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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第一章 ついにわれらは四名に 三

昨夜脱走した――どうやら本当に脱走してしまったらしい呉翠玉は、月牙と同じく九年前に柘榴庭に入ったが、齢は八つ下だ。


 初めて会った九年前の翠玉の愛らしさを、月牙は今もよく覚えている。

 縁の吊り上がった大きな黒い目と、つやつやと輝く黒髪。

 膚は滑らかに白く、頬は活き活きと赤く、一瞬たりともじっとしていられない活発な子猫みたいな風変わりな愛らしさを備えた美少女だった。


 美貌といえば当時の月牙も、柘榴庭の外からわざわざ人が見に来るほどの美しさを備えていた。

 桃梨花宮の女官には大して珍しくないが、月牙は寡婦である。

 欠点はやや浅黒い膚と高すぎる背丈だけ。そこさえなければ傾国と呼んでも呼びすぎではない。

 幼いころからそう持てはやされた美貌を乞われて十三で貴顕の家の後妻に入ったものの、さんざんに虐められた挙句に十五で夫に死なれたうえ、死んだ老夫の末っ子に横恋慕されて新たな家長の怒りを買った。年下の若い義母への邪恋など若君さまの将来に傷がつく。婚家はすべて月牙のせい、あの北夷女が恥知らずにも義理の息子を誘惑したのだと触れ回って札付きで生家へ突き返した。


 ――お前もまたとんでもない醜聞をしょい込んじまったなあ! こんなことなら欲をかかずにおんなじくらいの身分の家に嫁にやっとけばよかった。


 都督府務めの下級武官の父はそう嘆いたが、母のほうは気楽なものだった。


 ――大丈夫ですよ、何といってもこの子はまだ十六、お人形さんみたいなこの顔さえありゃ何処へだって再婚できますとも。醜聞とやらで正妻が無理ならお大尽のところの妾奉公って手もあります。食べていくだけならなんの問題もありません。


 そうはいっても月牙自身はもう婚姻はこりごりだった。妾奉公なんてさらに嫌である。


 ――お前なあ、何を贅沢なことを言っているんだ。その顔で女に生まれたから笑っているだけで食えるんだぞ? 


 父は毎日そう叱った。

 折よく――というと不敬だが、ちょうど同じころ、先代主上が身まかられ、代替わりに際して新たな後宮女官を募るというお触れが回ってきた。蕎家の家格にはちょうどいい外宮警備の武芸妓官にも空席があるという。月牙が応じたいと申し出たところ、父は鼻で嗤った。


 ――ああいうのは京にコネがなけりゃ無理なんだよ。

 ――だけど任官試験は誰でも受けられるのでしょう?


 言い返すなり失笑された。


 ――正面から受けて通ると思っているのか?


ならば通ってやろうではないかと月牙は奮い立った。

月牙の生家である北塞の蕎家は、京洛では「北夷」と蔑称されることのある北方騎馬民族カジャールの裔で、元来が子女に武芸をたしなませる習慣を持っている。月牙も嫁ぐ前には馬と弓を習っていた。新しく習う必要があったのは刀だけだ。幸い、兄嫁の母親が刀の名手だった。月牙は文字通り三顧の礼をとって入門を申し込み、掌の肉刺がつぶれて固くなるほど鍛錬を重ねた。一年の修行のあとで任官試験に受かったときの晴れがましさは今でもよく覚えている。


――月牙、よくやったねえ。


肉刺だらけの手を握って思いがけず母が泣いた。父はやたらと手紙を書いて、思いつく限りあらゆる蕎氏に娘の任官を報せまくったらしい。


そうして入った柘榴庭で、お人形のような美少女と対面したのだった。




 十歳の翠玉は正規の試験を経て入った妓官ではなかった。生家である呉家が内宮に何某の賂を贈って無理やりにねじ込んだのだ。

 呉家は代々の在京役人である。

 娘を武芸妓官とすることを一族の名誉と考えるカジャール系の家々と違って、京洛地方の文官の家は、子女に武芸をたしなませること自体を「北夷の蛮習」と軽蔑しがちだ。

 それだというのに呉家が稚い翠玉を妓官として入れたのは、風変わりで活発なとびきりの美少女が同い年の主上の目に留まるのを期待してのことだ。翠玉を知る者は誰もがそう考えていた。

 当の美少女自身はのんきなもので、調練を遊びのように考え、年長の同輩たちをみな姉さん、姉さんと呼んでよく懐いた。皆も翠玉を可愛がり、可愛いお人形のように甘やかしていた。

 いずれこの子が主上の寵姫となったら、この庭も引き立てられるかもしれない。

 そんな打算が誰の心にも少しずつあったかもしれない。


 呉家は稚い翠玉に雨あられと贈り物を届けてきた。

 美しい赤い絹の沓もあれば珊瑚の簪もあった。十二、三を過ぎれば手鏡や紅を贈ってきた。

 しかし、翠玉が十四になっても、当の若い国王は一向に姿を見せなかった。内宮仕えの女官の話では、純然たる子供のころには同年代の貴妃と遊ぶためにときおりは訪れていたのだが、この頃は月に一度の王太后への御機嫌伺にしか現れないのだという。

もしかして、お若い主上は女性に興味がないのかもしれない。

 そんな噂がひそひそと囁かれ始めるにつれ、翠玉に届く贈り物は次第に減っていった。


 ――ねえ月牙姉さん、この頃生家からちっとも手紙が来ないんです。


 翠玉が大きな眸一杯に涙を溜めてそういったのは十六歳の冬だった。月牙は念願の頭領職を引き継いだばかりで、翠玉の弱弱しい口ぶりに苛立ちしか感じなかった。


 ――呉翠玉。けじめを弁えろ。私は頭領だ。


 そう叱ったとき翠玉がどんな顔をしていたか、月牙は覚えていない。

 それ以来泣き言を聞いた覚えもない。




 気が付くと筆が止まっていた。

 慌てて硯に浸し直して続きを書こうとした途端、筆先から墨のしずくが落ちて、書き上げたばかりの書面の真ん中を汚してしまう。

「あああ、もう!」

 月牙は苛立ちをこめて紙を引きはがした。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろうなあ」

 クシャクシャと紙を丸めながらぼやくと、ついついそのまま口走りそうになる。


 なにもかもみなあの法狼機女のせいだ。


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