 そんなあるとき、傷ついた高地の氏族の男が渓間に迷い込んできた。

 男の名はインドゥニラル。大北嶺の北に住まうカジャールの雄族、マルガトゥ氏族の長の息子だった。三姫は男を介抱して故郷へと帰してやった。

 高地へ帰ったインドゥニラルは、故郷であらゆる贈り物を調え、アガールの長の天幕に使者を送った。美しき暁のウーリントヤへの初めの求婚者だった――


 ――そういえば、この故事の姫の名前のことで、初めて会った頃麗明と大喧嘩をしたのだったなあ。



 歩きながら月牙は思い出す。


 忘れがたい大喧嘩をしたとき、十八の月牙は麗明と同じ方二丈で寝起きしていた。新入りは三人部屋だからもう一人、蘇銀児という同輩も一緒だった。

 三人はその日非番だったため、遊びみたいな自主的な鍛錬を終えたあとで井戸端で水浴びをし、階に腰掛けて髪を編みながら他愛のないおしゃべりに興じていた。月牙よりひとつ年下ながら一年先輩の麗明が先輩風を吹かせて、仕送りの小遣い銭で買ったという軟らかい白い飴菓子を二人に分けてくれた。


 ――そういえば、私たちはどうして三人部屋なんだろうな?


 初めに疑問を呈したのは銀児だった。


 ――杏樹庭でも芭蕉庭でも、新入りはまずは四人部屋からだって聞くのに。御針女たちはともかく、薬師がたは私たちより少し格上でしょ?

 ――ああ、それはたぶん「三姫誓願」の故事のためじゃないかな。


 麗明がそう教え、カジャール系ではない銀児に故事の説明を始めた。

 麗明の属する宋氏はサルヒ氏族であるため、その口承はアガール氏族のそれとは微妙に異なっていたものの、大筋としては勿論月牙もよく知る話だった。

 サルヒ系の口承はアガールよりも修辞に富んで美しかった。麗明の柔らかな語り口と相成ってまるで歌のようだ。

 銀児は熱心に聞いていた。

 月牙もウンウンと頷きながら耳を傾けていたが、「インドゥニラル求婚」の段に差し掛かるあたりでぎょっとした。


 ――待って待って麗明、そのくだり変だよ! インドゥニラルが求婚したのはウーリントヤ姫でしょう? 

 ――え、何言っているんだ月牙、マルガトゥの若鷹が求婚したのは森のサルヒの白き鹿のごときオドヴァル姫だよ? 

 ――違うって、アガールの暁のウーリントヤだよ。私は師匠からそう聞いた。

 ――それはその師匠が間違っているんだ。私は金蝉様からオドヴァル姫だって聞いたんだから。

 ――誰だよ金蝉様。

 ――えええ、知らないの!? 宋金蝉様は当代の橘庭の督だよ! 


 その心底愕ききったような声音に月牙はカッとなった。


 ――内宮の督のお名前なんか同族じゃなければ知っているはずないだろ! いちいち威光を借るなよ! 

 ――げ、月牙、月牙、それは言い過ぎだって! 麗明もさ、今のはちょっと嫌味だったよ、さすがにいくら何でも。


 銀児がアワアワと仲裁する。麗明は顔色を変えた。


 --それじゃ銀児も私が督の縁故で妓官になったと思っているの?

 ――誰だって思うに決まっているだろ! 同族なんだから!

 ――そんなの私が選んだわけじゃないよ! そっちこそどうせその顔で贔屓をしてもらったんだろ! 目指すのは督じゃなくて寵姫か? あのかわいい呉家の令嬢が敵対者でお気の毒さま! 

 ――翠玉の前でなんてこと言うんだ! その珍妙な赤毛の髷切り落としてやる!


 互いの痛点をザクザク突き合うような応酬の果てにいよいよ刀に手が伸びたとき、仲裁を諦めた銀児が外砦門へ走って、当時の頭領だった安飛燕を呼んできたのだった。


 ――麗明、月牙、一体何の騒ぎだ! 婢長屋で翠玉まで泣いているぞ!

 ――あ、頭領! 酷いんです、このアガール女が!

 --頭領、頭領、酷いのはこのサルヒ女のほうですって! 


 カジャール系ではない飛燕は、名門出身の二人娘に両側からキャンキャンと説明されると、深い、深いため息をつき、


 ――だまれ煩い小娘ども。求婚されたのはゲレルトのアマラ姫だ。文句があるなら私と戦え。相手になってやる。


 と、力業の裁定を下し、他氏族同士の親愛を深めるべく、厩の掃除を三日間二人だけで行なうようにと命じたのだった。馬の世話を不名誉と感じる感覚のないカジャール系の娘に対しては実に適切な罰則だった。

月牙と麗明はその三日間ですっかり打ち解けたものの、「三姫誓願」の故事はお互い気をつけて二度と口にしないようにした。


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