第六章 昨日の友は今日の敵? 一
11月17日、第六章の章タイトルを変更します
箙を背負って刀をつかんだ法狼機服の月牙がル・メール邸から姿を現すなり、はす向かいの邸の露台で縫物をしていた薔薇色の服の老婦人がぎょっとしたように立ち上がるのが見えた。
「裏口からお出ましくだされ」と、アンリが小声で促す。「どうかお急ぎを」
裏庭の木戸から路地へ出て、領事館を囲むらしい黒い鉄の柵を左手に見ながら人気のない道を走る。小蓮が息を弾ませる雪衣の手を引いていた。
じきに幅の広い石畳の道へと突き当たった。右手に陸門が見える。門前にマスケットを担った青い上着の兵士が一人いる。
「こちらでお待ちくだされ」
アンリが月牙たちを路地に残して門へと走り寄る。雪衣が肩を上下させながらゼイゼイと息をついていた。
〈おーいグラモン! シャルダン領事がお呼びだ。ここは私が代わるから、すぐに領事館に向かってくれ〉
〈しかしル・メール少尉、今外に妙なサールーン人が来ているのですが〉
〈だから通訳が呼ばれたんだろう。ほら、これが命令書だ。なんだか知らないが大至急だって話だ。急いで向かってくれよ〉
アンリが領事の書付を渡すと、兵士は訝しげな顔をしながらも門から離れていった。
「判官様、月牙どの、仔細が判明するまで門の境を跨がぬようにの」と、アンリがひそめた声で言う。「この門の内にさえいらせられれば、外で何が生じていようと領事がお守りくださる故」
「フン、例の領事裁判権というやつだね!」
雪衣が刺々しい小声で応じる。
租界と外の境は石畳の大きさと形、それに風化具合によって見て取れた。
月牙たちの立つ租界の側の石はまだ新しく、一尺〈約30cm〉四方できっちりと形が揃っている。外の石の大きさにはばらつきがあり、長い風雨に削られたためか四隅が丸く摩耗している。
その滑らかな青光りのする古い石畳の際に、マスケットを担った長身の武官が立っていた。
黒髪の髷を黒い頭巾で被い、藍色の紐で根元を結んで額に短い紐を垂らしている。
日焼けした藍色の筒袖と同色の括り袴。
衣の襟に「海」の一字が白く染め抜かれている。
間違いなく海都宿駅の武官――それも十人を率いる火長のように見える。
宿駅の火長にはよくあるように、武官はカジャール系だった。
年頃は三十前後か、やせ型だが骨格のたくましい長身で、高くまっすぐな鼻梁と骨ばった輪郭、四角張った顎を備えた苦み走った男前だ。
動物に例えるなら北部で産する上等の黒馬の感じか。
どうもどこかで見たことがあるような気がする。
――親戚の誰かに似ているのかな?
月牙の属する蕎氏もカジャールの名族である。この手の名馬を思わせる精悍な美男はカジャールの名家にはわりとよくある型なのだ。
だから、たぶん他人の空似だ――と、月牙は判断した。しかし、雪衣は違ったらしく、武官を一目見るなり、
「げ」
と一声唸った。
男のほうも瞠目し、粗末なタゴール綿の法狼機服の雪衣を上から下まで眺めまわしてから、驚愕と落胆の入り混じったような声で訊ねた。
「あんたは――まさか、あの、河津門前の旅芸人、か?」
「あらあ、いやですねえお役人様、他人の空似ですよう――と、言い逃れたいところだけど」
雪衣がちっと舌打ちをして武官に向き直った。
「ご名答だよ火長。我々が河津門前の壺売りの家に潜伏していたことは事実だ。あの老夫婦は脅されていただけだから罪には問わないようにね。私がお捜しの客人だ。素性を当ててみろ」
雪衣が冷ややかに聞こえるほど理知的な声で言う。
武官は突然人語を発し始めた猫を見るような顔で目を見開いていたが、ややあって心許なそうに答えた。
「お背からして、主計判官様か?」
「正解だ」
「あ――御名は、中南門筋の趙家の趙雪絹様?」
「惜しい。趙雪衣だ」
「本当に主計判官さまなのだな! では、そちらが当代の柘榴庭どのか?」
「ああ」
当代の、という表現がいかにも妓官と関わりの深いカジャール系らしかった。武官の鋭い目が月牙の手元の羽矢を一瞥する。
「お名は?」
「蕎月牙」
「御出自は嶺西の蕎氏か?」
「北塞だ。私の知る限り嶺西に蕎一族はいないはずだ」
月牙は無意識のまま背後に雪衣をかばいながら訊ねた。
「宿駅の武官とお見受けする。私の部下がこの海都へ馳せているのか?」
「ああ」
武官が、何を思ったか、やおらがばりと頭を低めながら名乗った。
「それがし、海都河津宿駅にて筆頭火長を拝命する杜九龍と申す。当代どの、無理を承知で頼む。どうか宿駅で使者と会ってくれ。京で政変が生じたそうだ」
「――少尉、外せ。我々の国の話だ」
背後で雪衣が短く命じ、アンリが遠ざかるのを見届けてから、月牙の右腕を押しのけるようにして進み出てきた。
「火長、政変とは、京でだれか有力者が倒されたということか?」
「分からん――いや、憚りながら相分かり申さぬ。使者は仔細は頭領か判官様にしか話さんの一点張りなのです」
「私を頭領と呼ぶからには間違いなく柘榴の妓官なのだろうね」
「今や二人しか残らない柘榴の妓官の一方を敢えて出すとなると、京で生じているのは相当の変事なのだろうね」と、雪衣が嘆息する。「しかし、そなたが嘘をついていない証は? 我々が租界を出た途端に捕縛しないと、どう証立てる?」
「そこは信じていただくほかありません」
杜九龍が腹の底から絞り出すような声で言い、また月牙に目を向けた。
「当代どのなら無論ご存じだろうが、宿駅の兵卒は上番制だ。もしこの海都にまで類が及ぶような政変が生じているなら、一刻も早く兵を集めて守りを固めなけりゃならん」
「守るとは、何から何を守るのだ?」と、雪衣が鋭く訊く。
「何ってそりゃ、戦禍から通行人をだろうが――いや失礼を、戦禍から通行人をでございます。宿駅なんですから」
火長は殆ど呆れたような声音で応えた。間髪入れない当たり前のような答えがよほど思いがけなかったのか、雪衣が愕きに目を瞠っている。
月牙は腹を決めた。
この火長は信用に値する武官だ。
「分かった。行こう。――判官様、一時護衛を離れる許可をください。戻るまで小蓮を、」
「却下」
雪衣が短く告げるなり、ひょいっと軽い足取りで陸門の外へと出てしまった。
月牙は仰天した。
「え、ちょっと雪、何しているの?」
「決まっているでしょう? 私も一緒に行くよ」
「雪衣様が行かれるんなら、もちろん私も行きませんとねえ。何たって護衛の妓官なんですから」
小蓮がしかつめらしく云いながらこれも無造作に外へ出る。雪衣が声を立てて笑った。
「ほら、月も早く! ――火長、この通り我々は領事裁判権の外に出た。双樹下の法に従って捕縛していいよ!」
「あ。ああ、かたじけない?」
九龍がうろたえ気味に答えた。




